第六話 誰が為に鐘は鳴らされた
あまりに現実的な、灰色の天井を見ていた。
どうやら、目が覚めたらしい。随分と長い時間、眠っていたような気がする。シャッターの向こう側から僅かに光が漏れていたが、特に鳥の音など、朝を知らせるような情報は耳に届いては来なかった。
ボサボサの頭を軽く刺激し、ぼやけた意識を覚醒させる。終末東京の世界から帰って来た所までは覚えているが、それからどのようにして眠ったのか、まるで思い出せない。
色々と考え事をしている内に、眠ってしまったのだろう。
そうは思いながらもベッドから立ち上がり、部屋をそのままにして洗面台へと向かった――……が、立ち止まり、光の漏れているシャッターを一瞥する。
…………たまには、開けてみるのも良いだろうか。
考えるよりも身体は先に動き、デスクとベッドの間に立ち、窓を開く。随分と長期に渡り開いていなかったが、どうやら壊れてはいないようだ。
手を掛け力を込めると、シャッターは粗雑な音を立てた。意思は無いのに不機嫌になっているかのようで、何とも複雑な気持ちにさせられる。
「ん…………」
瞬間、視界が真っ白に染まり、堪らずに瞼を閉じた。
春の暖かみを感じさせる穏やかな陽光。太陽の位置を確認すれば、今が凡そどの時間帯なのかを把握する事も出来る。改めて時計を確認すると、正午を回る手前だった。
窓の桟に手を掛け、少し身を乗り出して外を確認した。集合住宅の三階から眺める景色は、近くに並ぶ一軒家よりも僅かに背が高く、遠くを見渡す事ができる。
少しだけ眠たげな、平日の昼下がり。世間一般では今頃バイトに学校に会社にと、様々な人々が四苦八苦している事だろう。
世界から隔離された、一DKの洋室。部屋から最寄りのスーパー、コンビニ程度しか移動する理由の無い生活。
ふと、ゲームの世界に隔離された金髪の少女の事について、俺は思い返していた。
「ずっと夢を見てるみたいな気持ちだから……か」
部屋の隅に転がっている『ワープステーション』を眺め、背中に光を受けながら、窓の桟に腰掛ける。そうして思考を白紙に戻した所で、ふと現実に舞い戻る。
世界から隔離された人間。それを少しだけ、羨ましくも思ったかもしれない。現実の世界に一切関与することが出来ないのなら、そこに僅かな期待や希望を見出す事はない。それはつまり、現実という厳粛かつ冷酷に人を裏切り聳え立つルールを無視し、抗う事も無ければ、触れる事も無いという事を意味する。
彼女と俺は、分かり合う事は出来ない――――きっと、俺はリズの事を自由だと、心の何処かで思っている。
少なくとも現実の世界に残されたまま、誰からも相手にされずに空気のように残る事よりは、ましなのではないか。
それが単なる感情論に過ぎず、甲乙など付けられないと云う事くらいは、頭の片隅では分かっている。
煩雑な思考の片隅で、今日は外に出てみようか、等と珍しい事を考えている自分がいた。
◆
黒のジーンズに黒のタートルネックシャツを選び、黒のジャケットを羽織る。花粉症よろしくマスクを装備し、近眼でもないのに伊達眼鏡を掛けて、新宿へと向かう電車の中で吊り革に捕まっていた。
実を言うと、花粉症ですらない。それでもマスクと眼鏡を装備している理由は、人の目が気になるからだ。
今は春だから、マスクを着けていても目立たなくて良い。これが夏場ともなると急激にマスク人口が低下し、余計に人の目を引くオブジェクトに成り下がってしまう。
電車の中で、誰にも気付かれないように視線を向ける。
右、左。
…………よし。やはり、格好の方は問題ない。全身黒ずくめの格好など、世のサラリーマンは今の時期、ワイシャツを除いて大概似たような格好をしている。
