絶望楽園タソガレ島~裕のクセ~(2)
僕は空を見上げた。記憶にある青い美しい空の面影すらない、赤黒い空。いや、これを空と呼んでもいいんだろうか。眼下に広がるのはタールが溜まったような泥の沼。辺りにはまるで酸で半分溶かされたようなどろどろの実が生る樹が立ち並び、遠くでは誰とも知らぬ悲鳴が聞こえる。
僕はどうしてここにいるんだろう。そんなことわかりきっている。それは僕が都市伝説だからだ。都市伝説はここで生まれる。そして、外界の人が忘れるまで消えることはない。この島で、その日が来るのを待つしかない。確かな答えはあるけれど、僕が欲しかったのは、そんな答えなんかじゃなかった。この世界での存在意義が欲しかった。
僕はなんのためにここにいる? くだらない都市伝説に従って、人を連れていくためか? そんなこと信じたくない。でも、何を信じたらいいのかも分からない。気がついたら僕はここにいた。誰かに望まれて生まれてきたわけでもなく、誰かに必要とされているわけでもない。ただ、ここにいる。いつからここにいるのか、正直分からない。だって、気がついたら僕はここで、この島の最低限のことを知っていたのだから。誰かに教えてもらったわけでもない。恐らく、都市伝説が生れた時が、僕がこの世界で気がついた時だったんだろう。そうだ。僕は今、生まれたんだ。
この島で生きていくのに、大した苦労はなかった。お腹が空いてどうにもならない時は、どろどろの実を食べれば飢えは凌げる。でも、正直食感はお世辞にもいいとは言えなかった。それなら、僕が入院していた病院での食事の方が何倍も美味しかったし、楽しみだった。味にも種類があったし、食感にもこだわっていた。
ここの食べ物とくれば、おかゆのような実があるだけ。食べても特に味がなく、ただ空腹を満たすためだけにやむを得ず口にしているようなものだった。この島の気候は安定していて、寒くもなければ暑くもないために、寝床を探さなくても地面に横たわるだけで良かった。風邪を引くこともなく、凶暴な生き物に襲われる心配もない。入院生活とはまるで違っていた。
毎日暖かくてふわふわな布団があって、看護師さんが僕に話しかけてくれる。今日はいい天気ですねとか、今日は病院でイベントがあるんですとか、大したことでなくてもそれだけで楽しかった。きっと、誰かと話しているのが好きだったんだろう。
でも、分かってる。その記憶は人々が勝手に考えた僕の設定でしかないのだ。僕が本当に経験したことじゃない。別にそれが寂しいとか、僕は感じなかった。ここで生きていくことにも、疑問はなかったし、空が赤黒いのも、別に不満はなかった。欲を出せば、青い空が時々あってもいいのにな、ぐらいのものだった。サトラゲが食事のために人間を連れていく姿も何度も見たけど、だからなんだと言った気持ちだ。だって僕も食べないといけないし、食べないとお腹が空くし、気になることはなかった。
僕の1日は、本当にゆったりとしている。火山が噴火して、火の玉が朝を知らせると、僕は起きて実を口にする。お腹が空いていなければ食べない。そのまま僕は島を歩く。何をするでもない、ただの暇潰しだ。そこで、島に来た人達と会えば、彼らの頭の上を見る。そこには数字があって、365になったら、その人はサトラゲに食べられるのだ。だから、数字を見れば、この人があと何日生きられるかがわかった。それを見たところで、別になにも感じない。あぁ、この人今日が最後なんだ。それだけ。
そんなある日、僕は島を散歩する直前に、サトラゲに連れていかれる人間を見つけた。興味が湧いたとか、そんなことではない。ただ暇だったからついていっただけ。
樹の陰からそっと観察していた僕は、次の瞬間人間がサトラゲの鱗によってバラバラに解体されるのを見た。悲鳴があがり、手足が体を離れて地面に落ち、音をたてて、血液が大量に地面落ち、血溜りを作っていく。
それはその時の僕にとって、正直目が覚めた瞬間でもあった。口に運ばれていく体のパーツ。骨が噛み砕かれる音。血の臭い。全てが僕の五感に働きかけて、こんなに恐ろしい場所だったということを初めて知った。なんだ、あれは。急に胃からこみあげて、たまらず吐いた。体を生きながらにしてバラバラにされて、そのまま食べられる。こんなに酷いことはあるだろうか。頭ではわかっていたはずだったのに、直接見ることでこれほど衝撃を受けるとは思ってもみなかった。
