第四十二話 集う
飛行機を降りた先で、長旅の疲れを紛らわせる為に伸びをした。
「大丈夫かい、恭一。飛行機に慣れてないみたいだったけど」
「ああ、まあ、大丈夫だ……」
自身の三半規管の弱さに辟易しながらも、はっきりとしない頭で周囲の様子を確認する。……随分と、遠い所まで来た。チケットの買い方から分からなかった俺は、全てをトーマスに任せてしまっていたが――……確か、国内線だ。パスポートを必要としていないのだから、そうなのだろう。
最も、日本国外に出た事など無い俺に国外線の利用法など分かる筈も無かったが。……そういえば怜士兄さんは、何度か国外に出ていた。
「トーマス、ここから遠いのか?」
「それなりにね。最寄り駅に着いても山の中だから、少し歩くよ。人里離れた場所を敢えて選んでいるみたいでね」
そう言うトーマスは、何処か懐かしそうにしている。
辺り一面、まるで見た事もない場所だ。空港から辺りを見回す限りでは、それほど東京と差は無いが……間もなく、その利便性と長閑さを実感する事になるだろうか。
電車とバスを乗り継いで、長時間を移動する。道中で昼食を取り、俺とトーマスは目的地を目指した。現実世界では、終末東京世界のように転移する事は出来ないし、『リオ・ファクター』の存在しない世界では、バトルスーツも何の役にも立たない。一度家に帰ってから、一応念の為にとバトルスーツは持って来ていたが。当然の事ながら、圧倒的な平和さに呆れもした。
道行く人は、終末東京世界のように地上に出る事に怯えてなどいない。怯えていないばかりか、何処かNPCよりも空気が間延びしていて、一見すると間抜けなようにも感じられる程だ。
決して、彼等彼女等が間抜けな訳ではない。ただ、終末東京世界と比べて、この世界は平和過ぎるのだろう。
「……一つ、聞いてもいいか」
「何かな?」
目的を持たない人々。生きる事に不安が無い現代人に取って、生活が安定している事の貴重さ――価値など、幾らにも満たない。
目標があるからこそ、充実していると云う考え方がある。過去に生きていた人間の多くは今よりも短命で危険もあったが、或る意味では退屈など感じていなかっただろう。そんな暇は、無かった筈だ。
決して、NPCの方がより良い人生を送っているとは思えないが。
「……トーマスはさ。不死について研究しているって、言ってたじゃないか。……どうしてだったのか、聞いてもいいか?」
俺がそう問い掛けると、トーマスは微笑みを浮かべた。
「どうしてだろうね。……ただ、今の時代では考えられないような何かを、見届けてみたいという想いなのかもしれないな」
それは、何処かで聞いたような話ではあった。しかし、トーマスの口から聞くと、それは恰も物事の本質であるかのような重さがあった。
トーマスを見ていると、何処と無く、大局の流れを確実に捉えているような気がする。何らかの分析があり、何らかの根拠があったからこそ、そういった判断を下しているのではないか。
そう思わせるのは、彼の人柄故の事ではあるのだろうが。
「誰もが夢に思っていて、今現在もなお、成し遂げる事が出来ないものだよ。人間が空を飛ぶようになった事のように、どれだけの時間を犠牲にしても、誰もが辿り着けなかった境地とやらに辿り着いてみたい。なんだか、私はそういうモノに興味が湧くようでね――――そういう意味で、レイジやニコラスとは相性が良かったのかもしれないね」
或る意味では、開発者もまた、研究者と云う括りに含める事が出来るだろうか。
常に最善を追求し、新たな技能に興味を示し、自身の欠点を克服し、そして、新しい物を創造する。研究者とは、孤独な生物だ。誰にも共感されなかったとしても、理屈として理解出来る極限の部分まで掘り下げ、それを左脳で理解できる技術にまで発展させる。
まるで芸術のようだ。理解出来ない人間からしてみれば、それは無価値なものとしか映らない。だが、誰に否定されてもその研究を辞めることはない。
真価を問い詰める事の面白さに、気付いてしまった人間というものは。
「…………そうか」
怜士兄さんも、そしてエリザベス・サングスターも、また。
俺は、どうだろうか。
