申し出
気が付くと、朝だった。義人は一瞬、なぜ自分の部屋の布団で寝ているのかが分からずに混乱しかけたが、すぐに夢と現実の区別をつけて、平静さを取り戻した。
どうにもあの夢は、現実感が強すぎる。つい先ほどまで、彼女と一緒に校舎を回りながら雑談していた記憶が、まじまじとよみがえってくる。
そしてその途中、いつの間にか、意識が途絶えていた形だった。夢の中の沙汰でありながら、まるで眠りに落ちたかのようである。
時計を見ると、またも目覚ましの時間の十分前程度で、二度寝はできそうにもない。昨日もそうだったが、目覚め自体は悪くなかった。すぐに覚醒し、眠気が残ったりはしていない。
起き上がり、彼女とのやり取りを思い出して、パソコンの電源を入れ、起動するまでの時間に着替えを済ませると、メールソフトを開いた。
着信音。どうやら、彼女もすでに起きていて、送ってきていたようである。送信時間を見ると、数分前だった。スマホからなら、片手間ものだろう。
件名は、宣言通り『夢テスト』だが、本文は、『寝起きにムラムラしたまま、女性を襲わないように』という、この一日の間に知った、彼女の本性がよく出た内容だった。
義人はため息をついたが、たった一日の経過ながら、もう何度もこうした事を振られたために、大分慣れてしまっていた。
多分、一生言われるんだろうなと思いつつ、そのお陰で後ろめたさや、緊張から解放された面もある。
一緒に図書委員になってからの時間は、冷や汗だけでは済まないほどの、ひどい心理状態だった。
今は尻に敷かれたような所はあるが、押し倒すのに成功していた場合よりも、ずっとよい推移には違いない。
気分が開き直ってきた分、夢の中を探索するのも、悪くないという気はしてきていた。問われて吐露したように、不安もあるが、好奇心を刺激される面も、ないわけではない。
それに、同年代の女子と一緒に何かをするのは、一年前の破局以降、久しいものでもあった。デートというわけではないし、自慢できる間柄でもないが、逆に、人目を気にしなくていいという利点もある。
交友であれ、交際であれ、とにかく他人同士の関係性というものに、皆強く興味を持つので、面倒な事この上ない。世間も、有名人の恋愛模様にはお熱なので、中高生に限った話でもないのだろう。
元カノにしても、密かに会うのに、かなりの苦労を要した。それもあって、あまり仲を深められない内に、迫ってしまったという面もある。
破局した後、彼女の方が周囲に話してしまっているかもしれないが、高校そのものだけでなく、所属していたグループの層も違っていたお陰か、何とか平山高校の同級生には、知られずに済んでいた。義人自身、最も親しい河津にさえ、その事を話していない。
嫌な事を思い出しかけた時は、さっさと実務的な行動に入るに限る。そう思い、義人は夢テスト成功の旨だけを簡単に返信すると、パソコンを閉じて、部屋を出た。
現実の学校は、今まで通りだった。義人は視線を移す際に、それとなく彼女の方を見たりしたが、彼女からの視線は、一切感じなかった。
義人自身も、その方がありがたいし、河津達との雑談の中で、昨日の図書委員の仕事中にどうだったのかと聞かれない事に、安堵してもいた。昨日に引き続き、ニート卒業などと言って、委員から逃れられなかった事自体を、斎藤にからかわれただけである。
当面、昼に話す機会は、二週間に一度の図書室に限られるだろう。接触していて怪しまれないのもそうだが、話す内容自体が現実離れしていて、正気を疑われかねないものという事情もある。開店休業状態のあそこなら、そうした心配もない。
もっとも、そもそも入念な事前の打ち合わせが必要なものでもなさそうではある。このまま夜ごとに向こうで会えるのなら、メールを使う頻度も、そうないだろう。
ただ、昨夜の終わり方が、今いち記憶に残っていない。何らかの打ち合わせ途中にあそこを離れてしまった場合、尻切れになった、その続きを話す事はあるかもしれない。
今朝のメールでは何も触れていなかったので、特段、重要な話の途中だったわけでもなさそうである。記憶に残っている限りでも、互いに生まれてこの方ずっとこの街の暮らしだとか、一年の時はどうだったとか、雑談の域を出ない程度の話題だった。
特に、この一両日中に判明した彼女の性格なら、重要な会話中に義人が消えたりした場合、何らかの皮肉を浴びせずにいられるとは思えない。それがないのなら、安心してよさそうである。
授業が全て終わり、帰りのホームルームを迎えた段階で、義人は現実世界における自身の平和が守られたという実感と、充足感を覚える事ができた。夜に彼女の手伝いをするだけで、昼は今まで通り、平和に過ごせるという事である。
担任の福地が、連絡事項をとうとうと述べていく。昨日はなかったが、今日は寝癖の付いた髪で、朝からそれがまだ残っている。
斎藤達はこの組の野球部内で、それに関してジュースの賭けをしたりしているらしく、後方からはささやき声が聞こえ、ハンドサインを送ったりもしているようだった。
「ああそれと、図書委員なんだが」
大方終わっただろうと油断していた時、その単語を聞いて、義人は前に向き直った。野球部の人間のやり取りを見ていた他、もともと河津と話すために、授業中以外は、斜めに向いているのが癖でもある。
「昨日働いてもらったばかりですまんが、ちょっと、図書委員全体で呼び出しがあってな。悪いが、今日も放課後、図書室に向かってくれ。詳しくはそこで、事務員さんが説明してくれる」