あまりに生々しい食事の現場と血の臭気に、僕はまた吐いた。食べられる側がどれだけの苦痛を強いられるのか、考えるだけでも気が滅入りそうだ。助けなくては。僕はどこかで使命感のようなものを感じた。こんなことが行われる島に、僕はいる。それに気がついているのも僕。僕が皆を助けなければ。助けなければ、皆死んでしまう。そうか、それが、僕がここにいる存在意義だったのか。そう思うと、なんだか僕はふらふらしていた自分自身に芯が通ったような感覚がした。そうして僕の戦いが始まったのだった。
火の玉が上がった。僕はそれを見るなり辺りに人がいないか探し始めた。皆を助けるのだ。この島から、皆の命を救うのだ。辺りはいつもと変わらぬ赤黒い空と、溶けかかったような実が生る樹が立ち並び、足元はぬかるんだ泥ばかり。それでも、僕は誰かを助けたい。都市伝説でしかなかった僕が人を救ったら、それだけで僕は誰かの記憶に残る。それだけで僕がここにいる意味ができる。
まるで未来が急に輝きだしたようで、僕ははやる気持ちを抑えながら人を探す。辺りを見回していると、1人の男を発見した。
丁度朝食を摂っていて、地面に腰をおろし、例の実を美味しそうに食べていた。頭の上には305の数字。大丈夫。まだ助かる。
「あの、信じられないかもしれませんが、ここは危険な場所です。今すぐ逃げてください」
そう言うと、男は呆気に取られたような顔をして、それから大声で笑い出した。
「ここが危険な場所? 周りを見てごらんよ。欲しいものは何でも、揃ってる。何をしようと、誰かに文句を言われることもないし、好きなものを好きなだけ食べることもできる。こんなにいい場所が他にあるものか。君はここに来てすぐだから混乱してるんだよ」
と、全く僕の話に取り合ってくれなかった。それでも、僕はまたあんな風に誰かが食べられるのは嫌で、僕はまるで真剣に捉えようとしない男に言った。
「ここにいちゃダメです。聞いてください。あなたは元の世界に戻らないとダメなんです。ここは本当に危険な場所です」
「大丈夫。ここは安全で素晴らしいところだよ。君もここに来たなら堪能すべきだよ」
「あなたは誤解してるんだ。こんな、都合が良すぎる場所なんてないんです。あなたがいた世界に戻るべきです。ここでは、1年しか生きられない。それ以上いたら、サトラゲに食べられてしまうんです」
男が僕の話を聞いている。今説得しなければ。
「ここは、都市伝説が生まれる場所でもあり、サトラゲの餌場なんです。聞いたことがあるはずです。惑わして人を食べる怪物の話を。そのサトラゲの住み処がここなんです」
それを聞いて、男の顔が曇った。
「じゃあ、君の話が本当だとして、どうして君は助かってるんだい? それに、どうして、俺にそんなこと教えてくれるんだい? 」
そう言われて、僕は言葉に詰まった。確かに、僕がこの男の立場なら、確実に、怪しむだろう。見ず知らずの人間に親切にこの島の裏情報を教えるのだから。こうなったら、僕の正体を知ってもらって、説得するしか……。
「実は、僕は……」
「都市伝説、とでも言うつもりかい?」
先手を打たれて僕は声が出なかった。
「くだらない。そんな嘘が通じるわけないだろ。ほら、子供の遊びはそこまでだ。向こうに行ってくれ」
手で僕を払うようにする男に、僕は食らいついた。ここで引き下がったら、この人は死んでしまう。何がなんでもここから出てもらうんだ。そう僕は決めたんだ。
「これは嘘なんかじゃないんです。本当なんです。信じてください。今すぐここから逃げてください。まだ間に合います。お願いです」
「だから、本当に迷惑なんだって」
「あなたはまだ時間が、あるんです。とにかく今はここから――」
「あのな、いい加減にしろよ。俺はここから出る気はない!」
ついに男が険しい顔で怒りだした。
「でも、これも全部あなたのためなんです。あなたが死なないために必要なことなんです。このままここにいたら、あなたはサトラゲに食べられて死ぬことになります。体をバラバラにされて、食べられてしまうんです。だから、今すぐここから――」
次の瞬間、僕が受けたものは、理解と感謝の言葉ではなく、頬への拳だった。受けたことがない衝撃と痛みに、体は強張り、地面に倒れた。頬に泥がついて、頭がふらふらとした。何が起きたのか理解できたのは、地面に倒れこんだ自分の状況がわかってからだった。