第三十四話 夢見た記憶の記録
エリザベス・サングスターは、その場所には居なかった。
『存在の不確定』を持っている以上、俺達が追い掛けた所で見付かる筈も無い。トーマス・リチャードと名乗った男を連れて、大聖堂まで戻った。
やはり、トーマスも『ヒカリエ』での事件を追い掛けていたらしい。俺達がクリス・セブンスターから奪い取ったアイテムを渡すと、直ぐにトーマスは随分と手慣れた様子で『NPC化現象』を引き起こしたスイッチを分解し、鞄からコンピュータを取り出すと解析を始めた。俺も城ヶ崎も口を出せなくなってしまった。
既にこの終末東京の世界で、何度か聞いた名前だ。飄々とした雰囲気のある男だったが、機械に対する姿勢は至って真面目だった。茶色のジャケットに、丸眼鏡を掛けていた。
「うーん、よく見えない……」
しかし、こんな事を言っている始末である。
その割には、手が早い。見た事も無いようなコネクタを繋ぎ、中身を解析している――……ネットワーク関係の技術には詳しくないが、こうも簡単に調査出来るモノなのか。スイッチの内部を意味すると思われるバイナリ・データが、トーマスの利用しているコンピュータに表示されていた。
……いや、これも内部の人間として、転移型ゲームの開発に関わっていたからこそなのか。トーマスはバイナリデータを見て、軽く唸った。
「なるほどねえ、こんな手が……確かに、こんな事をされればセキュリティ上はどうにもならない」
「何か、分かったんすか?」
城ヶ崎が一応付けましたと云ったような敬語で、トーマスに問い掛ける。トーマスは頷いて、再びコンピュータのモニターに目を向けた。
コンピュータそのものも、随分と年季が入っている。博物館にでも展示されていそうな物だった。
「『バックドア』ってやつだね、これは」
「バックドア?」
「簡単に言うと、内部からセキュリティを破壊する手口の事だよ」
『バックドア』……裏口または勝手口と呼ばれる。コンピュータ用語で言うならセキュリティの抜け道、という意味だ。コンピュータを初め様々なモノは、外部からの攻撃には厳重に対策が練られてあり強いが、内部からの攻撃には多くの場合、対処する方法が無い。その現象を利用すると云うことで、開いている経路から内部にコンピュータ・ウイルスを送り込み、本来閉鎖されていたシステムの裏口を開ける――……二段構えのハッキングの事を言う。
だが必ずしもそれは、ウイルスによる物だけではない。
「……ってことは、開発段階の残りモンっすかね?」
城ヶ崎が腕を組んで、トーマスのコンピュータを見詰めた。トーマスは城ヶ崎に頷き、笑みを見せた。
「そうだね」
そう。必ずしもバックドアとは、システム管理者のオペレーションミスのみによって開かれるものではない。
まだ開発段階にあるシステムが、外部からの攻撃を考慮しない事など日常茶飯事だ。セキュリティを強くすると云う事は、つまりシステムを使い難くする、と云う事と同義――――従って、セキュリティ対策は多くの場合、システム開発の最終段階に行われる。それまでは、不要な道であろうが何であろうが、開けておくに越した事はないのだ。
このような手順で行われるため、開発段階でセキュリティ・ホールが出来る事は珍しい事ではない。だからこそ、エンジニアの手によって厳重に管理される必要がある。
「しかし、こんなものを知っているとは……」
「内部の人間だろ、どう考えても」
トーマスは、コンピュータに向けていた顔を上げた。俺の言葉の真意を探るように、不器用な瞳が揺れ動く。
バックドア、か。驚いたように見せてはいるが、ある程度は予測していた筈だ。これまでのシナリオを推測すれば、この男が何を考えていたのかは直ぐに分かる。俺達としては、ようやく出会えた、と言いたい所ではあるが。
