表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終末東京で、俺は戦器を握らない  作者: くらげマシンガン
第四章 『サンシャイン・シティ』編
40/54

第三十九話 信頼の根拠

 俺は、考えていた。


 不条理で理不尽な現実世界と相反するかのように、都合が良く、居心地の良い世界。気が付けば俺は終末東京の世界に対して、そのような感想を覚えていたように思う。


 此処には、過去の俺を知る者は誰も居ない。だからこそ、俺は遥香姉さんを終末東京の世界に呼びたく無かったのではないだろうか。


 ミスター・パペットと木戸怜士に関係性がある事よりも、強い思いとして。初めて終末東京の世界に降り立った瞬間から、過去の自分と決別出来るチャンスなのではないかと、密かに感じていたように思う。


 だからこそ、許せなかった。


 悪戯に現れ、俺の過去をほじくり返す、ミスター・パペットと名乗る存在のことが。


「……花火、終わっちゃったね」


 食事を終えた後の、旅館のベランダ。特に何をすることも無く、花火を眺めていた。今日は何かのイベントだったのだろうか。海の方に向かっていない俺達には、よく分からなかったが。


『サンシャイン・シティ』そのものが、常にお祭り騒ぎを起こしているようにも見えた。そう考えると、花火が上がる事についても、特に大した理由は無かったのかもしれない。


「そうだな」


 祭りの後の静寂が何処と無く物悲しいように、光を照らし終えてしまった夜空は煙が晴れるに連れ、澄んだ空気と共に寂しさを増して行く。


 いや、この花火だけではない。終末東京の世界そのものが、まるで祭りのようで、そのように感じるのだろう。


 この場所が架空の世界だからだろうか。人が作り、人が生み出した架空の世界には、やはり終わりがある。そしてそれは、現実世界では感じようもない程に速く、呆気無いものだ。


 …………空気は乾いていて、どこか尖っている。


 俺は、背後に居るリズに視線を向けなかった。同じ旅館の同じ部屋に、二人。リズの声は虫の羽音か何かのように細く、僅かに震えていた。


 何か、得体の知れない感情が、胸の奥深くを渦巻いていた――……いや、腹からせり上がって、今にも喉から飛び出しそうな気配もあった。


 視界の端に、白い肌が見える。細い両腕は背中から伸びた。


 そうして、そっと。


 暖かく、柔らかな感触と共に抱き締められる。


 肌が触れる瞬間、意識が飛ぶような緊張を覚えた。決して誇張表現では無く、視界は一瞬のうちに白く染まり、全身が総毛立つ程の衝動に打ち震えた。


 気を抜いてしまえば、意識だけが何処かへと旅立ってしまいそうな程に。


「恭くん」


 意識してしまう。それは後ろめたさから来るものなのか、恥ずかしさから来るものなのか、分からなかったが。知らず、唇が震えた。


「なっ……なっ、な…………なんだっ…………」


 俺の動揺に、リズが軽く吹き出した。緊張は羞恥へと変わり、今度は首からのぼせ上がるような感覚があったが。リズの顔は見えず、思考は読めなかった。


「いつもクールなのに、珍しいね」


 僅かに荒くなった呼吸の途中、そのようにリズが呟いた。


「恭くんじゃ、ないみたい」


 そう言うリズもまた、抱き締めた背中から心臓の鼓動を感じる程に、緊張しているようだが。ふとすると、俺は膝が笑ってしまいそうだった。


 大きな勘違いだ。俺は決して、クールなんかじゃない。


 平静な振りをして、頭の中ではいつも洪水から逃げ惑う群衆のように、パニックを起こしている。言葉の端から感情が溢れ出る事を人に見られるのが嫌で、いつも黙っている。


 それは、怖いからだ。人の目にいつも、怯えているのだ。


 固く、心を閉ざした。俺を傷付ける、すべてのものに。いつも警戒し、周囲に意識を張り巡らせる事で、外敵から身を護ろうとした。何より裏切られる事に恐怖を感じ、裏切られるならば初めから付き合うべきでではないと、他者を遠ざける為に素っ気ない態度を取った。


「私、いつかちゃんと、あっちの世界に帰るから。帰りたいと、思っていて……それでね、伝えたいこと、あって……」


 俺とは。木戸恭一とは。そのように、弱い人間なのだ。城ヶ崎に指令隊長だのと持て囃されて、俺がどれだけ内側で緊張していたか。いつか失望し、俺から離れて行くのではないかと、何度想い、胸を掻き毟りたくなる程のストレスに見舞われ、夜も眠れずにいたか。


