再会
気付くと、昨日と同じ、車止めの石柱の傍にいた。当然のように、眼前には、見慣れた校舎がある。
彼女には、ここに来いと言われたわけだが、義人は特別、寝る時にこの場景を念じたわけではなかった。考え事をしている内に、いつの間にか眠りに落ちていただけである。
「やっぱ、行かないといけないよな……」
そう独り言を言うと、自分の出した声の響きが、現実と同じように聞こえてくるのが分かった。
この現実感は、昨日感じたものと同じである。それまでの夢なら、自分の声は空気を通した声の響きではなく、記憶を思い出す時と同じような、脳内での再生に近かった。
まだ彼女の姿を見たわけではないが、この時点ですでに成功してしまっているであろう事を、認識せざるを得なかった。義人にとっては、複雑である。
特に、これは危惧した通り、自動的に起きている事に思える。まるで囚われたかのように、今後はこの夢しか見られないのかもしれない。
まして共有相手は、今や自分の弱みを握る人物となった、朱野恵理である。
それでも約束した以上、やはり行くしかないだろう。彼女もすでに着いている状態なのかは分からないが、そうであれば、今の義人同様、昨日と同じ現実感の中にいる事を、認識している可能性が高い。
額に手を当てながら、そう考えた末、義人は観念したように校舎へと向かったが、軽やかな気分で飛行した昨日とは違い、重い足取りの歩きだった。
「ああ、この本、出てきた。ご到着、という事かな。面白かったから、続き、読みたかったんだよねー。まあ、他にもいろいろ試したい事あるから、そうもいかないんだけど」
図書室に入ってすぐ、奥の方から、朱野恵理の上機嫌で軽やかな声が聞こえてきた。
それは普段の彼女の態度からすると意外なものだったが、義人はすでに現実の方の図書室で、猫のような彼女の本質の一端に触れている。
「本の事がなかったら、私もあんな風に確信を持って問い詰めたりはしなかったと思うなー。実はあの後、床に倒れた安久下君の姿が先に消えてから、本を再び手に取って中を見ると、内容が消えてたんだよねー」
聞こえないように、小さくため息をつきながら、義人は声のする方へ歩いていき、本を持つ彼女と対面した。
「その……何と言うか……まあ、こんばんは」
どう声をかけていいか分からず、とりあえず月並なあいさつをした。半分、開き直ったような気分もある。実際、今の義人にとって、それが一番、建設的なものだった。
「そうだね。ここは明るいけど、確かに、『こんばんは』と言うべきか。ただ、女の子を待たせるのはよくないね。襲うのは、もっとよくないけど」
本を閉じて棚に戻しながら、彼女が言う。表情は、夕方に見せていたものと同じである。
新学年が始まったばかりという事もあり、昨日の今日まで話をした事がなかったばかりか、女子同士でも、今のような本性を見せた会話をしている所は見た事がなかったため、こんな性格をしていたのかと、改めて思わざるを得ない。
その見た目から、もっと大人しいものだと思っていた。実際には、慎ましいのは胸だけである。
「今、変な事、考えたでしょ」
「えっ?」
「一瞬、胸を見遣ってから、目を横に逸らしてた」
「そんな、考えすぎだよ。ずっと相手の目を見続けるわけにもいかないのだから、視線を外そうとした時に、そうなる場合もあるでしょ?」
「ふうん?」
困った。ひょっとしたら、今まで教室でちらちらと見遣っていた時も、気付いていたのかもしれない。
「今もこう言われて、『見るほどの大きさもないだろうに』とか、思ったんでしょ」
「そこまでは考えてないよ!」
「そこまで『は』。なるほどね」
慌てて言い返すと、ろくな事にならない。義人は、一つ学んだ。
もっとも、決して虚弱ではないが、胸に限らず、全体的にほっそりとしているのは間違いない。
帰宅部の義人も、あまり筋肉には恵まれていないが、平均的な中肉中背であり、ほぼ、成人男性と言っていい体力である。背負投で迎撃されたのは、柔よく剛を制されたという事なのだろう。