俺には、何かを研究したり、何かを創造したりするような能力はない。それだけの気力も持ち合わせていないし、続かないだろう。それは、心が折れてしまったからだ。自分よりも遥か先を、自分には到底出せない速度で登って行く人間の背を見て、あれは真似出来ないと思ってしまったからだ。
それは、悔しい。或いは、一人置き去りにされた時のような悲しさがある。
孤独――――しかし、今にしてみれば、先を走っている者もまた、孤独だ。当時の俺は、その事実に気付かなかったが。
「恭一は、そういうものに興味を持ったりしないのかい? レイジみたいにさ」
「いや、俺は…………」
若しかしたら怜士兄さんは、俺に追い付いて欲しかったのかもしれない。同じ目的を達成する為の仲間の一人として、俺を迎え入れるつもりだったのかもしれないが。
そんなものが理解出来る年齢になる程に時は経っていたが、時が経った今、木戸怜士は居ない。
皮肉なものだ。
◆
都会の喧騒を離れ、空港から更に移動した。見上げれば、木々の隙間から薄っすらと空が顔を出している。
……かなり、歩いたが。近場にスーパーマーケットやコンビニエンスストアなど、生活する為に必要と思われるものは何も発見出来なかった。本当にこのような場所で暮らしているのだとすれば、それは相当な物好きか、人付き合いが苦手な類の人間だろう。
「…………あれか」
「ああ、そうだ」
問い掛けると、トーマスはそう言ったが――――とてもではないが、人の住処には見えない。
高度のある山の途中――――森林の中に、くり抜かれたように草原がある。その中心に聳え立つ、古びた洋館。一見すると、テレビドラマの殺人現場にでも使われそうな建物だった。
不自然だと思える程に一部だけ丸く広がる草原は、背の高い木々に囲まれ、光が当たっているにも関わらず、どこか暗い雰囲気を纏っている。人ひとりが住むには余りに広すぎる敷地、人目に触れる事の無い場所、閉鎖された空間。寧ろ、こちらの方が終末東京世界よりも、余程ゲームに近いのではないかと思わせる。
「変わった男なのか、ニコラスってのは」
「そうでもないよ。少なくとも、昔は何処にでも居るような、家族を愛する一人の主人だった」
険しい顔で、トーマスはそう言う。館の正面入口に立つと、インターホンを押下してニコラスを呼び出した。
そこに何があったのか等と、無神経に聞く事は流石に無かったが。俺は密かに、トーマスとニコラスの――そして、木戸怜士との関係性について、疑問に思った。
「ところで、私が名前を出しても扉を開けてくれないよ? ……恭一、どうするつもりなんだい?」
「そこは、安心してくれ。幾らでもやりようはある」
そう言いつつ、俺は既に次の事を考えていた――――程無くして、インターホン越しに、僅かに機械的な音声が聞こえて来る。
『いらっしゃいませ。どちら様でしょうか』
ロボットも当初こそ片言でコミュニケーションを取り、『ロボット語』等と呼ばれていたが。現代ではすっかり、声質以外は人間と大して変わりない流暢な喋り口調だ。やや機械染みた音になっているのは、人間とはっきり区別させる為であり、技術的には既に人間と変わりない声を扱えるとの情報もある。
しかし、窓口にロボットとは。余程、外部の人間とコンタクトを取るのが嫌なようだ。
トーマスを制し、俺はインターホンの向こう側で聞いている筈の人物へと、言葉を投げ掛ける。
「木戸恭一だ。『ファンタジア』について、聞きたい事がある。会って話がしたい」
扉を開ける事など、そもそも初めから問題にはなっていない。俺が来れば、奴は扉を開けるしかないだろう。
ニコラスにとって、俺という存在は恐怖を覚える対象の筈だ。嘘を吐き、封じ込めた。恨みを持っていると考えるなら、要求を断れば何が起こるか分かったものではない。
最も、今の俺が激情に駆られて悪事を働く事など、有り得ないが。
『…………お待ちくださいませ』
予定通り、入口の門が開かれる。トーマスは多少なりとも驚いているようだったが、俺の立場からしてみれば当然の事だ。
背の高い塀の向こう側にあったのは、遠目にも確認出来ていた、古びた洋館そのものの姿。電気が通っているのかさえ怪しいのではと思えるような雰囲気だったが、ロボットが動いている様子を見る限りではライフラインは揃っていると考えるのが自然だろう。