勢い余ってロングコートを着て来なくて良かった。そう、密かに胸を撫で下ろす俺だった。
ポケットからスマートフォンを取り出して、特に理由も無くネットサーフィンを始めた。
格好はいい。問題は、時間の方だ。
時刻、十三時。昼過ぎの電車内はサラリーマンよりも圧倒的に女性と高齢者が多く、俺のような働き盛りの若者はあまり乗っていない。……乗っているには乗っているのだが、如何にも大学生といった雰囲気の、ファッション性を重視した服装の若者が高齢者を押し退けて座席に座り、何やら大声で喋っている程度だ。
『次は新宿。新宿に止まります』
如何にも人間らしい、難解なイントネーションを使い熟す機械音のアナウンスを聞きながら、スマートフォンに表示されたウェブページのニュース欄を、無感情のままで眺めていた。
新宿へと向かうに当たり、特に何か大きな理由がある訳ではなかった。何故新宿なのかと問い掛けられても、回答はない。
ただ、恐らくゲームの舞台になっているであろう東京の主要都市が今どのようになっているのか、実態を見てみたいと思っただけなのだろう。
電車が止まると僅かに重心が傾き、反対方向に揺さぶられた直後に扉が開いた。雑音に包まれた人混みの中、何事も無かったかのようにスマートフォンをポケットに戻し、その勢いでポケットに手を突っ込んだまま、猫背になって歩いて行く。
ホームから階段を使い、改札口を通り、東口の階段を登って広場へと出た。
人工的な明かりから、一転して太陽の日差しを受ける世界へと移動する。その光量の差に、少しだけ目が眩んだ。それでも暫く待っていれば、視界はクリアになっていく。
…………来て、しまった。
率直に、そのような感想を覚えた。新春が訪れる暖かい空間の中でも、寧ろ緊張に冷や汗は流れる。こんなにも人が多い場所に来たのは、本当に久し振りだ。
何もしていないのに、誰かに見られているのではないかと変な事を考えてしまう。
「こんにちは。……就職情報誌です。……ご協力を、よろしくお願いいたします。……こんにちは」
路上を不器用な動きで駆け回る、自動掃除機を縦に長くしたようなスタイルのロボット。トーストよろしく頭の上から顔を出しているチラシを横目に、俺は足早に駅前を通り過ぎて行く。
人に働き掛けるロボットの商業的普及が始まって、まだ日が浅い。こうして動いている所を見るのが初めてなのは、別段日が浅い事が理由な訳でも無いのだが。
如何せん、太陽の光にさえ懐かしみを覚える程なのだから。
タートルネックシャツの首元を少し伸ばして顎を隠し、俺は歩いた。
こうして見ると、都内には相応の数のロボットが駆動している。……やはり、東京は流行の最先端を行くものだと痛感させられる。チラシ配りにタクシーの運転手、電気屋ではレジや掃除係の姿なども見受けられる。確か、一体当たりの値段は三百万辺りからスタートだった。安価な設備交換費で三年は動作する見込みだし、メーカー保証があるから、人を雇うよりも安く済む。
かといって、こうして人が働いていた場所に機械が侵食して来るのは、若者の就職難を招く理由にもなっているのではないかと思える。
少し前までは、ビラ配りも人の仕事だった。
……そんな事、今に始まった事では無いのだけれど。機械化が進めば進むほど、人の仕事は減って行く。昨今では、企画・営業力こそが人の力だと謳うビジネス書ばかりが本屋には陳列している。
そう考えると、突然変異を現実の世界に望んている人は、思ったよりも多いのかもしれない。
等と考えているうちに、本屋に辿り着いた。随分と古くからある老舗の本屋で、品揃えも他と比べて圧倒的だ。電子書籍ばかりが発展する昨今の書籍事情から考えても、純粋な本屋として未だに生き残っているのは尊いことだと思う。
