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観覧車

 何とか、恵理を乗り場まで連れて行き、お金を払ってもらって、観覧車に乗り込む事には成功した。

 ここまで来て、彼女が()ねるように拒絶する事はなかったが、義人はそうなる事を防ぐために、彼女が財布からお金を取り出そうとするまで、固く手を握り続けていた。彼女がそれに対して何を思ったかは定かではないが、あれから、何も言葉を発していない。

 そして乗り込む際も、再び彼女の手をつかみながら、自分から入っていって、中へと引き入れる形を取ったが、そのために向かい側にではなく、隣に座らせてしまっていた。

 それも、すぐに座らせようと、自分が半端(はんぱ)な位置のまま引いたので、体が密着している。スラックスの薄い生地(きじ)越しに、彼女の体温が伝わってきた。

 自分が招いた事だが、そのせいで心中、穏やかでない状態になってしまっている。かといって、今から改めて距離を離すのは、それはそれで別の誤解を与えそうで、はばかられた。もともと、あまり広いゴンドラでもない。

 徐々に高度が上がっていったが、気恥ずかしさもあり、それぞれに窓から景色を見ている状態になっていた。勢いに任せたために、ここで何を話すのか、どうするのか、全く考えていなかったのである。

 乗り場にあった看板によると、一周は十五分だった。それだけの時間を沈黙したまま過ごすのは、かなりの問題だと言わざるを得ない。

 義人が話題を探して眼下の景色を見回していると、自身が紹介した公園が見えてきたが、恵理が怒るきっかけになったそれの話は避けた方がいいだろうと考え直した所で、彼女の方から沈黙が破られた。

「水族館……上から見ると、このくらいの広さなんだね。結構、歩き回った気がするけど」

「えっ? あ、ああ……四階くらい、あったしね」

 義人の方から見える窓は、公園のある山の側で、水族館は、彼女の窓の方だった。ゴンドラは、ほぼ全面がガラスだが、話しかけられるまで、彼女のいる方を向きづらかったのである。

 そのため、義人もそちらに向き直ったが、景色よりも先に彼女の長い後ろ髪が目に入り、さらにそこから、シャンプーのものと思しき匂いを受けて、意識がそちらに向き、景色どころではなくなってしまった。

 これは、まずい。変な気を起こさないように、注意しなければならなかった。元カノの時も、匂いで暴走したような所がある。特にここの所、()まるものを処理できていない。

 こんな事になるのなら、昨日の朝の空いた時間にでも処理すればよかったと、義人は思った。夢の時間以外にも、彼女と一緒にいる時間が増えるのなら、対処を考える必要がありそうである。

「ねえ、変な事、考えてない?」

 いつの間にか振り向いていた彼女にそう聞かれ、義人は内心、ひどくうろたえた。

「えっ、いや……」

「ふふっ、夢の中で見たのと、一緒だね。その、内面を隠しきれてない表情」

 いつもの、からかってくる時に見せる猫の笑みではなく、朗らかな微笑みだった。言い方も、間延びしていない。初めて見たその表情に、義人はどきっとしてしまい、思わず目を()らした。

「でも……さっきは、ありがとう。意外と……こっちでも大胆だったのは、びっくりしたけど……あのままだったらきっと、こうして乗れなかっただろうから」

「……あ、いや……うん。観覧車、好きなの?」

 しおらしくなった彼女が、まるで別人のように感じられたが、それは今の義人にとって、不都合なものだった。義人は平静であるよう心がけ、一呼吸置いた上で、努めて声色も抑えた。

「うん。ここじゃないけど……子供の頃は……って言うのも変か。もっと小さい頃、よくいろいろな所に連れて行ってもらってた事もあって……そういう何らかのレジャー施設に行った時は、必ず最後、観覧車に乗ってたんだ」

 彼女は、伏し目がちに語りだした。床もガラスになっているが、下の景色を見ているわけではないだろう。どこか気恥ずかしそうにしながらも、その時の光景に思いを()せているようだった。

