空想
車止めの石柱。まだ三度目にすぎないが、早くも義人の中で、『いつもの』として処理されつつあった。
なぜ、ここなのか。最初がここだったから、無意識にここを選んでいるのだろうか。慣れたためか、意識はすぐにはっきりとしたが、不思議に思うばかりである。
とはいえ、ここで一人立ったまま考えていても、仕方がなかった。教室側校舎の正面玄関は敷地の内側を向いているので、ここからでは見えない。すでに彼女が来ているかもしれず、早く移動した方がよさそうである。
そう思って小走りに向かったが、彼女の姿はまだなかった。玄関は相変わらず開きっぱなしの状態だったが、中を見ても、やはり誰も見当たらない。
早く寝たので、早く着いたのだろうか。寝入ってから、どのくらいでこの状態になるのか、そしてどのくらいここにいられるのか、どちらも判然としなかった。特に昨日は、いつの間にか、ここを『退出』していたようである。
活動中の時間の感覚自体、怪しかった。教室に時計はあったが、当然、現実の時間と同期してはいないだろう。本の内容が自分達の知性に依存していた事を考えると、針の動きをずっと追ったとしても、正確な経過時間は測れそうにない。
「お、今日は、先に来てたんだね。感心、感心」
壁に背を預けて考え込んでいると、彼女が声をかけながら、歩いてくるのが見えた。義人の方からも、出迎えるように近付く。今日は学校の外に出るのだから、その方が早い。
「ここの法則は、いまだによく分からないけどね。昨日より早く寝たから、早く着いたのかなって、考えてた所だよ」
「あー、そうなのかな? 私は逆に、寝るのが昨日よりちょっと遅かったから」
「へえ、そうだったのか……ああ、そうだ。ちょっと聞きたいんだけど、この夢の中に入った時、いつも同じ場所に出たりしてる?」
「うん。今の所、三度とも、あそこの車止めの石柱の前からだよ」
彼女が、指を差しながら言った。紛れもなく、義人と同じ、北側の公道の入り口である。
「ああ、やっぱり。実は、俺もそうなんだ。何か、意味があるのかな?」
「分からないけど、行ってみようか。外に出るなら、表通りに面した南側の方がいいかなと思ってたけど、先にちょっと寄って、調べるくらいなら」
言うが否や、すぐにきびすを返して向かい始めた彼女の後に続いたものの、実際に調べてみても、特におかしな点はなかった。質感も手触りも、そして微妙に冷たい所も、本物の石柱そのものにしか感じられない。
近くに生えている大きな木も触ってみたが、やはりざらざらとした手触りが分かるだけで、特におかしな点はない。蹴ってみても、枝が少し揺れただけである。
見上げると、木漏れ日のちらついた光まで、きれいに再現されている。別に誰かが作った世界というわけでもないだろうが、感心するような気分だった。
何の木なのかはよく知らないが、夏はセミが止まって、うるさい時がある。今の時期は、せいぜい芋虫くらいしかいないだろう。
虫。そういえば、自分達の他に動く生き物は、虫さえ見当たらないなと、義人は思った。木こそ生えているが、『そこにそれがある』という認識がそうさせているだけで、手触りは生々しいが、造花のようなものなのかもしれない。
気になって、落ち葉混じりの土を足で掘ったり、盛り土の抑えに使われているコンクリートブロックや、そこいらの大きな石をどけてみたりしたが、やはり生き物は見当たらなかった。
「どうしたの? お腹空いた?」
案の定、彼女が猫の笑みで話しかけてきた。
「虫はちょっと、蜂の子しか食べた事ないかな」
「わお。ここにはいなさそうで、残念だねー」
「いや、気になったのは、それなんだ。俺達以外に、動物が全く見当たらないと思って」
「あーそういえば、そうだね。現実の方なら、蝶や羽虫の数匹、毎日見るのに」
街全体が盆地で、森に囲まれているような立地なので、自然は豊かだった。もっとも、そのお陰で秋になると、大量のカメムシに悩まされる事になる。そういう害虫が出てこない点は、いい事かもしれない。
「多分、この木が生えているのも、俺達の認識がそうさせているだけで、造花みたいなものなんじゃないかなあと」
「なるほど。また一つ、ここの事が分かったね。でも、普通の夢なら生き物くらい、出てきたりするけどなー」
「それもそうだね……何でだろう?」
「うーん……そうだ、私達が空想したら、何らかの生き物が出てきたりしないかな?」
「えっ」
嫌な予感がした。多分、当たるだろう。
「そもそも、これからこの世界を調べていくのだから、お供の動物くらい、いるべきだと思うんだけど」
