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不慮

 いつもどおりの目覚め。義人は、すっかり慣れたその感覚に任せて身を起こし、いつもと同じ時間を示す時計のアラームを解除した後で、ベッドを出た。

 最終的に、運動場のベンチでのんびりと話す内に落ちていたが、昨日の夜に、彼女とああして過ごせていなかったなら、最悪の朝になっていただろう。

 むしろ、今日が月曜である事を考えると、この一週間全体が、最悪なものになっていたかもしれない。義人に諫言(かんげん)しつつも、雰囲気作りに始終してくれた因幡には、感謝しかなかった。

「あ、そうだ」

 『月曜』を意識して、思い出した。一限から体育があるが、今週からは、女子と交代する形で、柔道になるのだった。机の上に用意しておいた荷物を確認すると、案の定、柔道着がない。昨晩の精神状態を考えれば、無理もなかった。

 柔道着を用意した後、一応、パソコンを()けて確認したが、特にメールは来ていない。スマホと違って、手軽にメール確認できないのが、難点である。

 平日なら、これからは基本的に連日、放課後に図書室で過ごす時間があるので、あまりメールは気にしなくていいのかもしれない。そう思いながら、パソコンを閉じ、早めの朝食に向かう事にした。



「ようし、それじゃあ、もう柔道の授業も二年目って事で、今日からは、背負投もやっていくぞ」

 お決まりの、準備運動と受け身の練習が終わった後、体育教師の石田が言った。身長はあまりないが、がっしりとした体格なので、柔道着が似合っている。

 そういえば恵理は、最初に義人を夢の中で背負投した後、『体育の授業で習った柔道も、無駄ではなかったか』と言っていた。先週までは、女子が柔道だったので、その時、こなしていたのだろう。

「えー、じゃあ安久下、ちょっと来てくれ」

「えっ? 俺ですか?」

 周囲が、笑いに包まれた。ウケを狙おうとしたのではなく、至って率直に反応しただけである。

 柔道は、出席番号順に二人一組になるが、それぞれに十分なスペースを設けるため、三列しかない。そして、女子を除いた番号では三番である義人は、四番の河津とともに中央の先頭に位置してしまったために、教材として選ばれたようだった。

「平均的な体格してるから、例としては、すごくいい」

「は、はあ……」

 困った事になった。これはきっと、今後も何か例が必要になった際、義人の出番になりそうである。一年までは、先頭は先頭でも、目立たない左端だった。

「皆、前側の人間は座って、後ろのやつは、それぞれ見えるよう、横にずれてみてくれ。見えないやつは、ちょっと前に出てきてもいい」

 石田は皆にそう言った後、入念にコツを説明し、受け身の取り方も、義人に教える形で全体に言い聞かせ、自身でも一人で回って見せる事で例示をし、いよいよ実演となった。

「よし、じゃあ、つかみ合う形で。強くは投げんから、安心してくれ」

「え、ええ……」

「じゃ、いくぞ」

 腕を引っ張られながら腰に乗せられ、ふっと足が浮いた感覚は、以前覚えたそれと、全く同じだった。床に接地するタイミングがすぐに分かり、義人は教えられた通りにあごを引いて体を丸めながら、その直前、床を強く叩いた。

 その叩く音と、投げられた体が接地する音とが強く響いたが、顔に本を当てられた直後で、わけが分からないまま一方的に投げられた夢の時とは違い、痛みはあまりなかった。

「安久下……初めての割に、すごくきれいな受け身取ったな。皆、いいか。今のは投げられる方としても、すごくいい例だったから、参考にするように。この型の受け身が一番難しいんだが、教科書に載せたいくらいのお手本だったからな」

 義人はほめられながらも、これは逆を言うと、最初に自分を投げた恵理が、教師の例示と同じくらい、きれいに投げたという事の証左なのではないかと、内心思っていた。



「昨日は突然の事で逃げちゃったけど、今日、改めてリベンジに向かうよ」

「デショウネ」

 図書委員の仕事が始まって、第一声がそれだった。予想通りのそれに対し、義人は遠くを見たまま、棒読みで返している。

「何、その冷めた反応。こういうのって、男の子の方が、わくわくするものじゃないの?」

 恵理が、むすっとした表情を、義人の方に向けてきた。元が、強気に見える顔立ちだが、義人には、その変化の機微が、すっかり感じ取れるようになっていた。

「前にもそんな事言われた気がするけど、俺はまあ、女の子に投げ飛ばされるくらい、か弱い草食系なので……」

「草食系って、女の子に手を出さない男の事だったと思うけど?」

 手の平を上に向けながら、冗談めかして言った義人に対し、彼女は非難調の視線を向けてきた。

「あー、そうだっけ? まあ肉食動物でも、草食動物に大怪我負わされたりもするらしいからね。キリンの()りとか、特にすごいんだとか」

「ああそれ、本で読んだ事ある」

「本? 朱野さん、図鑑みたいなのも読んでるの?」

「そうだよ。本は好きな方だから、普通の文学読んでたりするけど、自然科学も好きだよ」

「ふうん……ああ、そうだ。本と言えば今さらだけど、何か夢に関する本でも見てみる?」

「あの夢の事、本で調べられたら、世話ないけどねー」

 恵理が、伸びをしながら言った。今度は彼女の方が、冷めた反応になっている。

「そりゃあまあ、俺達が見ているような夢は、どこにも載ってないだろうけど、何か、ヒントになるような事とか、あるかもしれないし……自分が見ている夢に関する診断としては、フロイトとかになるのかな?」