古くなり従来のような華やかさを失ったビルの外壁を眺め、その向こう側に終末東京の世界を思い出した。
本、か。リズは本を読むのだろうか。勉強が好きそうだから、学習出来る類の本は好みそうにも思える。
……本でも、終末東京の世界に持って行く事は可能なのだろうか。
少しだけ、変な事を考えてしまった。服装や身に着けていたアイテム、資金はそれぞれ終末東京の世界に反映されるのだ。それならば、本を持っていればアイテムリストに追加されたり、するのだろうか。
……無くはない、か。
店内へと入り、本を物色する。……しかし、よく考えて見ればゲームの中に居ながらにして、ある程度の学習をしている女性だ。今更入門書のような本を貰った所で、特に喜ぶ事は無いのかも知れない。かと言って、喜びそうな本とそうでない本の区別が未熟な俺には付かない。
だとするならば、アクセサリーのような、如何にも女性が好みそうなアイテムの方が良いのだろうか。
「あれっ」
アクセサリーは、どこに売っているのだろう。書店ではないのだろうが……
「木戸くん?」
「うわっ!?」
急に声を掛けられ、咄嗟に飛び退いてしまった。
マスクを外して、女性は俺を見る。目の前に居たのは、ふわりとした柔らかな茶髪をおろした、眼鏡の女性だった。女性らしいふっくらとした体型にチェックのマフラー、ベージュのジャケット。煉瓦色のスカートに、黒いレギンス。
全体的に落ち着いた印象を受けるが、こんな人とは会ったことが……いや。
「……椎名?」
返事をすると、目を丸くして俺を見ていた椎名美々は、ぱあ、と花が咲いたような笑顔を浮かべた。まさか、特定されるとは思っていなかったが……あんまり、この格好は意味を成していないのだろうか。
「良かった、ゲームと全然違う格好だったから、ちょっと自信無かったんだ!」
両手を合わせて、冬場の焚き火のように朗らかに笑う椎名。自信が無かったなりに、俺を見て判断して声を掛けるまでに至った状況を見て、俺は現在の格好について軽い後悔を覚えた。
……次からは、帽子を被る事にしよう。
◆
書店で出会った俺と椎名は、近場の喫茶店へと入った。まさか平日の真っ昼間から、つい昨日までゲームで逢っていた知り合いに遭遇するとは思いも寄らなかったが。椎名は喫茶店に入ってコーヒーを注文すると、マスクを外して席に付いた。
押し殺したような、可愛らしいくしゃみの音が漏れた。
「風邪?」
「ううん、花粉症。もー目が痒いし、くしゃみは止まらないし、この時期はつらいよー……木戸くんもでしょ?」
「あ、ああ」
そう言って、椎名は鼻をすする。それでもブラックのままでコーヒーを飲むと、少し落ち着いたようだ。……流石に、喫茶店の中でマスクもないか。俺も花粉症の振りをして装着していたマスクを外した。
目の前に居る眼鏡の椎名は、ゲームの世界で見るような華やかな格好をしていない。オシャレが好きな大学生、といったイメージが抜けなかった俺は、少しだけ驚きもした。
オシャレと言うより、勉強熱心な大学生といった雰囲気だ。……眼鏡をしているから勉強熱心という訳でも無いが、本屋はイメージに良く合う。
「それにしても、ゲームと全然雰囲気違うね。それがサングラスならエージェントみたい」
俺の眼鏡を指差して、椎名は言う。思わず何とも言えない気分になって、眼鏡を外してしまった。……サングラスは如何にも物々しい雰囲気がある事と、都会にその格好で行くのは悪目立ちして誰かに声を掛けられる気がして、選択肢には入っていなかった。
「黒、好きでさ」
取り敢えず、適当な事を言って誤魔化す事にした。
「椎名こそ、近眼だったのか?」
「うん。終末東京の世界では、大体コンタクトだから」
