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水族館

「あ、このエイ、鼻先が突き出てて、吊り目で狐みたいな顔してるよ。玉藻だね。玉藻エイ」

 入り口からエスカレーターを上がり、トンネル水槽(すいそう)を抜けた所の、大水槽だった。

 恵理は、『前から行きたかった』らしいだけあって、最初からテンションが高く、はしゃいでいた。何かを見るたびに、あれやこれやと指差しながら、義人を引っ張っている。

 義人にしても、十年近く前に見たものを、逐一(ちくいち)よく覚えてはいない上に、建物自体の大幅な改装もあったらしく、右も左もほとんど分からない中、右に左に振り回されていた。

「そこ、目じゃないと思う……上についてる、両側面の小さい丸が目っぽいね」

 近付いてきたエイのそれを指差しながら、義人は言った。あまり動かない魚も多い中、エイの動きは活発なようである。

「あら、ホントだ。じゃあ、何だろう?」

「エラは、そのさらに上の開閉している穴だろうから……何だろうね? ただのくぼみ?」

「んーと、展示説明パネルは……『マダラトビエイ』か……」

 当のエイは、こちらまで泳いで向かってきた後、水槽の壁の前で、宙返りするような格好で腹部を見せながら、奥の方へと戻っていった。

「あー、確かにこれは、玉藻じゃない。顔を全部見ると、不細工だねー」

 体の底面に隠れていた、独特なエイの口と鼻を間近に見た恵理が、失望したように言う。

「エイに失礼では?」

「何か、どことなくオタクっぽい」

「オタクに失礼では?」

「同じオタクとしての、集団的自衛権?」

「俺に失礼では?」

 恵理は、今度は反応を返さず、エイからも目を離した。

「ん? 展示説明見たら、鮫が天敵って書いてあるよ。因幡君、最低だね」

「そこから、説明文も見えるの? 目、いいねー」

 彼女のマイペース振りに、義人は着々と適応しつつあった。

「私の目は、置いておいて……向こうに、小さいとはいえ、明らかに鮫の姿が見えるんだけど」

「うん」

「何で食べられてないの?」

「それを言ったら、小さい魚も皆、食べられてなくない?」

「それもそうかー。あっ、そんな事言ってたら、ちょうど、あっちに鮫についての一問一答が」

 家族連れらしき集団が先へと進んで空いた空間に、アクリルでできたそれが見えた。

 近付いてみると、コミカルなイラストの鮫が、子供の質問に答えるような形式で、書いてある。暗い中、遠い位置からそれを把握(はあく)した辺り、彼女は暗所にも強いようだった。

「何でこの鮫も、関西弁なんだ……」

「きっと、鮫語は関西弁なんだよ……あ、水槽の仲間食べないのかって、書いてあるね……ふむふむ? 飼育員さんから、十分な(えさ)をもらってるから満腹……ああ、餌も、同じ水槽の中にいない種類の魚にしてあるんだねー」

「んで、簡単にもらえるから、無理して元気なやつを追わない……か。確かに、無理にエイを追って抵抗されると、毒の(とげ)があるしね」

「だから、同じ水槽なのかー。鮫とエイ、分類上は同じ仲間とも書いてあるし」

「すっかり、飼い慣らされてるって事か……」

「なるほどねー。あ、見て見て、ちょうど近付いてきた。ハンマーヘッド因幡君」

 恵理が、義人のシャツの(そで)を引っ張りながら、楽しそうに指を差して言う。

「他の誰にも伝わらないネタだ……」

「全容が伝わるようになったら、安久下君の社会的生命が絶たれるからねー」

「俺はもうちょっと生きたいので、やっぱり夢の世界の中だけに留めない?」

「つい、無意識に外に出ちゃう。逆寝言」

「明らかに、故意に出してるねえ……」

 義人はため息をついたが、地方の水族館とはいえ、休日だけあってそこそこ人がおり、がやがやとした中で声量を抑えて話しているので、最初の駅舎ほどの心配はなかった。

「もうちょっと、ここも見たいけど、人も増えてきたし、次に行こうかー」

「そうだね。出口があそこみたいだから、また、ここにも来れそうだし、あれなら、帰りにまた寄ろう」

「うん!」



 大水槽を出て、廊下を進んだ先は、一転して明るく、開けた部屋になっていた。どうやら、ペンギンのコーナーのようである。

「見て見て! このペンギン、身をよじって、犬や猫みたいに、足で顔かいてる!」

 恵理が、一段とはしゃいでいた。切れ長の目は、いつもよりも大きく開かれて、声が高くなっている。確かに、ペンギンは愛らしくて女性が好みそうな生き物だが、恵理がそうだというのは、少し意外に感じられた。

「ヒレか翼か知らんけど、そっちを使わないのか……」

「実質、玉藻だね。玉藻ペンギン」

「君の世界には、因幡と玉藻の二種類しか系統がないの?」

「後は、安久下君がいるよ。生態としては、夢の中に出てくる女の子を主食にしています」

「それを主食にする女の子もいない?」

 お決まりの笑みを見せる彼女に対し、義人は目を細めて言った。

「食べないよ。なぶり、いたぶり、もてあそぶだけだよ」

「もっとひどいねえ……」

「それにしても、すごいねー。地上では、ほとんど動かないくらい大人しいのに、水に入った途端(とたん)、魚雷みたいに高速で泳いでる。あ、見て! 勢い付けて、飛び出てくるよ!」