「家族で?」

「……うん」

「そっか。思い出が、詰まってるんだね。朱野さんがそれを大事に思ってるのが、伝わってくるよ」

 義人がそう言うと、彼女ははっとした表情で、顔を上げた。切れ長の目が見開かれ、それによって上に上がった強気な(まゆ)が、前髪に隠れている。それを見た義人は、思わず、どきりとした。

 朝は不安の方が強く、大して意識していなかったが、いざ近くで正対すると、フリル付きの私服を着た彼女は、いつもとは違う、やわらかな雰囲気をまとい、愛らしい魅力を放っている。

「だから、その……さっきは、俺の方こそ、ごめん。朱野さんが、自分が出すとまで言っているのに、俺は……俺の精神的な都合で、あんな態度取って。でも、大事な思い出があるんだろうな、って分かった今、一緒に乗れて……よかったと思ってるよ」

 心臓の鼓動が速くなっているのが分かったが、義人は、時折視線を外すなどの努力も交え、何とかそう言い切った。

 一方、彼女の視線は顔を上げてからずっと、義人の方に固定されている。はっとした表情だったその顔は今、目が(うる)んでいるかのように見えたが、彼女は先ほどと同じような、いつもとは違う笑みを見せた。

「ありがとう。今日また、新しい思い出ができたよ。それが安久下君とでよかったって、私も思ってる」

 彼女はそう言いながら、両手で義人の手を取った。きめ細かな肌のやわらかい感触と、温かな体温を感じる。先ほど手を取った時は、必死さもあって強く意識してなかったそれが、今はゆっくり、まじまじと伝わってきて、義人は心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。

 もはや何を言えばいいのか、分からなくなってきている。彼女が義人の手を取ったまま、笑みを投げかけ続けているのは、気持ちが通じ合っている証左にしか思えなくなった。

 (のど)も胸も、頭までもが熱で満たされ、義人は渇きとともに、耐えがたい衝動を覚えた。

「えっ? あ……」

 義人はそのまま、自由な方の手を回して、恵理を抱き寄せた。彼女のあごが自身の肩に乗るのと同時に、その真隣になった義人の顔は、より近くなった彼女の髪からの心地よい匂いに、包まれていた。

 鼻腔(びこう)をくすぐるその匂いに支配されたかのように、義人は緩んだ彼女の手から、もう片方の手を解放すると、両手でより強く抱きしめた。

 ()せ型である事が、抱いた感触にも表れていたが、火が灯っているかのような、熱いと思えるほどの体温を感じ、それが心にも熱を与えてきている。

「あ、ああ……」

 彼女は(うめ)くように声を漏らすと、わなわなと体を震わせながら、両手を義人の腕に優しく当てた。震えるその手が愛撫(あいぶ)するように走り、それは義人の背中へと伸びていくかに思えた。

「は、離してっ!」

 叫び声とともに、彼女の手は、義人の上腕を強い握力でつかみ、そして反対側の座席の方へと、信じられないほどの力で突き飛ばしていた。

「うおっ」

 義人は体勢を崩し、足をもつれさせながら、座席の背もたれに腰をぶつけて呻き、そのままそこに尻餅(しりもち)をついた。

 大きな音が響き、ゴンドラが揺れる。義人は驚き、席に転んだまま彼女の方を見上げたが、息を荒げ、恐怖の浮き出た表情をした彼女が、そこにいた。

「えっ……あっ……うぅ……」

 義人は痛みと、起きた事そのものに衝撃を受けていたが、怯えの声を漏らした彼女を目の当たりにして、すぐに自身の罪を悟った。

「ご、ごめん! 俺……」

 義人は急いで起き上がりながらそう言ったが、彼女は義人のその動きを見て、恐怖を色濃くしながら、逃げるように体をびくつかせた。

「あ……」

 急激に、胸がしぼんでいくような痛みを覚えた。先ほどまでの、内発する熱によるそれとは違い、何か汚泥(おでい)のようなものが降りかかってくるかのような、冷たく、どす黒い重みに耐えなければならなかった。

 彼女は目を見開いていたが、それも先ほどまでのものとは、全く異なるものである。義人はそんな彼女から、目を離す事ができなかった。罪を受け止めるとか、責任を負うなどといった崇高なものではなく、呪縛(じゅばく)にかかっていた。