そう言いながらも、椎名は頻りにスマートフォンを取り出しては、何かの操作をしている。……相手は恐らく、今掛なのだろう。聞いた訳ではないが、それ位は察しがつく。
今掛と会っている時、椎名は電話になど興味を示さなかった。しかし、コア・カンパニーのロビーで初めて椎名の姿を見た時には、スマートフォンを片手に何やら忙しなく操作をしていた。
人と会っていても変わらずメールばかり、というのは少しだけ驚きだ。何かの強迫観念に囚われているようにも思える――……いや、囚われているのか。
「ずっと、メールしてるんだな」
俺が問い掛けると、椎名は慌ててスマートフォンから視線を外した。
「ごめん、嫌だった?」
「いや、嫌という程のものではないけど……」
どうしてだろうか。
今掛と話している時の椎名は、少しだけ無理をしているように見えなくも無かった。
注文したコーヒーをそのままに、俺は椎名に何でも無いと言うように、僅かに微笑みを浮かべる。その表情を見て、椎名は苦笑した。この流れなら、聞いても構わないだろう。俺は椎名のスマートフォンを指差した。
「相手、今掛だろ?」
椎名は徐ろに頷く。
「……殆ど、返事は無いんだけどね。忙しい人だから……でも、一人で居ると不安で。つい、送っちゃうんだよね」
その言葉には、再度驚かされる事になった。
返事、来ていないのか。相手からの反応は無いのに、四六時中メールを送り続けるというのも如何なものかと思えるが……いや、そうでもないのか。好きな人とずっと話していたいというのは、まあよく聞く話だ。今掛が嫌で無いのなら、そういったコミュニケーションも有りなのかもしれない。
「……まあ、良いんじゃないか。今掛が嫌がってないなら、そういうのも」
「そう、かな」
微妙な空気が流れた。椎名は曖昧に微笑み、頷いた――……何か、あったのだろうか。しかし、椎名が昨日ゲームをログアウトしてから今まで、そう時間も経っていない。何かの出来事が起こり、今掛との関係が悪くなったとは考え難い。
ならば、椎名はメールを送りながらも、メールを送っている自分自身に疑問を抱いている。それが、正解ではないだろうか。
不意に、二つの出来事が頭の中で繋がった。
……そうか。椎名は、森の中に木を隠すようにして紛れていた俺を、偶然見付けた訳ではないのだ。そう考えると、様々な疑問に合点が行く。初めて見掛けた時から、妙に自信が無い様子できょろきょろと辺りを見回していた。今掛と出会ってからは、必要以上に今掛に好意を示していた。
「若しかして、終末東京の中でしか、会ったこと無いのか?」
自信が無いのだろう。
椎名美々という、自分自身に。
問い掛けると、椎名はあはは、と力無く笑った。
「なんか、木戸くんって不思議だね。……話していると、考えている事がどんどん見透かされちゃうみたい」
思考を読んでいる訳ではない。自分と近しい感覚の人間がそばに居て考えていれば、自ずとその考えは頭の中に展開される。そういうものだ。
椎名は、書店で眼鏡を掛け、マスクをして隠れていた俺を、偶然見付けた訳ではなかった。人混みに紛れるようにして臆病になり、隠れている人間を発見すると『知らず、目で追い掛けてしまう』のだ。
考えられる理由は、二つ。一つは、例えば先程まで誰かと逢っていて、唐突に椎名の目の前から居なくなった誰かを探している可能性。これは、今俺と茶を飲んでいる時点で可能性は薄い。
もう一つは――……
「俺さ、あんまり町中では目立たないようにしてるんだ。知らない人から声掛けられるの、苦手でさ」
もう一つは、『同族意識』だ。
「……木戸くんでも、そういう事があるの?」
木戸くん『でも』。その言葉が、俺の予想を確定事実に変える。椎名の心を紐解くように軽く笑うと、俺は言った。
