第三話 ジャイアント・ラットの襲撃
建物の陰に隠れ、大通りの向こう側を見た。サイレンの音と共に、人が叫ぶような声も聞こえて来る。
何が起こっているのだろうか。城ヶ崎とリズも俺に付いて陰に隠れ、三人で通りの様子を観察した。
僅かに聞こえて来る声は――……人が痛みに悶える声。また、何かを訴え掛けるような声も混ざっている。
激しい雑音の中から、どうにかその言葉を認識しようと意識を傾けた。断片的に聞き取る事が出来る文字の中から、当て嵌まる単語を思い描く。
やがてそれは、或る一つのキーワードを俺に連想させた。
「クリーチャー…………?」
取扱説明書の内容にリズの説明を足し込み、その意味を考える。確か人類は、リオ・ファクターの影響を受けて進化した動物――そう、『クリーチャー』の襲撃に遭い、シェルターである地下都市『アルタ』に身を隠した。そういう設定の筈だ。
俺の言葉を聞いて、リズが蒼白になった。城ヶ崎は遂にクリーチャーを見る事が出来るのかと、喜びさえしていたようだったが――……リズの態度に、僅かな疑問が生じた。
「うそ……。そんな筈は……」
湧き上がった疑念は、しかし脳裏を僅かに掠める程度に留まり、思考は現実へと戻る。遥か向こうから逃げて来る、武装していない人々。更にその向こう側に居たのは、無数の鼠だった。
それは確かに鼠ではあったが、俺の知るものとは様々な部分が違う、常識的な規模を超えた生命体だった。白目を剥き、口からは狼か何かのように涎を垂らしている。恐ろしい程に素早く、得体が知れない。
何よりも先立ち、明らかに不自然な点があった。
そのサイズだ。大型犬ほどに大きい。
「きゃああああああっ――――!!」
悲鳴が聞こえた。宙に舞った悲鳴は、しかし途中で不自然にも遮断され、漠然と余韻は空中を浮遊する。円筒形の白い光が建物の陰から出現し、程なくして消えた。
あの光には、見覚えがある。城ヶ崎がログインして来た時の光と同じだ。
殺された。……ログアウトされたのだろうか。凡そ普通とは思えない光景に、先程まで興味津々で様子を窺っていた城ヶ崎も流石に疑問を感じたようで、顔色を変えた。
「……なんか、変なのか?」
「みたいだな」
これが日常的に起こり得る出来事なら、パニックになって逃げ惑う人々は、こんなにも多くは無いのではないか。プレイヤーとNPCの区別は付かないが、少なくともプレイヤーはもう少し、落ち着いていて良い筈では……建物の中に逃げ込む者、当てもなく走る者と様々だが。その様子は明らかに混沌としていて、直接的に異常を訴えている。
「なんで……? こんなこと、起こらない筈なのに……」
リズが小さく、そう呟いた時だった。
不気味な気配を感じて、俺達は咄嗟に振り返った。
「げえっ……気持ち悪いな」
背後から、奇妙な音。
鋭く尖った、無数の牙。その口に咥えられているものに、ゲームだと知っていても脈拍は上がる。全身血達磨のようになっているが、その血は本人のものでは無いと分かった。
「アッアアア、アアアアア!!」
白目を剥いたまま、笑っている……? 荒々しく首を振る、巨大な鼠。咥えられている誰かの右腕は、この世界から消滅されずに残っている。それを鼠は貪り喰っていた。
異様なまでの威圧感に、身体が硬直する。心臓を鷲掴みにされるような恐怖が走り、咄嗟に歯を食い縛っていた。
「逃げるぞっ――――――――!!」
そう叫んだ。しかし、既に巨大鼠は右の耳を動かすと、俺達に向かって直進している最中だった。踵を返して逃げた俺とリズ。走り出した瞬間、背後で人が転ぶ鈍い音と、耳に障る鼠の鳴き声が聞こえた。
――――城ヶ崎。
気付いて振り返った時には、既に城ヶ崎は巨大鼠に上から押さえ付けられ、身動きが取れない状態になっていた。体当たりをされ、バランスを崩して転んだように見えた。城ヶ崎は額に青筋を浮かべて、歯を食い縛る。
「いっ……てえなこの野郎!!」
そうして、太い二の腕を振り上げた。
瞬間、顔が強張る。
「っぎゃあああああああ――――――――!!」
ゴキン、と骨が折れる、鈍い音がした。鼠を殴ろうとした城ヶ崎が、蒼白になって目を見開いた。
