第七話 異変は想定以上を語らない
若しかしたらその日、今掛時男との待ち合わせの場に、椎名美々は現れなかったのかもしれない。
今掛が擦れ違った俺達に思わず問い掛ける程、焦りを見せていたのは。渦巻く疑惑の中、続け様に世界は紅く染まり、突如として警報が鳴り響いた。
天井を仰ぎ見たのは、俺達だけではなかった。俺は咄嗟に、ブレスレットと手紙をハンカチに包んでポケットに詰めた。
背中の自動扉が開く。武装した冒険者達の為に、俺達は道を開けた。
「またか…………!!」
今掛が舌打ちをして、大通りに向かって走った。今度こそ、被害を出さずにジャイアント・ラットの襲撃を止めるつもりなのか。大通りの向こう側に見える円柱状の建物……地上へと続く通路。そこへ向かって走っているように見えた。
武装した人間は今度こそ被害を食い止めるべく、大通りを走って行く。やがて円柱状の建物から、小さな点が現れた。恐るべきスピードで、コア・カンパニーの方角へと向かっている。
ジャイアント・ラットだ。
リズがしゃくり上げるような声を漏らした。城ヶ崎は自分が戦えない事に苛々しているようで、仏頂面のままで遠方の戦いを見ていた。
「どうするよ、恭一」
若しもジャイアント・ラットが、また恐るべき物量で迫っているのだとすれば。
「今掛を追い掛けよう。……地下栽培所には隠れられない。戦える人間の後ろが一番安全だ」
それだけを話し、俺達は大通りを真っ直ぐに走り出した。
ジャイアント・ラットの群れは、丁度コア・カンパニーと円柱状の建物を結ぶ、大通りの中央辺りで戦闘員と鉢合わせていた。コア・カンパニー側には人間、円柱状の建物側にはラットの群れ。突進攻撃を繰り返す単純なクリーチャーと、戦闘員が戦っている。
数が多い。やはり、今回も警備員は突破されたのか。内側の人間が噛んでいる事は確かだが、こうも安易に破られるものなのだろうか。
僅かな疑問は頭の中を駆け巡り、俺に居心地の悪さを感じさせた。……どうにも何かがおかしいようで、しかしその『何か』が特定出来ない。
気持ちが悪い。
「戦えない者は、『コア・カンパニー』へ!! ここは我々が引き受ける!!」
武装した中年男が、戦う事が出来ない人間に指示を出している。俺達は戦線の少し後ろで立ち止まった。そうして間近で見ることで、違った情報も入って来る。
どうやら、既に戦闘は終わりへと近付いているようだ。数が多いとは言っても、流石に二度目は通用しない。戦闘可能な冒険者達は積極的に戦線へと立ち、ジャイアント・ラットに攻撃を浴びせていた。
円柱状の建物から連続して現れていたラットが、唐突に途切れる。……シェルターの出入口側も対処された、という事だろうか。
二度は無い。その決意を誰もが持っていたのか、冒険者達は僅かに余裕を浮かべ、的確にジャイアント・ラットを倒していた。やられたジャイアント・ラットは弾けるように光を放ち、その場から消える。代わりに其処に残ったのは、牙のような物質だった。
「鼠が消えてく……」
城ヶ崎が呆然と、呟いた。地下栽培所の時は燃え尽きていたので、分からなかったが。牙は落ちていたのだろうか。
「新型寄生虫の影響を受けて進化したクリーチャーは、消滅する時に跡形も無くそこから消えて、別の物体に変形するんだ。……これも、突然変異の力みたい」