「……心配するな。俺も城ヶ崎も、『ミスター・パペット』を知っている側の人間だ。……あんたの事も、それなりに知っている。あんたが『デッドロック・デバイス』をどうしても隠したいのは、それを使うと何が起こるのか、『ミスター・パペット』がそれを利用する事で、何が起こるのか……それを知っているからだろ?」
もしもこの男が『トーマス・リチャード』ではない可能性。……いや、それは考え難いだろう。実際に、俺達の目の前でスイッチの解読をして見せた。嘘を言う理由も、概ね見当たらない。
問題なのは、何故トーマス・リチャードがリズの居たビルの屋上に、示し合わせたかのように現れたのか。そこだけだ。しかし、これにはある程度の予測をする事が出来る。
若しも、リズのリオ・ファクターを感知して、あの場所に現れたとするなら。
「俺は、『ミリイ・ロックハインガム』に会ったことがある」
それは、俺達を信用して貰う為の、有効な台詞に成り得ただろうか。
トーマス・リチャードは暫しの間、考えていた。くたびれた茶色のジャケットも、何処か色褪せた様子のジーンズも、彼の性格を表すには充分過ぎる程の表現だと思ったが……いや、表現ではないか。彼自身が、あまり自分の風貌に頓着しない人間なのだろう。
表裏がある性格のようには見えない。先程から表情に影も見えなければ、いい加減そうに見えて実はそうではない。その裏に、誠実な顔が見え隠れしている。
このチャンスを逃す訳には、行かない。
「そうか……ミリイに……。彼女は、元気かい?」
「あんたと出会った時に持病を抱えていたかどうか知らないが、その病のせいで亡くなったよ。……綺麗な、最期だった」
「…………そうか」
トーマスは全て分かっていたかのように頷いて、立ち上がった。使い古した様子のコンピュータを鞄に仕舞うと、同時にこの『ヒカリエ』で俺達が散々悩まされてきた、『NPC化現象』を解除する為のスイッチを、自身の鞄に入れた。
壊れた壁から、外の様子を眺める。夕暮れももう直、夜へと変わるだろう。空を確認する事は出来ないが、再現度の高いライトが外の様子を教えてくれる。
俺は、外の様子を眺めるトーマス・リチャードの背後に立った。
「トーマス。……俺は、木戸恭一。『ミスター・パペット』が何者なのかを判断する為に、有効な情報を持っている。……もし良ければ、あんたにも協力をお願いしたい」
トーマスは振り返り、俺に仮面を被ったような笑みを浮かべた。
「君が敵でない保証は?」
……やはり、警戒しているか。ミスター・パペットと対立しているように見えたとは云え、トーマスの視点で考えれば俺達はただ、ゲームが終了した瞬間、大聖堂に立っていた人間だと言う事実しか見えない。
そんな俺達の素性を予想した場合、ミスター・パペットとは何の関係もない人間だと考えるのが自然だろうが、トーマス・リチャードが『ヒカリエ』に来ていた事を奴等が知っていたと仮定するなら、ミスター・パペットが裏を突いてくる可能性もあると考えるべきだ。
しかし――――…………最終的に、信用は、するだろう。
トーマスは目を丸くして、俺の事を驚いたような目で見た。
「いや……木戸? 木戸って……まさか、あのレイジ・キドの弟かい?」
兄さんは、ゲーム業界では名立たるエンジニアの一人だ。これくらい、知っていて貰わなければ困る所だ。
緊張が、一気に解けたような気がした。探り合いから語り合いへと変化していく会話の流れに、俺はそのままに身を任せる。
「記憶の片隅にあって良かったよ。……知らなかったり、気付かなかったりしたらどうしようかと思ったけど」
「いやあ、忘れる訳がないよ!! 君のお兄さんは、優秀だった――……いや、失礼。今、こんな事を話すべきではないね」