悲鳴に、リズが両手で口元を押さえた。既に俺は走り出していた。
折れたのは右腕。上からコンクリートが降ってきて、振り上げた城ヶ崎の右腕に激突したのだ。民家の壁と思われる不規則な形の硬質物を、結果として城ヶ崎は右腕で弾いた格好にはなったが。
攻撃されたのが、頭で無くて良かった――……見れば、屋上にもう一体の鼠が構えている。……辺りの建物は崩されていない。此処だけが、壁が脆いのだ。
此処は駄目だ。直ぐに、何処かへ逃げなければ。
尋常ではない程の悲鳴を上げる城ヶ崎を見て、分かった事は二つ。
一つは、例え死んだらログアウトされるのだとしても、その痛みは全て生々しく存在し、現実味を伴うものだということ。
もう一つは、丸腰の人間では、この鼠を倒す事は出来ないということ。
巨大な鼠は左の耳を動かし、城ヶ崎を捉えると、唸り声を上げた。……どうする。倒せないなら、鼠を城ヶ崎から退けなければ。
何か。……何か、城ヶ崎を助け得るものは……
――――そうだ。
コーヒーの空き缶。
「おおおおおおっ――――!!」
潰してポケットに入っていたそれを取り出し、巨大鼠の瞳を目掛けて投げ付けた。コントロールに自信がある訳では無かったが、どうにか目的通りに、その空き缶は巨大鼠の眼球に触れた。
瞬間、一度は口を開いた鼠が痛みに口を閉じる。その隙に、城ヶ崎の上に乗っていたそれに近付いた。
今のは恐らく、捕食する為の行動。目を潰されていれば、反応は出来ない筈だ。
「離れろ!!」
その鼠にしては巨大な身体を、腹から蹴り飛ばす。幸いなことに、体重はそこまで重くはないようだ。
全身に、衝撃が走る。怯んだ鼠が掠れたような声を出し、小動物と呼ぶにはあまりに重量感のある肉体をアスファルトの地面に激突させる。肺から空気が根こそぎ吐き出されるような気分だったが、直ぐに城ヶ崎の手を引き、立ち上がらせた。
上空は――……大丈夫だ。鼠はコンクリートの塊を下から運んだのか、既に屋上には居ない。
「落ち着け城ヶ崎!! これはゲームだ!! ログアウトすれば何も問題ない!!」
そう言うも、城ヶ崎は青褪めた顔をして、それ所ではない様子だった。
「ぐぎぎ……!! ぐああああっ……!!」
巨大鼠が起き上がって来るまでに、そう時間もない。
これが、ゲームか? 死ななければ、ある程度の痛みは許されるとでも言うのか――……冗談じゃない。これでは絶対に、死ぬ訳には行かないじゃないか。
ふと、気付く。
リアル、か――――…………
思えば、世の中にありふれたゲームというものは、死への意識が薄くなるものばかりだった。目的のため故意に殺したり、容易に生き返らせる事が許される世界。
このゲームは、それを『痛みを与えるが、死にはしない』という方法で抑制したのかもしれない。
見た事も無い生物に、指が震える。それでも左腕の時計からステータスウィンドウを開き、俺は表示された画面のメニューから、ログアウトの項目を確認した。
「よし……!! ログアウトはできる!! 一度戻るぞ!!」
「あ、ああ……」
城ヶ崎の時計を操作して、ステータスウィンドウを開いた。巨大鼠は怯んだだけで、何事も無かったかのように起き上がる。転んだ事で吐き出された腕は、地面に転がって無残な状態になっていた。
とにかく、出直せ。身体はそのように動いた。ログアウトボタンを押下するまで、僅か数秒。鼠が襲ってくる前に、この場から消えてしまえばいい。
自宅まで五秒。ここは入るも出るも自由な、架空の世界なのだから。
身の安全が保証されている事で、僅かに冷静さを取り戻す事が出来るようになっていた。立ち上がった鼠は、俺と城ヶ崎を見て笑う。
「アアア!! アアアアア!!」
悍ましい進化を遂げた動物が笑うなど、映画の世界だ。……ここはゲームだ。似たようなものか。
考える必要もなく、ログアウトのパネルに触れる。
出直しだ。一旦――――――――
手が、止まった。
一瞬でも目線を向けたその先に、白衣を着た金髪の少女が見えた。その表情を、否が応でも見ることになる。
どうして?