リズが城ヶ崎に説明をするが、まあつまりはオンラインゲームでよくあるドロップアイテム、収集品だ。これを集めて売ることで資金を手にし、冒険者は活動範囲を広げる。
「げえ……じゃあ、人間だけが生々しく死ぬのかよ……全部消える設定にしてくれよ……」
城ヶ崎はあまり、良く思っていないようだったが。
ジャイアント・ラットは全て倒され、その場から消滅した。……手際が良い。あっという間だ。今度は誰一人死ぬこと無く、難を逃れたようだ。
心臓の鼓動が聞こえる。得体の知れない警鐘は頭の天辺か末端の指先まで響き渡り、どうにかしてその正体を探ろうと、可能性を模索していた。
前線で戦っていたと思われる今掛が人の隙間から現れ、俺達を見た。
「……おう、逃げてなかったのか」
取り敢えず、事件の始まりから終わりまで共に居た事で、疑念は晴れたようだったが。
「これで俺達が関係ねえって分かったかよ、イケメン野郎」
「まあ、そう言うな。……事情を理解しすぎてる意見だったから、気になっちまったんだよ」
辺りは、徐々に楽観的なムードへと変化していた。もう、どんなクリーチャーの襲撃が来ても大丈夫だと考えているかのようだ。俺は大通りの様子を見て、碁盤状に組まれている路地から、小道側の様子を見る。……やはり、被害は出ていない。拍子抜けしたのか、剣を持った冒険者が呆れ返って戻って行く。
「美々を探さないとな。……ったく、マップ非表示になんかしてるから、場所が分からないんだ」
今掛がそう言って、首を鳴らしながら俺達に背を向けた。
「まあ、何でもなくて良かった。行こうぜ、恭一。俺達も、出資者を探さないとな」
――――――――何かが、おかしい。
「恭一?」
これは、人の犯行だ。そこまでは分かっている。地上へと続くシェルターの出入口を破るには、外側に居るクリーチャーでは太刀打ち出来ない。ましてそれが、低級クリーチャーなら尚更だ。
現に不意打ちでなければこうもあっさりと、ジャイアント・ラットはやられてしまう。コア・カンパニーを含む地下都市『アルタ』の冒険者達は決して弱くは無く、端々に散らばらなければ被害を出す事なく、安全に事態を収束させる事が出来る。
なら、何の為に『ジャイアント・ラット』を二度も、わざわざ通路を開けてまで送り込んだのだろうか。……何かを探す為なら、二度も同じ手は通用しない。危機管理における人の結束力というものは、そこまで脆くはない。
……通路。……出入口。……シェルター。……開く。……何かを探す。
「違う」
背を向けて歩き始めていた今掛が、俺の変化に気付いて振り返った。
脳内に散らばっていたヒントの断片が、一点に結合されたような感覚を覚えた。湧き上がる焦燥感に冷静な思考を奪われそうになりながらも、俺は顔を上げ、大通りの向こう側にある円柱状の建物――――シェルターの出入口へと、視線を向けた。
「ラットはフェイクだ。戦う理由がない」
最前線で、ジャイアント・ラットを戦わせる事。前回と違い、安易に地下都市内部へは侵入出来ないという事実。その程度は、相手も分かっている筈だ。
前回と違い、戦闘の最前線にラットを集結させる動き。これも不自然だ。若しも目的の物を探している最中で、どうにかして先へと進みたいのなら、勝てないと分かっている冒険者にラットをぶつける理由が無い。
つまり、ラットはフェイク。『冒険者を止める為の足枷』だ。何故、冒険者を大通りに集結させ、止める必要があった?