怜士兄さんに起きた事故の事を、知らない訳ではないだろう。トーマスは少し気不味そうな顔をして、俺から目を逸らした。
同時に、城ヶ崎が何処か、安堵したかのような顔でトーマスの事を見ていた。
「そうか……それなら、ミスター・パペットが気になって仕方が無い筈だ」
心の片隅に怒りを、前面には寂しさを。例えるなら、そのような感情で居るだろうか。過去の偉人を思い返す事ほど、胸が痛む事はない。俺は家族としての痛みだったが、彼にとっては同業者としての痛みだったのかもしれない。
だが、そのように怜士兄さんを思う程には、このトーマス・リチャードと云う男もまた、名のあるエンジニアである事が分かる。
「そういえば恭一くん、君は私に会った時、誰かを探していたんじゃないかい?」
「そうだ!! おっさん、俺達、エリザベス・サングスターを探してるんだよ!! 『アルタの妖精』って異名の付いてる――……知らないか?」
一瞬の、出来事だった。トーマスが不意に、何かに気付いたような顔をしたが。直ぐに、その顔は陰に隠れた。
「アルタの――――? この場所に、来ているのかい? 彼女はアルタから出るのを嫌っていた筈だけど」
「仲間なんだ。一緒に、ゲームをしてる」
…………嘘のようには、見えない。ならば今の気付きは一体、何なのだろうか。
俺の記憶の片隅に、リズの顔が過る。……最初からずっと、終末東京を旅するメンバーだった彼女。俺と城ヶ崎の間に入り込んで、いつの間にか仲間として溶け込んでいた彼女。
どうしてか、初めて出会った時に感じた――例えるならば、恋心と憎悪が一体化したかのような――複雑な感情を俺は再び、その胸に感じていた。
「……ここじゃあ、ちょっと落ち着かないね。恭一くんと、城ヶ崎くん。続きは現実世界で話そうか、今は都合で日本に来ているから」
トーマスは鞄からメモを取り出すと、慣れた手つきで自分の携帯電話番号とメールアドレスを書き、俺に手渡した。左手のプレイヤーウォッチに手を掛けると、ログアウトの準備をしていた。
「じゃあ、来週の日曜日にでも、どうだい」
「それで構わないが……ひとつ、聞いてもいいか」
どうしても、今この場で聞いておきたい事があった。トーマスは笑みを湛えたまま、俺に頷いた。
「…………NPC……ノンプレイヤーキャラクター……終末東京の住人が、現実世界に来る事は……本当に、出来るものなのか」
トーマスは笑みを崩さず、首を縦にも、横にも振らない。
「この『ヒカリエ』に来る時、君達はパーティーを組んでいただろう?」
「……ああ、プレイヤーウォッチに登録してあるが」
「パーティーリーダーの名義は、木戸くんだった?」
「いや、それはリズで――――…………」
俺は実際に、プレイヤーウォッチを確認し、現在のパーティーメンバーを見た。……少し、気になる所があったからだ。エリザベス・サングスターが俺達の所に居ない今、パーティーリーダーは一体誰になっているのか。
……予想通りと云うのか、いつの間にか俺の名義に変更されていた。リズはパーティーからも外れている。ログインした時にパーティーに所属するから、今この場に残っているのは俺と城ヶ崎と……椎名。
しかし、リズはログアウト出来ない筈なのだが。
俺は、顔を上げた。
「……いや、俺だ」
「ついさっき、この『ヒカリエ』全域のNPCラベルが外された。……残念ながら、殆どのNPCは間に合わないようだったけれど――……君の仲間のNPCなら、きっと無事な筈だよ」
ログアウトを押下したのだろう、トーマスの周囲に光の枠が現れた。白銀色と翡翠色の粒子に囲まれて、トーマスの身体が終末東京の世界から消えて行く。
「おいっ……!! 待て!! どうして、俺達のパーティーにNPCが居るって事を……」