 何も感じない、鉄の心を持った、強い人間など居ない。


 そう見えるのは、危機意識に呑まれているからだ。俺から離れて行った全ての大切なモノが戻って来ないと分かり、それでも自分を保つ為にはどうすれば良いのかと、考えを纏めた結論だったのだ。


 そうして、何時しか俺は、涙を流すことをやめた。


「私は、恭くんが、好きです」


 未練も、後悔もすべて、意味の無いものだ。


 戻って来ないモノは、二度と戻っては来ない。だからこそ、強くならなければ生きて往く事が出来なかった。強くなると云うのは、通り過ぎる全ての人々に活力や魅力を与えるような、美しい覚悟ではなかった。


 冷たく暗い闇の中を、永遠に歩いて行かなければならなかった。その為に、全てを捨てる覚悟をしなければならなかった。強くなると云うのは、俺を助けようと差し伸べられた手を、自ら振り払う覚悟をすると云う事だった。


 罵声を浴びせ、醜く吐き捨てるように詰り、そんなものは要らないと、背を向ける事だった。


 この場所に来るのは、俺一人だけで構わないと。


「私と一緒に、生きて欲しい」


 それ程に、孤独というものは、重く人の心に伸し掛かるものだ。


 だから、人は孤独を嫌う。そこに批判しか無いのであれば、批判を受けに行くものなのだ。それしか無かったとしても、無関心よりはましだと考えてしまうものなのだ。


 本当に何も無い、人間にとっては。


 怜士兄さんと遥香姉さんは、俺を置いて行ってしまった。親の居ない俺が頼ることの出来る、唯一の存在だった。


 気が付けば俺の居場所は、そこには無くなってしまっていた。それは、紛れも無い事実としてあった。


 二人は俺を愛していない訳では無かっただろう。だが、共に生きて行く事を決断した二人の前に、俺は障害物として一つ、残ってしまった。


 誰にも、必要とされる事のない――――――――


「恭くん」


 熱い想いが、身体中を駆け巡った。




「――――――――泣いてるの?」




 ひとの手は、冷たいと思っていた。


 それは、情け容赦無く、人を攻撃する為の物だと思っていた。武器を握り、いつか誰も周りに立たなくなるその日まで、誰かを蹴落とし続けるものだと。


「いや――――…………」


 今、こんなにも、暖かい。


 振り返り、彼女の手を握る。彼女は少し不安そうな顔をして、俺の返事を待っているようだった。涙を拭いて、リズと真正面から見詰め合う。


 良いのだろうか。


 漠然と、そのような想いは脳裏を過った。


 結果として、兄と姉、二人の人生は狂ってしまった。その輪の中に一時期でも居た俺が今、誰かに必要とされている。この事実を俺はどう受け止めれば良いのか、如何ともし難い迷いがあった。


 それだけではない。これまでもまた、手を伸ばせば、返されて来た。それは俺の日常として当たり前のように存在しており、信じれば後で後悔すると云うのは、幾度と無く経験して来た事だった。


 城ヶ崎にせよ、椎名にせよ、俺は自分がコントロール出来る者しか仲間に加えなかった。悪く言えば、俺の言う事を聞く人間だけ。……背中合わせになっている恐怖から一歩、飛び出す事となる。


 騙されたりは、しないだろうか?


『恭一。……これだけは、覚えておいて。今、表面的には仲良くしているように見えても、『他人』である以上、いつかは裏切られるわ』


 漠然とした、恐怖。


『信じる』という行動に、証明や推測など無意味だ。裏打ちされた信用など、担保のある借入金のようなモノでしかない。……これまでに嫌と言う程こびりついた『リスクとリターン』の考えを捨て、俺は無償で信じなければならない。