「もう、『何か』は持ち出された……!!」
俺は気付き、そして走り出した。
「おい、恭一!!」
城ヶ崎が叫ぶ。俺の向かう先に気付いて、追い掛けて来る。
目的は突破じゃない、足止めだ。冒険者の注意を引き付け、別の何かを実行する必要があった。
何かとは。……現在の時刻は、まだ夕刻の十七時だ。毎日二十二時に警備員が入れ替わるとしたら、まだ五時間近くの余裕がある事になる。
そう何度も、警備員が眠らされる訳がない。普通、次は警戒する筈だ。にも関わらず、シェルターの出入口は開かれた。
冒険者が集まり戦っている最中に、ラットの出現は途切れた。弾切れになった訳では無く、送り込む必要が無くなったのだ。二十二時に警備員が入れ替わった時、安易に眠らされてしまったのは。
コア・カンパニーの警備員に、共犯者が居る可能性が高い。
大通りを走り続けていると、やがて円柱状の建物が近くなっていく。窓の無い建物の下には、自動扉がある。花崗岩の石畳を走り抜け、俺は円柱状の建物へと入った。
中にはエレベーターと、螺旋階段。簡素な物だ。エレベーターは最上階を指している。
上下に移動するボタンがある様子はない。俺は左腕の時計からステータスウィンドウを開き、エレベーターの隣にある黒いパネルに向けて翳した。
「どうしたんだよ、恭一!! 急に走り出して!!」
城ヶ崎が到着する頃、エレベーターは一階に到着する。随分と速いエレベーターだ。これは助かる。
城ヶ崎、リズ、そして今掛の三人が、俺に追い付いた。何の説明もしていなかったからか、リズはエレベーターの扉を開いた俺に驚く。
俺は真っ先にエレベーターの中へと入り、一同に声を掛けた。
「こっちだ」
慌てて三人が中へと入り、エレベーターの扉が閉まった。
向かう先は、『R』――――しかし、屋上階と言うよりは一階だ。僅かな重力の変化を感じて、エレベーターは上がって行く。
室内は建物と同じ円柱状で、荷物も運べるようになっているのか間口が広く、中も広い。橙色のLEDに照らされた室内。俺はポケットに入れたブレスレットに手で触れ、確認した。どうやら、落としてはいないようだ。
一応、直ぐに気付いた。エレベーターの速度からして、まだ連中に追い付く可能性はゼロではない。椎名を連れてここを立ち去る為には、何らかの移動手段が必要な筈だ。
それが車だとしたなら、仮に椎名が眠らされていたとして、脱力した身体を背負って車に乗せるまでの時間がある。
その時間内に、滑り込む事が出来れば。
……何故、アレックスはコア・カンパニーに向けて飛んでいたのか。椎名は何故、これを別の誰かに渡したかったのか。
疑問は、尽きなかったが。
「よく、エレベーターの開け方、分かったね」
リズが俺の目を見て、小さく微笑んだ。
「地下栽培所で、リズが扉を開けただろ。冒険者の資格が必要なんだろうって、見て思ったんだ」
エレベーターの壁に背中を付けて、今掛は腕を組んで俺を見る。
「……俺じゃなくても、犯人扱いされる可能性が有ると思うぜ。そういう安易な行動は、気を付けた方が良い」
咎めるような言葉に、俺は暫しの間、今掛の顔を見て考え。
「そうだな。次から、気を付けるよ」
そのように答えた。
城ヶ崎が唇を尖らせて、明後日の方向を見ていた。……今掛と和解しそうな雰囲気が、あまり面白く無いのだろう。
エレベーターは唐突に止まり、僅かな浮遊感を覚える。入って来た扉とは反対側の扉が開く――――その向こう側は、まだ建物の中だった。
今掛が気付いて、目を見開いた。
「美々!!」
真っ先にエレベーターから飛び出し、走り出す。俺達も後を追った。薄暗い鉄製の洞穴のような見た目、僅かに辺りを照らす照明。その光は僅かなものだが、通路は明るい。奥にある扉が開いている為だ。
大の大人が五人は腕を広げて並べる程の、円形の扉。その高さも桁違いだ。内側に開いたまま、その向こう側に夕暮れの光が漏れている。