疑問よりも先に、頭は真っ白になった。再び俺と城ヶ崎へと向かって来る巨大鼠を前にして思考は飛び、ログアウトボタンを押下する手前で身体は硬直した。
「恭一!!」
城ヶ崎が、呆然と立ち尽くした俺の身体を左腕で引っ張る。再び地面へと倒れ込むと、元俺が居た位置を鼠が通り過ぎて行った。建物の壁に激突し、一瞬だけ動きを停止させる。
リズは――――何もせず、棒のように立ったまま。ただ、震えていた。
彼女は俺達から考えれば、遥かにベテランだ。死んだ時の恐怖など、既に克服していて然るべきだ。そうならないのは、本当は死んだ後にログアウトされないからなのか。
……いや。若しもそうなら、リオ・ファクターの説明前に話されていて良い筈だ。それ以前の問題として、『ゲームの世界で死亡する』という事がまかり通るゲームなど、世の中に公開されないだろう。
なら。
我武者羅にリズの手を引き、俺は後ろの城ヶ崎に言った。
「城ヶ崎!! お前はすぐにログアウトするんだ!!」
それだけ伝えると、俺は走り出した。
「ま、待てよ!! 俺も行くって!!」
慌てて城ヶ崎が後を追う。……どうして、付いて来るんだ。逃げ場が有るかどうかなど、まだ誰にも分からないのに。そうは思ったが、付いて来ると言っている人間を気に掛けている程、余裕が有るわけでもない。
通りには、既に無数の巨大鼠が蔓延っていた。人々を追い掛け回している――……中には戦っている人間の姿もあったが、ごく少数だ。騒ぎが起きてからまだ幾らも経っていない。このタイミングでクリーチャーと出会ってしまった事は、運が悪かったとも言える。
せめて、戦闘の為の知識さえ、手元にあったなら。
「ご、ごめんなさい……」
走りながら、リズが俺に謝罪する。だが、俺はリズが立ち止まって硬直してしまった事に、不満を覚えた訳ではなかった。
或る、ひとつの予感。
何故、リズは『ログアウト』する事をせず、怯えて立っていたのか。このゲームを始めて年月が経っているはずのリズが、どうして巨大鼠と戦う事をしないのか。
そこには何か、理由がある筈だ。
「気にしなくていい。……それより今は、隠れる事が出来る場所を考えて欲しい」
背後の巨大鼠は、角を曲がる度に他の鼠と合流し、その数を増加させていた。全力疾走しても、僅かに鼠の方が速い。動きが直線的だからなのか、曲がり角で距離は離れるが、直線距離では近付いて来る。結果として、付かず離れずの距離を保っていた。
閉鎖された夜の街を、化物に追われ、ひた走る。冷えて乾いた空気をかき分け、人気の無い方向へと進んでいく。
はたとリズが気付いて、憔悴していたターコイズブルーの瞳に生気を宿らせた。
「……そうだ。地下栽培所!! ……あそこなら、簡単には入れないかも」
元々、頭の回転が速そうな女性だ。パニックに陥らなければ、何か良い方法を思い付きそうな予感はしていた。十字路で直角に曲がり、当てもない走路に一筋の光を見出した。
殆どの人は、建物の中に入ったのだろう。あちこちで扉をかじる、巨大鼠の姿が見える。……コンクリートさえも削って行く姿に、血の気が引いた。
壊されている建物とそうでない建物があるのは、材質に違いがあるからだろう。
リオ・ファクターを通した攻撃で無ければ、奴等を倒せないとしたら。今この状況で戦う事が出来るのは、城ヶ崎だけだという結論になる。
当の城ヶ崎は、右腕を折られて瀕死の筈だが――……
「おい、リズ! 教えてくれ、どうやって戦えば良いんだ!!」
同じ事を考えていたのか、背中の城ヶ崎がリズに向かって問い掛けた。リズは首を横に振るだけだったが。
既に、痛みを忘れているようだった。危機感に、痛みが麻痺したか。動く左腕だけで、どうにか戦うつもりなのだろうか。
「ごめん、今は戦えない……!!」
痺れを切らした様子で、城ヶ崎が叫んだ。
「おいおい、そんなに強い相手なのか!? ゲームが始まって最初の街だぜ!? どうにかなんだろ!!」
「少なくとも、戦う為には戦器が必要なの!! 今のままじゃ無理!!」
その一言は、城ヶ崎に憤りを感じさせたようだったが。
「くそっ……!! 戦えるようになったら、絶対ぶっ殺す…………!!」
何時に無く、城ヶ崎から荒々しい言葉が漏れていた。
建築様式も様々な建物が並ぶ、碁盤状の通り。幾度となく十字路を抜け、橋を渡った。
その向こう側に、小さな建造物が見える。まるで箱のような、灰色の建物。外観は小さく、窓は無く、申し訳程度に扉が付いているだけだった。
地下栽培所というのは、あれか……!!