わざわざこんな場所に拠点を構えてまで、外界から隔離されたかったのか。
「こちらにどうぞ」
登場したのは、金色の髪に碧眼の女性。……しかし、人間ではないと直ぐに分かった。
女性型のロボットが、俺達を出迎える。中に案内されつつも、さり気無く、そのロボットの様子を確認しておく――……人工知能を積んだロボットの商業的普及が始まって日が浅いとは云え、使用人ロボットは人々を支える存在として、最も初期からあったものだ。しかし、古いものではない。きちんとした人間に見えるし、材質にも拘っている。……これは、人形会社との連携で作られる『完全人型ロボット』だ。こんな辺境の地にあるとは思わなかった。
「ニコラスは?」
「ニコラス様は、奥の部屋でお待ちしております」
完全人型ロボット…………『いつも、となりに』のキャッチコピーで知られる、玩具の領域を超えたコミュニケーションロボットだ。値が張るので、早々見掛けるものではないが。俺も一台くらい用意しておこうかと、一人の時に思っていた事はある。結果として、寂しさが増すような気がして購入には至らなかったが。
提供会社のロゴを確認すれば、細かい年式までは分からずとも、ある程度の性能は把握出来るものだが……ロゴが入っていない。一目で人間ではないと分かるように区別を付ける為、国際基準で額か手の甲と決まっているものだが。
故意にロゴを消す場合、外界での使用が禁止される。……通常、法律違反を犯してまでロゴを隠して外を歩かせる事はない。
或いは……自作、か?
「……あんた、名前はあるのか?」
そう問い掛けると、女性型ロボットは振り返り、俺に笑みを見せた。
「ベティと、お呼びください」
思わず、立ち止まった。
「恭一?」
――――予想が確信に変わった瞬間だった。ある程度、当たりを付けていた内容ではあった。
混沌としていた、これまでの経緯。謎が謎を呼び、幾つもの疑問は複雑に絡み合い、迷路のように歪んで何度も行き止まりを経験した。ニコラスと呼ばれる男に会う事で、俺は全ての謎が解けるのではないかと、期待もした。
今、思う。
正に、ニコラスこそが終末東京の謎を解く、全ての鍵だったのだ。
扉が開き、暗い廊下に光が差し込む。その陽光に一瞬の眩しさを感じながらも、向こう側に居る人物を俺は確認した。
「…………ベティ。表を開けろとは言ったが、ここまで連れて来いとは言っていない」
場所は書斎か、オフィスか。会議用なのか、仕事机と思わしき物の近くにソファとテーブルがある。部屋の隅には、使い古された様子の本棚。
いつか見た、くすんだ金髪の男。必要以上に痩せていて、骨が見えている。すっかりこけた頬に、覇気の無い瞳。ダークブランとベージュで構成されたチェック柄のドレスシャツは既にぼろぼろで、袖の部分が解れている。
色褪せたソファに座ったまま、女性型ロボットを睨んた。
「申し訳ございません、そのように受け取りました」
「次から来客用の部屋に通せ。ったく…………」
俺の知っている、男だ。たった一度、怜士兄さんの最期を、共に立ち会った。あの時から考えても、随分と歳を取ったように思う。
年齢的には、まだ老人とは言い難い。彼の格好と姿勢、そして態度が、そのように感じさせるのだろう。
男は俺を見ると、すっかり隈の出来た瞳を鋭くさせた。
「久しぶり、と云うような仲ではないな」
知らず、心臓は高鳴る。初めての相手でも緊張するのに、それが因縁の男となれば尚更だ。俺はこの男の経緯も、事情も、性格も知らない。会話の内容に予測が付かない事は、コミュニケーション能力に問題がある俺にとっては、高いハードルとなる。
「…………あんたが、ニコラスだな?」
だが、怖気付いてはいられない。俺は胸を張り、男にそう言った。
「トーマス。やはり、お前が教えたのか」
俺の事などまるで無視するかのような態度で、ニコラスはトーマスを睨んだ。トーマスは苦笑したが、特に悪気を覚えている様子ではなかった。
「ちょっと、確認したい事が出来てね。久しぶりニコラス、会えて嬉しいよ」
「お前が出先に立っていれば、断る理由にもなったものを」
だが、そうは行かなかっただろう。トーマスが出ていたとして、どの道俺が呼び掛ければ、ニコラスは応えるしか無かったのだから。……以前に見た時よりも、随分と傲慢な態度だ。いや、度重なる心労と苦痛から、全てを諦めてしまった態度とも言えるだろうか。少なくとも、俺にはそのように見えた。