不思議な男だ。飄々としているようで、慎重。敵のように見えて、危険は無い。味方のようにも見えるが、何処か適当で、何処まで真剣なのか分からない。
最後にトーマスは、茶目っ気のあるウインクを俺に見せて、言った。
「そんな事を聞いて来る時点で、NPCがパーティーに居るって言ってるようなものじゃないかい?」
――――――――そうか。……言われてみれば、確かに。
呆気に取られているうちに、トーマス・リチャードはその場から姿を消した。
……最後まで完全に、トーマスのペースに乗せられてしまったか。俺は呆然として、その場に静寂が訪れた事を知り、それから暫くして、溜息をついた。
ついに、『ヒカリエ』を照らすライトが夕刻から夜のそれに変わった。急に暗くなっていく辺りの様子を見て、俺は僅かに残っている大聖堂の柱に身を預け、言った。
「…………出て来いよ、椎名。もうばれてるぞ」
一体いつまでそうしていたのか、外壁の向こう側、丁度人が一人立てる程度の僅かな出っ張りに隠れていた椎名が、ひょっこりと顔を出した。明智やララも隠れていた、大聖堂の構造を活かした隠れ場だったが。椎名はすっかり意気消沈した様子で、俺達の前に現れた。
「美々ちゃん……」
「……リザードテイルが、間に合ったから」
この『ヒカリエ』で離れ離れになってから、実質的な城ヶ崎とのファースト・コンタクトだ。裏切り者呼ばわりしていた椎名にとっては、どうしても後悔が残る所なのだろう。
すっかり日の暮れた『ヒカリエ』に吹く人工的な風は、大聖堂の壊れた壁を突き抜ける。それは大聖堂二階と外との境界線に立つ椎名の長い髪を、僅かに揺らした。
…………何を、そんなにも罪悪感に駆られているのだろうか。……俺から言わせて貰えば、あの状況で内部の人間を疑った椎名は、寧ろ誉められて然るべきだ。
「あ、あの…………」
これまでの椎名だったら、どうにもならない現実にパニックになり、或いは今掛時男の時と同じように、子供のように泣きじゃくる事しか出来なかったかもしれない。自分なりに考え、行動し、その結果、椎名は俺達から離れる事を選んだ。
それは今までとは違い、人に依存する事で生き長らえてきた椎名美々と云う存在が、自立したのだと裏付ける重要な証拠になりはしないだろうか。
「ごめんなさい。私……」
「あー、良いって良いって。気にすんなよ」
椎名の謝罪に、城ヶ崎が手を振って笑みを見せた。続いて、椎名は俺の所にも走って来る。
「木戸くんにも、ごめんなさい」
「一応口に出して言っておくと、俺はあの状況で仲間を見限る勇気を見せた椎名は、寧ろ大したものだと思っている。……気に病むような事じゃないさ」
実際、裏切り者が居るとしたら最も怪しかったのが、俺と城ヶ崎であった事に変わりはない。そんな事より、俺は椎名に言わなければならない事があった。
「……俺の方こそ、ごめんな。椎名の作戦に、途中まで全く気付かなかった」
「ううん。気付かなくって当然だし……気付いてくれたから、私も死なずに済んだというか……」
命を賭けて、俺達が全員助かる道を作り上げたのだ。それまでの些細な食い違いなど、取るに足らない要素でしか無いだろう。
俺は椎名の頭を軽く撫で――……城ヶ崎に、目を向けた。
「…………それより、城ヶ崎」
「あー、やっぱ、恭一は突っ込んで来るよなー。絶対無かった事には出来ないんだろうなって、思ってたんだけど」
間髪入れず、城ヶ崎はそのように話す。
既に、俺が聞きたい事など分かり切っているか。
俺の言葉を遮って、思わずと云った様子で笑った城ヶ崎の笑顔は、不意に寂しそうなそれに変わった。静寂に染まり切った世界。地下の街に車の通る音は聞こえず、それが余計に、その場を沈黙させている。
