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終末東京で、俺は戦器を握らない  作者: くらげマシンガン
第一章 『アルタ』編
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第五話 幻想少女のイグジット

 地下都市『アルタ』の大通りから少し外れた所に、極めて近代的な高層ビルが建っている。全十六階から成る鉄筋造りのビルには様々な『カンパニー』が所狭しと拠点を構えているが、その中でも三フロアを占有する大きな『カンパニー』の存在があった。


『カンパニー・バイオテクノロジー』。地下栽培を始めとする地下都市の食料製造技術に精通しているカンパニーであり、クリーチャーの養殖や新型寄生虫マテリアル・バグの利用方法についての研究・開発も主な仕事なのだとリズは話した。


 俺は今、そのビルの十階から外の様子を眺めている。現実世界で見る、大小様々で綺羅びやかなネオンは、この地下都市には無い。空間も狭ければ、利用している人口も現実世界から鑑みれば圧倒的に少ないというのが現状だ。


 最も、ゲームなのだからそれは当たり前なのだが――……


 さて。雰囲気的な問題で帰れず、ここまで付いて来てしまった俺だったが。この状況は、何だろう。


 エレベーターを上がった先に見える、『バイオテクノロジー』のロゴを見る。出入口の先にあるロビーで、責任者の男は立ち止まった。


「済まないが、会議室を予約していなくてね。ここで良いかな」


 この時間に、会議室の予約も何も無いだろう。


 リズに『代表』と呼ばれた、責任者の男。彫りの深い顔立ちは、外国人のようにも見えるが――……茶髪に蒼い瞳。背の高い長身で、一般的には美形だと言われそうな風貌だった。代表と言うからには、『カンパニー』における社長のような立場なのかもしれないが、その姿はどうにも若い。


「ジャイアント・ラットの襲撃を受けて、地下栽培所に逃げ込んだと聞いてね。メンバーで緊急会議を行った。お陰でこんな時間だよ」


 男の苦笑に、リズはやり切れないと表現するかのような、苦い表情を見せた。


「……申し訳ありません、代表。今回の件については、全て私の個人的な判断で行いました」


 どうして、リズが地下栽培所の鍵を持っているのか、気にならなかった訳ではないが。


 リズは『カンパニー』の代表に向かって、深く頭を下げた。


 代表は少し困ったような顔をして苦笑し、その場に硬直する。


 俺は所在無い気分のまま、ロビーの隅に立って、二人の様子をただ見詰めていた――他にやれる事がなかったというのが、正直な気持ちではあった。


「今回、私も少し、考えてしまってね。失礼ながら、君抜きの場で会議をさせて貰ったよ」


「いえ……」


 リズは俯いたまま、両の拳を固く握り締めて、その場に立ち尽くしていた。


 代表の方は何かを伝えようとしていて、言い難いそれをどうにも切り出せずにいる。見た限りでは、そのように感じられた。彼は一度、俺の方を見る。……俺をこの場から退場させるべきかどうか、悩んでいるのだろうか。


 それ程に、彼の中に潜む通告と言う名の重圧は、ぴくりとも動かない岩石のように鎮座し、頑固にもその場を動かずにいるのか。


「……君は、エリザの友達かな?」


「ええ、まあ」


 唐突に話し掛けられ、不器用な返事しか出来なかった。だが、代表は頷くと再びリズの方に向き直る……どうやら、俺が聞いていた方が良いと判断したらしい。リズはただ腰から上を代表の男に向かって下げたまま、その表情を確認することは出来ない。


「……リズには、私から伝える。この場は出て行ってくれ」


 その言葉は、代表の後ろに居る、数名の男に向かって放たれた。事情を察し、彼と同じ色のスーツを着た数名の男達はロビーを離れ、何処かの部屋へと入っていく。


 俺は何も言われない。この場に残っていて欲しい、何らかの理由があると言うことだ。


 状況の共有? おそらくリズに伝えようとしている衝撃的な発言の後、フォローをする人物を願ってのことか。


 だとするなら、その内容は相当――……


「もう、終わりにしよう」


 一瞬、リズの身体が震えた。


 重苦しい場の空気が霧散されたかと思うと、その場に張り詰めたような緊張が走った。代表は僅かに震えた声で小さく、リズに向かって呟くように伝える。俯いたリズが大きく、目を見開いたような気がした。


