第19話 初仕事
水曜日、定休日の英二は初江を伴い、朝から聖路加中央病院に来ていた。
消毒済みの医療着に着替えた二人は、初めて集中治療室に入る。
真っ白な壁に囲まれた部屋で香織はベッドに横たわっている。酸素吸入器のマスクが一定のリズムで白く曇る。
薄緑色のガウンの胸元や、縫合の跡が残る腕から伸びた沢山のコードが、頭の壁に埋め込まれた機械に繋がり、心拍数や血圧を表示している。
腰から下はコルセットの上から包帯が巻かれ、完全に固定されていることがわかる。
クレイオスに押し潰されたときの、恐怖や苦しみから解放されたように、穏やかに眠る香織の寝顔に英二は安堵したが、無数のコードにつながれた姿に、生命の息吹は無かった。
初江は、静かに呼吸だけを繰り返す香織の手を握ると、小さな透明のビニール袋を取り出し、香織の右手の下に滑らす。
袋の中は小さなクマのぬいぐるみだ。
香織が生後十一ヶ月のころ、深夜に酔って帰宅した母親が、持って帰って来たものだ。
UFOキャッチャーの景品のような安っぽい品だが、香織にとっては唯一の母との想い出だ。
香織は今でも毎晩、枕元にこのぬいぐるみを置いて眠るが、母を良く思わない初江に気兼ねし、初江にはずっと隠していた。
「香ちゃん、ごめんね、ごめんなさい……」
唇をかすかに震わせる初江の涙が、香織の右手を濡らした。
そっと病室を抜け出た英二は、エレベーターホールまで行くと、ガラケーの電源を入れる。
留守電を再生すると、回収班からの指示が入っていた。初仕事だ。
約束があると初江に伝え、英二は足立区の北綾瀬に向かった。
北綾瀬は英二が住む北千住とは、荒川を挟んで対岸にあり、来年から地下鉄千代田線直通になることで人気が上がり、建築中の高層マンションが目立つ。
北口の環状七号線を左に直進し公園を通り過ぎると、加平二丁目の交差点が見えてきた。
駅前とは趣が異なる、田畑が残る住宅街に来た英二は、スマホの地図で目的の一軒家を確認した。ブロック塀から枯れた樹木が覗く、古い二階建てだ。
英二は中村と書かれた表札の下のチャイムを鳴らす。ぱたぱたと足音が近づき、老婦人が玄関を開けると、慌てた様子で英二を玄関口に招き入れた。
「刑事さん、このたびはウチの子が…」
英二を警察だと思い込んでいる老婦人は、深々と頭を下げると、紙袋に手を添え差し出す。
孫が事件を起こしたと思い、疲れ切った顔が痛々しい。
「あの、賢治は大丈夫なんでしょうか……?」
「おばあちゃん、良く聞いて。俺は警官じゃなくて、これは詐欺なんだよ」
「えっ?」
「たぶん、警察を名乗る連中から電話で、お孫さんが事件を起こしたとか言われて、慌ててお金を工面したんだよね?」
「は、はい……」
「その相手は警察じゃなくて、オレオレ詐欺のグループなんだよ」
「ええっ?」
「じゃ、あなたは……?」
「俺は、おばあちゃんが詐欺に騙されないように、ここに来た。だから、俺が帰ったらすぐに、警察に通報するんだ」
「それと、また同じような電話があっても、取り合わない。警察は、被疑者の家族にお金払えとか、絶対に言わないから」
「あ…はい…わかりました…ありがとうございます……」
老婦人はお礼を言いながらも、怪訝な顔で玄関を閉めた。
北綾瀬駅に戻りながら、英二はガラケーで報告の電話をかける。
「二十一番、北綾瀬」
英二は足立区の番号と最寄駅を名乗る。
盗聴対策の暗号だ。
「ご苦労様」
「すいません、じつは、私が行く前に先方が気づいたようで、回収できませんでした」
「……そうか、仕方ない」
「それより、警察につけられてないか、それとなく確認しろ」
英二は数秒おいて「大丈夫そうです」と答えた。