「…………リズ」


「うん」


 出来るのか。


 俺に。


「ひとつ…………約束を…………」


 そこまで言い掛けて、俺は目を閉じ、肩の力を抜いた。


 いや。…………良いだろう。


 永遠に、答えなど出ない。兄さんと姉さんの間にあった信頼関係が、俺には永遠に理解出来なかったように。俺のそばにあるモノもまた、俺自身にしか理解出来ないものだ。


 ならば、覚悟をしよう。


「いや、いい。――――そばに、居てくれ」


 どこかで、出逢っていたような気がした。それだけが、彼女と俺とを繋ぐ一本の細い糸だった。確かな証拠も確信もない。ただ、それは存在していた。


 どうしようもなく、動かない両手で手繰り寄せるようにして、リズの頭を抱える。


 俺は、彼女を信じたい。


 それだけが、信頼の根拠だった。


「…………はい」


 小さく、リズは頷いた。




 ◆




 静まり返る夜のベランダにも部屋にも、照明は点いていない。嘘のように静かだ。まるで誰も居ない世界に、二人きりで居るかのようだった。


 熱を持った唇は、それ自身が吸着力を持っているかのように、触れて離れない。金色の美しい髪を撫で、天使のような白い素肌に指を這わせる。


「んっ…………」


 彼女が、吐息を漏らした。


 堪らない、幸福を感じた。何処までも堕ちて行く、悦楽的な感情にも似た。


 目を閉じ、波のように揺らめくものに力を預け、流れに身を任せる。


 魂を曝け出すと云う事がこれ程に楽なものだとは、知らなかった。今までは、全身に重い鎧を装備していたかのようだ。羽のように身軽で、何処までも歩いて行ける。


 それでいて、電流を浴びた時のように痺れる。


「恭くんは、信じないかもしれないけど――――…………」


 ふわりと浮いた意識の奥で、そのような事をリズが話していた気がする。その時の俺は、長い苦しみから解放され、何処か中途半端な意識でリズの言葉を聞いていた。


 眠気を、覚えただろうか。


「私、まだ小さい頃に、恭くんと逢っていると思うんだ。……ううん、多分それは、きっと恭くんで。名前は、知らなかったけど」


 一人になってから、碌に眠れもしない日々が続いた。それが原因だったのかもしれない。俺が思っている以上に、俺は限界ぎりぎりの所で生きていたのかもしれない。


 だからなのか、リズを抱き締めた瞬間、俺はその身に有り余る幸福と共に、意識を失っていた。


「どこかで私、また逢えたら良いなって、思ってた気がする」


 それきり、俺は目の前に居る筈のリズを、視界から見失った。


 底なしの穴に落ちて行くかのようだ。世界は真っ暗闇で、手を伸ばす感覚があり、その手は視界に映っていない。


 動かしていない筈の両脚が、気が付けば動いている。


 暗闇の中を、俺は走っている。何者かから逃げるように、しかし何かを懸命に探す時のように、ただひたすらに足を動かしていた。


 駆け出した俺は素足だった。冷たく凍った地面の上を、剥き出しの皮膚に痛みを背負う傷を付けながら、肩で息をしていた。


 夢を、見ている。


 散漫な意識の中、俺はそのような事を考えていた。


 走っていた俺は、やがて暗闇を抜ける。視界は急に開けたようで、何処までも広がる蒼穹の下、大草原に辿り着いた。


 立ち止まる。傷付いた足から血が流れても構わず、俺は痛みを感じない。……いや、感じていたのかもしれない。その状態が長く続いたが為に、麻痺してしまっているだけだったのかもしれない。


 その場所は初めて訪れる場所のようで、俺は呆然と辺りを見回していた。


 柔らかな、風を感じた。それは柔和な微笑みのように静かで、俺の背中から、手前へと通り抜ける。涼しいと思える程度だったが、日差しがある為に身体は暖かい。ふとすると、眠ってしまいそうな陽気だ。


 両手を広げ、目を閉じた。


 どうして自分がそこに立っているのか、分からない。


「…………」


 誰かが、俺に話し掛ける。俺は再び目を開き、その声の主を探した。とても明るい場所の筈なのに、俺はその人の姿を見る事が出来ない。


 目を細め、耳を澄ました。少し離れた場所に居る筈の人を、どうにか視界に捉えようと努力した。


 手を伸ばされているのだと、気付いた。


「こっちだよ、恭くん」


 金色の長い髪を持つ少女が、俺に向かって手を伸ばしている。その瞬間、俺は笑みを浮かべた。浮遊した意識の中、それだけは確かにはっきりと、言葉として頭の中に浮かんだ。


 ――――――――ああ。それならば俺は、救われる。


 大草原を、手を伸ばした彼女の下へと走った。傷付いた両足は悲鳴をあげていたが、構わず俺は走っていた。彼女の所まで辿り着けば、俺は満足出来る気がした。


 全てを、やり直せる。そう言われているかのように思えた。


「リズ!!」


 その人の名前を、呼ぶ。


 希望に満ちた世界は、しかし俺の背後から忍び寄るものに、呑み込まれていく。俺は彼女に向かって走っていたが、追い付く事が出来ない――……手を伸ばして立っている筈の彼女が、どんどんと俺の視界から遠ざかって行く。