 時間が止まった。或いは、自分の身に危険が迫る瞬間にも似た。代表の男は自らが呟いた言葉に、僅かな後悔と確かな決意を抱いているようだった。


「カンパニー内の君の評価は、最早どうしようもない程に、劣悪だ。好き勝手にカンパニーの資金を食い荒らす小悪魔――――とまで言われている状況なんだ」


「そんな……!!」


「分かっている。だが、聞いてくれ」


 顔を上げて抗議を図ろうとするリズに、代表は両手を挙げて降参のポーズを取った。


「私達は、この世界で収益を上げる為にカンパニーを運営している。……残念ながら、君の『タイムマシンを作る』という夢は、現実世界は勿論、この世界でも夢物語でしかないというのが我々の意見だ」


 リズはただ、奥歯を噛み締めて代表の言葉を聞いている。


「『我々』……」


 リズの呟きに、代表の男は目を逸らした。


 手の平を返された。……一見して、そのようにも見える。だが、どちらかと言うと『ついに』だとか、『やっぱり』と云ったような要素が強いように感じられた。


「リオ・ファクターの正体が分からなくとも、動きさえ把握出来れば『戦器』は作れる。ここに異論は無いだろ?」


 唯一つ言える事は、そこに、変更の余地は無いということだった。


「ゲームの世界に物理の法則など求めても無意味だ。まして、実用価値が無ければ尚更……仕組みは分かっていない、観測すらされていないモノ。タイムマシンが仮に出来るとして、それはいつだ? 『リオ・ファクター』とは、唯のゲームにおける決まり事で、それ以外に使い道が無かったらどうする? 商業戦略があるのか? …………果たしてそれは、いくらになる?」


 広いロビーに、代表の声だけが響き渡った。項垂れたリズは、耐え忍ぶように縮こまって固まる小さな身体の奥に、何かの意志を見せていた。それはとても強い意志であり、衝動的な感情のようだったが。


「申し訳ないと思っている。でも仕事とはそういうモノで、人が増えれば好き勝手にはやり辛くなる……これは最早、私と君だけの問題では無くなってしまったんだ。……この研究は、夢物語。フィクションの領域を出ない研究なんだ」


 初めて出会った時、汚れた白衣に目が留まった。


「これ以上、君を護り切れない」


 現れたのは、身を切る覚悟。


 それだけは、何の事情も知らない俺にも、分かる。


「一ヶ月、あげよう。研究室を整理して欲しい。名刺を返して。一身上の都合で退職、ということにしようと思う。……考えておいてくれ」


 考えておいてくれと言うのは、荷物をまとめ、研究を畳む覚悟を決めてくれということ。そこに勿論、拒否権はない。


 代表の男は、僅かに悲しみを表情に見せた。冷徹に成る事は、出来ないのだろう……それはリズと男との間に、強い信頼関係がある事実に他ならない。


 踵を返して、代表の男はロビーからカンパニーの奥へと進んで行く。


 リズはその後ろ姿を、睨むように見詰め。


「フィクションだから、何だって言うの……?」


 僅かに、リズの輪郭が、揺れた。


「その昔、電子は陽子の中にスイカの種みたいに紛れ込んでいると思われていたわ!! どんな物質にも隙間が空いていて、電子が星みたいに廻っているなんて、最初は認められなかった!!」