人工的な光ではない。――――確かな、太陽の光だ。
椎名。
その太陽の光に照らされて、数匹のジャイアント・ラットに囲まれて、数名の男が逃げていた。抱えられた椎名は、目を閉じていた。眠らされているのか……連中は用意していた車に椎名を乗せ、運転席に素早く潜り込む。
「おい、止まれ!!」
今掛の叫ぶような命令に止まる筈もなく、車は発進した。
太陽の光を浴びて、僅かに赤みを帯びた黒のセダン。今掛は遂に追い掛ける事を諦め、肩で息をして膝を折った。
「美々ちゃん……」
城ヶ崎が呟いて、検相な顔をして去り行くセダンを見詰めている。リズは――……胸の前で両手を握り、悲壮な表情を浮かべていた。
俺は歩く。薄暗い洞穴の奥から外に出るように。巨大な円形の扉は開放され、其処に警備員の姿は無かった。
やはり、扉が開いていたからと言って、そう何度も狙いすましたかのように、クリーチャーが集団で人間の居場所へと走って来る筈がない。それ程に知性があるようには思えなかった――だからこそこれは、人間の犯行だった。
過ぎ去ってしまった出来事は、もう元には戻らない。だが、俺はその出来事に、危機感を覚えてはいなかった。
今掛を通り過ぎて、扉の向こう側へ。
「……大丈夫だ。俺が……助ける」
広大な、セピア色の空を見上げた。燃え盛る炎のように光を放つ大気の向こう側に、紫色に染まった雲が見えている。
ひび割れ、雑草の飛び出したアスファルト。所々に根を張り、建物に絡み付くように伸びる植物。その光景に、既視感を覚えた。先程のセダンを除いて車は一台も走っておらず、建物の壁に設置された巨大なスクリーンには何も映っていない。電車の音もしなければ、遥か遠くに四足歩行の、鹿に良く似た生物が歩いている程だった。
――――新宿駅、東口。
その圧倒的なリアリティに、息を呑んだ。
「いや、一度戻って体制を立て直そう。椎名を助けるのはそれからでも遅くない」
城ヶ崎が扉の奥から、外の様子を見ているようだった。出るのは流石に怖いか――……しかし、俺はこの美しさを前にして、出ずには居られなかったのだ。
此処には、溢れ返る人の姿が無い。噎せ返るような雑踏も、息が詰まるような車の排気ガスも――……何も無い。
圧倒的な、開放感。その姿に、心が満たされていくようだ。
「立て直すって……? 何を、どうやって立て直すんだ。椎名一人を助ける為に、カンパニーは動かない。死の危険を受け入れるって設定なんだ」
「死なないって分かっているからな。死んでもログアウトされるだけだ。身柄拘束なら、生きていないと話にならない。大方、時計を奪ってログアウト出来ないようにするのが限界だろう」
息を整えた今掛が身体を起こし、振り返る俺を睨み付けた。……切羽詰まったような表情と、額に浮かぶ汗。
「だったら、尚更すぐに助けるべきだろうが!! 何をされるか分からないだろうが!!」
今掛は、俺に向かって歩いて来る。圧倒的な自然に包まれた世界に、一歩を踏み出す。……もう、今掛は幾度と無く、この外界を体験しているのだろうが。
扉の向こう側で俺と今掛の様子を見ている城ヶ崎が、今掛の背中に向かって声を掛けた。
「恭一の見解を、聞いた方が良いと思うぜ。本当に助け出したいならな」
今掛は目を閉じ、鼻で笑うような態度を示した。
「お前等、ゲームを始めて間もないんだろ。……悪いがこのゲームは、力が全てだ。結束した所で、糞の役にも立ちはしない」
城ヶ崎は、その言葉に怒りを覚えたようだった。俺は城ヶ崎を視線で制し、今掛に語り掛ける。
「そうかな。……まあ、お前がそう思うんだったらそれでも良いけど」
「職業は?」
「俺は『自遊人』。城ヶ崎が『労働者』で、リズが『科学者』だ」
「それでよく、扉の外に出られたもんだな。痛いのが好きなのか?」
「攻撃されるんだったら、とっくにされてる。夕暮れは、昼行性の生物と夜行性の生物が入れ替わる時間帯だ。今、クリーチャーが何処かに帰って行くのが見えた。今だけは、少し余裕がある」