長い距離を走る事で、流石に息も切れて来た。元々、体力に自信がある方ではない。横っ腹が痛くなったが、背に腹は代えられない。
走り続けていると、いつしか人気は無くなっていた。リズは走る速度を上げ、その小さな建造物目掛けて体当たり気味に近付いた。橋を抜けると建物の目の前で、力尽くでドアノブを掴むと強引に開き、俺と城ヶ崎を見やった。
「中へ!!」
言われた通りに中へと入る。リズは巨大鼠が来る前に扉を閉め、内側から鍵を掛けた。
「ひっ――――!!」
直後、背筋が凍るような衝突音がして、扉に触れていたリズが軽く悲鳴を上げ、その場から離れた。
金属製の扉が激突の衝撃で形を変える。だが、どうやら容易には破られない材質のようだ。……この世界のそういった素材に、どれだけの強度があり、また種類はどの程度なのか、まだ知識は無かったが。
少なくとも、リズの判断は間違っていなかったらしい。
僅かな、時間の猶予が生まれた。
「……もう……大丈夫か?」
城ヶ崎が息を切らして、リズに問い掛けた。
「ううん……もっと下に行こう……」
俺も含め、全員肩で息をしていた。元々、長距離を走ることが出来るような体力もない。
こんな所まで、現実と同じとは。……そもそも、地上で機敏に動くクリーチャー達と、運動性能的に戦う事が出来るのか。身体を鍛える事が必須になりそうだ。
薄暗い部屋の中には照明が無く、そのままでは何も見えなかった。本当に、窓ひとつ無い――……そうだ、携帯電話。ポケットから電波の届かないスマートフォンを取り出し、ライトの機能をオンにする。
部屋の中は円形の巨大な蓋のようなものが鎮座しているだけで、他には何も無かった。リズは真っ直ぐにその蓋目掛けて歩いて行き、左手の腕時計からステータスウィンドウを開く。そうして屈むと、蓋に付いているボタンを押下した。
リズのステータスウィンドウに向かって、蓋から青色の光が発射される。ステータスウィンドウから何らかのコードを読み取っているようだ。
「まさか、こんな時に役に立つなんて……」
小さく、リズが呟いた。
電子音がして、蓋に変化が生じた。……どうやら、本当に蓋だったようだ。炊飯器の如く開いた蓋の向こう側は、円形の竪穴だった。鉄製の梯子が掛けてある所からすると、そこから下に降りられるようだ。
リズは立ち上がると、俺と城ヶ崎を一瞥した。
「先に、中へ。私は最後に、蓋を閉めるから」
そうか。若しかしたら、これでやり過ごす事が出来るかもしれないな。俺は頷いてスマートフォンをポケットに戻すと、梯子に足を掛けた。下は暗いが、どうやら光もあるようだ。遙か真下では、僅かに緑色の光が漏れている。竪穴の途中は暗がりだったので、慎重に降りなければならないが……
扉から聞こえて来る、気の休まらない轟音。俺達は速やかに、梯子を降りて行った。
◆
竪穴を降り、暫く廊下を進んだ先に、俺達は隠れていた。
緑色の光が室内を照らしている。広い畑のある部屋に入ることは無く、入口手前で身を屈め、音を殺していた。
照明は一度も使っていない。閉鎖された地下の空間に音はなく、迫り来る巨大鼠の脅威も暫しの間、影を潜めていた。強化ガラスによって阻まれた地下栽培所は、扉を開けずとも奥の様子を確認する事ができる。
見た事も無い施設だったが、太陽の光を浴びることが出来ないということは。当然、農作物の栽培も地下で行わなければならない。今思えば、広場の湖には魚が泳いでいたのだろうか……空気はどこから循環しているのだろう。そんな事が、ふと脳裏を掠めた。
方法論を知った所で、今の状況が改善される訳でも無いのだが。
「はあっ……!! はあっ……!!」