 黄金の髪は、閉鎖された空間に揺れる。ターコイズブルーの瞳が、野獣のように喰らい付く。


 立ち止まった代表の背中に、リズは叫ぶように言の葉を叩き付けた。身体を粗雑に傷付ける言葉は、まるで散弾銃のようで――……それはきっと、代表の心にも届いていた。


 誰だって、強い感情の衝突にだけは、変化を受けずにはいられない。


 涙を流す程に、激しい。


「研究は仮説を検証する事から始まるわ!! 便利な世の中を作るのはその先で、お金なんてもっと、その先よ……!! 目先の欲に囚われるのは、愚かだと思いませんか!?」


 それはきっと、代表の心を僅か以上に、揺さぶっていた。


 両手を揃えて自身の胸を握り締め、噛み潰さんばかりに力の込められた奥歯から、苦しむように言葉が湧いて溢れ出す。


「全ての研究は、始めはフィクションでしょう!? この世界だから出来る事を追い掛けようって、話したじゃない!! ねえ、神宮寺じんぐうじさん!!」


 俺には、リズが放った言葉の意味を、半分も理解出来なかったが。


「……そんなに、無駄ですか」


 吐き出された言葉には抗えぬ程の重みがあり、それは抱きかかえた瞬間に自身の重圧を証明し、窪みめり込んで離れない。どんなに力を込めて持ち上げようとも、ぴくりとも動かない程に厚く。


 両足を、氷のように凍て付かせる。


 僅かな、静寂の時間があった。リズに背を向けたまま立ち止まった代表は、最後の最後で『神宮寺さん』と呼ばれた。やり切れないと云ったような顔で天井を見上げ、この場に解答など見付からない事を悟る。


 ひとつ、分かった事がある。この地下都市『アルタ』には、まだ公的に生活の保証された研究者集団が居ないということだ。ゲームの中なのだから、そうなのだろうが。それが『ゲーム内で利益を得よう』という目的の下に集まった集団の中で行われれば、認められない事もまた、自明の理なのかもしれない。


「……君が創った、小型のシンクロトロン……『リオ・ファクター加速機構』は、確かに『バイオテクノロジー』の戦器制作技術に、多大な貢献を齎していたよ。それだけは、疑いようもない」


 如何にゲームの中であろうとも、生きている限り、腹は減る。稼がずに生きて行く事などできない。


 研究に人生を捧げるリズは、此処では邪魔者でしか無かった。


「済まない」


 小さく呟かれた言葉は想像以上に短く、しかしロビー内に張り詰めた緊張に終止符を打ち、重く伸し掛かった重圧を破壊するには充分な威力を持っていた。


 それきり、代表の男は『カンパニー』内部へと入って行く。リズは一人、その場に残された。


 投げ掛けるべき言葉を、もうリズは持っていないように思えた。只、足早に去って行く代表の背中を見詰め、雲のように遠ざかって行く男の存在を掻き消すように、視線を地に落とした。


 ゲームと現実。……確かに、どちらの言い分も分からないではない。


 だが、現実的に考えればリズの願っている事は、あまり必要とされていない事なのかもしれない。現実世界でタイムマシンが開発されるなら、それは人々の心を動かすかもしれない。しかし、この終末東京の世界に限って言えば、過去に遡る事で何かを得られる事も無いのではないかと思える。


 存在していない『過去』に、遡る事は出来ない。終末東京には、歴史が足り無さ過ぎる。


 所詮はゲーム。誰かが作ったものだ。その箱庭の上で決められたルールに従わなかった時に見えるものは、『想定外』という名の味気無い空間なのかもしれないと。


 何故、リズがそこまで終末東京の世界に拘るのか。その理由は、これまでの過程から予想を見出す事が出来る程度には、事情を理解し始めていたが。


 ようやく俺の存在を思い出した様子のリズは、どうしようもなく苦笑をして、頬を掻いた。


「…………外、出てもいい?」


 俺は笑顔を作って見せて、リズに頷いた。




 ◆




「ごめんね、変な所見せちゃって」


 リズの所属していたカンパニー、『バイオテクノロジー』のビルから離れ、俺とリズは再び、初めて出会った円形の広場まで戻って来ていた。既に大通りにも人は殆ど見られず、広場に佇んでいる古めかしいガス灯が、辺りを僅かに明るく照らしている。最も、ガス灯なのは外観だけで、内部構造は電気なのだろうと思うが。


