検証
校舎のさまざまな所を回ったが、やはり、現実とほとんど変わらないものだった。ただし、どこか寂れたような印象ではある。
「人がいないのは当然にしても、中のものも、不自然に少ない所が多い気がするねー」
休憩がてら、教室へと入りながら、恵理が訝しそうに言う。
確かに、最初に図書室から降りて回った職員室にも、本当なら書類がたくさんあるはずだが、印刷機の近くに白紙があるばかりで、まるで事業を始めるために、新しく作った事務所のようだった。
どこもかしこも、そんな風に閑散としていた。昨日も今日も、外は昼間のように明るいが、これが現実時間を反映した夜闇の中だったなら、かなり不気味だっただろう。
「うん……ただ、それを除けば、特に突拍子もないような、変な所はなかったね」
教壇の方に上がった彼女に対し、義人は最前席の机に腰かけながら言った。
「まあでも、これで分かった事があるよ」
「えっ? 何が?」
「安久下君、女子更衣室に入ったのは、さっきのが初めて?」
「当たり前でしょ!」
つい先ほど回ったのがそこで、義人は戸惑いを口にしていたが、『いいからいいから』と言う恵理に、連行されて入ったのである。
「ふうん? ってまあ、冗談は置いておいて、つまり安久下君は、あの中の事を知らなかったと思うんだけど、ちゃんと私の記憶通りの構成していて、過不足なかったんだよねー。逆に、私達二人が中にある物をあまり詳しく知らない職員室は、かなり寂れてたでしょ?」
「つまり……お互いの記憶が補完し合っている、と?」
「うん。片方が知らない所でも、熟知している方が一緒にいたら、その認識が反映されているみたいだねー。図書室の本も、私の知識のものしかなかった所に、急に重厚な中身の歴史ものが、出てきたわけだから」
そういう事か。彼女は図書室で分かった事を、改めて試したのだろう。義人はそう思い、ようやく納得した。
「ここは、俺達の記憶と知識で構成されているのか」
「そうだねー。逆を言うと、新しい発見はないと思う。本もパソコンも、互いの知識以上のものは出てこないし。でも……知らない所にまで出ると、何か違った発見があるかもしれない」
「じゃあ、今度は外へ?」
「うん。街の外のもっと遠く、想像もつかないような所まで行ったら、どんな空間が広がっているのか。面白そうでしょ?」
「うん、まあ、そうだね」
むしろ、それは下手をすると、とんでもないものが出てきはしないかと不安を覚えながら、それを声色に出さないようにして、義人は言った。
「何、その冷めた反応。こういうのって、男の子の方がわくわくするものじゃないの?」
彼女が、やや不満そうに言う。台詞から感情を消したのは、かえって仇になったようである。
「えっ、いや、興味がないわけじゃないよ。こう、感情表現の薄い、性分というか」
「ふうん? 安久下君はむしろ、顔によく出る方だと思うけど」
冷たい視線を向けられながらそう言われ、義人は一瞬、目を逸らしつつ、内心を打ち明ける事にした。
「まあ、その、ちょっと不安かなあ、とは。今まで自分一人で明晰夢を見ていた時は、大体が思い通りになっていたけど、今は、そうじゃないみたいだから。ひょっとしたら、文字通り、悪夢になるかもしれないし」
何も知らない場所で、不安を具現化したようなものが出てくる事態になったら、困った事になる。特に今の夢は、妙に現実感があり、昨夜、彼女に投げられた時の衝撃も、非常に生々しかった。
「なるほど、素直でよろしい」
「そんでもって、俺がそう言っても、やめないでしょ?」
「理解が早くて、よろしい」
「それで、今から?」
教壇の上で腰に手を当てて立つ彼女に、義人は両手首を返して手の平を見せながら、流れを切るように聞いた。
「いや、今日は時間も半端だし、明日からにしよう。安久下君の不安が余計なものを作ってしまわないよう、心構えをしっかりしてからねー」
「努力するよ」
ため息をつきながら言うと、胸の奥に一度空気をためてから出す時の生々しい感覚が、如実に感じられた。今までは、夢の中で呼吸を意識した事など、ほとんどない。
「起きてる時に、まとめや打ち合わせもしておきたいけど、学校では、やりにくいね……そういう意味では図書委員の仕事、とてもよかったんだけど」
「まあね……」
仕事があるのは、二週間に一回だった。一年と二年で隔週交代し、一組から五組までは、各曜日の貸出業務の担当である。そのため、四組の義人達は、今日木曜に、その務めに入ったのだった。
六組は、金曜に五組と一緒に出つつ蔵書整理をし、理数科の七組は、新書のラベル貼りと電子登録で、それがない時は、六組同様、蔵書整理を行う。
新書購入も、貸出の頻度も、どちらもあまりないので、それら二組の仕事も、結局、ほこり取りなどの掃除が主体という話だった。やはり、どの役割だろうと、退屈な仕事しかないようである。
「連絡手段が欲しい所だけど、スマホ、持ってないんだったね。代わりに、パソコン買ってもらったんだっけ?」
