幼子橋 [闇 橋 最後の子ども時代 「大衆小説」]
星だけが瞬く、寒い寒い新月の夜。小さな川のほとりに二つの影が見えた。
「博士、ここから何が見えるんですか?」
一つの影がもう一つに向けて問いかける。 その声は寒さで震え、羽織っていたジャンバーを強く抱き直す。 博士と呼ばれたもう一つの影が、その肩を自らの身に寄せた。
「それがな少年、この小川には新月の夜にだけ橋がかかるらしい。興味深いだろう?」
博士はそう言ったが、目前に橋と呼べるものはなく、上流、下流にもそれらしきものは見えなかった。澄んだ水は星空の明かりを反射させ、静かな流れを作りだしている。
「……何もないですよ。ただの噂じゃないんですか?」
「まぁそう急ぐな。橋が見られるのは夜が深くなってから。もう少し待とうじゃないか」
博士が携帯を取り出し、時間を確認する。あと5分で日付が変わるといった所だった。
「それにしても、よく親御さんはこの時間の外出を許してくれたものだな?中々厳しい方だと思っていたが」
博士の問いに、少年は頬を掻き、答えた。
「俺、もうすぐ都会の高校に進学するんですよ。片付けとか忙しくなるんで、手伝いにも行けなくなると思います。だから、無理言いました」
少年はそう言いながら、携帯の光で照らされていた博士の顔を盗み見る。しかし、その瞳に変化は無かった。
「そうか、これが最後になるのか……それならせめて良い思い出になるよう、橋が架かることを願おうじゃないか」
「……そうですね」
素っ気無い会話は終わり、二人は川に目を移す。と同時に、少年が一つ声を上げた。
「あ」
彼の目に映ったのは、一つの橋。月を吸い込んだかのような光を放つそれは、向こう岸ではない、どこかへと伸びていた。
「ん?どうした少年。橋が見えたか?」
「博士には見えていないんですか?あんなに光っているのに」
少年の言葉を聞き、博士は顎を摩った。
「ふむ、私には見えないな。大人には見えない橋、とでも言えばいいのか。興味深いなぁ……私も見てみたかったが、残念だ」
口ではそう言っていたが、博士の表情は実に満足そうな笑顔だった。少年はその顔を見上げ、首を傾げた。
「全然残念そうじゃないですけど」
「残念なのは本心だが、君には見えたんだろう?だったら噂は本当だし、君の思い出も出来たわけだ。それに、大人に見えないという仮説の証明が次の研究題材にもなる。二人とも喜ばしいこと尽くしじゃないか」
博士が少年に向けた笑みは、これ以上無いほど明るく、屈託のないものだった。年端もいかない少女のようなそれは、橋以上に少年の目に美しく映った。不意に、博士が少年の髪をくしゃりと撫でた。
「君はこれからどんどん大人になっていく。嫌な事、つらい事もあるだろう。もし君が全てを投げ出したくなったなら、この橋を思い出せ。もし忘れてしまったら、何度でも戻ってくるといい。例え橋が見えなくなっていてもいい。私が思い出の印を作っておいてやるから。君の光が闇に沈まぬように。どうか君が、その純粋な、少年の心を忘れぬように」
頭に乗せられていた手が、そのままゆっくりと背中へと移る。博士は少年をきつく抱き寄せ、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。川の流れすら聞こえなくなった沈黙の中。少年は、腕の中で静かに涙を流した。
二人が川原を離れ、少年の家がある路地まで歩く間に、言葉は無かった。夜更けが震えるような寒さを運んだからかもしれない。静かな、しかし安堵する沈黙をどちらも破りたくなかったのかもしれない。全身が冷え込んだ二人の間、繋がれた手だけが暖かさを保っていた。
家の前に着く。着いてしまった、と少年は心の中で落胆する。温もりを離さなければならない。その時が来てしまった、と。
「さぁ少年、これでお別れだな。もし戻ってきたら、私のところにも顔を出してくれ」
温もりが離れ、汗ばんだ手が風に晒され急速に冷えていく。心の中にも寒風が吹いたような気がして、少年は無意識の内に、博士の袖を掴んでいた。
「俺、また戻ってきます。博士のとこにも顔出します。だから、俺のことも忘れないでください」
博士は一瞬目を丸くし、ゆっくりと細める。そして、もう一度少年の頭に手を乗せた。
「こんな優秀な助手、忘れるわけがない」
「それなら俺が大人になったら、研究所で雇ってくれますか?」
「しっかり学業を積んできたら、考えておいてやろう。ほら行った行った」
冗談交じりの会話が夜の闇に吸い込まれ、路地を去る足音と、ゆっくりと開いた玄関が軋む音だけが響いた。
それから数年後。星も見えない、淀んだ新月の夜。一つの影が、小さな川のほとりに立っていた。携帯を取り出し、時間を確認する。かつて橋を見たあの時と同じ、日付が変わる5分前。川のせせらぎしか聞こえないその場所に、一つの石杭が打ち込まれていた。
【幼子橋】
影は雑に書かれたその杭の傍に腰を下ろし、タバコを咥え火を着けた。
「タバコとは、また不良になったもんだな少年」
小石を踏む音と一緒に、影の後ろから声がした。少年と呼ばれた男は、肩で笑いながら言葉を返した。
「……社会にもまれてきたんですから、少しくらい許してくださいよ博士」
「それもそうだな、今日のところは大目に見よう。それでどうだ、橋は見えたか?」
男の傍に白衣を着た女が腰を下ろす。数年の月日は確かに老いを進め、しかしその瞳に宿る探究心を鎮めることは出来ていないようだった。男はタバコを吹かせ、首を横に振った。
「てんでダメです。やはり大人には見えないんですかね」
「そうだなぁ。君が少年の心を忘れていないなら、肉体的なものなんだろうな」
女が顎を摩りながら答えた。男は煙を空に燻らせ、彼女の方に視線を移した。
「勿論、覚えてますよ。俺を助手にしてくれるって話も忘れていません」
「本気だったのか?」
「当然です。冗談だったんですか?」
いや、と女が答え、二人は声を殺して笑い合った。
「そうだな、それじゃ雇おう。君はこれから研究所に住み込み、死ぬまで私の研究に付き合ってもらうが、構わないか?」
「構いませんよ、望むところです。それで、その研究に関して、提案があるんですが」
とある町の小さな川に、新月の夜だけ架かる橋があった。
その川から少し離れたところに、その迷信を信じた者達の研究所があった。
そこには二人の研究者と、後に彼らの研究を継ぐ娘が住んでいたという。