 恵理が指差したペンギンは、勢いよく滑るように出てくると、体を震わせて水を払い、少し歩いて移動した先で、一気に大人しくなった。

「一転して、動かなくなってる。なんて、オンオフの激しいやつらだ……」

「安久下って生き物も、夜はその場にいる女の子を襲おうとしてくるのに、昼は女子高生に囲まれていても、大人しくしてるようだよ」

「朱野って生き物も、学校だと大人しいのになー」

 義人も恵理に合わせて、わざとらしく言った後、一瞬、じっと顔を見合わせて、その後に二人で笑い合った。

 最初は出費の痛さばかりが頭にあったが、今やすっかり自分が楽しんでいる事に、義人はようやく気付き始めた。



 開館して間もないくらいの時間に入ったが、出口から外に出てみると、すっかり、日が真上になっていた。

「楽しかったねー」

「そうだね。イルカショーも、小規模かと思ったら、意外と豪華だった」

「あれは、子連れの団体がたくさんいてくれて、逆によかったねー。飼育員さんにかけ声頼まれても、私達だけだったら、何か気恥ずかしいし」

「場酔いなんて言葉もあるくらいだし、やっぱり大勢で楽しい雰囲気の場にいると、楽しさが増すなあ」

「だから、来てよかったでしょ? 安久下君ったら、出会い頭にいきなり渋るし、最初はため息ばかりついてたし」

「渋るというか、聞かされていなかったから戸惑(とまど)っただけだし、ため息も、ほとんどは君からの機密漏洩(ろうえい)のせいだったけど?」

「そういうのを、盗っ人猛々(たけだけ)しいって言うんだよ。でも、途中から明らかに、安久下君も夢中になってたでしょ」

「まあね。何だかんだ、二時間以上もいたのか」

 帰りはまた、一時間、電車に揺られる事になる。歩き回っていた事もあり、本当なら、今から昼食を食べたい所だが、帰ってからでも、遅すぎる時間というわけではない。

「そうだねー。お腹()いたし、お昼にしよう」

「えっ」

 義人は、一転して困惑の声を上げた。今度ばかりは、さすがに合わせられない。財布には帰りの電車賃しかない以上、断るしかなかった。

「あー大丈夫、安心して。入場券高いって言ってたし、(ふところ)具合は察してるよ。あっちの道向かいにあるファミレスなら、いくらでも食べていいから」

「えっ、いや、おごられるのも、ちょっと……」

 今ではからかいネタとして笑い話のようになり、義人自身も開き直ったとはいえ、これ以上、彼女に負い目を感じるような事態は避けたかった。対等になりつつあった関係が、退行してしまうような気がする。