俺はただ、城ヶ崎の言葉を待っていた。椎名の事よりも、城ヶ崎の事の方が問題だと。言外に、そう付け加えたつもりだった。
仮装パーティーで一同がNPCの称号を与えられた時、ミスター・パペットは城ヶ崎に向かってこう言った。
『君達の、健闘を祈る。――――そして君は用済みだ、城ヶ崎仙次郎』
一瞬の出来事だったが、ミスター・パペットに向かって殴り掛かった城ヶ崎は、確かにそう言われていた。あれが仮にクリス・セブンスターだったとしても、あの一瞬は木戸怜士に成りすましていた。クリスは俺や、怜士兄さんの事を知っている様子だった。
ならば、城ヶ崎は。関わりもしていない筈なのに、一体どうして『用済み』になったのだろうか。
城ヶ崎は、真正面から俺と向き合う。俺の隣にいる椎名、少し間隔を開けて立っている城ヶ崎。その様子は、ふとすると俺と城ヶ崎で決闘にでも発展しそうではあったが。
「恭一。…………もう隠せそうにないから、言うな」
「…………ああ」
覚悟を決めたのか。……或いは、覚悟をしなければ切り出せない程に重要な何かだったのか。だが、これまでの会話を振り返れば、城ヶ崎仙次郎という人間が一体何者で、どうして俺と関わろうとしたのか、何となく予想は付き始めていた。
『……ってことは、開発段階の残りモンっすかね?』
思えば、あの時既に、城ヶ崎は俺が何れその事に口を出すのだと、気付いていたように思う。
「……俺、居たんだ。お前が、『俺の会社』に殴り込みに来た時に」
自身の双眸が、城ヶ崎に向かって見開かれる。一瞬、俺は目の前に居る城ヶ崎の顔が、僅かに歪んだような気がした。
椎名が頼りない様子で、俺と城ヶ崎を交互に見ていた。過ぎ去った時間を共に経験していない人間に、その真実は見えない。……だからこそ、経験している人間には、より強く記憶は残る。
思えば俺は、何故城ヶ崎が俺を、この『終末東京』の世界に連れ込んだのか。その事について、故意に考えないようにしていたと思う。
「ねえ、会社? ……って、何の話? 私にも分かるように――――」
「椎名、悪い。……少し、時間をくれないか」
会話に入ろうとする椎名を制止する。
考えてみれば、不可解な点は幾らでもあった。だが、それらは俺にとって、判別のしようもない情報でしかなかった、と云うだけだ。
城ヶ崎が俺を終末東京の世界に誘ったのは。……何処を探しても見付からないゲーム媒体。インターネット上に噂すら流れない、独自のコミュニティ。何処からか情報を掴んで来て、俺を誘い込んだ城ヶ崎。
結果が出てしまえば、なんと単純な展開だろうか。
城ヶ崎は元々、『そういうルート』を持っている人間だったのだ。
「嘘を言う必要は……無さそうだな」
「言ったって、どうしようもない。……まあ、話すつもりは無かったんだけどさ」
両手を広げて、城ヶ崎は苦笑した。呆気に取られてしまった俺に、少しの思考する猶予を与えているように思えた。
「でも、ミスター・パペットの事はよく分からねえ。こんな事を言って良いのかどうか分からないが……信じて、欲しい。俺の所には、終末東京オンラインのプレイヤーを募集する申込用紙があったから、二人分申請した。……それだけなんだ」
わざわざ名乗り出る必要はない。城ヶ崎の言う事は、恐らく真実なのだろう。
……見て、いたのか。あの日、どうする事も出来なかった俺の事を、城ヶ崎は知っていた。その悪魔のような男に全てを奪われる瞬間。俺は、まるでこの世にたった一人で居るかのような気持ちにさせられた。
そして事実上、俺は本当に、現実世界にたった一人、取り残される事になった。
誰にも、助けられなかった。俺はどうしようもなく、最も身近な人間二人を、実質的に失う事になった。
片方は、死に。
片方は、二度と連絡を取らないつもりでいた。
