傷跡
「あ……ああっ……!」
現実の医療具が再現された義人を見た恵理が、顔面蒼白になりながら、声にならない声を震わせた。そして見る間に、彼女の目から涙があふれ、留めきれずに、こぼれて流れ出ていく。
義人は、『無事でよかった』という旨を発したいと思っていたが、初めて見る、彼女のその表情に半ば気圧されて、目を見開いたまま、上手く言葉をかけられないでいた。明らかに、気安く話しかけられるような状態ではない。
「恵理ちゃ……」
義人の代わりに口を開いた因幡が言い終える前に、恵理は目を強く閉じて、一層、粒のような涙を押し出しながら、校舎の方へと走り出していった。
「待っ……ぐぅっ! くそっ」
「よ、義人!」
すぐに追いかけようとしたが、やはり、体が上手く動かない。恵理の方へと進みかけた因幡が、心配そうに義人の方へと戻ってくる。
「バカ鮫! あの子を追いかけて!」
「えっ?」
いつの間にか義人の傍に来た玉藻が叫び、因幡が驚きながら、そちらを見た。玉藻が言わなかったなら、義人がそう言おうとしていた所である。
「安久下君の事は、任せて。あんたはあの子が姿をくらまさないよう、すぐに追って。病院でも、自傷行為しかけたの! あの子を守って!」
「お、おお!」
切迫した調子で言う玉藻の依頼に、因幡はうろたえながらも、すぐに恵理を追った。
玉藻はそれを見送ると、座っている義人の両足の間にやってきて、改めて正面から話しかけてきた。
「安久下君。こんな状況だけど、あなたに力を貸すために、あなたの力を借りる必要があるの。今から言う事を、怒ったり混乱したりせず、真面目に聞いてちょうだい。それが、あの子を助けるためにも必要な事だと思って」
「……分かった」
依然として切迫した調子の玉藻に対し、義人も質問を後回しにして、素直に聞き入れた。今、彼女の内情を知る玉藻の存在は、義人にとって、何よりも貴重なものである。
「私の名前の由来である、『玉藻』の伝奇がまさにそうだけど、妖狐は、人に化けられる。そうよね?」
「えっ? あ、ああ」
「じゃあ、目を閉じて、その事を念じて」
義人は、本当にそんな事ができるのかと、思わず疑問を発しそうになったが、直前に言われた事を思い出し、黙って従った。余計な考えは捨てて、そのまま集中する。
両足に、ぱさりと軽いものが当たる感触がするまで、それほど長くはかからなかった。
「もう、開けていいわ。素早く集中してくれたお陰ね」
目を開けると、恵理の顔に似た、しかし、少し雰囲気が異なるような、女性の顔があった。足に当たっていたのは、その長い髪の毛で、そちらは恵理と同一の色と髪型である。
「お前、その顔は……?」
「ふふっ、そうね。今、私もあなたの瞳に映る顔を見たわ。あなたの力を借りはしたけど、これは、その現れではないわよ。私には初めから、あの子の無意識の中の願望が、内包されていたと思うの」
息を吹くように漏らした笑い方は、恵理と全く同じものだった。服装は、どういうわけか着物で、元の体毛を表すかのように、白を基調とした色合いである
「願望……?」
「ええ。これから話す、あの子の母の事よ。私には、それが反映されているのだと思うわ」
確かに、義人に対する因幡とは違い、彼女の保護者のような風ではあった。義人は、どこか対等な相手を望み、恵理は、母親のような存在を望んだというのか。
「……その、頭の上から出たままになっている、狐の耳もか?」
「それは、安久下君のせいじゃない? いい趣味してるわね。しっぽがないのは、着物の邪魔にならなくて助かるけど」
「えっ? いや、違……」
「冗談よ。早く、あの子を追いましょう。詳細は、道すがら話すわ」
そう言うと、玉藻は屈み、義人の左腕を取って自身の首の後ろに回し、腋に肩を入れて、義人を抱き上げた。
右肩が悪いので、こうするしかないのだが、足も右の方が悪いので、かなり体重を寄りかからせる体勢になっている。
「歩くわよ」
「ああ」
寄りかかっているために、恵理と違って膨らみの分かる胸が当たったが、指摘すると、それも自分のせいにされそうな気がしたので、義人は何も言わなかった。ひょっとしたら、恵理の母がそうだったのかもしれない。
今はとにかく、恵理を追わなければならなかった。そんな事で戸惑ったり、遠慮したりしている場合ではない。
「安久下君。この母親についての話が、あの子の心の傷についての話になるわ。それが、今さっきあなたを見て、謝りながら逃げ出したのと、観覧車であなたを突き放した理由でもあるの」
「……虐待か?」