彼女と話すようになったのは、今日が初めてだというのに、すでに彼女が自分の情報を多く知っているという事を思い知らされるたび、義人は複雑な気分になった。
「う、うん。本当は、高校進学とともに買ってもらえるはずだったんだけど……中三の時、母さんが、『新しく入ってきた新入職員が、どいつもこいつもスマホのフリック入力しか知らなくて、パソコンを上手く使えないし、教えても、キーボード入力が遅すぎる』って言い出して」
「それで、スマホではなくパソコンを?」
「うん。初めの内、同じ家にいるのにチャットさせられたり、文書作成ソフトで、独自に課題出されたりしたよ……結局携帯は、最低限の連絡だけできるようにって、ネット接続切った、お古のガラケー渡されただけ」
「じゃあ、メールと電話くらい?」
「そうなるかな。皆がやってるスマホのチャットソフト、パソコンには対応してないからね」
いつも誰かと関わっていたい、という方ではないので、連絡手段としては、それで特段、困った事はなかった。
中学生の頃は、周りに合わせて、『欲しい欲しい』と思っていたが、高校生にもなると、そうした所も落ち着いてくる。パソコンに代えられて、最初は落胆したが、慣れた今は、こちらでよかったという気さえしていた。
「じゃあ、とりあえず夢の証明がてら、アドレス教えてよね。朝起きたら、送っておくから」
「まあもう、今日また会えた時点で、疑ってないけどね……あっ、どうやって伝えよう。いつもならスマホ持った相手に口頭で言うか、レシートとかに書いて渡すんだけど……」
義人は身体検査のように、上から下まで自分の体中を探ったが、やはり今は、何も持っていなかった。そもそも何か渡しても、現実に持って帰れるわけでもない。
「んーそうだね……複雑な文字列?」
「いや、名前もじっただけだから、そうでもないけど……」
「なら、黒板に書いてくれる? 口頭で聞くよりは、覚えやすいと思うから」
「ああ、その手があったか。それで覚えてもらうしか、なさそうだね」
言われて、義人も教壇に上がり、チョークで書いていった。恵理も向き直り、それを見ている。
「ふむふむ……『じんぎんぎん』をヘボン式ね……ああ、『義人』をひっくり返して、音読みしたわけね」
「これなら、口頭でもよかったかもしれないけどね」
「そうだね。安久下君らしく、卑猥で覚えやすいし。アット以降も……ああ、あの検索サイトのか」
「左様です」
義人は、棒読みするような調子で答えた。逐一反論しないのが、彼女と円滑にやり取りするコツに違いない。
「よし。起きたら送っておくから、私のは、そこで登録しておいてね。ああ、判別付くようにしよう……そうだねー、『夢テスト』って件名にしておこうか」
「そんなに迷惑メールとか来たりしないから、大丈夫だよ。まあ、了解」
こんな事にならなければ、連絡先を交換する事には、ならなかっただろう。それどころか、一言も話さず、終わっていたかもしれない。実際、高一の組では、一言も話さず終わった相手が、何人かいる。
進学校の校風なのか、それとも単に同じ中学出身で固まりやすいからか、中学の頃より、横のつながりが薄くなった気がする。女子と連絡先交換をしたのは、中学の時以来だった。
「まあ基本的に、大体の事はここでやり取りすればいいとは思うけど。安久下君、帰宅部だし、これが夜の部活動だと思って協力してよね。寝ている間なんだから、負担にはならないでしょ?」
夜の部活動。何かとんでもない響きだなと思ったが、彼女は気にしていないようである。そして、変な事は言わない方がいいだろうと、義人も気にしない事にした。
「今日もそうだったけど、もう自動的にそうなる気がしてるよ」
「諦めが早くてよろしい。ま、こっちは襲われかけた身だし、そのくらいは、してもらってもいいよねー」
両手首を返して、手の平を見せながら言った義人に対し、彼女は片手を腰に当てながら、もう片方の手の平を上に向けて返した。普段は他者に対して、当たり障りのないように振舞っているが、実際には毒を吐き、人を振り回す性格のようである。
「『大人しそうに見えて、内実は面倒臭い性格だな』とか思ったでしょ?」
虚空を見遣りながらそう考えていた義人に、彼女は素早く追撃をかけてきた。
「え、えっ? いや?」
「大人しい人間っていうのは、単に自分の中にあるものを、見せてないというだけだからね。それが発露してみれば、大抵はどこか曲がっているか、複雑に入り組んでいるか、何かをこじらせてるものだよ。気弱で謙虚に見えて、実は強姦魔だったりね」
否定したはずだが、さもこちらが肯定したかのようにして、さらなる毒増しで返されていた。
「……それで、今日の残りの時間は、何をこじらせるんでしょうか」
ため息とともに、義人は切り返した。
「おや? 夕方はずいぶんと怯えていたのに、すっかり強くなったねー。ま、今日は一応、校舎の残りの部分を回ってみようよ」
「はいはい」
純粋な好奇心だけに輝いた、悪意のない表情の時なら、魅力的に見えたりもするのにと、彼女の後に続きながら、義人は思った。