呼び出し
義人は帰宅してからも落ち着かなかったが、両親が共働きで食事の時間がばらばらという、自身の家庭環境には感謝した。
今時珍しい二世帯住宅だが、祖母はすでに亡く、今なお現役の祖父は、最も帰りが遅い。
食事はほとんど、あらかじめ用意されている。まず、一番早く帰る義人が担当になっている炊飯をし、炊ける頃、オーブンで主菜を焼く。今日は、鯖のみりん漬けだった。そして鍋の中のみそ汁を温めながら、冷蔵庫にあるタッパーの中の、酢漬けの副菜を盛る。
義人はその手順を素早く済ませ、食事自体も速やかに終えた。食事をしている間にも、考えが堂々巡りしていたが、味は分かるし、特に食欲にも影響がないという事を実地に確認して、ひとまずそこには安心した。
その後、いつもなら食器を水に漬けてから、居間でだらだらとする所だが、今日は二番目に帰宅の早い母からの連絡を受けて、当人の分の鯖を焼き始めると、すぐに食器を洗って、風呂の準備を始めた。
風呂掃除も義人の担当で、それは帰ってきてすぐ、ご飯を炊いている間に終えている。
そして母の食事の盛り付けを終えると、すぐに風呂へ向かい、入浴を済ませていた。
あらかじめ、帰宅の旨を受けた時のやり取りの中で、『今日は委員になってしまって、その仕事で帰りが遅かったから、早めに風呂にして課題をやる』と伝えていたので、訝しがられる事はないだろう。やる事さえやっていれば、文句は言わない性格でもある。
実際には、新学期が始まって早々の今、特に課題のようなものはなかった。単に誰とも接触せずに、一人になりたかっただけである。
そして今、自室で一人になったはいいが、当然、何か建設的な事ができるわけではない。椅子の背もたれに体重を預け、あれやこれやと考えるが、今回起きた不思議な出来事は、当事者間で確認が取れた以上、すでに答えの出ている事だった。
ただし、一度それが起きたからといって、故意に起こせるとは限らない。物は試しという事なのかもしれないが、彼女も再びそれを起こす実験をするために、わざわざ同じ図書委員になって、義人に話をしたのか。
もっとも、校内で怪しまれずに二人きりで話をするには、図書委員以上に打って付けのものもなかった。皆、高校生だけあって、男女の動きには敏い。
存外、変わった気質を持っていた彼女も、浮いた話が流れていないという今の自分の身分については、保ちたいのだろう。
とりあえず、パソコンを点けた。今、独自に予習するなどの勉強をしようとしても、間違いなく身に付かない。気晴らしでもした方が、よさそうだった。
かといって、ほとんど日課になっているアダルト動画のサンプル巡りも、今日ばかりはしようという気になれない。今は性的なもの全てに、後ろめたさを感じるような気がした。あるいは、している最中はいいかもしれないが、した後の気分が問題である。
起動してから、真っ先に目に入ったのは、メールの通知だった。送信者は斎藤、件名が『ニート就職おめでとう!』で、本文が、『委員会のお仕事、お疲れさま(はぁと)』である。この男がメールを送ってくるのは、こういう時だけだった。
件名を『死ね』、本文を『貴様には本番の一点を争う状況でミスをしてしまう呪いをかけた』と打ち、すぐに返信した。いつもどおり、再返信が来る事はないだろう。
ただ、少しだけ、気は楽になった。気休めを続けようと、そのまま、だらだらといつものニュースサイトや掲示板の巡回を始めたが、ふと思い至り、『明晰夢』で検索をかけてみた。
だが、当然ながら、誰かと夢の場を同じくする話など、出てこようはずもない。明晰夢を見る方法だとか、見すぎは脳が休まらないから危険だとか、これまでにも見た、根も葉もないような事ばかり出てくる。
『同じ夢を見る』というのはあったが、義人が体験したものは、単に同じ内容を見るのではなく、実際に夢の場を共有して、そこで相互に影響を与え合う事ができるものである。
その例は、どこにもない。だから彼女も、好奇心で、『もう一度実験してみよう』と言ったのだろう。
義人自身も、現象について興味がないわけではないが、なかった事にできるなら、そうしたいと思う気持ちの方が強い。返り討ちにあって、無様に痛い目を見た点よりも、襲おうとしたという事実そのものが、弱みになっている。
途中、自分の分は自分でする事になっている洗濯と室内干し、そして、明日の学校の準備なども挟みながら、調べ物と考え事を続けている内に、いい時間になってきていた。パソコンを使っていると、そういう事が多い。
いつもよりは早いが、もう寝床に入ってもいいだろう。調べ物は徒労に終わり、考え事は布団の中でもできる。そう思って、すぐにパソコンと照明を消すと、ベッドに倒れ込んだ。そして、仰向けに寝転んで、額に拳を置き、黙考を再開する。
本当に、また会えたりするものなのか。
むしろ、もう二度と再現できない方が、自分にとっては都合がいい気がする。彼女が言った通り、世間的に証明されるような事柄ではない。実害はせいぜい、二週間に一度、気まずい時間を過ごさなければならない程度である。
むしろ怖いのは、約束を果たせない事ではなく、自動的に果たされてしまう事のような気もしてきた。昨夜も、彼女と夢で結び付きたいと願って、出会ったわけではない。偶発的で、事故のような接触だったと言える。
特に、また再現に成功したら、以後はもう、何度も会う事になるのかもしれない。たとえ、任意に使い分ける方法が分かったとしても、今日の彼女の様子からすると、これからも、呼び出してきそうな気がする。
そうなると、明晰夢の中で今までやってきたような楽しみ方は、できなくなってしまう。思春期の性欲をそこで発散していた義人にとって、非常に困る事態だった。
次々にそうした考えが浮かんできていたため、すぐには寝付けないだろうな、と思っていたが、眠れない時間が長いという感覚を覚える前に、義人の意識は途絶えていた。