 笑みは消え、失望感だけが押し寄せた。


 彼女は変わらず、笑顔を俺に向けている。……しかし、言葉を発する事はなかった。俺の真上に広がっていた蒼穹はやがて、俺の背後から迫り来る暗闇に呑まれ、消えて行ってしまった。


 どうして?


 声は出ない。


 柔らかな笑みを浮かべていたリズは、最後に少し意地の悪い笑顔を、俺に向けた気がした。


 暖かな世界から一変、俺は冷たく凍った地面の上に戻って来てしまった。立ち止まり、世界の中心にたった一人、棒のように立ち尽くしていた。


 身動きを取る事が出来ないのは、縛られているからとは限らない。何処へも行く事が出来なくなった場合もまた、人は立ち止まり、方向感を見失うものだ。


 ふと、ポケットから振動を感じた。俺は不安に苛まれながらも、ポケットからスマートフォンを手に取った。着信先の名前は表示されていない。


 その着信に、恐怖を覚える。


 出たくはない。だが、出なければ。


 俺は少し焦燥感を覚えながらも、着信に出た。


「…………もしもし?」


 暫く、どうにもならない間があった。


 着信先からは、何の言葉もない。ただ、啜り泣く声。悲痛な声が聞こえて来る。やり切れない想いと、腸が煮えくり返るような怒りが交差した。


「…………恭一」


 ようやく聞こえて来た声に、俺の中の何かが切れた。


「怜士から、連絡が無いの……会社に電話しても、誰も教えてくれなくて……」


 がなるように叫び、俺は眼の色を変えて走り出した。暗闇は一変し、俺は靴を履き、見覚えのある歩道を走っていた。


 俺が居なくなる事で、ようやく二人の間に平和が訪れたのではないかと期待したのだ。全てを捨てて尚、その俺には与えられない平穏と幸福こそが、俺が日々を生きる為の生命線だったのだ。


 そのような想いを胸に秘め、ようやく俺は気付いた。


 これは、あの時の記憶だ。


 俺と遥香姉さんが、全てを失くした日の。


 走っていた俺は、やがてビルへと辿り着く。それもまた、見覚えのあるビルだ――……当然だろう。これは過去の、俺の記憶なのだから。


 エレベーターを上がり、会社へと辿り着く。場所は覚えていた……以前に一度、怜士兄さんから案内された事があった。その時は、まさか事件が起こる等とは予想もしていなかった。


 俺は真っ直ぐに、その部屋目指して走った。道中、見知らぬ男が数名、俺を見て振り返るが、気にも留めなかった。


 何かがあった事は、明確だった。俺は走り、誰かが扉を開いた瞬間を利用して、そのオートロックの掛かった部屋の中へと身体を滑り込ませた。


 そうして、その場所に――――…………


「誰だ!?」


 何者かが、俺を見て叫ぶ。尋常ではない様子だった。何かを隠したくて、必死なようだった。その男が周囲の中心人物である事は、直ぐに分かった。不安そうに男を見守る周囲と、不自然な程に汗をかき、目の前の巨大なシステムと対峙している男。


 俺は、その男の向こう側にある、巨大なモニターに目を留めた。


「恭一…………?」


 モニター越しの、再会。


 そこには紛れも無く、俺のよく知る兄さんの姿があった。俺を見て、少し驚いたような顔をして、目を丸くする。


 それは、当然の事だった。俺は兄さんから決別した直ぐ後で、当分二人の生活が安定するまでは、彼の前に姿を現すことは無いと、固く心に誓っていた。口には出さなかったが、怜士兄さんもそれは理解していたように思う。


 だが。俺は決して、兄さんを恨んでいた訳ではない。居心地の良い場所が無くなった事で、兄さんを責めては居なかった筈だ。そんなつもりで、俺は怜士兄さんと決別した訳じゃない。