 明るい時こそ違和感を覚えていたが、こうして暗くなってしまえば、夜空と何も変わりがない。『地上』と呼ばれる場所では、一体どのような景色が広がっているのだろうか――……やはり、空は絵画なのだろうか。閉鎖された空間でこそリアリティを保っているが、それよりも大きな空間ともなってしまえば、その存在は作り物めいて見えるのかもしれない。


 この終末東京の世界が、どれ程の規模のゲームなのかにも拠るのだが。


「良いよ、別に。気にしてない」


 時刻、深夜二時半。そろそろ家に戻って寝た方が、明日の為になるだろう。


 いや、いっその事今夜はこの世界で、宿を探してみても楽しいのかもしれないが。


 何故この閉鎖された空間に澄んだ空気が流れて来るのか、それは分からない。だが、湖には僅かに波が立ち、前方から来る風は髪を優しく梳くように撫でる。


 俺達は、円形の広場に設置してあるベンチに座り、湖を見ていた。長い橋の向こう側には、先程まで隠れていた地下栽培所の姿も垣間見る事が出来る。


「聞いてもいいか?」


 特に際立ったきっかけがある訳でもなく、俺はリズに対してそのように問い掛けていた。


 リズは、俺の瞳を見ることをしない。湖をぼんやりと眺め、その透き通るような双眸の向こう側に地下都市とは違う何かを映しているようにも見えた。


 どこか、心が此処には無いかのような。


「あの、『バイオテクノロジー』ってカンパニーで言い合いになったから、走って逃げて来たのか?」


 初めて出会った時。麗しい金色の髪を風に揺らめかせながら、薄汚れた白衣を纏って俺と城ヶ崎の前に現れた少女。その息は上がっていて、肩で呼吸をしていた。


 それがどういう意味を持っていたのか、その場では特定する事が出来なかった。


 だから。


「……すごいなあ。恭くんは何でもお見通しなんだね」


 俺は、首を振った。


「なら、もう分かってるのかな」


 リズはベンチから立ち上がり、前方から通り抜ける涼やかな風を全身で受けていた。既に『カンパニー・バイオテクノロジー』の所属でなくなった彼女は身に着けていた白衣を脱いでいた。その内側は清潔そうな白いボタンシャツとチェックのミニスカートで、それだけを見ていると彼女もまた、一般界隈に居る女性と何ら違いはなかった。


 限り有る天井を見やり、まるで星空のような、朧気に光る電灯を見詰める。


「十五歳の時だったんだけどね。私、『あっちの世界』で事故に遭って、動けなくなって。脳の信号が身体に伝達しなくなっちゃったみたいでね。生きてはいるんだけど、何も動かなくなっちゃったんだ」


 ある程度、予想は付いていた。しかし、それを実際に体験した彼女の口から聞くことは、また違った意味での衝撃があった。


 しかしその言葉は、俺にはあまりにも遠い。


 見ていないもの、感じていないものを他者と共有する事は出来ない。例えそれがどれだけドラマティックで、当人にとっては忘れられない過去であったとしても。


「それでね、お父さんが私を『ゲームの世界』に移動させて、自由に動けるようにしてくれたの」


 それは、他人事でしかないからだ。


 情熱的で幻想的な冒険譚ほど、当事者ではない位置からそれを眺めている分には、緊張も苦労も後悔も、或いは其処に見出した希望でさえも、空気の上に描いた絵画のように、ぼんやりとした淡い輪郭しか、把握することが出来ない。