「だから、思ったんだ。……椎名も、そうなんじゃないかって。リアルで会えない理由でもあるのか?」
軽く笑うと、椎名が俺の事を警戒しなくなったように思えた。別に疑われていた訳じゃない。人というものは、知り合ってまだ日の浅い人間に対しては自然と未知の危険を恐れ、相手の人格を何らかの手段で推し量ろうとするものだ。
そして、それは同族だと感じた瞬間に、若しかしたら相手に踏み込む事が出来るのかもしれないと、気を許し始めるものだ。
椎名は両手で握ったコーヒーのマグカップに、視線を落とした。
「少し前まで私、すっごい太ってて。パパもママもお金持ちだったから、裕福に育って、世間知らずで……そのせいか、友達出来なくて。嫌われてるみたいで」
「今は?」
問い掛けると、椎名は首を振った。
「誰かと会う機会もないよ。……実は、仕事してないんだ。何もしなくても、実家で甘やかされてるし……ホントは駄目だって、分かってるんだけどね。ずっと、引き篭もってた」
…………同族意識、か。
腕を組んだまま、椎名から視線を外して周囲を見る。店内には高齢の女性が二人、厚化粧をした中年女性が二人、ノートパソコンを開いているサラリーマンが一人。何かの打ち合わせをしているのか、書類を開いて話している男女が一組。
皆、それぞれ違った風貌だ。しかし、話をしている何組かの人物は、それぞれ似たような空気を醸し出している。
俺達も、同じだろうか。
「ずっと家にいて。ゲームの中だけで交流して、そしたらトキくんに会ったの。中学校の始めだけ一緒で、その後すぐに海外に行っちゃった友達だったんだけど。トキくんだけは私のこと、気持ち悪いって言わなかったから。ちょっと、嬉しくて」
椎名は、淡々と語る。俺は黙って、椎名の話を聞いていた。
学生時代に同じクラスの人間から何をされたのか、直接的に聞いた訳ではなかったが。今現在は何もされていないのに、辛辣な顔で過去を語る椎名の様子から、少なくとも本人にとっては壮絶な出来事があったのだろうと予想された。
「そしたら、トキくんから終末東京オンラインに誘われたの。あれって、自分の体型とか顔がばれちゃうでしょ。だから、久し振りに会おうってなった時に、すごく焦ったの。その為に必死で痩せて、普通の人に見えるように頑張ろうと思って。髪も染めて、美容院でウエーブにして貰って、お化粧も勉強して」
「……よく、反映されていると思うけど」
「へへ、ありがと。実は、トキくんと会った時から始めていたんだけどね」
世辞のように受け取っただろうか。だが、椎名は至って普通の女性だ。町中に居て目立つ事があるとすれば、それは綺麗だと持て囃される位のものだろう。
今の姿を見ていると、とても過去の椎名の姿を想像する事は出来なかった。
「トキくんは何も変わらなくて、格好良くて。努力の甲斐あってか、告白したらオッケーして貰えたの。……だけど今度は、何かある度に嫌われるんじゃないかって、怖くて」
そこまで話すと、椎名は両手に握っていたマグカップを口元に近付けて、コーヒーを口に含んだ。その一挙手一投足を、俺は無心のままで眺めていた。
「……なんで、こんな話してんだろ。せっかく会ったんだもん、木戸くんの話も聞きたいな!」
ふと思い返したように我に返る椎名を見て、俺はその言葉を鼻で笑った。
「四六時中引き篭もっている俺に話題などない」
「えっ、仕事してないの!?」
「悪いがこちとら、万年デイトレーダーだ。一日中相場しか見てない」
「それはそれで、すごいような……」
椎名の話は、日常の他愛もない雑談の影に隠れて、消えた。
◆
地下都市『アルタ』のフロアマップが、『コア・カンパニー』の正面玄関を入って直ぐの場所に配置されていた。
