ガラス
「他の家族は……?」
「家には、父だけよ。後は、父方の祖父母や、おじ、おばの一家が、関東に。この街は、母方の地元なんだけど……その母方の祖父母は、昔にしては珍しく晩婚だったから、すでに亡くなってるわ」
「それならなぜ、こっちに? 両親の仕事の関係?」
「いいえ。両親は、大手銀行の社内恋愛だったから、むしろ初め、東京にいたわ。ただ、母方の実家がそういう高齢具合だったから、やがて介護が必要になってしまったの。結婚も考えてた中だったから、とても困った事になったのだけど、銀行を退職して起業していた先輩が、父にサテライトオフィスを構えるからどうかって、声をかけてくれてね」
「あの、ネット通信とか使って、遠隔勤務するっていう?」
「ええ。テレワークとも言うわね。そうして二人でこっちに来て、結婚と介護、出産という流れになったの。母方は一人っ子だったから、家も受け継いで、ちょうどよかったというのもあるわ。リフォームしたけどね」
「残る親類は、お父さんの方の実家だけか」
「それが……おじやおばからは、父が末っ子だった事もあって、『そんな死にかけは施設に入れて、皆で関東の方がいいだろう』というような事を言われて、ほぼ絶縁ね。だから、こっちに定住したままだし、母方の祖父母のは当然として、母の葬式にも呼ばなかったわ」
確かに思い返してみれば、彼女は不自由のなさそうな身でありながら、飛行機に乗った事がない、と言っていた。関東の実家に行く機会が、なかったためだろう。
それでも、最初は修学旅行の行き先を東京にしようとしていたのは、父母が出会った地に、思う所があったからかもしれない。
「じゃあ、もう親しい家族自体、お父さんだけなのか」
「そうなるわ……」
もともと二人しかいなかった家族が、たった一人になったという事になる。玉藻の表情にも、その悲哀が現れていた。
「その……お父さんは今もこっちで、その仕事を?」
「ええ。そのオフィスの責任者よ。ただ……基本的に家の事は、妻任せの人だったの。お金はしっかり家に入れて、投資以外に変な使い方もしない人だけど、言わば仕事人間ね。そして……その妻を亡くした後は、夫とは対照的に教育人間だった妻のもとで、一人前にいろいろこなせるようになっていたあの子に、家の事を任せるようになって……」
「えっ? 一人前にこなせるって、それでもまだ、十二歳かそこらの時だろ?」
「それが……あの子の方から、言い出した事なのよ。母親を亡くしたのは自分のせいって、思い込んでるから。お手伝いさんを雇う事もできたのに、自分がやるからと。これに関しては、精神科の先生とも相談して、むしろ父の方が折れた形だったのだけど……いかんせん不器用な人だから、本当にお金を渡す以外に、何もできなかった。そして、それが当たり前の事として、呵責を段々となくしながら定着するまで、それほど時間はかからなかったわ」
「えっ……」
「決して、愛してないわけじゃないわ。妻の死に関して、あの子に引っかかりを感じたりとか、そんな事も絶対にない。むしろあの子のために、女も寄せ付けてないわ。だからこそ、やっかいで……やるせないのだけど。それが分かるから、あの子もわがままを言わずに、頑張り続けてる。そして、女が表面に出さずに頑張っていると、男って大抵、それに気付かずにいるのよね」
「あ、ああ……男の俺が言うのもなんだけど、そういうのは……分かる気がする」
「水族館に行った日の食事に、株主優待券を使ってたでしょ? ああいうのも、全部あの子に渡して、処理を任せているの。もっとも、あの株は……母が家事を休める日を作るきっかけにって、父が買ったものだったのだけど……母の死後に二人で行った時、あの子が家族三人の外食を思い出して、泣いちゃって……それ以来、行ってなかったの」
「そんな経緯が……」
義人との食事の時、彼女は始終楽しそうで、決してそんな素振りは見せていなかった。
「それでも、父の母への気持ちをなかった事にしたくなくて、『高校に入ったら、友達との食事に使うから』と言って、株を売らないでおいてもらったの。でも実際は……あの子の交友関係からして、使う機会はほぼなかった。ほとんどは切れたのに気付いてから、捨てていたの。期限切れがあったのは、そういう事」
「……俺は深く考えなかったけど、因幡に言われたよ」
「ふん、バカ鮫のくせに。あの日、二人で先に運動場に行っていたのは、そういう話をしていたのね」
「あいつは、すごいやつさ。決して、馬鹿なんかじゃない。今の玉藻もそうだけど、記憶は同じでも、考え方や観察眼はまるで違うんだって、その時に思い知らされたよ。彼女は家族で外食したり、一緒にそうする友達もいないみたいだから、いくら俺と一緒に行動しても、決して勘違いして、変にのめったりしないようにって……間違っても、また抱きついたりするなって」
「……やっぱり、バカ鮫よ。大バカ鮫」
「……玉藻。これが反則ってのは、分かってて言うんだけど、お前もそう言うからには、彼女の本心を教えてくれ。俺がこれから、彼女に声をかけるにあたって……勘違いがあったらいけない」
「……率直に言っちゃうと、あの子の記憶の中では、確たる形で、言葉として定まってはいないわ。と言うのも、異性を好きになった事が今までなかったから、自分でも沸き起こる感情の波が何なのか、把握しかねているの。特に今は、友達らしい友達もいないし、家庭環境も特殊だから、そのために依存しているだけかもっていう、自嘲気味な考えも、もともと持っていたわ」
「そうか……」