「まあ、そう言うと思った。安久下君、変な所で義理堅そうだからねー」

 彼女は言いながら、かばんの中を探り、横開きの封筒(ふうとう)を取り出した。表に、彼女が指差したレストランのマークと、親会社らしい社名が書かれている。

「じゃじゃーん、優待券」

「ん? ああ、なるほど。株主優待か」

 会社は違うが、安久下家でも時折使う事があったので、義人も存在は知っていた。父と母が、次はあれを買おう、いや、これは駄目だとか、話している時もある。

「これ、多すぎて余るんだよねー。だから、遠慮しないで欲しいな。何せ、三万円分くらいあるから。期限近いし、もったいないんだ」

「まあ、そういう事なら……って、ちょっと待って。それ、今年の三月が期限になってない?」

 恵理が封筒から取り出し、正面を見せてくる形で持っていた優待券の表紙を見て、義人は言った。

「あ、本当だ。期限近いどころか、切れてる」

 ひっくり返して見ながら、何気ない事のように、軽い調子で彼女が言う。絶句する中、漫画のように風が吹いてきたが、暖かい春の風だった。

「……帰ろうか」

「もう。すぐ、そういう事言う。全部持ってきてるから、大丈夫だよ……ほら、あった、あった。今度はちゃんと、来年の三月までのだよ」

 彼女は、再びかばんを探り、また同じような横開きの封筒を開けて、中の券を見せてきた。確かに、今度は来年の年数になっている。

「全部?」

「えっ? ああ、お父さんから、もらって。友達と出かけるから、って言ったら、どばっと。まあ、安久下君なら、五万円分くらい、食べるかもしれないし」

「ファミレスで五万円分は、育ち盛りの体でも無理です」

「まあとにかく、それでも三万円分はあるから、好きに食べてよねー。あ、ちょうどそこの信号、変わったよ。行こう!」

 恵理が、義人の手を引き、小走りで引っ張りながら言った。

 『彼女と直接触れ合ったのは、現実の方では初めての事だな』と、義人は、足をもつれさせそうになりながら思った。



「結局、二千円も食べてないじゃん」

 レストランを出てすぐに、恵理が不満そうに言ってきたが、義人は重りを入れられたかのような、ずっしりとした満腹感を引きずっていた。

「もっと食べろって言うから、腹八分目の所に、サイドメニューとデザートまで加えたんだけど?」

「男の子なら、もっと食べないと駄目だよ。そんなだと、女の子にも投げ飛ばされるよ」

「それに関しては、もう手遅れです。そもそも、千円くらいで一食分食べられるのが、ファミレスの売りなのでは?」

「うーん。市内にも、この系列の店あるけど、そこで安久下君の餌付けしてたら、同級生と会いそうだから、こういう時に一気に使いたいんだけど」

「何で、餌付けする必要があるんだ……」

 義人は腹に手を当てつつ、ため息をついて言った。

「そりゃ、鬼退治には、きびだんご上げないと……骨退治か」

「俺に、あれを退治しろと」

「今日の餌付けがきびだんごみたいなものだから、きっと強くなったし、勝てるよ」

「どんな理屈だ……」

「超ヒモ理論?」

「それ、名前しか知らないけど、絶対違うと思う」

「うん。私も名前しか知らない」

 彼女は猫の笑みでそう言い、義人はまた、ため息をついた。

「とりあえず、帰りの電車の中で、今夜の作戦会議という事でいいですか?」

「それはいいんだけど、最後にあれ、乗ろう」

 彼女が指差したのは、水族館に並ぶように造られた、大きな観覧車だった。

「……さっき察されたみたいだから、ぶっちゃけると、俺の財布はもう、あれにも耐えられないと思う」

 観覧車を見上げながら、どこか悟ったかのような気分で、義人は言った。

「私が乗りたくて言ってるんだから、私が出すよ。今日の予定出費として、五千円って金額言ったのも、私だし。ええと……大人一人、五百円か」

 彼女が、道向かいから目を凝らして言う。義人もそれほど視力は悪くなかったが、はっきりとは見えなかった。やはり、彼女はかなり視力がいいようである。

 しかし、有り余っていた優待券とはいえ、食事も世話になった後で、これ以上、現金を使うような事にまで、借りを作りたくはなかった。

「んー、でもなあ……あ、そうだ、そうだ。この辺り、小学生の頃、親に連れてこられた事あって……ええと……ほら、あそこ! あの山が公園になってて、頂上から街を一望できるんだ。あの観覧車よりは低いけど、あれ……」

「観覧車がいいの!」

 義人は公園の方を見遣りながら話していたが、彼女が急に剣幕を見せた事で、驚いて振り向いた。つい先ほどまであった笑顔が、すっかり消え失せている。

 そしてそれが、はっとしたものに変わったのも、義人と目を合わせて、すぐの事だった。

「あ、その……ごめん。急に、大きな声出したりして……高校生にもなって、か、観覧車って、幼稚(ようち)だよね。男の子は……特に、そういうの」

 視線を下に()らし、さらに横へと揺れ動かしながら、彼女が言う。いつもの歯切れのよさと余裕が失われた(さま)に、義人はいたたまれなくなった。

「あ、いや……そんなつもりじゃ……その、何というか、俺の……男の、つまらないプライドみたいなので……あっ、か、観覧車に対するプライドじゃなくて、お……おごりに対する、ね」

「……ごめんなさい。私……今日、わがままだったよね……」

 彼女はすっかりうつむいたまま、暗い表情を見せている。一段階、程度の上がった謝罪の言葉を重ねられて、義人の方も、臓腑(ぞうふ)をえぐられたような気分だった。

 こういう時に、どういう声をかけたらいいのか、まるで分からなかった。恋愛経験があると言っても、ごく短く、人目を忍んだもので、最後には台無しにしてしまったという、(つたな)いものしかない。

 沈黙が、苦しかった。かといって、取り(つくろ)うような言葉では駄目だろうという事だけは、分かっていた。だから、安易に彼女の自省を否定する言葉を発してはいない。

 今、そうではない、何らかの言葉が必要だった。それと、勇気。義人は、かける言葉を決め、(しか)る後に、覚悟を決めた。

「あの……さ、ええと、その、恥ずかしいんだけど、お金……貸してくれないかな?」

「えっ?」

 彼女が、顔を上げた。それは改善だったが、義人は改めて目を合わせた事で、余計に照れ臭さを覚えていた。

「五百円、貸してよ。来月、返すから」

「あ……」

 彼女は、きょとんとした様子だったが、やがて視線を横にずらして、少し考えるような表情になった。どういう意図か、理解したのだろう。

 ともすれば、否定的な言葉が出てきそうな風にも見える。義人は彼女の背後に、活路を見出した。

「あ、ほら、信号変わったよ! 行こう!」

「えっ、あっ」

 義人は信号を指差した後、追い抜きざまに彼女の手を握り、つまずかせないよう注意しながら、引っ張った。

 何がこの場での最適な言動なのかは、分からない。結局、向こうで気まずい雰囲気になるかもしれない。ただ、このまま全て中止にして直帰するのは、最悪だと思える。

 だから、勢いに任せる事にした。

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