「駄目だよ、あの人。何でも、性に結び付けちゃうから」

 弟子からもそういう批判をされたという話は聞いていたが、異国の女子高生にまで、『あの人』呼ばわりされた挙げ句に卑下(ひげ)されるとは、当人も浮かばれないだろう。

「俺も、とある女の子に、起きる事全部、何でも俺の性欲に結び付けられて、困ってる」

「その女の子、きっと安久下君に襲われて、ショックから、そうなっちゃったんだろうねー。かわいそうに」

 彼女は軽く握った手を目に当てつつ、わざとらしく絞った声で言い、義人はそれを冷めた目で見ながら、頭の中で反撃を用意した。

「その子自身が、『大人しい人間は、単に自分の中にあるものを見せてないだけで、一皮()けば、大抵はどこか曲がっているか、複雑に入り組んでいるか、何かをこじらせてるものだ』って言ってたから、元からじゃないかなあ」

 義人がそう言うと、彼女は泣き真似(まね)のような手振りをやめて、にらみつけてきた。

「何か最近の安久下君、生意気」

「えっ、何その、いじめっ子みたいな発言」

 体ごと向き直り、詰め寄ってきた彼女に対し、義人は椅子(いす)を引こうとしたが、椅子の足が机のそれに当たり、追い詰められた。

 正面からにらまれると、やはり中々、怖い目付きをしている。

「もっと、『心優しい聖女のような、その女の子の温情のお陰で、かろうじて生存を許された、罪深い強姦未遂の身』って事を、今一度思い出させて、謙虚さを取り戻させないと」

「あでで!」

 詰め寄ってきた彼女に、両頬をつねりながら押し込まれ、義人は悲鳴を上げた。

「お、因幡君みたいな声が出たねー」

 笑顔で満足そうに言うが、攻撃を終わらせる様子はなく、むしろ激しくなっていっている。椅子の後側の足が荷物に引っかかる中、押され続ける事で、前側の足が浮き始めた。

「ちょっ、ちょっ、椅子、浮いてる! こける!」

「図書室なんだから、静かにしよ? 向こうで作業している人達に、聞こえるよ?」

「あ、あの……」

「えっ?」

 聞き慣れない声がすぐ近くでして、義人と恵理は、二人で同時に驚きの声を上げながら、そちらを向いた。

「ちょっ」

 それが、本の貸出手続きに来た女子だという事が分かったのと同時に、恵理が義人の頬から手を離した。しかし、それによって支えを失った義人が、振り子のように戻る勢いで、正面から恵理の胸へと、ぶち当たっていく。

「あだっ」

「うわぁ?」

 そして、義人からの衝撃を受けて飛ばされた恵理が、自分の椅子につまづいて、それを巻き込みながら、後方の床へと倒れ込んでいった。



「いてぇ……」

 夜、義人は自室で、鏡を見ていた。風呂を終えたのに、頬にはまだ赤い跡が残っている。

 転んだ彼女を起こし、声をかけた事を平謝りする女子の貸出手続きを終え、物音を聞いて集まった皆も散開した後、八つ当たりで、思い切り強く、頬をつねられ続けたのである。

 さすがに母にも聞かれたが、『柔道の授業で本気の取っ組み合いをして、抑え込まれる内に付いた』と、嘘をついてごまかした。不可解そうにしてはいたが、今まで、いじめに()ったりした事もないので、それ以上の追及はされずに済んでいる。

 付けていた校章から、女子の学年は一年だと分かったので、自分の組にまで、変なうわさが広がる事はないだろう。作業中に物音を聞いて集まった、他組の図書委員には二年生もいるが、始終は見ておらず、転んだという事しか、分からなかったはずである。

 結局、夢の中では大きな事態になってきたというのに、まともな検討会議はできなかった。骨の天使に打ち落とされた時のように、別に命の危険はないので、ゲーム感覚で(のぞ)めるものではあるが、文字通り、痛い目に遭わないとも限らない。

 もっとも、彼女と再び、じゃれあうようなやり取りができるようになったのは、昨日の午後の事態を考えれば、奇跡的な事でもある。それに関しては、喜ばしく思っていた。

 とりあえず、せめて早めに行けるようにするかと、就寝の支度を始めた。就寝時間は、日に日に早くなっていっている。

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