マップを広げて最も東側に『コア・カンパニー』、最も西側に『シェルター』と書いてある。東から西までを横断する大通りを挟んで北側が商業区域、南側が住宅街。とは言っても、大通りから南に向かうとすぐに大きな湖に対面する事になるから、住宅は少ない。
では人口が少ないのかと言えばそんな事はなく、湖に掛けてある大きな橋を渡って向こう側に、工場と住宅街があるのだ。その配置を眺めていると、どうやら工場区域にある住宅街の方が、大通りに面している住宅街よりも安価だろうという事が予想できる。
地下栽培所が南側にあったこともあり、湖を挟んだ南側はまだ散策していない場所が多い。何があるのか、少しだけ興味が無いことも無いが。
それよりも、地上に出てみたいという欲求の方が強かった。
「おーい、恭一!」
ロビーで待っていると、待ち合わせ予定の人物が現れた。腹の脂肪を揺らしながら、城ヶ崎が俺の前に駆け寄ってくる。重そうな身体でも機敏に動くことが出来るのは、流石肉体労働系と云った所だろうか。
しかし城ヶ崎は目の前まで来ると、両膝に手をついて、呼吸を整えていた。
「結構、遠いなあ……改めて歩いてみると、広いぜ地下都市」
城ヶ崎の体力が無い訳ではなく、本当に広いのだ。
「『アルタ』な。どうやら、他にも地下都市はあるらしいから」
「リズリズは?」
言われて、俺はステータスウィンドウからフレンド登録してあるリズの写真をタッチした。直ぐに別画面が開き、地下都市『アルタ』のマップと共に、黄色い点が表示される。
黄色い点が動いていた。歩いているようだが……その点は、俺達に向かって近付いて来る。
「おお? なんだ? これ」
「フレンド登録すると、相手の居場所が分かるようになってるらしい」
そういえば、俺から見えるという事は、リズから俺の居場所も特定する事が出来るということだ。俺がログインした事に気付いて、こちらに向かって来ているのだろう。
よく見れば、マップの下に『Show my position』の文字とチェックボックスがあった。このチェックをオフにすれば、現在地が非公開になるという事だろうか。
フレンド登録をすれば一から十まで相手の事が分かる、という事でも無いらしい。プライバシーは、ちゃんと守る事が可能になっている。
「すげえな……恭一、俺ともフレンド登録しようぜ」
「おう」
時計を合わせて城ヶ崎とフレンド登録を済ませると、リズが俺達の下に現れた。一度は脱いだ白衣が、今は再度着られている。『バイオテクノロジー』は抜けた筈なのに――……と思っていたが、どうやら別物のようだ。白衣のデザインが若干違う。無地だった胸には、『E・S』とイニシャルも入っている。
「ミニスカ……白衣!? ぐはっ!!」
そういえば、リズが城ヶ崎に向かって白衣の内側を見せたのは、これが初めてだったな。何かにフェチズムを覚えたようで、城ヶ崎は一人、銃で撃たれたような動きをしていた。
駆け寄ったリズは俺と城ヶ崎を見ると、僅かに頬を赤く染めて、はにかんだ。
「おかえり、恭くん、城くん」
彼女にとっての、『おかえり』。俺はリズに笑顔を返した。顔が引き攣っていないと良いが。
しかし、ゲーム内の予定で行けば、今日は就職面接だ。各カンパニーの情報を洗い出して、自分が何処に所属したいのかを決める――……まあ俺は職業柄、何処にも所属できる見込みが無さそうなので、それは良いとして。問題は、城ヶ崎だ。
先の出来事でリズも職を失ってしまった。ゲームの中でも、人が運営するものはこういった悩みが付き纏うもの、という事だろう。其処まで理解して、改めて厳しいゲームだと考えさせられる。
NPCが運営を勤めるカンパニーでもあれば、最低でも一先ず何処かに所属する事は可能だろうに。若しかすると、NPCという概念が無いのだろうか。