 彼女は徐々に呼吸を落ち着けていったが、それはにじみ出ていた恐怖の色を少しずつ薄めつつも、グラデーションのように、悲哀の色へと変わっていった。座席の隅で、悲しげに目を潤ませた彼女の姿が、義人の中で、強引に押し倒した後の元カノのそれと被った。

「俺……」

 同じ過ちを、また繰り返したのか。再犯者。義人は、より強い自責の呪縛を受けて、視線を下へと落とした。避けたわけではない。逃げ場のないゴンドラの中で、自身の罪が反響しているのを、ひしひしと感じていた。

「あ、安久下君……その……」

 彼女に呼びかけられて、義人は再び顔を上げた。彼女は息を整え、もうびくついたりもしなかったが、声は震えていた。

「ごめんなさい、私……」

「えっ? いや、謝るのは、俺の方で……」

「ほ、本当に……私が悪いの。安久下君は、何も……何も悪くない。本当だよ。信じて!」

 彼女が泣きそうな表情で必死にそう言う姿が、義人にとっては、その言葉の意味する所とは逆に、いたたまれないものとして、目に焼き付いていた。

 少なくとも、自分の行動が彼女を今このような状態に追いやっている事だけは、間違いのない事実である。義人はそれを、強く認識していた。

「でも、俺が、君を……」

「違うよ……言葉で上手く、説明できないけど……私が悪いの。だから……忘れて」

 義人は自責を口にする恵理に戸惑(とまど)っていたが、かすれながら言ったその最後の言葉に、より強い衝撃と、より深い罪の意識を覚えた。

 彼女は直前、この観覧車で、義人と『一緒に新しい思い出を作れてよかった』と口にしていた。だから、『忘れて』という言葉は、何よりも義人の心へと突き刺さるものだった。

 謝罪さえ、できない。彼女から自責の言葉を引き出し、より苦しめるだけである。義人は素早くそれを悟ると、呆然(ぼうぜん)として、うつむいた。

 ゴンドラは、いつの間にか下る軌道に入っており、地上が近くなっている事を、床から見える場景が伝えてきた。



 義人は一日の過程を終え、寝間着姿で自室にいたが、帰宅してからの過程は、ほとんど覚えていなかった。

 かろうじて、夕食中に母から、ぼうっとしていて変だと言われた際に、『遊びすぎて、連休のために残していた小遣いを使い果たした』と答えた事は、覚えている。その後に返ってきた反応は、いつもどおり乾いたものだったという記憶があるが、字句は覚えていない。

 夕食に、祖父の姿はなかった。日曜の夜に何の用かは分からないが、今日も帰りが遅いのだという。いつも応答に疲れるから避けている所があるが、今日は特にそのための活力の欠乏が著しかったため、危うく難を逃れた形である。

 放心して、家庭内の日課を忘れたり、失敗したりするという事はなかった。母からの注意や苦言がないという事実は、義人にとって、自身が問題なく行動できている事の証である。

 一応、恵理との間の沙汰に関して、わずかながら光明(こうみょう)があったので、そのお陰なのかもしれない。

 帰りの電車の中で、彼女が、『向こうでまた、いつもどおりに接してくれる?』と聞いてきたのである。義人はそれに対し、飛びつくように了承の(むね)を発していた。

 観覧車を降りてから、その電車に乗り込むまでの途上、ずっと重苦しい雰囲気だったが、その一言に、義人はいくらか救われていた。

 ただ、完治とはいかない。自分の衝動的な行動によって、彼女の思い出を(けが)した事実だけは、どうあっても(ぬぐ)えなかった。

 一応、帰ってから、ずっとパソコンを()けていたが、メールが来る事はなかった。そして今は、それをいじる気も起きず、ベッドで大の字に寝そべっていた。

 改めて時計を見ると、物思いにふけっているだけで、結構な時間が経っている。そもそも何かを考えたいのなら、向こうでもよかった。義人はパソコンの電源を落とし、明日の準備の確認を終えると、すぐに照明を切った。

 布団に入ってからも、津波のように後悔の念が押し寄せ、頭の中であふれかえったが、それ以上に、身も心も疲れ切っていた。

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