「いや、そんな、ゲームみたいな話じゃないと思う……」
「まあまあ、ここでは試すのはタダなんだから、やるだけやってみようよ。せっかくだから、現実にいないようなのがいいなー」
「いやいやいや、そんな事して、何か恐ろしい生き物が出てきたら、どうするのさ? せめて、普通の大人しい生き物にしようよ。犬とか」
突拍子もない彼女の提案に、義人はたじろいだ。本人が昨日言っていた通り、普段は大人しく振る舞っておきながら、内面はとんでもない所がある。
「ありきたりなのじゃ、つまらないでしょ。友好的な感じのものを、空想すればいいんだよ。もう一人の自分だと思って」
義人は、閉口した。多分、彼女は一度言い出すと、止まらない性格だろう。
上手くいくかは分からないが、いっそ本当に恐ろしいものを出して、反省させてやった方がいいのかもしれない。
とはいえ、いざ、実際に何か思い浮かべようとしても、具体像が見つからない。
直近で見た怖いものと言えば、春休みに河津達と一緒に見に行ったホラー映画があるが、鮫を扱ったB級もので、空中を水のように泳いで人を襲うという、めちゃくちゃな設定だった。
最近、妙にそうした突っ込みどころの多い鮫映画が続々作られており、怖いものを見に行くというよりは、話題作りのような形で行ったのである。
実際、その帰りにも、次は体が炎でできた鮫の映画が作られるとか、いや、氷だとか、笑い話の形で、雑談に興じていた。
「んお? なんや、ここ」
その時の事を思い出していると、突然、頭上から声がした。
まさか。慌てて振り向くと、氷でできた体をした、鮫がいた。
本当に、顕現するとは。義人は驚きのあまり、声が出なかった。
映画に出てきた鮫と同じく、まるで空中を泳ぐかのように、ヒレを動かしながら漂っている。中が透けているが、骨があるわけでもなく空洞で、真ん丸の目をこちらに向けてきていた。
「なっ、お前、ワイと同じ……いや、ワイがちゃうんか! なっ、なんて事や!」
義人が声を出せるようになるよりも先に、その鮫の方が驚きの声を上げてきた。右に左に、自分のヒレや体を見ながら、たじろいでいる。何を言っているのか分からないが、鮫自身も混乱しているようだった。
「お、かわいいのが出てきたねー」
義人も言葉を呑んだまま、どうしたものかと混乱していた中、恵理だけが、のんきな様子である。
「かわいい? 男にかわいいなんて言うんは……ああ、でもワイ、こんな姿やしな。無理もあらへん。それならいっそ、かわいいをステータスに生きた方が、ええ気がしてきたわ」
かわいいかはともかく、体が小さくて胴も短く、どこかコミカルな形状には違いない。一応、鮫らしい、ぎざぎざの歯を生やした口を開閉して喋っているが、口調はどこか怪しい、やや早口の関西弁だった。
「前向きなのは、いい事だねー。君、ここで生まれてきたからには、ここの事、分かったりしないの?」
視覚の原理も発声の原理も、それどころか、どうやって思考しているのかさえ分からない謎の生物に対し、彼女は警戒心なく、興味津々な様子である。
攻撃してくる素振りこそないが、最初からそれでいいのかと、義人は戸惑わずにはいられなかった。
「そない言われてもなあ……ワイは、案内役のマスコットとちゃうで。人を勝手に、お助けキャラにしたらあかんやろ。たった今、意識持ったばかりのワイにとっても、この世界は未知のものやのに」
『人』じゃないだろうと思ったが、この場合は多分、人格の事を指しているのだろう。
「じゃああなた、名前もまだないの?」
「せやで。生まれたて、ほやほややからな」
「じゃ、名前は『因幡』にしよう。ね、安久下君?」
「え、ええ……鮫で、因幡……」
話を振られて、ようやく義人は言葉を発する事ができたが、さまざまな点で、困惑していた。
彼女がこの名前を推してくるのは、つい先日、日本史の授業で古事記が出てきた時に、教師が話を脱線して紹介した、その中の一話を覚えていたからだろう。
兎が数比べをしようと言って、『和邇』をだまして海に並べさせた後、その背を渡って目的地の因幡までたどり着いた所で、だましていた事を明かした所、最後の和邇に捕まって、皮を剥がれたという話である。
ここでの和邇は、日本には鰐が存在しないために、山陰地方の方言や別称から、長らく鮫の事だと言われていたが、今では学説はかなり変わってきていると、さらに脱線する形で、教師は熱弁していた。
もっとも義人自身は、すでに祖父から聞いていた話である。何せ祖父は、学説を提唱する側の人間だった。