「どうした。今更、俺に復讐でもしに来たのか?」
ニコラスの言葉に、俺は自然と過去を思い出す。
「いや――――――――」
復讐、か。確かに、以前の俺ならばそのように考えた事もあったのかもしれない。見るもの全てを敵だと思い込み、自暴自棄になった事も一度や二度ではない。
だが、今になって思う。
苦しい思いをしているのは、自分だけとは限らないのだと。
『そいつが勝手に入って来て、私を殴った……!!』
あの時、ニコラスが言った言葉を、俺は忘れない。……だが、あれは或る意味で、正解でもあったのだ。俺は確かに、勝手にプロジェクトに侵入し、ニコラスの罪を決め付けていた。それは正解で、ニコラスは確かに、『ファンタジア』と名乗るゲームを開発していたリーダー格の存在で、責任者だった。
人はひとつの出来事――事実――を、大抵ひとつの角度からしか眺めていない。ものの数秒で把握し、理解した気になっている。だが、真実は大抵の人が思うよりも深く、そして複雑なものだ。
ニコラスが取った行動は、傍から見れば確かに許されるものではない。問題は、ニコラスがその行動を、どういった動機で取ったのか。その部分にあるのではないのか。
俺も間違っていない。ニコラスも間違っていない。ならば、あの日に行われた事は、たったひとつの必然でしかなかった。
「エリザベス・サングスターという女性を、知っているか。……ニコラス。……いや、『ニコラス・サングスター』で間違いないな?」
ニコラスの眉が僅かに動く事を確認し、俺は言葉を続けた。
真っ青になって、滝のように汗を流していた男。その向こう側には、怜士兄さんがいた。だが、よく考えて見れば不可解な点はあった。
それは、『あの時本当に、ログインしていたのは兄さん一人だったのか』と云う問題だ。それだけだった。
『それでね、お父さんが私を『ゲームの世界』に移動させて、自由に動けるようにしてくれたの』
確かにリズは、そう話していた。転移型オンラインゲームが開発されたのが最近で、誰にも知られていない技術だったのは確かだった。だから、これだけ関係が近かったとしても、何ら不自然な点ではない。
『互いに情報交換しながら、技術開発を進めていたんだよ。レイジは、架空の世界で生きる方法を。ニコラスは、ヒトの身体を再構成して救う方法を。そして私は、不死について研究していた』
ニコラスは、ヒトの身体を再構成して救う方法を研究していた。これもまた、リズの話だと仮定すれば全てが回り始める。
トーマスが終末東京世界にニコラスが関わっていると勘違いしていたのも、これが理由だ。トーマスは、リズの居る場所を追い掛けていたのだろう。『デッドロック・デバイス』の真実を知った時、真っ先に考えたのは、リズの事だったに違いない。トーマスの思い描いたストーリーは、『ニコラスはリズを救う為に、終末東京としてサービスを公開した。だが、何者かが終末東京の情報を書き換え、事件を起こそうとしている』と云う内容の筈だ。これでも、事実は一致する。
改めて、推測など不確定なものだと思い知らされる。推測は推測でしかなく、事実ではないのだ。
しかし、充分な情報から考えられる推測は、限りなく真実に近付ける事ができる。
「最近、『終末東京オンライン』と名乗るゲームのサービスが始まっている。……そこに、彼女がいる。元は『ファンタジア』に居たんだろ、何かがおかしいと思ったんだ。『ファンタジア』のソースは今、どこにある」
単純な話だ。転移型オンラインゲームを開発する事の動機は、三者三様だったのだろう。だが、ニコラスのプロジェクトへの参加理由には、リズの事故が関わっていたのだ。
彼女を救う為には、最早人体を再構築する程のモノでなければならないと考えた。詳細は闇のままだが、それ程の事故だった事は確かだ。確か、『人間の新しい住処にも成り得る』と怜士兄さんが話したのは、プロジェクトが立ち上がる前の話だ。と云う事は、発案者は恐らく怜士兄さんで、それにニコラスとトーマスが参加する形で始まった。
誰もがリーダーだったのだろう。だが、ニコラスの動機は『リズを救うこと』だった。