今掛は首を振って、苦笑した。俺の肩を掴んで、俺よりも前に出る。
「…………悪かったな。お前達を、疑った」
俺は、黙って今掛の様子を見ていた。今掛の表情から笑みが消え、代わりに決意と覚悟の入り混じったような瞳で、セダンの去って行った方角を見た。
太陽の、光を浴びて。
「美々は、俺が助ける。……気に掛けてくれるのは嬉しいが、無理をする必要は無いぜ。俺一人で、全員ぶっ潰してやる」
今掛は、自身の決意を表明するような言葉を俺に向け――――独り、新宿の街を走って行った。
静寂が訪れた。何処かで聞こえて来る、野獣の声に耳を澄ます。去って行く足音と、今掛の背を見詰めて。俺は振り返り、扉へと戻った。
エレベーターの扉が開き、数名の冒険者が到着していた。開きっ放しになった扉を見て、驚愕している。……よく見れば、円形の扉には小さな扉が付いている。通常、数名の冒険者がシェルターから外へと出る場合は、こちらの小さな扉を使うのだろうな。
「ツンケンして、一人で突っ走りやがって。損するぜ、ああいう性格は」
城ヶ崎がポケットに手を突っ込んだまま、溜め息を付いて外を見ていた。城ヶ崎の一番嫌いなタイプだろうからな。
「椎名さんの事、大切に思っているだけだと思うけど……」
リズは城ヶ崎の様子に苦笑して、今掛をフォローする一言を城ヶ崎に伝えた。
「大丈夫ですか!? 何で、警備員が誰も居ないんだ……!!」
慌てて円形の扉を閉める、コア・カンパニーの警備員。俺は美しい地上に背を向けて、今一度、地下都市へと戻った。
◆
椎名美々が連れ去られて、今掛時男がそれを追い掛けた。俺達はどうにも居心地が悪く、再び喫茶店『ぽっぽ』で時間を潰していた。
地下都市『アルタ』にも、不穏な空気が流れている。どうやらコア・カンパニーに所属する警備員の中から被害が出たということで、地下都市そのものに対する不信感が芽生えているようだった。
昨日は陽気な雰囲気だった髭面のマスターが、今日は辛気臭い顔をしてカップを洗っている。
「なあ、今日はもう解散しようか? このままここに居てもなあ……」
沈黙を破ったのは、城ヶ崎だった。腕を組んだまま考え込んでいる俺のことを気に掛けているようだったが、遂に痺れを切らしたらしい。
無理もない。リズは兎も角、俺達はこの世界に遊びに来ているのだ。人攫い事件を解決しに来た訳ではない。
「でも、椎名さんは……」
不貞腐れる城ヶ崎に少し怯えながら、リズが言った。……城ヶ崎は別に、怒っている訳ではない。根は優しいが、態度が少し粗雑なだけだ。
そう考えると、今掛時男と似ている部分が無くもないのだろうか。
城ヶ崎は両手を開いてリズに見せながら、抗議をするように言った。
「つってもさ、リズちゃん。俺達は何処かのカンパニーに気に入られない限り、装備が揃わないんだろ。つまり、このままじゃ地上に出て戦う事が出来ない訳だよ。かと言って、今日明日でカンパニーに所属が決まったとしてだよ、今直ぐ装備を整えられる訳でもない」
「まあ、それはそうなんだけど……」
どうにも、引っ掛かる。口に出して言う事の出来ない部分に、奇妙な点があるように感じられるのだろう。
「しかも最悪なのは、例え装備を整えたとして、不遇な俺達が犯人と戦って勝てるとも限らないって所だよ。つまり、俺達は悔しいながらも、今掛に美々ちゃんを任せて待ってるしか無いのさ。……そうだろ?」
「まあ、それはそうかもしれないけど……」
降って湧いた疑惑は物陰に隠れるようにして潜み、引き合いに出される事を拒む。穏やかに人々が談笑する喫茶店。カウンターの上に設置された時計の秒針を眺めながら、下顎を人差し指で撫でる。
ジャイアント・ラットの襲撃に、何かの問題がまだ隠されているのだろうか。……俺の配慮の至らない部分に、隠れているモノの正体は。