「……どうして、俺に声を掛けようと思った?」
「丁度良い機会だと思ったからだ。木戸怜士が居なくなってから、もう随分と時間が経つ……何れ、世の中に出回るゲームだ。お前の……心の傷を、癒せれば良いと思った」
そうか。
若しかするとミスター・パペットは、この『ヒカリエ』で城ヶ崎仙次郎を殺すつもりだったのかもしれない。
そう考えると、物事の全てに辻褄が合う。城ヶ崎はきっと、塞ぎ込んだ俺を助けようとしていた。俺は、唐突にお人好しで騒ぎ好きな男が一人、俺の近くに寄って来てくれたのだと――――そのような考えでしか、城ヶ崎を見ていなかった。
「恭一。…………謝ったって、どうにもならないって事は分かってる。……でも、謝らせてくれ。……すまん」
本当は、俺の想像の付かない所まで、遥か深くまで。城ヶ崎は、入り込んでいたのだ。
「……どうして、謝るんだ?」
「それこそ、虫の良い話だと思う。でも……後悔、してたんだ。あの時、あの場所で、何も出来なかった俺に……お前の立場だったら、きっと俺の事を恨んだだろうと。そう、思ったんだ」
だが、そうではなかった。
俺の行動は確かに、周囲の人間を変えていたのかもしれない。
「俺は、木戸怜士と同じグループに居た。……と言っても、あいつみたいに技術力があった訳じゃない……ただのテスターだったよ。ゲーム好きな、本当に何処にでもいる……自信が、無かった」
「どうして、俺が恨むと?」
「当然だろ。お前が追放されて捕まるまで、棒のように立って見ていただけだった。……まるで、あいつらの仲間みたいにさ」
「事実、仲間だった」
「いや、そうじゃない!!」
城ヶ崎は、俺に詰め寄った。俺の目を覚ます程の気迫で、どうにか俺に意志を伝えようと、そう考えているように思えた。同時に、俺は気付いた。
城ヶ崎も、また。俺と同じように、水面に立てた『棒』でしか、無かったのだと云う事に。
「……いや、そうだ。あの時の俺は、何も出来なかった……恭一、お前が正しい。やっぱり、俺は間違っていたんだと思った。木戸怜士のプロジェクトは、途中から明らかに不自然な方向に――……進んでいた。進んでいたよ。中に居た俺が言うんだから間違いない」
波紋を描く運動力。発生した大きな波は、水面に立てた棒など恰もそこには無かったかのように、些細な障害物は無視して広がって行く。
或いは、不明瞭に映る蜃気楼。都会のビルの影に隠され、色を失った時のように。紛れ込んだ雑踏の中、小さく縮こまった身体を嘘のように通り抜けていく『雑踏』は、対象物に影響を与えずに先へと進む波の動きに似ている。
波形が大き過ぎるのだ。運動力に流されるままに動く存在は、大きなエネルギーと戦う事をしない。だから、必要以上に影響を受ける事もない。
「勘違いだったら、笑ってくれ。……お前が今みたいにすっかり暗くなっちまったのは、あの事件が原因なんだろ? 俺は、悔しかったよ。ゲームは、人を幸せにする為にあるもんだ。間違っても、誰かの人生を奪うようなもんじゃあ…………」
『俺』や『城ヶ崎』などでは、大きなものに抗う力は持っていないのだ。
俺は城ヶ崎に向かって、笑みを湛えたまま。その意味が、城ヶ崎には分かったようだった。
「…………無いと、思った」
この会話に、意味などない。
過ぎ去ってしまった事実は、変えられない。後からどのように努力した処で、一度失ったものは二度と、戻って来る事はない。
あの時、必死で這いつくばって叫び、結局の所、どうにも出来なかった俺。横で見ていて動けず、どうにも出来なかった城ヶ崎。
同じだ。
何かが変わらないという意味では、どちらも大差無い。
「それで、フリーターになったのか?」
