第11話 蓋
横尾隆がラウンジからデスクに戻ると、田中奈々が転送したメールが届いていた。
「たしかに、気持ち悪いよな……」
メールを一読し、隆はグーグル検索を叩く。
「argus…アルゴス、百の眼を持つ巨人……全てお見通しってことか…?いかにもハッカーが好きそうな名前だな……」
隆は管理者IDでホールディングスの基幹システムにログインし、メールサーバーから直接argusのメールを、デスクのPCにダウンロードした。
次に隆は、ドメイン名検索サイトで送信元のドメインを検索する。
ドメインとはメールアドレスの@の右側のことで、ネット上の住所のようなものだ。
通常、ドメインが存在しないメールは存在しないが、このメールのドメイン名は、検索にヒットしなかった。当然、メールのヘッダー情報に書かれている、経由サーバーなども虚偽だろう。
argusは追跡されないように手を打っていた。
隆は四菱自動車の内線簿を開くと、デスクの受話器に手を伸ばした。
「はい、自動車総務、中山です」
「HDCSIRTの横尾と言います」
「あ、はい」
「中山課長、今朝九時にHDのインフォに届いたメールの件でお電話しました。内容はご覧になりましたか?」
「ええ。広報から転送されてきたので」
「そうですか。課長、この送信者ですけど、送信元を擬装していました」
「それは問題なんですか?」
「知識があれば簡単に出来ることですけど、普通はやりません。つまり、悪意があるから身元を伏せたと考えられます」
「うーん……それで、どうしろと?」
「文面も脅迫とも取れますし、念のため警察に通報した方がよろしいかと」
「……警察ですか……」
「はい。よろしければ、HDの法務にも脅迫罪にあたるか確認して、法務、CSIRT、自動車総務の連盟で届ける方法もあります」
隆は、中山課長の腰が重そうなことを察し、三者に責任を分散させる助け舟を出した。
今までの経験で、サイバー犯罪に遭っても調査などに時間を取られることを嫌って、警察に届けないケースを数々見て来た。
その結果多くは被害がさらに拡大し、取り返しのつかない事態を招く。
それを防ぐための助け舟でもあった。
中村は逡巡していた。
警察に届ければ窓口は間違いなく、上司でも部下でもなく自分だ。
さらに、クレイオスの基本構造を設計した先端技術開発本部に、欠陥の有無を確認しなければならない。
指摘された技術者の心証は悪いし、ましてやクレイオスは、技術者出身の現社長の肝いりだ。社長の顔に泥を塗ることになり兼ねない。
さらに、このメールが単なるイタズラだった場合は、自分の評価にマイナスの影響を及ぼすだろう。今、この件に関わるのは損するだけだ。
「横尾さん、私が預かりますので、あとは大丈夫です。まずは、上に相談のうえで判断しますので」
「……わかりました。よろしくお願いします」
隆は中山の反応に不安を感じたが、これ以上は越権行為になると判断し電話を切った。
中山は上司に報告することなく、この件に蓋をした。