「でも、このまま帰りを待つだけなんて。……そうだ、私、戦器だったら作れるよ? カンパニーの研究室にはまだ私の私物が残ってるし、攻撃する手段は作れるかもだよ!」
「材料費は」
「それは……そうだけど」
城ヶ崎とリズが揉めている。時刻、二十時。いい加減、俺達も一旦引き上げるべきなのだろうか。
そう思った瞬間の事だった。
カウンターの隅に設置してある、古臭い雰囲気のモニター。喫茶店の雰囲気に合わせて作られた物なのだろう――……その画面に先程まで表示されていたニュースが、唐突に途切れた。
談笑を続けている間は雑音でしか無かったモニターの音も、いざ消えると違和感があるのだろう。店内に居た数名のグループが、唐突に壊れたかのように暗くなったモニターに視線を移した。俺達もまた、何気無い気持ちでモニターを見やる。
暗転して、再び映像が表示されたモニター。その特殊な光景に、俺達は目を丸くした。
「なんだ、これ……?」
「中継……?」
ざわざわと、喫茶店内に居た若者達が話し出した。古めかしいCRTモニター風の機械に表示されたのは、鐘のようなオブジェクトだった。いや、鳥籠とも言えるだろうか……? 鳥籠と言っても格子状ではなく、中の様子は分からないようになっていたが。
背景は白い。だが、よく見ればその場所が、部屋のようになっている事が分かる。奥に行く程暗くなっている部分があり、その鐘と言うべきか、鳥籠と言うべきか分からない物は、床に置かれているようだった。
『こんばんは。冒険者諸君』
聞こえて来たのは、ボイスチェンジャーによって変化した、何処か不快感を覚える声。黒いレインコート……いや、黒いローブに身を包んだ人間が、画面の中に登場した。
人間が登場した事で、その鐘のような物がかなり大きく創られている事が分かる。黒いローブを着た人間が、初めてモニターの方を向いた。その異様な光景に、俺は椅子から降りて、モニターに近寄った。
黒いローブ、そのフードの下。若干影になって隠れてはいるが、確かにその顔はのっぺらぼう――……無地の面を着けているようだった。
『――――私は、ミスター・パペット』
城ヶ崎が片側の眉を大きく上げて、腕を組んだ。
『ここは、地下都市『アルタ』の地上から、数十メートル程離れた元・書店の最上階だ。別段離れている訳でもない。少しレベルのある人間なら、誰でも到達出来るポイントに居る』
鐘の前、画面の中央に立っている黒いローブの人間。右端から、今度は茶色のローブに身を包んだ人間が音も無く現れた。黒いローブの人間と比べると、幾らか背が低い。横を向いて歩いているので、顔を見る事は出来ない。
黒いローブの人間が立っている地点まで来ると、茶色のローブの人影は正面を向いた。その、フードが外される。
背後で、ガタン、と大きな音がした。
城ヶ崎が椅子から飛び降りた音だった。
『彼女は、今回のイベントの当事者だ。彼女が持っていた『デッドロック・デバイス』というアイテムを、この場所まで持って来て欲しい。リング状のアイテムで、装備する事は出来ない代物だ』
俺は、ポケットの中に入っている椎名のアイテムを握り締めた。
椎名は無表情のまま、下を向いている。
「イベント……?」
「イベントかな」
周囲が、少しずつ期待の眼差しに変わっていった。……イベントとは、何の事だろうか。一般的に考えるなら、それはオンラインゲームにおける祭事のようなもので、プレイヤーキャラクターが成長し易くなったり、特別なアイテムが貰えたり等の特典があるものだが。
だが、それにしては椎名の表情はとても暗い。
『タイムリミットは、三日後の正午。無事にアイテムの引き渡しが行われれば彼女を解放し、その三十分後にビルの下で別途、サービスイベントを行う。何が貰えるかはお楽しみだ、福袋のようなものだと思ってくれればいい』
誰もが話を止め、『ミスター・パペット』を名乗る人物の話を聞いている。……しかし、俺にはそれがポジティブな要素――イベントではないという事が、分かっていた。