 ただ、二人が幸せになるために。俺は、離れていなければならないと。


 そう、思っていた筈だ。




「――――――――ごめんな」




 最後に、怜士兄さんはそう言って、笑い。


 それきり、巨大なモニターに表示されていた木戸怜士は、跡形もなく消えた。


 周囲が落胆の色に包まれた。モニターの前に居た男は、呆然としてその場に立ち尽くしていた。それがどういう意味を持っているのか、俺は考えようとしていなかった。


 確かに、俺は悔しかった。まるで俺達は双子のようでいて、俺は決して怜士兄さんを超えられない。それは俺の大きなコンプレックスとなり、俺の前に立ちはだかっていた。


 だが、俺は決して、怜士兄さんを殺したかった訳じゃない。


 俺の居ない場所で、幸せになって欲しかった。俺はきっと、そう思っていた。住む場所が離れても、それだけは俺の意識の配下に残っていた筈だった。


 だが、俺が最後に呟いた言葉は。


『俺は怜士兄さんが嫌いだよ』


 もう、確認する事は出来ない。


 あの時、怜士兄さんがどのような想いを胸に秘め、俺の話を聞いていたのか。何も言わずに俺を見ていたのは、一体どのような理由があったのか。


 俺の気持ちは、本当に深い部分まで、怜士兄さんに届いていたのか。




「兄さんにっ――――!! 何をした――――!!」




 目の前の男に詰め寄り、歯を剥き出しにして怒り狂った。男は何か、どうしようもない詭弁を並べ立て、自身の無実を証明しようとしていたように思う。意味のない言葉など、当時の俺に入って来る筈も無かった。


 まさか、その言葉が怜士兄さんとの最後の会話になる等と、当時の俺は考えもしていなかった。


 そうだ。確かに、俺は思っていた。


 感情をぶつけて意志を伝え、その後は理性的に話し合う筈だと。それを喧嘩の時に思っていたかと言われれば、そうでは無かったかもしれない。だが、俺は思っていたのだ。


 酷い事を言った。しかし、気持ちを伝えた今は謝る訳にはいかない。


 だから、全てが落ち着いたその時には、自ら出向き、怜士兄さんと和解しようと。


 怜士兄さんは最後に、俺に向かって笑顔を向けていた。


 俺は叫び、狂ったように男の顔を殴り続けた。誰かに取り押さえられ、やがて俺が両腕を拘束されるまで、ずっと。


 屈強な男に押さえ付けられ――それは若しかしたら、警官だったのかもしれない――先程まで脂汗を浮かべていた筈の男は、不意に襟を正し、身動きの取れない俺に向かって、こう言った。


「そいつが勝手に入って来て、私を殴った……!!」


 腹の底に渦巻く怒りが、口から音を立てて出て行く。喉からどす黒い鉛のような叫びを、俺は発していた。


 だが、俺の怒りが例えどのように深いものであったとしても、現実は俺の都合の良いように動いてはくれなかった。奇跡は無く、逆転もない。俺は、その場から引き摺られ、退出を余儀なくされた。


 取り押さえられ、ビルを出て、遥香姉さんが駆け付けた時、既に俺は正気を失っていた。俺よりも遥かに腕力のある筈の男達の腕を振り払い、再び、あの男の下へと戻ろうとしていた。


 許すものか。


 怜士兄さんの安否を、確認するのだ。若しもの事があったと云うなら、あの男を殺すのだ。


 俺は。絶対に、許してはならなかった。


「恭一!! やめて!!」


 遥香姉さんは、俺が一体何を見たのか、一目で分かったようだった。


 いや。俺に連絡をした時から、ある程度の事情は兄さんから聞いていたのかもしれなかった。涙混じりに俺へと駆け寄る遥香姉さんに、俺は気付きもしなかった。


 その肌で、触れられるまで。




「あなたは弱いの…………!! あなたには、何も出来ない…………!!」




 そのままでは犯罪に走ると認識した遥香姉さんは、俺の腰にしがみつき、俺にそう言い聞かせた。


「だからもう、やめて…………!!」


 ゲームの世界に消えた怜士兄さんは、それきり俺と遥香姉さんの所に戻って来る事は無かった。その言葉を最後に俺は連行され、次に来た時には会社そのものが無くなっていた。


 俺は、暴行の罪を。プロジェクトのリーダーと思わしき男がその後どうなったのか、俺には分かりようも無かった。しかし、確かに言える事は、その事件は一切ニュースにならず、話題にもならなかったという事実だ。