あの時は、自分の思い通りになるはずの明晰夢の中でありながら、まさかの迎撃で衝撃を受け、そのまま諦めるかのように目が覚めてしまったが、本気で取っ組み合いを続けたなら、さすがに自分が勝つのではないだろうかと、義人は思った。
「懲りずに、まだ何か考えてる? 安久下君って、実はすごく、顔に出やすいんじゃない?」
「えっ? いや、その、やっぱ……改めて考えるに、この夢を共有している状態って、すごく謎だなあ、って。できればその、解明してみたいと言うか……」
夢を共有しているとはいえ、心の中まで漏れ出ているはずはないと、信じたい。
少なくとも、自分には彼女のそれが読めたりはしていないので、単に彼女の言う通り、顔に出やすいという欠点のせいだろう。義人は言い繕いながら、そう思い直した。
「ふうん? 何か分かった所で、私達の身分にかかわらず、学会に発表したり、世間に公表したりは、できないだろうけどね。証明できないし」
「えっ? でも、朱野さんも、解明しようとして、また試そうって言ったんじゃないの?」
「私『は』そうだけど、あくまでも個人的な興味を満たすだけの範囲だよ」
「その『は』は、何でしょうか」
徐々に自分の方も素の感情が出つつある事を、義人は自覚していた。彼女の方もからかってはくるが、真剣に咎めてくる風ではないので、気が楽になってきたのかもしれない。
「安久下君の場合、原理を解明して、私との合流を避ける事で、一人猥褻放題の明晰夢を見たいんでしょ?」
「え? いや……」
義人はごまかそうとしたが、強気な眉で武装した、切れ長の目で見据えられると、上手く言葉が浮かんでこなくなった。
「今さら、否定は見苦しいんじゃないかなー。昨日、私を襲おうとしたのも、普段、明晰夢を見た時に、そこで出てくる女性に対して、片っ端からそうしているからでしょ?」
「いや、その……」
母もそうだが、どうしてこうも女は、詰将棋のように相手を問い詰めるのが得意なのかと、義人は焦りながら思った。
「夕方も言ったけど、他人に証明できるわけでもないし、心配しなくてもいいよ。思春期の男子なんて野獣のような性欲だって、この前の性教育で、体育の石田先生も言ってたし。あ、あれは三月のだったかな?」
「……多分、そうだと思う。四月に入ってからは、総合の時間は、学活のような事ばかりだったから。まあ、性教育は、こっちも石田がやってたけど」
変に苦しい否定の反応を見せるよりは、別の部分への反応をした方が建設的だと、義人はもう一つ学んだ。
「そうかー。安久下君とは二年になって初めて同じ組になったから、まだ会って一ヶ月も経ってないって事だね。危うく、一線を越える所だったけど」
彼女にそう詰られるたびに、閉口する他ない状態になってしまう事を考えると、やはり体力はどうあれ、変な気は起こさない方がよさそうである。
「……とりあえず、その過ちのせいで、君の興味を満たす手伝いをしなければならなくなったという事で、よろしいでしょうか」
「うん。大変よろしい。頑固な変人って聞いてたけど、物分かりいいねー」
誰だ、そんな事を言ったやつは。そう思ったが、聞いた所で、彼女も答えはしないだろう。男子から女子に伝わる過程で、変に膨らんでいった可能性もある。
「それで、ひとまず何から?」
物事、いろいろな意味で、切り替えが大事だ。ここは後ろ向きな事よりも、建設的に話を進め、そうする事で彼女の関心も先に進めていった方が、自分の精神衛生上もよいだろう。義人はそう考え、今後の方針もそう取る事にした。
「そうだねー。この夢の世界を探検していろいろ調べたい所だけど、今日はとりあえず、校内を回ってみようか」
「校内? 何の変哲もなさそうだけど?」
「理系的な方法論だけど、何の変哲もないという事を確かめるのも、必要な事だからねー。ゆくゆく外に出る前に、まずは、足元から固めないと」
「俺達は、文系だけど……まあ、君がそう言うのなら」
「ふふっ、実験だからねー」
義人は、次第に自分の中で『いつもの』として処理されつつある、得意げな笑みを見せてから図書室の出口へ向かった彼女の後を、付いていった。