夢中
ここは、どこだ。
そう思って辺りを見回すと、見覚えのある校舎が目に入った。平山高校。義人が今通っている、地域で一番の進学校だった。
公立であり、敷地の間を狭い公道が通っていて、日中の授業中も、市民が犬の散歩に通ったりする。
もっとも、さすがに車は通れない。門の代わりに、車止めの石柱が並んでいて、教職員の車の出入りは、別方向にある正門から行われている。
どうやら今自分がいるのは、その公道の、石柱の傍のようだった。しかし、他の通行者が全く見当たらない。
市民どころか、校舎の方に生徒の姿も見えない。外は明るいのに、どこか不自然だった。
「ああ、そうか」
これは、いつもの明晰夢だ。確かに、寝床に入ったという記憶がある。義人はすぐにそう思い直し、晴れ晴れとした気分になった。
義人は、数学以外に取り立てて苦手なものはない代わりに、歴史系科目以外に取り立てて得意なものもなかったが、夢を見た際に、早い段階でそれを自覚して、自在に動き回る事のできる明晰夢に仕立てるのが、特技だった。
明晰夢について調べてみると、やり方などが書いてあるが、義人はそうした特殊な努力を、特に行った事はない。部活もやっていない義人の、人には言えない、隠れた才能だった。
人に言えないのは、おおよそ、ろくな事をしないからである。精通を迎えてからというもの、基本的に夢の中で女性が現れたら、押し倒すという事しかしていない。いくら男子の輪の猥談の場でも、そんな事を自信満々に誇って、話の種にするわけにはいかない。
一年前に性体験をして以降、夢の中でも、性感はすこぶるよかった。今でも、その時の快楽の記憶に基づいて、それが脳内で再生されているに違いない。
相手は元カノで、半ば強引に迫っての事であり、上に『元』が付いてしまったのも、それが原因で破局してしまったためである。
その時の情事の夢そのものを見る事もあった。苦い記憶でもあるが、自分の頭の中で起きている事にすぎないので、その場合も遠慮はしない。
明晰夢は小学生の頃から見ていたが、その頃は空を飛んだりするだけで、無邪気なものだった。
穢れを知らなかった頃への感傷でもないが、校舎へ向かうにあたって、ひさびさに、空を飛ぼうとしてみた。
ふわりと体が浮き、滑空するような形で、飛んでいく。すぐに、校舎の正面玄関に着いた。
義人はそこに至って、自分が学生服を着ている事に気が付いた。それに今日の夢は、妙に繊細に映っている気がする。
いつもなら、場景がもう少しぼんやりとしているし、自分の服装を気にして、見回す事もなかった。かなり、現実感がある。
しかし、外は明るく、それでいて、他に誰の姿もない。そして今、空まで飛んだわけで、夢には違いないだろう。
つまり、遠慮はいらない。今は誰も見当たらないが、校舎の中を探してみよう。そう考え、狩りをするような気分で、中へと入っていく。玄関は、いつもそうであるように、開きっぱなしだった。
夢の中なら靴のままでもいいという気はするが、何となく、自分の下足箱を開けて、上履きに履き替えた。平山高校の場合、スリッパである。
間取りは、完全に現実の平山高校と同じようだった。母校が夢の中に出てきたのは、初めての事である。地域で一番の進学校と言っても、しょせんは田舎のそれなので、あまり愛校心はない。
まだ二年になってから一ヶ月も経ってないが、それでも癖付いたのか、気付いたら、無意識の内に階段を上がってしまっていた。
とりあえず、そのまま二年の教室を順々に見ていったものの、誰も中にいない。教室は理数科の七組で最後で、義人は他の六つと同様に人影のないその教室に入ると、失望のため息を漏らしながら、窓際の机に腰かけ、白々しいほどに鮮明な、外の景色を見た。
いつもなら、女性を探そうとすると、急に目の前に現れるように、出てきたものだったが、今回の夢は、少し様子が違うようである。
やはり、妙に現実感が強い。少し空を飛んだのを除けば、現実と言われてもおかしくないくらいの、臨場感があった。だからか、魔法のように獲物が出てきたりもしていない。
このまま、一年や三年の教室を見にいっても、同じかもしれない。そう思いながら窓を見た時、渡り廊下を経た向こう側の校舎に、人影が見えた。長い髪。女子だ。義人は、立ち上がって窓に張り付いた。
女子のいる部屋には、本棚が見える。やはり、現実と同じ間取り。間違いなく、図書室だった。
向こう側の校舎は、一階が事務室や職員室、校長室などで、図書室はここと同じ、二階である。
すぐに、教室を出た。一度認識したなら、目を離しても消えるという事はないだろう。
ほとんど飛び越えるようにして渡り廊下をすぎ、図書室の入り口に来ると、扉は開いたままの状態だった。かかとを浮かせ気味にした忍び足で、ゆっくりと近付いていく。
これまた都合のいい事に、女子は入口の方向に対して、背を向けている。義人は一列手前側の本棚から、屈んで身を隠しつつ、棚の隙間を通して、相手を見た。
「おかしい……これもだ。全部、知ってるものしかない」