右腕を押さえ、城ヶ崎が辛そうな声を漏らした。リズが不安そうに城ヶ崎の背中を撫でる……逃げて一段落した所で、唐突に痛みがぶり返して来たらしい。
痛みさえ、そっくりそのまま現実の世界。……あまり、ゲームという感じはしない。俺は壁に背を向けて腕を組み、漠然と考えていた。
「ゲームの世界なら、即効性のある回復薬なんかがあるけどな。……そういうモノは無いのか?」
「……あっ!」
俺の問い掛けに、リズは何かを思い出したかのように、白衣のポケットを弄った。取り出したのは、小さなケースだった。中に入っているのは……消毒薬にガーゼ、絆創膏、ゴムチューブ、それから……注射器。
「忘れてた、まだ一本だけ余ってたんだ」
言いながら、リズは注射器に緑色の液体を詰める。城ヶ崎の服を捲り、消毒薬で肌を拭くと、ゴムチューブで血を止める。血管の位置を確認し、リズは軽く頷いた。
「すぐ楽になるから。……ちょっと、我慢してね」
城ヶ崎には、リズの言葉を聞いている余裕は無いようだった。
「ぐっ……!! …………うお……」
注射を受けると、脂汗を浮かべて呻いていた城ヶ崎が、ものの数秒で深呼吸を始めた。……まさか、本当にあったのか。それも、この上なく現実的な方法で。
「リズ、それは?」
「『リザードテイル』って呼ばれる蘇生剤。中身は即効性のある麻酔薬と、リザードマンの尻尾から抽出した薬なんだ。拒絶反応なく、人体を再構成する事ができるの」
少し、救われたような気分だった。怪我をした時、自然治癒以外に方法が無いのだったら、それこそ俺達のようにリオ・ファクター適合率の低い人間が地上に出るなど有り得ない。
リズは自分がそれを持っていた事に、安堵を覚えているようだったが。
城ヶ崎は座り込んだまま、目を閉じて楽にしているようだった。押さえた右腕は淡い光を放ち、何かの変化が起こっている――……この様子だと、右腕は再生するのかもしれない。
適切な湿度と温度に恵まれた、地下の栽培所。奥に見える奇妙な光と作物を眺めながら、俺はリズに問い掛けた。
「……地下都市ってのは、安全地帯じゃないのか? 説明書には、そう書いてあったけど。他のゲームじゃ、安全地帯にモンスターが入り込むなんて稀な話だと思うんだが」
リズは頭を垂れて、首を振る。
……当然、分かる筈もないだろうか。
「こんなこと、私も初めてだよ。『シェルター』の出入口は、リオ・ファクターを通さない特別な鉱物で出来ているから……。若しかしたらとても重くて閉めるのに時間が掛かるから、閉める瞬間に入り込んじゃったのかなあ……」
「戦闘ができる番人が――……それこそ、『コア・カンパニー』に所属するような奴等が護ってるんじゃないのか? 第一、閉めるのにどの位掛かるものなんだ」
「十秒くらい……」
「じゃあ、それはないよ」
リズは徐ろに頷いた。
『シェルター』の出入口がそんなにも脆いものだったら、人は安心して地下に都市など造れる筈がない。まして、あの物量だ。間違えて入り込んだ、等というレベルの数ではなかった。
それはつまり、何を意味するか。
「一人じゃない。少なくとも数名は黒幕が居る、ってことだな」
顔を上げて、リズが俺に疑問の眼差しを向けた。
「有り得ないよ……!! そんな事をしても、誰も得しないのに……」
「なら、得をする人間が居るんだろ。そうとしか考えられない」
押し黙るリズ。しかし、そう考えるのが自然だ。通常では有り得ない事が、当然のように起こった。注視すべきは、『それは今まで起こらなかった出来事だ』ということ。
痛みを感じる世界だ。実世界では出来ないテロを、楽観的に行う狂人だって居るかもしれない。それが今まで起こらなかったという事は、誰かゲームを始めたら危険な人間が、この地下都市に入り込んで来た可能性が高いだろうか。