「はい」
絶句したままの義人に代わり、恵理だけが返事をした。義人はその直後と、ホームルームが終了した解散後の二度に渡って、斎藤達から、二連勤に対するからかいを受ける羽目になった。
恵理とともに図書室へ向かうと、すでに、十人以上がそこにいた。さらに続々と集まり、いつになく、人口密度が高くなっている。二年までの合計十四組から二人ずつだから、二十八人集まる事になる。
おそらく、これまでに同一時間帯の利用者数が、その人数を上回った事はないだろう。
「やあ、皆。呼び出して、すまないね」
初老の事務員が、全員集まった事を確認すると、柔和な表情で話し始めた。普段、あまり関わる事はないが、義人達は、昨日の時点で接している。
話を要約すると、ここの卒業生でもある、最近引退したという地方議員から、千冊を超える本の寄贈があったそうで、新しくシールを貼ったり、パソコンに登録したりする作業が、大量に生じたという事だった。
どうやら、ここの蔵書数と利用数が、進学校の割にあまり多くない事を知って、そうしたらしかった。とにかく、そこにテコ入れしたいのか、比較的、若者向けの新書も多いのだという。
「千冊って、全部入るんですか?」
他の組の女子が手を挙げながら、質問した。
「あまり追加で購入してこなかったから、結構、スペースの余裕はあるんだ。今ある棚もそうだけど、実は閉め切りにしている向こうの方にも、予備の倉庫があってね。そこも開放して、利用頻度の低い本を移そうという話になってる。でも当然、それもまた手間でね……そういうのも、ちょっと手伝ってもらいたいんだ」
事務員が手で指した方向を見ると、今まで気にしてこなかったが、確かに古びた扉が見えた。夢の中では、あまり図書室の中を詳しく見なかったが、ひょっとすると、これでまた、確認できる箇所が増えたのかもしれない。
「どのくらいの頻度で、それを?」
同じ女子が、続けて聞いた。皆、気にしている事でもある。結局の所、負担がどのくらい増えるのかという話だった。
「それなんだけど、今、二週に一度、一年と二年で交代して仕事してもらう形になっているけど、その休みの週に、出てもらえないかなあと。一組から五組は、そのまま該当している曜日で、六組と七組は、今も規定になっている金曜に、そのまま新書登録と蔵書整理の仕事という事で、お願いしたいんだよね」
まず、妥当な所だった。仕事の頻度は倍という事になるが、元が、大した仕事でもない。
他の面々にも、それほど強い不満は見て取れないが、こういう時に何も言葉を発さないのが日本人なので、沈黙のまま視線を向けられている事務員が、かわいそうに思えてきた。
「一つ、提案が」
事務員を助けようと、義人が皆を代表して了承の旨を発そうとした時、隣にいた恵理が、先んじて手を挙げながら言った。
「提案?」
「はい。せっかくの寄贈ですから、早く並べるに越した事はありません。いつまでも倉庫にあると知ったら、寄贈者の方も悲しまれるでしょう。それに、事務員さんも残業の形で、毎日されるんでしょう?」
先ほどまで、口元に手を当てながら、何やら考え込んでいる様子だった彼女が、急に饒舌になって、とうとうと語り始めた。
義人は、『この優等生みたいな子、まさか余計な事を言って、負担増やすんじゃないだろうな』という危惧の声が、周囲から聞こえてくるような気がした。
「ま、まあ、そうだけど……ただ、皆にやってもらう事に関しては、事前に職員会議で決めた範囲だから、それ以上、やってもらう事はないよ」
「ええ。ただ、まだ昨日に私達がやっただけで、日常の仕事も、また教えていかなければならないのではありませんか? それが、残り九組もあります。逆に新たな登録作業などにしても、専門的にやっていった方が、捗ると思います。特に女子が登録、男子が整理に回った方が、効率的ではないかなと」
「あ、ああ、男女をそうするのは構わんが、一人ずつだと、それはそれで大変かもしれん」
「ええ。ですから、昨日、ここでの日常作業を覚えた私達二年四組が、連日、それをやりましょう。そうすれば、毎日、男女二人ずつの人手が賄えます。木曜が足りなくなりますが、そこは過剰になっている金曜から、六組を割けば釣り合うかと。そうすれば、他の皆の拘束時間は変わりませんから」
「えっ? 君達の仕事だけ増えるけど、それでいいの?」
事務員が、義人の方も見ながら言う。昨日のペアとして、覚えられていたのだろう。
義人自身も彼女の弁を聞いて驚いていたが、その意図と、自分に断る裁量がない事だけは、分かっていた。そして、彼女もそれを確信しているのか、義人の方を振り向いて、視線を送ってくる事すらしていない。
「え、ええ……問題ありません」
「率直に言うと、日常の業務はそれほど作業頻度の高いものではありませんから、十分に自習しながら行えます。片手間でそうする事を、許して頂けたら。私達二人は、連日拘束される代わりに、このまま軽い労働を続けるという形の提案ですね」
「あ、ああ……それは、構わないけど……ええと、他の皆も、それでもいいのかな? 特に六組は、仕事の曜日が変わるけど」
しばらく沈黙が続いたが、少しして、男女が小声でささやき交わす声が聞こえた。おそらく、二年六組の委員だろう。
「特に問題ないっす」
結論が出たらしく、男子の方がそう言うと、一年六組らしい男女も、それに続いて同意の返事をした。