 だから俺は、安易な気持ちで彼女に共感してはならない。等と、雑念は脳裏を掠めたが。


「私のお父さん、『転移型オンラインゲーム』の開発者だったんだ」


 言葉は前方から来る風のように、湧きて流れて何者にも干渉することはなく、その場を通り過ぎる。


 他人事として聞く内容にしては、小説的過ぎる。


「――――今は?」


 リズは、首を振った。何らかの事情が有るであろう事は、俺にも分かった。


 薄々、気付いてはいた。ゲームの世界に転移して傷付いたとしても、現実世界でその傷を負うことはゲームの常識的に無いであろうと予想出来ること。つまりそれは、現実世界と終末東京の間に生まれる肉体の互換性とは完全なように見えて不完全なものであり、部分的にはリンクしていない事を意味する。


 意識がどちらかにあると云うだけで、まるで身体は二つ存在しているかのようだ。そうでなければ、実際に傷を伴うゲームで死亡した後にログアウトされ、何事も無かったかのように現実世界へと還って来る事の説明がつかない。


「分からない。……最後に私を『終末東京』に移動させてから、それきり」


 逆に言えばそのシステムとは、現実世界で受けた如何なる傷も、終末東京の世界ではまるで無かったかのように振る舞う事も可能だと示している。


 そうして、エリザベス・サングスターは蘇生された。『決して現実世界に行かない事を条件として』、自由に活動する事のできる肉体を、再度手に入れた。


 それが、彼女のログアウトを不可にした、最大の理由だったのか。


「それで、終末東京の科学に興味を持ったのか?」


 リズは頷いた。


「この世界では、冒険者としての研究者の立ち位置を『科学者サイエンティスト』って呼んでいるんだけどね。リオ・ファクターの変換性能を理解して、戦器や防具を作るのが主な仕事で。でもそれって、科学者だから出来るって訳じゃないんだよ。『そういう研究』に興味のある人間が、ログインする事で『科学者』っていう称号を得る。それだけのモノなんだよね」


 ならば、俺の自遊人ニートという職業もまた、俺の人間性に基いて与えられた称号だということか。


「でも、この世界の科学者は戦器や防具を作る事ばっかりで、自然現象としての性質を研究したりしないんだ。……私はそれが、寂しくて」


「そんなに、面白いものなのか」


 リズは頷いて、カンパニーを出てからようやく、俺に屈託の無い笑みを見せた。


「二千云年のどこかで、突然変異メタモルフォーゼが起こって、新型寄生虫マテリアル・バグが大量発生して、動物がおかしくなった……ってストーリーにはあるんだけどね。これって『リオ・ファクター』の出現によって、世界の在り方が変わったって事を示していると思うの」


「在り方、か……」


 暫しの間、リズは顎に指を添えて考えていた。


「多分だけど、ひとつ言えそうなのは、『光速度を超える素粒子の肯定』」


 俺は、どこか楽しそうに語るリズの言葉に、耳を傾ける。


「現実世界では、光速度を超える素粒子――――つまり『光子フォトン』を超える速度の物質は存在しないとされたの。質量=エネルギーの法則にも示されているけど、物体は質量を持っている限り、絶対に光速度には到達できない、という理論があるのね」


「そうなのか? あんまり、そういうのは詳しくないから……」


「フォトンは、『質量』を持たない素粒子だから。物体が光速になる時、全ての質量はエネルギーに変わってしまう。つまりそれは、物体が物体では無くなってしまう事を意味しているの。だから、全ての物体は光速には成れない」


 少し難しい話だったが、まるで理解出来ないという程のものではなかった。そこには複雑な数式や実験があったのだろうが、リズはその実験については話さなかったからだ。


「同時に、光速度に近付けば近付くほど、そのエネルギーについて、時間の進み方が速くなるんだ」


 どうにも幻想的な話で、しかし抽象的ではない。不思議な気分にさせられた。


「時間の進み方が、速くなる……?」


「例えば、光には『慣性の法則』が通用しないの。電車に乗っていても、立ち止まっていても、そこから発される光の速度は変わらない。それっておかしいでしょ? 例えば動いている電車の中でボールを投げた時と、普通にボールを投げた時、立ち止まっている人から見たら、速度が同じなんてことがある?」