ゲーム的に考えるのなら、そういう輩は運営に報告されて、アカウントを消されるというのが定石的な処置ではあるが。
「……まあ、今はどうでも良いんじゃねえか。そんな事より教えてくれ、リズちゃん。あのネズミは一体何モンで、戦う為にはどうしたら良いんだ」
落ち着いたらしき城ヶ崎が、座り込み右腕を押さえたままでリズに問い掛けた。その一言で、場の空気が変わった。
確かに、城ヶ崎の言うことは正しいかもしれない。今は頭上の巨大鼠から隠れている段階で、逃げ切ったとは言い切れない。リズのログアウト行為に不都合があるとするなら、まだ問題は解決していない。
姿の見えない犯人を探す事よりも、目の前の鼠問題に死力を尽くした方が賢明だろう。リズにもその意識が通じたのか、戸惑いを浮かべた瞳は決意に固まり、ゆっくりと話し始めた。
「……あれは『ジャイアント・ラット』っていうの。地下都市アルタの周辺に居るクリーチャーで、リオ・ファクターを使った攻撃はあまりして来ない、低級のクリーチャーだよ」
「あれで『低級』なのか」
城ヶ崎は驚いているようだったが、あまり不自然でもないと俺は考える。鼠は確かに人間的には害があるが、生物的なランクから考えれば遥かに強い生物など幾らでも存在する。
百獣の王であるライオンを頂点だと考えるなら、鼠以上に序盤のクリーチャーとして向いている生物も少ないだろう。
「丸腰でも、即死はしないから『低級』なんだ。数が多いと大変だけどね……私達冒険者はね、この世界では少なくとも、三つの装備を揃える必要があるの」
僅かにではあったが、話が見えてきた。
「まず、クリーチャーに攻撃を与える為の『戦器』。これはリオ・ファクターによって集まった元素に変換現象を起こさせる為のもので、剣とか杖みたいなものがあるの。それから、身体能力を高めたり、クリーチャーからの攻撃を防御する為の『防具』。これは服とか靴とか、アクセサリーみたいな物が該当するかな」
「戦器と、防具か……」
リズの言葉に、城ヶ崎が頷いた。
「それから、最後に『戦型』。これはリオ・ファクターを上手く操る為のもので、クリーチャーから摘出された放出公式を基に作成する、戦闘モデルのベース。これを体内にインストールすることで戦うの」
「なんか、急に難しくなったな」
すっかり元気になった城ヶ崎が、顎に指を添えて唸った。
「まあ、空手とか柔道の技を自動で覚えられるものだと思ってくれれば……」
「ああ、なるほど。つまり戦闘スタイルってことか」
冒頭から突っ走ったせいか、リズの説明は幾らか分かり易いものになっていた。訓練を受ける代わりに、戦闘スタイルを体内に取り込んで戦う。確かにそのような事が可能なら、完全な素人でも戦地に立つ事ができる。
同時に、その話を聞いて分かった事もある。
「よし、分かった。じゃあ、その戦器と防具、戦型ってのは、どこで手に入るんだ?」
「あー、えっと……」
言い淀むリズの肩を叩いて、俺は城ヶ崎と目を合わせた。
「高いんだろ、つまり。冒険者はカンパニーに雇用されて戦うって言ってたもんな?」
目を丸くしている城ヶ崎。その様子を見て、リズが気不味そうに頷いた。
「うん。ピンからキリまであるけど、戦型は安いものから百万ドルスタートで……」
「百万!? ……ああいや、ドルっても価値が……いや、百万円!?」
「戦器が二十万ドルくらいからで、防具は……揃えると、多分戦器と戦型を合わせたくらいかなと……」