「北綾瀬を離れて、近くの駅で待機してろ。また指示する」
「わかりました」
英二が電話を切り駅の階段を上がっていると、サイレンを鳴らしたパトカーが、さっきの家の方向に走って行った。
およそ一時間後、梅島駅の近くのマンションに、弁護士の秘書として訪問した英二は、同じように詐欺であることを説明し、未然に防いだ。
こうした詐欺の場合、家人が先に気づいて未遂に終わるケースは珍しくないため、回収班の男は「あんた、ヒキ弱いな」と言っただけで、英二を疑うことは無かった。
午後四時過ぎ、英二は舎人駅に降り立った。舎人ライナーというモノレールに沿って、その下の国道を歩く。
今度は、弁護士が示談金を受け取る設定だ。
国道近くにぽつぽつと古いマンションが建ち、あまり人気の無い寂しげな通りで、時々大型のダンプが轟音を残して走り去る。
十分ほど歩いた英二は立ち止まり、スマホで現在地を確認する。すぐ先のマンションが目的地だ。
英二が歩みを進めたとき、古びた立て看板に気づいた。
『会員募集中! ダイエットにも効果的!』
拳を構えたボクサーとボクササイズの女性が並んで写る、板倉ジムの看板だった。
英二は看板の前で立ち止まり、束の間、握った拳に目を落とした。
マンションの五階に上がり、飯伏と書かれた家のチャイムを押す。
バタバタとスリッパの走る音がして、母親らしき女性がドアを開ける。
「お入りください……」
英二が玄関口に入りドアを閉めると、女性は玄関マットの上で正座をし、土下座のように頭を下げた。
英二が慌てて制するが、女性は「……これで幸太を」と言いながら、紙袋を差し出す。
「お母さん、聞いてくださ––––」
「先生、ウチの幸太が…本当にすみません。どうか、このお金で幸太を……」
目の下に濃い隈を作った憔悴した女性の顔が三年前の初江と重なり、英二は胸がつまった。
英二は紙袋を押し戻す。
「お母さん、いいですか。これは詐欺です。息子さんは事故など起こしていないはずです」
「え?…先生、でも……」
「俺は弁護士でもなんでも無くて、お母さんがお金を騙し取られないために来ただけです」
「……じゃあ、幸太が駅で喧嘩になって大怪我を負わせたって……」
「それは、オレオレ詐欺の連中が考えた嘘です。安心してください」
「……本当に?……本当ですか?……」
英二が頷く。
「あぁ……」
母親は力が抜けたようにため息を漏らした。
「俺が帰ったらすぐに、警察に被害届けを出してください。いいですか?」
「あ、はい、ありがとうございます」
母親は何度も何度も、頭を下げた。
通りに出た英二はガラケーを取り出し、すでに警官が居て、家に近づけなかったと報告する。
「チ……お前、いまどこにいる?」
相手の声色が変わる。
「舎人駅に向かってます」
「てめぇ、回収した金持ってバックレる気じゃねえだろうな」
「そんなことしませんよ」
「だったら、舎人駅の下で待ってろ。逃げられると思うなよ」
「逃げも隠れもしませんよ」
英二が駅の下で待っていると、国道沿いに黒いセダンが停まり、後部座席からダークスーツの男が出て来た。
「お前、金どこに隠した?」
「いや。どこにも」
「てめぇ、とぼけるな!」
「回収もしてねえし、そもそも、あんたらの金じゃないだろ?」
「……なんだと、てめぇ……」
男の目が据わる。
「話があるなら、聞こうか」
「こいつ……暑さでイかれたか?詫び入れんなら今しかねえぞ……」
「あんたらに詫びる理由は無い」
「…の野郎、おい乗れ!」
男が顎で促す。
目隠しされた英二を乗せ、車は首都高の入口に向けて走り出した。
すれ違うように、サイレンを鳴らしたパトカーが、モノレールの下を疾走して行った。