「いいえ。むしろ、その逆。あの子は、愛されてた。そうであるが故に……呪縛を負ってしまったの」
「どういう事?」
「PTSDって、知ってるかしら?」
「ああ。トラウマが、フラッシュバックするとか何とかいう、あれだよな……まさか」
「ええ。小学校卒業後の春休み、あの子は母と一緒に、中学の制服を買いに行って……その帰り道、横断途中に、信号を無視した車が突っ込んできたの。そして母は、とっさにあの子を抱きかかえてかばい、帰らぬ人となった。それが、ずっとあの子を苛み続けている、トラウマよ」
驚愕するのと同時に、これまでの全てに、合点がいった。館で腕を離すよう叫んでいた時も、不自然なほどに、必死な様相を見せていたが、自分のために誰かが犠牲になる事を、極端に恐れていたためだろう。
そしてその直後、恵理を抱きかかえてかばった義人が動かなくなったために、彼女は錯乱し、館の外にまで聞こえるほどの、悲鳴を上げたのである。
「奇跡的に、あの子に怪我はなかった……けれど、母の腕の中で強く抱きしめられながら、転がり飛んでいった先でその抱擁の力が解け、生暖かい血が流れてきた衝撃は、あの子の心に、強く食い込んだの」
「う……」
自分がそれを二度も引き起こしたという事実に、義人は心が締め付けられるような感覚を覚えた。二度目は不可抗力だが、より原体験に近いものであり、それが致命的なまでに彼女を追い詰めた事は、先ほどの彼女の態度が示している。
「加害者は……認知症の独居老人。警察で勾留して調べている最中に体調を崩して、一年もしない内に、亡くなってしまったわ。身寄りもなく、任意保険にも入ってなかったから、後にはもう、誰も対応してくれる人はいなくて、怒りをぶつける先もなくなったの。だから……あの子はずっと、自分を苛むしかなかった。葬式の時は、泣きながら、ずっと謝り続けて……最後には、過呼吸を起こして倒れたわ」
「そんな……」
「その後は、精神科通い。熱心な、いい先生に診てもらえたけど……とても、中学には行ける状態じゃなかった。ただ、その先生の勧めもあって、少しずつ、独学で勉強を始めていったわ。もともと、その先生もいじめで不登校だったらしくて、独学のノウハウがあった上に、分からない所も教えてくれたの。ショックが和らぎ、信頼関係が強まっていく内に、ほとんど専用に時間を割いてくれるようになって……結局、中学には一度も通わなかったけど、受験の年には、個別指導型の塾に通えるくらいに回復したわ。そうして、平高に合格したというわけ」
「それは、すごいと思うけど……あまり親しい友達がいなかったのは、そのせい?」
「ええ。誰かについて必死に調べたのも、あなたが初めてよ」
「でも……そうやって、人に聞いて回れるだけのものは、あったんだろ?」
「それは……事故と不登校の逆境を乗り越えた事で、ある意味、とてもしっかりしていたから。一年の頃から、話しかけられれば、ていねいに応対して、敵を作らなかったわ。だから、逆に人に話しかける時も、きちんと応対してもらえるくらいの関係性はある。ただ……あの子は自分の思い通りにならなかった時のストレスを、我慢以外の方法で対処した事がなかったの。だから、深い関係になる事には、あの子自身の方が恐れていた」
「過去を知られるかもしれないから?」
「それもあるけど……もともと、あの子は大好きな母の前で、極力『いい子』であり続けていたの。それが一番、母を喜ばせるから。だから、甘え方を知らないし、感情を出すという時に、どう絞ればいいのかが分からない。小学生の頃、友達相手に、それで失敗した事もあって、なおさら、あまり人に感情を見せないようにしていったの」
「そうか……」
怒った後、急に大人しくなって謝ったりしてきていたのも、そうした別種のトラウマがあったからなのだろう。
「蔑まれず、親しまれず……なまじしっかりしていて、気を張っていたから、どこか、そういう所に落ち着いたのよね。目付きの鋭さも、それを後押ししたかもしれないわ。だから……あの子は散々、からかいのネタにし続けたけど、あなたとこの夢の中で会えて、しかも弱みを握る形になったのは、実はあの子にとって、とても幸運な事だったの。そうでもないと、心を開く事はできなかっただろうから。あなたには、私からも……本当に感謝しているわ」
玉藻はそう言うが、義人は彼女の凄絶な過去を聞いた上で、自分が彼女を襲おうとした事を、よかったという風には、とても捉えられなかった。ただ、玉藻の言う事は分かるし、こういう機会でなければ、彼女の生の感情とは決して触れ合えなかったのも、確かである。




