第1話 娑婆
狂ったような蝉時雨が熱波を震わせたこの日、北関東は朝から三十度を超えていた。
畑と国道しかない田舎町に、そこだけが要塞のように、異様に高い灰色の塀に囲まれた広大な一画がある。
向かいの大木が要塞の塀に落とした、日影の罅割れから、一匹のヤモリが鼻先を覗かせていた。
そのとき要塞の正門から、一人の男が三年ぶりに塀の外に足を踏み出した。
こんな時は裏門から出るものと思っていたが、意外と正門から出ることを、男は初めて知った。
後から聞いた話だと、迎えの車が列をなすヤクザの出所だけは、近隣への迷惑を考慮して裏門を使うらしい。
男が猛烈な陽射しに目を細め、大木が作った日陰に身を隠したとき、塀のひび割れにヤモリを見つけ咄嗟に右手で掴んだ。
小学校以来の懐かしい感触を手のひらで楽しんだのも束の間、ヤモリはぬるりと男の指をすりぬけて道路に逃げた。
その瞬間、後方から走ってきた軽トラにヤモリは轢かれ、黄色い体液を乾いた土に塗りつけた。
せっかくの出所日に縁起の悪さを感じていた男が、「お兄ちゃん!」と呼ぶ声に振り向くと、妹の香織が走ってくる。
香織は汗を光らせた笑顔で「おかえりなさい」と、男の両手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃん痩せた?…それか、精悍になったのかな?」
「そうか?」
「うん。お勤めご苦労さまでした」
「バカ、そっちのスジの人間みたいだろ」 男が苦笑する。
「手つなご」 男は多少の照れ臭さを感じながら、三年ぶりに触れた妹の手をとり、栃木駅行きのバス停までを歩いた。
久しぶりの外の世界のせいか陽炎のせいか、照り返す道路が男には歪んでみえた。
およそ一時間後、東京の下町、地元足立区の北千住に着いた二人はファミレスに入り、男はチョコレートパフェを頼んだ。
「中で聞いたとおり、甘いもんが無性に食べたくなるって本当なんだな」 柄の長いスプーンでパフェを食べながら、男が目を細める。
「お兄ちゃんがパフェ食べるなんて、なんだか可笑しい」
「お前も好きなもん食べろ。俺の奢りだ」
「ダメ!お祝いなんだから私が払う」 妹がサッと伝票を取る。
「じゃあご馳走さま。でもお前、給料前だろ?」
「大丈夫。夏のボーナス少し貰ったから心配しないで」
「そうか、悪いな」 四つ年下の妹の奢りは、照れ臭くも嬉しかった。
「香織、ばあちゃんは元気にしてるか?」
「うん、元気だよ。お兄ちゃんの帰りを待ってる」
「そうか。早く顔見せてやらないとな」
「うん。今日は腕を振るうって、張り切ってた」
「じゃあ腹減らして帰んないとな」
この男、伊吹英二は、祖母と妹の香織と三人暮らしだ。
両親は英二が五歳のときに離婚し、その後は祖母が英二と香織を育てた。
産まれて十一ヶ月の香織を置いて両親は行方知れずになり、五歳の英二は妹とばあちゃんは僕が守ると、このときに決めた。
お兄ちゃん子の香織は三年ぶりに兄に甘えられることに上気し、二人は香織の会社のことや刑務所での生活のことを取りとめもなく話し、あっと言う間に三時間が経った。
「私これから、おばあちゃんと買い出しに行くけど、お兄ちゃんは?」
「俺はちょっと寄り道して帰る」
駅前で香織と別れた英二は数歩歩くと徐々にスピードを上げ、躰の前に小さく畳んだ両拳を交互に繰り出しながら、軽やかな足取りで走りだした。