「…………どうして、それを?」
「ここに来て、ピンと来たよ。……俺はあんたと違って、海外の事情には詳しくないが。……『リズ』も、『ベティ』も、『エリザベス』って名前に付けられる愛称だってな」
自身が開発していた、自身の娘を救う為の『ログアウト』の仕組み。その試験だった筈だ。ニコラスは予定通りに実行し、そして大切な友人を失い、絶望に堕ちたのだ。
余程の覚悟が無ければ、出来なかっただろう。『自身の娘を、自身の開発した未完成なゲーム世界に落とす』等という行為は。何処でどのような問題が発生するか分からないし、何かの影響で一瞬にして、人の命が失われる可能性もあったのだから。
「開発者があんたじゃ無い事は、分かってる。誰にソースを渡したんだ」
計り知れない。
覚悟を持ち、勇気を持って、人を救う為の技術を開発していたのだ。後戻りは、出来なかった。その意思があったからこそ、怜士兄さんは試験を受け入れたのかもしれない。
そうして、ニコラスは自分に負け、破滅したのだ。
自らの、娘を賭けて。
「……誰にも渡していないが。気のせいじゃないのか」
「それが今、何処にあって、どんなハードウェアなのか知らないが、当時のシステムを何処かに保管している筈だろ。その場所に案内してくれないか」
「何を言っているんだ。そんな理由なら帰れ」
「これを見てくれ」
終末東京世界から直接移動して来た事は、この問題をニコラスに理解させるに当たり、良い影響を与えるだろうか。俺は鞄から、終末東京で使っていたスマートフォンを手に取り、操作した。目的は、スマートフォンの中に保存されている写真。
写真の嫌いな俺は、滅多に自分の写真を撮ることをしない。……だが、時折リズから送られてくる写真は、保存するようにしていた。
リズが写っているものも、何枚か、あった。ニコラスはその写真を確認すると、眉をひそめた。
「……よく、似ているな」
「似ているんじゃない。本人なんだ。あんたの娘は、まだ生きている」
俺がそう言うと、ニコラスは首を振った。何かを諦めたかのように――……椅子から立ち上がり、すぐ近くにある本棚へと歩いた。
「ベティ。人数分のコーヒーを」
「承知致しました」
女性型ロボットをその場から退出させると、ニコラスは本棚から一冊の本を手に取った。背表紙には何も書いていない。塗装が剥がれ落ちてしまったのか、どうにも見窄らしい様子だった。俺とトーマスには、その中を確認出来なかったが。
何枚か捲ると、ニコラスはふと、溜息をついた。
そうか。……アルバム、か。
「…………怜士の弟か。…………済まなかったな、あの日のことは」
今更、何を謝られた所で現実が変わる事はない。だが、俺はその先に続く言葉を待った。
俺は、終末東京世界にリズが存在している事の証明をした。それでも納得が出来ないのは、ニコラスに何か、納得出来ないだけの理由があるからだ。
「だが、木戸怜士も、私の娘のエリザベスも、既にこの世を去った。……だから、何処かのゲームに移動していると云う事は有り得ない」
「……どうして、そう思う?」
「それは、不可能だからだ」
ニコラスは確信を持った表情で、そう告げた。
「木戸怜士がログアウトしようとして消滅したのは、よく覚えているだろう。……あの後、私はプログラムを持ち帰って、どうにかエリザベスをソースコードの海から救出出来ないかともがいた。しかし、難しかった……何しろ、入る事が出来るのに出る事は出来ない、蟻地獄のようなプログラムだ。救出は困難を極めた」
本棚の前に立ったままで、ニコラスはこちらも見ずに言う。
ニコラスの認識では、リズはとうに死去したという事になっているらしい。自分がプログラムを持ち帰り調査したのだから、まあ当然と言えば当然――……若しも本当に、ニコラスの認識に抜け道が無いのだとすれば、俺の予想は考えられる最悪なものに変化する事になる。
俺は今、二つのシナリオを同時に考えている。そしてどちらも、実現する可能性のあるものだ。片方はエリザベス・サングスターが生きている道。そして、もう片方はエリザベス・サングスターが死んでいる道。
可能性はどちらにもある。……だから、この際どちらが真実でも、俺は受け入れるつもりでいる。
だが、思う。
俺としては、前者であって欲しいと。