コア・カンパニーの様子を見回して、NPCが居ない訳では無いだろうと考え直す。例えば、ロビーのカウンターで立っている受付嬢。あの水色やら赤やらの派手な髪色が、たまたま巡り合わせたかのようにコア・カンパニーに集合し、仕事をしていると云う事も考え難い。
つまり、彼女等はこの世界で言うところの、NPCに当たるのではないだろうか。左腕に時計をしている所は変わりないが、あれは唯の腕時計だという可能性もある。今はそのように予想しておく事にした。
だとすれば、故意にNPCをカンパニーの代表にさせない、何らかの理由が在ると考えるのが普通だ。
「まあ、取り敢えず今日は……どうする? 城ヶ崎、お前カンパニーに所属するのか?」
「それなんだよなあ。リアルでも働いてるのに、ゲームの世界でも面接とかねーわ」
実際の所は、働くと言っても冒険者である俺達は地上に繰り出して、クリーチャーと戦う事になるんだろうが。カンパニーに所属するのかどうかだけが問題であり、逆に言えばソロでやっていく道はあるのかという事でもある。
三人揃ったので、一先ずコア・カンパニーのロビーを出る。先導して歩きながら、俺はリズに振り返った。
「どうしてもカンパニーに所属出来ないとなったら、どうすれば良いんだ?」
「装備が揃えば狩りはできるから、やっぱり出資者を探す事……かなあ。でも、現実世界のお金と繋がってるからね。けっこう、難しいよ」
まあ、難しいだろうな。容易に想像出来る。
コア・カンパニーのロビーを出ると、辺りはまだ明るい。時刻、十六時。城ヶ崎のバイトが早朝なので、こんなものだ。もう直、日も落ちるだろうが――……このゲームで何をして行けば行動範囲が広がるのか、少し考えてみなければならないな。
大通りに出ると、見覚えのある人影に目が留まった。偶然に、目が合う。
「あれ」
「げっ……」
俺と城ヶ崎が、それぞれ違った反応を示した。
引き締まった肉体、茶髪の長身。簡素なシャツとジーンズで、動き易そうな服装だった。
今掛時男は俺達を発見すると、少し驚いたような顔を見せた。
「……中に美々、居なかった?」
簡潔に、それだけを問い掛けた。
「いや、見てない。ロビーで待ち合わせしてるなら、まだだろうな」
「そうか。……ありがとう」
それだけを話して、今掛は俺達をすり抜けて行く。……あれだけ疑いの念を持たれてしまったら、騒ぎの犯人が特定されるまで、俺達はブラックリストから消える事は無いのだろう。
城ヶ崎が腕を組んで、不満を全力で表したような表情になった。
「行こうぜ、恭一。俺、あいつ好きになれねえわ」
「……行くか」
俺は城ヶ崎の言葉について肯定も否定もせず、ただそれだけを呟いた。まるで椎名に何かがあったのかと言わんばかりの態度で忙しなくロビーへと入って行く今掛を見て、俺は僅かな疑問を浮かべた。
どうにも、様子がおかしい。
「あれ? ……おーい、アレックス!」
リズが気が付いて、手を振った。上空を飛んでいるのは、昨日は喫茶店『ぽっぽ』で見掛けた白い鳩だ。アレックスと呼ばれた――……鳩は俺達を見付けると、真っ直ぐに降りて来る。
ばさばさと翼を羽ばたかせ、手を伸ばしたリズの腕に乗ろうとした。リズが驚きながらも嬉しそうにして、鳩を受け止める。
「なんだ、逃げて来ちゃったの?」
だが、アレックスが来た事よりも俺は。その足首に巻き付いている荷物に、視線が移った。
そこには可愛らしいハンカチで結ばれた、小さな包みがあった。白い鳩から小さな包みを外し、重荷から開放してやる。中に入っているのは、特殊な形をしたブレスレットと……手紙。脇に小さく、『椎名美々』と書いてあった。
これは――……
瞬間、異変が起こった。