 怜士兄さんは、『行方不明者』となった。ゲームの世界で死亡した等という根拠は何処にも無く、従って誰の罪にもならない――……


 そんな事が、あってたまるものか。


 怜士兄さんは、その男達が信用出来ると考えていたからこそ、開発に打ち込んでいたのではないのか。その答えが、これなのか。罪から逃れる為に、怜士兄さんは見捨てられたと云うのか。


 これは。こんな事実は、流石に。あんまりでは、ないのか。


 信じてはいけないのだ。誰も。油断をすれば、馬鹿を見る。若しも本当に、俺に残っている数少ないモノを護りたいと思うのならば。俺は、強くならなければいけない。


 誰も信用せず、誰の言葉も聞かず、それでいて揺らめく水面のように同調しなければならない。姿を隠し、ひたむきに真実だけを考え、全てを俺の管理下に置き、そして。


 一人で、生きるのだと。




「リズ…………!!」




 目を、覚ました。


 宿の一室に、俺はいた。何かとてつもなく、悪い夢を見ていたような気がしたが。起き上がり、周囲を見回すと、そこにリズの姿が無い事に気付いた。


 辺りは未だ、静寂に包まれている。『ヒカリエ』事件のように、何者かに幻覚を見せられた訳ではない――……しかし、俺は湧き上がる不安を抑え切れず、リズの姿を探していた。


 …………既に起きて、何処かに居るのかもしれない。ただ、それだけの事なのかもしれない。


 ベッドには未だ、リズの温もりが残っている。


 俺は、静かにベッドから出た。




 ◆




 宿の中は全て探したが、リズの姿は無かった。俺は手早く支度をして、旅館から外へと出ていた。『サンシャイン・シティ』の街中で、リズが居そうな場所を根こそぎ当たってみたが、そこに姿は確認出来なかった。


 ある筈の姿がそこに無いと云う事に、俺は異常な程に焦っていた。何より、忽然と姿を消した事に対してもそうだが――……昨夜、何かとても重要な事を俺は聞いたような気がして。


「リズ!! 俺だ!! 返事をしてくれ!!」


 前に、会ったことがある。


 本当だろうか。名前を聞いていない、とも言っていた。人違い……? その可能性もあるだろう。しかし、俺が初めに彼女を見た時に感じた事は、それと全く同じ内容だった。


 どこかで見たような気がした。それが本当なら、リズも俺に対して同じ感想を持っていた、という事になる。


 一体、何処で。


 そのリズは唐突に、消えるように居なくなってしまった。


 リズ自身、非常に不安定な存在だった。ふと手を離せば、そこから居なくなってしまうのでは無いかとも感じていた。終末東京での彼女のステータスは、酷く曖昧で。そして微風に掻き消されてしまう程に、儚い。


 未だ、俺は夢を見ているのではないのか。俺はまだベッドの中で、リズの身体を抱き締め、眠っているのではないのか。そうも考えたが、どうにも動かしている身体には現実味があり、走れば息は切れていた。


 通り掛かり、『サンシャイン・シティ』の街で遊んでいた若者は、俺を見て何かを話している。俺はそんな若者の肩を掴み、振り向かせた。


「すいません、金髪の女の子を見ませんでしたか? 青い目で、このくらいの身長で……朝から、姿が見えないんです」


「いや、さあ…………」


 何故、俺は眠ってしまったのか。いや、目覚めてみれば、俺は強制的に眠らされていたようにも思う。……明らかに、不自然だった。眠ろうとしていないのに、意識は急速に遠のいていた。


 それが、俺を焦らせる最も深い要因だったのかもしれない。


「なんだ…………?」


 近くに居た数名が、上空を見上げた。俺も彼等につられ、同じ物を見た。


 先程までコマーシャルの映っていた巨大なモニターに、違う物が映っていた。そこに表示されたモノに俺は目を見開き、そして目覚めた瞬間から感じていた嫌な予感を、的中させる事になった。


 あれは……展望台だ。昨日も訪れたから、分かった。既に稼働しているのか……? いや、そうではない可能性もある。その場所に人はおらず、モニターの中央には、ローブ姿の人間が一人。


 透き通ったように眠っている金髪の少女が、その近くに、一人。


「種明かしだ、木戸恭一」


 ローブ姿のそれは、仮面を被っていた。俺が何度か見た、非常に不快感を覚える存在だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