まさか。後ろ姿をまじまじと見て、そう思っている内に、彼女は声を発した。
そして正面の棚に本を戻した後、横を向いて移動しながら、その先で新たな本を取り出し、棚の方には向き直らずに、それを開いた。
「ん……これは?」
彼女はまたつぶやきながら、新しく取り出した本を驚いた様子で凝視していたが、義人は彼女の顔を凝視して、驚いていた。
この声、そして横顔。間違いない。二年になってから同じ組になった、朱野恵理だ。
組の中では、目が大きくぱっちりしていて、言動も活発という典型的な美人が四人くらいいるので、それに埋もれてか、二重だが切れ長の目で、性格が大人しく、どこか地味な彼女は目立たない。
しかし、顔立ちそのものは整っており、特に義人は、ある時、彼女の横顔が視界に入った際、小さくて鼻翼が広がっていない、形のよい鼻に惹かれていた。横顔をよく覚えていたのは、その時の印象のためだろう。
ただし、胸はほとんどない。横を向いた今、制服の膨らみがほとんどないのが、見て取れる。全体的に痩せ型なのか、尻も小さい。背も女子にしてはあるので、あまり女性的な体つきではなかった。
横顔を目にして以降、教室で目に入った時に、ちらちらと見遣る事があった。その時に覚えた体型が、忠実に再現されているのだろう。
何もそんな所まで、現実にしっかり似せなくても、とは思う。しょせんは自分の脳内で起きている事なので、もっと融通を利かせてくれてもいいという気はする。
とはいえ、整った顔立ちがはっきりそのままなのは、ありがたかった。それに今日の夢は、やけに鮮明である。
長めの直毛の髪も、くしでといたかのように、整っていた。進学校なので、髪を染めている生徒は、男女ともいない。彼女も、艶のある黒髪が、とてもよかった。
こうしてまじまじと遠慮なく見てみると、彼女は地味と言うより、正確には、近寄りがたいと言うべきなのかもしれない。
目付きの鋭さも、眉が強気に見える形状である事も相まって、正対していたなら、思わず逸らしてしまいそうだった。真剣に本を読んでいる今の姿も、表情だけを切り取ったら、にらみつけて見下しているように、見えなくもない。
女子内で会話をしていたりはするが、あまり表情を変えた所は見た事がなく、何を考えているのか、分からないような所がある。どこか、人形のような印象だった。
だからか、男子内の猥談の中でも、彼女の名が出てきた事はない。浮いた話も、ないという事だろう。
そういう話をして盛り上がっている時に、あまり普段、話題にならないような人間を挙げると、急に場が冷めたり、あるいは『お前、好きなのか?』と囃されたりするので、皆、避けているのかもしれない。
「何でだろう。急に、知らない内容の本が?」
本をめくっていた、彼女が言う。先ほどもそうだったが、夢の中の人物が独り言をつぶやいているのは、非常に珍しかった。
そもそも、思い通りにできる明晰夢に限っては、出てくる女性は、元カノとの光景の再現以外では、誰でもない、そこそこの器量の女性ばかりで、こうして今の高校の関係者が出てきたのも、初めての事である。
だから義人は、ここに来て彼女を目の当たりにして、驚いたのだった。長い髪は、女子にしてもそう多いものではないが、こうして近付くまでは、またいつもどおり、誰というわけでもない、非実在の女性だろうと思っていたのである。
まあ、あまり気にしなくてもいいだろう。どの道、やる事は、一つしかない。義人はそう思いながら、静かに方向転換した。
いつもの事。それによって、朝起きてから下着を履き替える必要が生じる事も多いが、それで済むなら、安いものである。
義人は低い姿勢のまま、ゆっくりと音を立てずに棚の端へと移動し、彼女がまだ本に目を落としているのを確認すると、素早く棚の影から出て、突進した。
決して声を出したりはしなかったが、棚の影から出てきた義人に対して、彼女の反応は、存外に速かった。
持っていた本を素早く閉じて右手で持ち直すと、手首のスナップを利かせる形で、素早く投げ放ってきたのである。
「いてっ」
肩で振りかぶるほどの猶予がないから手首だけで投げたのだろうが、顔に直撃して、十分に痛かった。
怯みながらも、義人は突進を続けていたが、視界が戻らない内に腕をつかまれ、そして次の瞬間、足が床から離れ、体が回転していた。
「うおっ?」
何が起きたのか分かったのは、地面に叩き付けられて、背中全体への衝撃と、接地点になったかかとと尻に、取り分け強い痛みを覚えてからの事だった。
「ふうん。体育の授業で習った柔道も、無駄ではなかったか」
背負投を決めた彼女が、また独り言のように言う。
さっきの顔にぶつけられた本の痛みと言い、妙に生々しい。明晰夢の中で痛みを覚えたのも、これほど抵抗されて意のままにならなかったのも、初めての事だった。
義人の腕をつかんだまま、彼女は強気な眉と切れ長の目で、軽蔑するように義人を見下ろしている。
なぜなのか。呆然と、彼女の顔を見返しながら、義人はそう考えていたが、やがて、それほどの間を置かずに、意識が遠のいていった。