「でも、あの子は間違いなく、あなたの事が好きよ。もちろん、異性としてね。心臓の高鳴りの記憶で、それが分かる。観覧車の時だって、すぐには突き飛ばさなかった。トラウマに、耐えようとしたの。だから本当は、あなたの事を受け入れたかったのよ。そして……それができなかったから、謝った」
「……ああ」
義人は前を向いていたが、ピントの外れた、うつろな視界の中で応えた。
「それと……記憶とは別に、証拠もあるわ」
「別の証拠?」
はっとするように視界を戻し、玉藻の方を見ると、彼女もこちらを向いてきて、目が合った。
「私も、あなたの事が好きだからよ。肩貸し代、もらうわね」
そう言うと、玉藻は歩みを止めて、素早く唇を合わせ、そしてすぐに離した。その後、何事もなかったかのように、再び歩き始める。
義人も、混乱して歩みを止める事はなく、すぐに歩調を合わせた。動じずに済ませてしまえる事が、いい事なのか悪い事なのかは、分からない。
「……その姿に化けたの、今のが目的じゃないだろうな」
「さあ? あなたを助けたいのも、あの子を助けたいのも、本心よ。ま、今のは、二人だけの秘密にしましょう」
「そうだな。因幡にも……記憶の共有がどのくらいあるのか、分からないけど」
「どっちでも、大丈夫よ。バカ鮫のしつけなら、任せてよね」
にっこりと、玉藻が笑った。いつもの狐の顔で見せる、おどろおどろしいそれとは違い、非常に魅力的なものとして、義人の目に映った。
「いつものは怖いと思ってたけど……今日の笑顔は、素敵だよ」
「……あの子以外の他の女の子に言ったら、絶対に許さないからね」
「ああ……もちろん。俺がこんなに必死になって、誰かに話をしに行こうとする事自体が初めてだから、信用してくれていい」
「そうね……あの子には、父を含め、誰も上手く声をかけられなかったわ。事故の影が、外にも現れていたのかもしれない。だから……あなたが届けて」
「ああ」
「ふふっ、やっぱり、いざという時に、頼りがいがあるわね。さっき言った、あの子の心臓の高鳴りは、あなたがそういう所を見せるたびに、起きてたのよ」
「そうなのか?」
「最初にあなたを投げ飛ばした時を除いて、基本的に人知を超えたような予想外の事態には弱いあの子が、なぜ、一度は逃げ出した人骨のあふれる館にまた行こうとしたか、分からない? あなたの、そういう所が見られるからよ」
「あ……」
「男って、本当に鈍いのね」
玉藻は、再びにっこりとした、魅力的な笑みを見せた。
「因幡?」
校舎の角を越えた所で、職員室側寄りの植え込みに、頭から刺さるようにして埋まっている因幡の姿が、目に入った。
事態の深刻さとは対照的な図だが、このやられ方なら、悲鳴が聞こえなかったのも、うなずける。
「バカ鮫……役立たず」
見えてから、そこに着くまでも時間がかかったが、その間、因幡は全く動いていない。とはいえ、呼吸が必要なわけでもないので、大事はないだろう。
すぐ近くまで来た後、玉藻は何も言わずに因幡の体を蹴り飛ばして、地面から出した。
履物は厚底の草履だったが、足の甲で蹴りつつ、痛がる素振りも見せていない。
義人自身が動けず、玉藻も義人に肩を貸しているという状態では、これが一番早いので、因幡には悪いと思いつつも、義人は抗議しなかった。
壁に跳ね返り、足元の地面に転がった因幡は、咳き込むように土を吐き出している。
「ぶはっ……んお? 恵理ちゃん? 義人と……いや、ちゃう。耳……おま、まさか」
「私の事は、今どうでもいいわ。恵理はどこに行ったの?」
「た、多分、すぐそこの、職員室側校舎やで……渡り廊下からそこに入ろうとしたんを、回り込んで止めたら、ヒレつかまれて、地面に頭から叩きつけられたんや……」
鼻が弱点である因幡はその衝撃を受け、そのまま動けなくなったという事だろう。まだ、弱っているようでもある。
「職員室側ね。分かったわ……図書室かしら?」
「最悪、屋上の可能性もある。急いだ方がよさそうだ」
「そうね……バカ鮫、あんたも回復したら、すぐに来なさい」
「了解やで……それにしてもお前、そんな美人のええ体になれるんやったら、もっと、早う……」
因幡が全て言い終える前に、玉藻は再び因幡を蹴り飛ばした。
「行きましょう」
「あ、ああ……」
因幡には悪いが、やはり、今は先を急がなければならない。玉藻に支えられながら、義人は校舎の中へと入っていった。今日ばかりは、靴の履き替えも気にしてはいられない。
入って右手側すぐに、階段がある。そのまま、二人でそちらへと向かった。
そして階段の目の前まで来た所で、階上から、ガラスが割れる音が聞こえてきた。
「図書室からよ!」
「玉藻、先に行ってくれ」
「えっ?」
「ここからは、手すりがある。階段だけじゃなく、廊下も、バリアフリーの関係でそうなってるだろ? それを伝っていくから、お前は先に、彼女を押し留めてくれ」
「……議論している暇はないわね。分かったわ……ただ、このまま行くと、あの子に母を想起させてしまうかもしれないから……元に戻るわ。ちょっとまた、目を閉じて、いつもと同じ姿を想像して」
「ああ」
義人は玉藻に誘導されて手すりをつかむと、言われた通りに目を閉じ、いつもの玉藻の姿を思い浮かべた。
「もう、いいわよ……無理言えた状態じゃないけど……なるべく早く来てね」
「ああ、すぐ行くよ」
玉藻が、いつもの四足歩行で、九つの尾をなびかせながら、素早く駆け上がっていく。
義人は呻きを漏らしながら、一段一段、手すりに体重を押し付けるようにして、その後を追っていった。