「和邇の事やろうけど、普通、因幡言うたら、兎の方想像するやろ。しかも、鮫説はとっくに、劣勢らしいやん?」
「って、何でお前、日本神話なんて知ってるんだ? しかも、学説の推移まで?」
まだ、たった今『因幡』と名付けられたその鮫に対して、どう接したらいいのか判断がついていなかったが、思わず、突っ込まずにはいられなかった。
「ん? ああ、ワイもよう分からんけど、どうもワイ、義人の記憶と同じもの、持っとるみたいやねん」
「えっ? 俺の?」
自分の方を振り向いてそう言ってきた因幡に対し、義人は驚いて聞き返した。
「せやで。せやからワイ、最初にお前の顔見てびっくりしたんや」
「じゃあ、その関西弁は?」
「義人の知識の中の関西弁や。せやから本場もんとはちゃうと思うし、そもそもワイが自分からこうしとうて、始めたわけでもないんやで。大体、一人称が『ワイ』の関西人なんて、実際見いへんやろ……まあ、何でワイがこうなっとるかっちゅうと、おそらくは、中学の頃の義人の……むぐっ」
すぐさま、両手で因幡の口を閉じた。氷の体でどうやって発声しているのかは全く分からないが、とにかく口を閉じれば、声を止める事はできた。
因幡が話そうとしたのは、中学一年の時に、皆を楽しませようというキャラ付けとして、一時期、エセ関西弁で喋っていた時の事に違いなかった。
平山高校が進学校という事もあって、運よく中一の時の人間がいなくて助かっていたのに、ここに来て、その恥ずかしい過去を、恵理に知られるわけにはいかない。
「ま、まあ、確かにこいつ、俺が生み出したんだろうね。でも、記憶をごっそりそのまま共有なんて、まるで多重人格みたいだね」
義人は乾いた笑いとともにそう言ったが、彼女は至って真剣な表情だった。
「多重人格って、実際には独立した複数の人格というわけじゃなくて、あくまでも一人の人格の中で、場面ごとの記憶と感情を、切り離しているだけらしいよ」
「おお、義人の中には、なかった知識や。恵理ちゃん、すごいやん」
「『恵理ちゃん』ってお前……」
なれなれしい呼び方に抗議するでもなく、彼女は真顔のまま、興味の視線を向けていた。
「だから本来、一つの脳からは、別存在として同時に反映する事はできないと思うんだけど、ひょっとしたらここでは、存在の複製が可能なのかもしれないねー。自分の知る情報の限りのものしか、ここには出てこないけど、その最大値を取ったのが、複製存在という事なんじゃないかなー」
「なるほど。俺の知識が丸々、反映されているのか」
「歴史科目以外、スッカスカやけどな。どうせなら、こういう考察ができる、恵理ちゃんみたいな知性が欲しかったわ」
「お前なあ……」
からくりが分かると、義人の警戒心も解けてきたが、因幡の方は初めから、無遠慮な態度である。
「でも、これでお供ができたね。私のも欲しいなー」
「もう、いるわよ」
彼女の背後から、急にどこかから瞬間移動してきたかのように、白い狐が現れた。
「わぁっ? 何やお前? いきなり出てくんなや!」
「いや、お前が言うなよ」
思わず突っ込んでしまったが、因幡の方も振りではなく、本気で驚いているようである。
無論、義人とて、驚きがないわけではない。特に、どこかコミカルな因幡と違って、その白い狐は明らかに尾が九つあり、威厳を漂わせていた。
「おお、見事な白狐だねー」
「白狐って、あの温泉の伝承の……?」
「うん。私が思い浮かべたのが、それだったから」
平山高校からすぐの区画に、白い狐が足を浸して怪我を治したという伝承のある温泉街があり、それを思い浮かべたのだろう。最寄り駅には、その像も造られている。
もっとも、それを抱える旅館や足湯などの他は、ただの飲み屋街にすぎない。
「尾が、九つ見えるけど」
「強そうなのがいいなあと思ってたら、イメージが混ざったみたい。これはもう、名前は『玉藻』で決まりだね」
「何か祟られそうだけど、大丈夫?」
女官として上皇に取り入り、正体を見破った陰陽師によって姿を明かされ逃走したが、討伐軍を一度は追い返し、その後に討たれてなお、殺生石として周囲に災いを成したという、伝説の妖狐の名前である。物騒さは、因幡の和邇の比ではない。
「心配しなくても、忠実よ。主にはね」
主と似た、切れ長の目でこちらを見ながら、口の端を歪めて言う。因幡と同じように、主の記憶を持っているという事だろう。
自分にとって、またやっかいなものが増えてしまったと、義人はため息をつきながら思った。