つまり、そういう事だ。冒険者として生きていく為には、装備が必要。その装備が中々単身では揃わないから、人は『カンパニー』に所属する事で金を借り受けたような格好になる。そうして、日銭を稼ぎつつ借金を返済していく寸法なのだろう。
銀行も投資家も、回収できる可能性の薄い所には金を貸さない。出資されるからには、信用が必要だ。
だから、俺もリズも城ヶ崎も、カンパニーに所属出来なければ冒険者としては生きていけないのだろう。
「なっ……なんじゃそりゃ……じゃあつまり、戦えないって事じゃんか!? そんな大規模な課金、聞いた事ねえよ」
未だ、俺も城ヶ崎もオンラインゲームの感覚が抜けない。『課金』と考えれば、有り得ない金額だ。
「うん……まあ……カンパニーに入らなくても、投資してくれる人さえ居れば……」
絶望する城ヶ崎と、困ったように苦笑して、頬を掻くリズ。二人は実に対照的だった。
聞けば聞くほど、ゲームとしての常識を超えている。こんなものが水面下で運営されていた等と、にわかには信じ難い。……マスコミには公開されず、インターネットで検索しても広報的な情報は見付からず、しかし一定の人間が紛れ込むように参加しているゲーム。
なんとも不思議だ。確かに殆ど現実世界に近く、且つここでも生きて行くことが出来るとなれば、当然現実世界の資金が使われるべきなのだろうが。
第二の日本……か。
「マジかよお……。給料出たばっかなのに、なんか凹むぜ……」
「ま、まあ死んでもお金は減らないし、こっちで稼ぐ事だって出来るから、頑張ろうよ!」
説明と会話が続き、すっかり安心していた時だった。
天井から大きな音が響き、砂が落ちて来る。誰もが竪穴の方向を見詰め、一瞬にして辺りには沈黙が訪れた。
とっくに諦めて、別の場所を探しに行ったかと思われた。城ヶ崎は怒らせた眉を痙攣させるかのように動かし、リズは蒼白になって、梯子を凝視していた。
ここが破られれば、もう逃げ場はない。閉鎖された空間で、梯子を登る余裕もない。それが分かっていたからだろう、全員固唾を呑んで、どうにか去ってくれないかと息を殺していた。
リズの身体が一瞬跳ねたかと思うと、ドサ、と音がした。竪穴の方向に何かが落下したようだった。奥の暗がりに何かが落下した所で、それが何なのかを確かめることは出来なかったが。
身が竦む。
「なあ……ヤバくね……?」
城ヶ崎の軽口も、何時に無く恐怖に満ちていた。俺と城ヶ崎はリズを護るように前に出て、梯子の方向を見詰めていた。
連続して、何かが廊下へと着地する音。その度に、身体に緊張が走る。……化物の襲撃。ホラー映画の当事者になるなど、一体誰が予想しただろうか。
……とんでもないB級ホラーだ。可笑しくて仕方が無い。
「城ヶ崎。そろそろバイトの為に、休んでないといけないんじゃないか。今のうちにログアウトしても構わないけど」
「女の子前にして逃げられっかよ。……お前こそ、家で待ってても構わないぜ。さっきの俺みたいになりたくなかったらな」
ひたひたと、歩いて来る存在があった。冷や汗は止めどなく流れ、反射的に握り拳が身体の前に出る。そんなものが役に立たないという事は、城ヶ崎が既に証明した後だったが。
荒い呼吸の音は、明らかに人のそれではなかった。近付いて来る存在に、無策のままで立ち向かう。
「へっへっへ。……きよ隊長、指示を」
「馬鹿。二人で考えるんだよ……!!」
痛みを覚えない世界なら、どれだけ楽だったか。
俺達の存在を認識して、四足歩行をしていた化物は後ろ足で立ち上がった。……右の耳をひくつかせて、俺達をはっきりと見据えている。
「アアア!! ……アアアアア!!」
気色の悪い笑い方をする。そう思ったのは、恐怖を隠したいからに他ならなかった。