「そりゃ、人は電車に追い付けないんだから、どう全力で投げたって、電車の上で投げたボールの方が速いんだろうけど……」


「そうなの!! 変でしょ、速度は距離を時間で割った数なんだから、光の速度が常に一定なら、その代償は距離と時間の両方で調整しなきゃいけなくなるの。だから光速に近付けば近付くほど、時間の進み方は速くなる。未来に行くんだ。これは実際の研究でも、もう証明されていることなの」


「そう、なのか……」


 段々と話は難しくなり、リズの言っている事を直ぐには理解出来なくなってきた。その事に気付いたからか、少し俺に向かって身を乗り出すようにして話していたリズは羞恥心に頬を染め、大袈裟に咳払いをした。


「ごめん、ちょっと脱線した。夜だからかな……」


「構わないよ。それで?」


「光速度は特別な速度だったんだけど、じゃあこれを超えたモノっていうのがどうなるのかっていう話があって。現実世界では観測されていないんだけど、最初から速度が無限大で、エネルギーを与える程減速する素粒子っていうのもあるだろう、って……ごめん、難しいね」


「うーん……すまん、分からないけど続けてくれ」


「この粒子はね、光速度に近付く程『時間の進み方が遅くなるんじゃないか』って言われているの」


 ――――タイムマシン、か。


 リズが話している内容の殆どは理解出来ないものだったが、それだけは把握する事が出来た。俺が顔色を変えたからだろう、少し嬉しさと安堵が入り混じったような表情で、リズは右手の人差し指を立て、俺に見せた。


「時間の進み方が遅くなるって言っても、基準は何処から? ……分からないよね。だから、『過去に向かう粒子』とも考えられるの。これをうまく使えば、私達の時間軸から見れば、恰も『転移した』かのように、或る場所から或る場所へ移動する事も可能なはず。変な話だけど、『エネルギーが無い時の速度は無限大』だから、観測する事はできない。もしそれに、決まった量のエネルギーだけを加えられるのが『リオ・ファクター』なら……っていう、予想、の話」


 つまりリズは、現実世界にはない概念を使って、『タイムマシン』を作ろうとしていた。


「『タキオン』って呼ばれるんだけどね。私は、リオ・ファクターはこの粒子が現れた結果なんじゃないかって思ってるんだ」


「それがあれば、ゲームの中だけでも『タイムマシン』が作れるかもしれない……?」


 リズは頷いて、俺の両手を握った。リズが話している内容のうち、『タイムマシン』に通じる部分だけでも、俺が理解したからだろう。輝くような笑みを浮かべ、俺に好意を示した。


「リアルには、そんなモノはないよ。時間軸の基準がおかしくなっちゃうから。……だから、認められない」


 しかし、それはまた、同時に憐れな様でもあり。


 その顔はあまりに眩し過ぎて、どういう訳か、俺は見続けているのが彼女に悪いような気がして、目を逸らした。


「……そろそろ、帰るよ。時間も遅いし」


「うん」


 そう言う彼女は、しかし俺の手を離す事をしない。


「皆、この世界をゲームだと思ってるから。だから、世界の法則を追い掛けるのは無駄だって言うんだ。……確かに、それはそうかもしれないよ。そこには意味なんて無くて、突き詰めてみたら単なる設定でしかないのかもしれない。でも、それでも良いの」


 悲しみの色は、見られない。精一杯の微笑みで、彼女は言う。


「良い、とは?」


 それは、幾らかの強がりにも似たような、複雑な感情だった。


 今にも涙を零しそうな程に張り詰めた表情の彼女は、しかし笑っていた。とびきりの希望に満ちた笑顔で、絶望に満ちた未来へと飛び込んで行くかのように見えた。


「私にとっては、この世界は『ゲーム』じゃないから」


 鳥肌が立った。


 知っているんだ。……自分が、もう現実世界では……一般的にひとが暮らし、生きる世界では、自分が生きて行く事は出来ないという未来を。誰かが作った箱庭の世界でしか、笑うことも怒ることも、悲しむ事さえ出来ない事実を。