「……はは、カッコ悪いよなあ。本当は、俺があいつらを踏み越えて、ゲームを作ってやればいいとさえ思っていたんだ。でも、俺には技術がない。仲間もいない……結局、俺はゲームが好きなだけの、オタクに過ぎなかったんだよ。……何も、出来なかった」
気付けば、城ヶ崎は涙を浮かべていた。箔を失い、地に落ちた男なのだと……自分自身を、笑っているように思えた。
「どうしようもなくて、お前に声を掛けた。そしたら、お前もすっかり変わってしまっていて……いや、元からだったのか。横で見ていた俺は恭一を見て、何か煩わしいものを取っ払ったように……見えたんだ。こう言っちゃ何だが、期待してた。でも、お前は……」
まさかあの日の俺に、『理解者』が居るなんて。考えた事も、無かった。
「ありがとな」
俺は、たった一言、笑顔のままで、城ヶ崎に言った。
どうしてそのように言われたのか、城ヶ崎には理解出来ないようだった。結局、城ヶ崎仙次郎には何も出来なかった。それだけが真実だと、当人が最も理解しているように思えた。
だが、俺もあの場では、何も出来なかったのだ。
「話してくれて、良かったよ。俺はあの時、世界に一人だけになったような気がしたんだ。俺が考えている事は余程世間からズレていて、まるで俺の方が有害のような――……理解者は一人も居ないような、そんな気がしていたんだ」
バハムート、か。ヨブ記などに登場する、海の化物……小さな自分を大きく見せるように、自らに付けた名前だったのだろうか。
「でも、そうじゃなかった。……理解者は、いた。それが城ヶ崎なら、あの日の俺は救われる」
想像を遥かに超えた、大きな後ろ盾だ。
城ヶ崎は少し照れたような、それでいて役者不足だと思っているかのような、複雑な表情でいたが。
「……怜士を語る偽物を、突き止めないとな」
城ヶ崎は、そう言った。俺も、城ヶ崎に頷いた。
「さっさとどうにかして、『ちゃんと』ゲームを楽しみたいもんだな」
物語の真相とは、いつも思ったよりは簡単なものだ。問題なのは、それが当たり前のように其処に有るが為に、何度探してもその事実を発見出来ない、と云う部分にある。
隠れていて目立つモノより、晒されていて見付からないモノの方が難しい。コロンブスの卵ではないが、聞いてみれば当たり前だと思うような事に、言われるまで誰も気が付かないというのは良く有ることなのだ。
それ程に、簡単な事実に辿り着く事とは困難を極めるものだ。だが、多くの『探さない人』はその事実を知らない。探してみた事がない、その過程を知らないからこそ、人は当たり前の結果が誰かから与えられると信じて、口を開けて待っている。
場合によっては、与えられない事に不満さえ漏らしながら。
……そうだ。俺も口を開けて待っていて、誰も教えてくれなかったからこそ、もがき、苦しんでいた。
それこそが、前に進むための力と成り得ると、今は信じている。
「今日はもう遅い。……戦いの後だ、ゆっくり休んで、また作戦を考えよう」
そこに、意志を共にする仲間が居るなら。
「あ……あの……なんか、さっぱり事情に付いて行けないんだけど……」
どうしようもなく切り出した椎名だったが。椎名には、まだ怜士兄さんの事や遥香姉さんの事、ミスター・パペットの事実について説明していない。
彼女にも、直話さなければならないだろう。
だが、激しい攻防の後だ。俺も流石にもう、何かを考える余裕など無かった。とにかく今日は泥のように寝て、そして…………朝になったら、今度は現実世界で皆を集めよう。
仕切り直しが、必要だ。俺は椎名に笑って、言った。
「また今度な」
「えーっ!!」
空は天井、風は南風。再びデータの塵となって現実世界に帰る俺は、しかし密かな開放感と共に、その場を後にした。
頭の片隅に、姿を見失った少女の一件を残して。