これは、リングを持っている当事者――俺――が誰だか分からないからこそ、周囲に訴え掛ける為に用意されたものだ。
ミスター・パペットを名乗る人物は、ローブの内側から薬草のようなアイテムを取り出した。
『残念ながらタイムリミットを過ぎてしまった場合についてだが、この場合はサービスイベントは行われない――これは、『記憶の葉』というアイテムだ。このアイテムを使用した当事者は、死んだ場合の復活ポイントを一度だけ、『所属している地下都市』から、『死んだポイント』に変える事が出来る。しかも、ログアウトされずに――――意味は分かるな?』
ミスター・パペットは、椎名のローブを捲り、左腕を露出させた。
その左腕に、時計のようなアイテムは確認されなかった。
死の痛みを伴うゲームで、復活のポイントを指定出来る、という事の意味。……それくらい、誰にでも分かる。だが、椎名の事を気に掛ける者は居ない。
――――誰も、気付いていないのか。この場に居る、誰も。
これがゲーム内のイベントでは無いという事実に。
『地下都市『アルタ』の人間の中で、『デッドロック・デバイス』を持っている人間が居る。その人物を見付けたら、君達の口からもこう言ってやって欲しい――『人の物は、在るべき場所に返せ』とね』
画面の中に映った椎名が、再びフードで頭を覆った。黒いローブの人物に導かれるままに、背後の巨大な鐘――……いや、あれは『檻』なのか。真横が扉のように開き、中に入れられる。扉が閉まる――……
「なあ、これマジかな?」
「バーカ、NPCに決まってんだろ。イベントだよイベント」
中学生程度の少年達が、目を輝かせて画面の様子を見ている。
イベントじゃない。椎名美々は、実在する人間だ。……俺は今日の昼間に、彼女と現実の新宿で出会った。
不安を煽るだけの台詞を、伝える事は出来なかったが。
カメラの位置が初めて動いた――真上だ。カメラが上に動かされると、天井が見えた。どうやら、巨大な檻の頭には鎖が結び付けられており、その鎖は天井まで続いているようだった。一度はモニターから消えた巨大な檻は、鎖が引かれると共に上へと移動し、ちょうど天井から吊るされたような格好になる。
そうして、椎名美々は閉じ込められ。再び、カメラは下を向いた。
画面全体に、黒いローブの人物がアップで映った。
『因みに、『飛び込んだ兎は、既に焼いた』。――――それでは、健闘を祈る』
その言葉を、最後に。
再び画面は暗転し、普段通りの番組が表示された。
沈黙が訪れた。……いや、喫茶店内に居る幾つかのグループはざわざわと相談を始め、三日後に地上へと出る予定を決めているようだった。……ゲーム内のイベントに見せ掛けた、脅し。俺はその場に硬直したまま、何も言えずにいた。
「……今の、美々ちゃんかい? 彼女も凝ったイベントを開催するようになったねえ」
日和っている。
ゲームの中ならば、殺される事はない。例え殺されたとしても、ログアウトされるだけで実害は出ない。……だからだろうか。誰も、この事件の本質について理解しようとしていない――――この場に居る、当事者である俺達を除いて。
そう考えると、巧妙な作戦だ。現実世界では、容易に警察沙汰になる事が予想される。……終末東京の世界だからこそ出来る、大胆な戦略。ゲームである事を逆手に取った、大袈裟な演出。
人がそっくり檻に入って閉じ込められるというのは、いつか、何処かのゲームで見た。
「なあ、恭一。『飛び込んだ兎』ってのは……」
城ヶ崎が呟いた。俺は城ヶ崎の目を見ずに、言った。
「今掛の事だろうな」
在るべき場所に返せ。そう言われても、俺達は地上に出る事が出来ない。……椎名の身柄は、何処まで押さえられているのだろうか。若しかして、現実世界まで――……?
鳥籠から飛び出した白い鳩が、リズの肩で鳴いていた。
在るべき場所に返して、その後に奪うつもりなのだと云う事は、誰に聞かずとも分かる事だった。