 それは、どのような気分なのだろうか。俺には分かる理由さえ、見当たらなかったが――……半端な覚悟では彼女の内側に踏み込むことは叶わないと、言外に示しているかのようだ。


 ほろり、と。


 初めて、彼女の頬を涙が伝った。輝くような目で真っ暗な未来を見詰める瞳の奥に、しかし確実に俺を捉えていた。


「下らないとか、つまらないとか、『本物』に生きている人は言うんだと思う。……でも、私にとっては、この世界が『本物』だから。ここが、私の生きる世界だから」


 こんな時、どのように声を掛ければ良いのだろうか。俺には理解しようもない絶望を抱えている彼女に、なんと言えば。


「『タイムマシン』があれば、このゲームが終わる時に、皆が遊んでいる時代に戻れるかもしれないでしょ? 夢物語でもいいよ。寂しくない方がいい」


 手を離してしまえば、ひとたび光の差し込まない深海へと堕ちて行く。誰も自分の事に気付かず、声を掛けても心は共有出来ず、ただ孤独な世界を旅する微生物になる。


 きっと、それは堪らなく、怖い。


 世間から外れた、等という生易しいものではない。きっとそれは、全世界に存在する生命が自分ひとりになってしまった時のように淡く、幻想的なものだ。


 誰も、自分と同じ立場ではこの世界に存在しないのだ。ログアウトすれば、また何の声も聞こえず、話せず、誰とも心を通わせる事が出来ない世界に逆戻りするのだから。


 死去する事と何が違うと云うのか。或いは、それよりも辛いかもしれない。


 神宮寺と呼ばれた『カンパニー・バイオテクノロジー』の代表は、リズに向かって『君を護り切れない』と言っていた。人数が少なかった頃は、リズの願いを受け入れてやっていたのだろうと思えた。


 始まってから一度も、サーバトラブルの無いゲーム。


 城ヶ崎がそのように呟いた言葉の重みを、今更ながらに感じる事になった。


「夢なら、見るよ。……ずっと、夢を見てるみたいな気持ちだから」


 どういう訳なのか、その儚げな様子を見て、美しい等と、的外れな見解を抱いている自分がいた。


「……また、来るよ。もう少し、やってみたいと思うし。このゲーム」


 そう話すと、リズは嬉しそうな笑顔で頷いた。開いたステータスウィンドウから、無言のままで『フレンドコード登録』を選ぶ。リズも同じように、自身のステータスウィンドウを開いて、俺をフレンド登録した。


 リズの写真を選ぶと、その住居と電話番号が表示される。テキストチャットは無さそうだが――……涙を拭いたリズが、今度は平常心のままの笑顔で、俺に問い掛けた。


「そっか、電話、まだ無いもんね。……ログインが見えたら、またコア・カンパニーのロビーに行くよ」


 リズの写真をタッチすると地下都市『アルタ』のマップが表示された。或る一転が黄色の光で点滅している。……これは、リズの現在値を表すものか。


「分かった。城ヶ崎と二人で、待ってるよ」


 笑顔で頷くリズを横目に、俺は『ログアウト』を選択する。


 瞬間、俺の全身を真っ白な光が包んだ。あまりの眩しさに目を閉じ、その視界からリズの姿が消える。


 短い時間の中に、あまりにも多くの内容が詰まっていた。終末東京の世界に生きる幻想、エリザベス・サングスターを前にして、俺は今一度、白銀色と翡翠色に光る無数の粒に巻き込まれ、その居場所を定かでは無くしていく。


 ちらりと見えたリズのステータスウィンドウに書かれた記述の事が、少しだけ気になった。


 アビリティのことだ。


 俺は、『負け犬の勘違い』だった。城ヶ崎は、『重量変化』。そこに、まだ見た事の無いアビリティの名前が記述されていた。


 そこには確かに、『存在の不確定フローティングゴースト』と。そう、表示されていた。


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