第10話 argus
‾‾‾‾
四菱グループホールディングス
ご担当者 殿
お世話になります。
怨社が発売した自動運転車クレイオスには
重大な欠陥があります。
今すぐリコールしないと、
怨社に不幸な事が起きます。
argus
‾‾‾‾
月曜日の朝、四菱ホールディングス広報室の田中奈々は、インフォ宛の奇妙なメールに目を留めた。
インフォとは、会社ホームページのお問い合せフォームに送られてくるメールのことだ。
四月に入社した新卒の田中奈々は、このインフォ宛のメールを全てチェックし、関係部署や関係会社に転送するのが仕事だ。
四菱ホールディングスは、連結売上高十兆円を誇る財閥系企業で、四菱自動車工業、四菱重工業を柱に、六百社を超える企業を率いる。
「なんだろう、これ……」
田中奈々は薄気味の悪さを感じた。
お問い合せフォームは、差出人の氏名、連絡先が入力必須で、通常は本文の下に、こうした情報が記載されている。
しかし、このメールには差出人の情報が無い。
つまり、フォームを使わずに、インフォのメールアドレスに直接送って来ていた。
インフォのメールアドレスは非公開のため、どうやって調べたのかも気になる。
「田中、どうした?」
隣の二年先輩の豊原が声をかける。
「これなんですけど……」
豊原は田中が向けたPCの画面に、さっと目を走らす。
「なんだこれ…イタズラにしても、悪質だよな」
「はい、気味が悪いです」
顔を近づけてPCを凝視する二人に、主任の篠原が気付く。
「二人で何見てんだ?」
「あ、主任、これ見てください」
豊原がプリントし、手渡す。
「…怨社…リコール…argus…アーガス?なんだこれ?」
「主任これって、脅迫じゃないですか?」
「うーん、たしかに脅迫とも取れるけど、不幸な事が起きますって……なんか幼稚だよな?しかも怨社って……貴社だろ普通は」
「警察に通報しますか?」
「いやいや、それは気が早すぎるし、そこは自動車側の判断だ。田中から、自動車総務に転送しといてくれるか?」
「はい、わかりました」
田中は、御社の判断で対処願いますと添え、自動車総務にメールを転送した。
数分後、四菱自動車総務部の竹田は、田中奈々が転送したメールに目を通していた。
「これ、脅迫じゃないか……」
「課長、少しよろしいですか?今転送したメール、ご確認いただけますか?」
課長の中山もメールを読む。
「怨社……なんだこれ?…クレイオスに重大な欠陥……アルガス?」
「課長これって、脅迫罪になりませんか?」
「リコールしないと悪いことが起きるか……たしかに脅してるな」
「どうしましょう?念のため、警察に届けますか?」
「いや、これだけで警察は大袈裟じゃないか?警察が絡むと、調査やら何やらで、けっこう手間取られるぞ」
インフォ宛のこの手のメールは、月に何件か届くため、中山はウンザリしていた。
「一旦私の方で預かる。それでいいな?」
「はい。よろしくお願いします」
中山はこのままこの件を放置して、他の業務に取り掛かった。
昼休み、四菱ホールディングスの田中奈々は、ポーチを小脇に挟み、会社のスカイラウンジに来ていた。
三十階建ての二十八階に位置する、全面ガラス張りのラウンジからは、三百六十度ぐるりと東京を一望出来る。夜はバーとしても営業するため、接待にも使える洒落た内装だ。
田中奈々はこのラウンジに来るたびに、インターンから勝ち上がって、この会社に入って良かったと、いつも思う。
運良く窓際の席を確保した田中が同期がいないか探していると、ランチプレートを持った見知った顔を見つけた。
「あ、横尾さん、ここ座れますよ」
「お、助かります。ありがとう」
横尾隆は田中奈々の隣に座った。
「えっと…田中さん、だよね?」
「はい、田中奈々です」
田中は四菱ホールディングスCSIRTのスタッフも兼務している。
通常CSIRTには、各部門から一名以上のスタッフが参画し、組織横断で運営される。
CSIRT専任の横尾隆の部門は、こうした部門のCSIRTスタッフのまとめ役でもあり、田中とは月例会で顔を合わせていた。
「そういえば横尾さん、今朝インフォに、変なメールが来てたんです」
「え?変なメール?」
「はい……」
田中は概要を説明した。
「たしかに気味悪いね。添付ファイルとか付いて無かった?」
「はい、それは大丈夫です。もし付いてても、開きません」
「お、さすがCSIRTスタッフ」
「そんな、横尾さんの研修のおかげです!」
CSIRTはサイバーセキュリティに対応する以外に、スタッフへの情報セキュリティ教育なども行う。
横尾が言ったのは、標的型メール攻撃という特定のターゲットを狙ったメールのことで、ウィルスを仕込んだ添付ファイルやURLを開かせて、様々な仕掛けをしてくるメールのことだ。
日本年金機構も、こうしたウィルスメールに感染し、個人情報をごっそり抜かれたと言われている。
「田中さん、念のためそのメール、僕に転送しといてくれるかな?」
「わかりました。戻ったらすぐに転送します」
田中奈々が去ると、隆はスマホのカレンダーを開いた。
週末の土曜日に”★香織 兄 銀座”と予定を入れてある。
隆はブックマークのリストから、”彼女の親に初めての挨拶NG集 NAVERまとめ”をタップし、昼休み一杯、熟読した。