「遂に、私は改善したつもりのプログラムで、私の娘を殺してしまったんだよ。世界は消滅した――……『ファンタジア』はもう、何処にもない。若しもやるとしたら、一から世界を作り直す必要がある。誰の想像も付かない世界を、もう一度だ」
「それが、終末東京なんじゃないのか」
「だから、有り得ないと言っているだろう!!」
扉が開き、女性型ロボットがコーヒーを持って現れた。プレートに置かれたティーカップを、部屋のテーブルに順に置いて行く。……全員、立ったままだ。俺とトーマスは出入口の直ぐそばに、ニコラスは部屋の隅、本棚の前に。
「コーヒーを、お持ちしました。……『お父様』?」
ニコラスの挙動に変化を察知したのか、ベティは不安そうな顔をしてニコラスに向かって行く。その様子に、ニコラスは舌打ちをした。
『完全人型ロボット』の、最も人間的な動きとして有名なものだ。高齢者の寂しさを拭う為、家族として存在する為だと言われる。恰も感情があるかのように振る舞うのは、芸術的だと評価もされた一面だ。
だが、本当の意味での感情ではない。
ロボットは、人間を絶対に裏切らない。それは、そのようにプログラミングされているからだ。AIによる自己成長プログラムには、基本的に感情と云うモノは存在しない。ロボットは初めから、最も合理的に動くように作られている。ロボットにとって、感情は必要の無いものだ。
だから、それが偽りの仮面であることは、所有者であるニコラス自身が、最も理解している筈だ。
「空気が無い場所で、人間が生きられるか? 若し新たに世界を作ったとして、『ファンタジア』に残ったエリザベスのデータを、どうやって復活させる。手段はあるのか? 無いならば、作らなければならない。それを達成するのに何年掛かる? 『ファンタジア』が消えた時点で、ゲームとしては既に成立しないんだ。従って、世の中にも登場させられない。そんなプロジェクトに人を参加させる事は出来ない。だから、既にエリザベスの救出は無理なんだよ」
ニコラスは、ロボットを抱き締めた。そのままの状態で、涙を流していた。
「知識もないのに、勝手な事を言うな」
知らず、俺から冷汗は流れた。
ニコラスは間違いなく、技術を持った人間だ。その男が、これだけの絶望を感じている……外部の人間が調査して改善する事は、不可能に近いのか。そして、それを実行するメリットが無ければ、達成もしない。
だが、若しもそうだとしたなら、トーマスが此処に来る前に話していた、『ファンタジア』と終末東京の類似性について、どう答えを導けば良いのか。
「誰にも分かるものか。……誰にも……」
ニコラスの心は、既に折れている。
解決の取っ掛かりもない。それだけの回数、試行錯誤を繰り返した。それは言外に理解出来る内容だった。その研究と調査について、俺の入る余地はない。
だが、ニコラスは一度も、『リズをログアウトさせた』とは言っていない。『データそのものを削除した』とも。
僅かな可能性だ。しかし、最も真実に近い――――俺の予想は、まだ外れてはいない。……これしか、考えられないのだ。盤上に全ての駒を配置した時、最も美しく、最も合理的な瞬間と云う物がある。俺には確かにプログラムやエンジニアの知識は無いが、自身の予測に、ある種の芸術的な確信を持っている。
「ニコラス、頼む。話してくれ…………ソースコードは、何処にある」
可能性に賭けるとは、決して博打をすると云う事ではない。
高い可能性を見つけ出し、そこに試行を繰り返すものだ。そうして完成された『凡そベストな理論』は完全ではないが、機能する物と成る。そうして、新たな世界は構築されていくものだ。
百パーセントなど要らない。俺には、手繰り寄せる事が出来るだけの可能性があればいい。
――――来い。
繋がれば良いのだ。事実が繋がれば、それはより強固になる。ニコラスの発言が一致すれば、最早俺は真実を見たも同然の位置まで来ているのだから。
「…………悪いが、ここには無い。救出が無理だと分かってから、娘を最も理解していた人間の所に届けたよ」
「ニコラス。その人物の、名前は――――」
危うく、言い掛けた。
俺は思わず、笑みを綻ばせていた。
「…………神宮寺。神宮寺、典正という」
可能性はまだ、繋がっている。




