第三十二話 正解のありか
第一に。今俺の目の前に居る、まさにこの瞬間に対峙している男の動きを、正体も不明なままで俺がどうやって把握していたのか。
俺はクリスの思考を推測したのではない。逆の手段を用いて、思考を制限したのだ。
俺に与えられた情報は、仮想パーティーでクリス・セブンスターが話していた台詞のみ。当時あの場に立ち会っていたのが本当にクリス・セブンスターだったのかどうかは謎が残る所だが、クリスは首謀者として、仮想パーティーでのミスター・パペットの立ち位置と云うものを把握している必要がある。それを鑑みれば仮に違う人物だったとしても近くに居る必要はあり、同一人物だったと仮定して違ったとしても、然程の問題は発生しない筈だった。
だが、大聖堂内のあれが俺達とクリスとの、事実上のファースト・コンタクト。それよりも前に情報を得ることは、困難な筈。
ならば、どうしてミスター・パペットは、俺達が大聖堂内に入り、仮想パーティーに参加する事を知っていたのか。
俺は『敗者の拳』を握り締めた。俺の前に椎名が立ち、クリスに向かって怒涛の爆炎を仕掛ける。
小手調べだ。これは、相手の武器とスタイルを確認する為の動き。
「良いね!! ……僕も楽しくなってきたよ……!!」
あっさりと、クリスは椎名の攻撃を回避する。走りもしない。まるで、爆炎がどのようなコースで奴に襲い掛かるのか、初めから分かっていたかのような動きだ。
俺達は『ヒカリエ』に到着してから仮想パーティーに参加するまで、一度もミスター・パペットと接触していない。だとするならば、ミスター・パペットがこちらの動向を探るには、大きく分けて二つの方法が考えられる。
一つは、外部から監視を仕掛けること。
そしてもう一つは、俺達のうち誰かを誑かして、内部から監視を仕掛けること。
だが、俺達はそれぞれどういった事情があるにせよ、ミスター・パペットと対立して集まった人間だ。もしも仮に内側に裏切り者が居たとしても、露骨に疑われるこのタイミングでは仕掛けて来ないだろうと思われる。
『…………ねえ。私、この中に裏切り者が居るって思ってる』
それが証拠に、推測が最も苦手で、仲間の裏切りが最も苦手な椎名でさえ、裏切り者の存在を肯定していた。
だとするならば、やはりもう一つの選択肢。外側から監視を仕掛ける事だろう。そう思えば、猫の不審な動きにはすぐに気が付く。
まるで俺を初めから認識していたかのように近付き、ずっと俺と共に居た。クリスはああ言っていたが、俺が猫に監視されている事に気が付く事など、初めから考慮に入れていただろう。
だが、猫が問題だと分かった所で障害にしかならない。これが、この作戦を実行し易くする最大のポイントだ。
「でも、動きが遅い。その程度では、僕とは張り合えないな……!!」
クリスは銃を椎名に向ける。椎名は杖を回転させて、自身の目の前に炎を出現させた。
良いガードだ。視界が大きく潰れてしまえば、銃弾で椎名の本体を捉える事は、遥かに難しくなる。加えて、爆炎の音で足音が掻き消される。
……俺も、動かなければ。
椎名が爆炎に紛れて銃弾の攻撃から身を躱した後、俺はその爆炎を『敗者の拳』で殴り付けた。
移動する炎。方向を変えられるなら、その変化は自在だ。
パワーはセーブし、数発の余力を残す。この『ヒカリエ』到着までに、俺が得たスキルだった。
「ヒュー!」
しかしクリスは口笛を吹いて、そこに置いてあるカップを取りに行く時のような気軽さで、その場から離れた。
…………速いな。
「それが噂のパワー手袋か。アルタの妖精に作って貰ったんだって?」
「気のせいだ」
猫による監視を行う最大のポイントは、相手にばれた所でデメリットが一切無い、という点だ。
喋る事が出来ない猫ならば、捕らえて主人の居場所を聞き出す事も出来ない。結局ミスター・パペットの所在が分からないという事であれば、殺した所で次の刺客が送られるだけだ。結果、俺が猫の存在に気付いたという事を相手に教えるだけで、より多くの情報を提供する事になってしまう。
だから、俺が取った選択は一つだった。
それは、『猫が監視要員である事に、敢えて気付かない』という手段だ。これなら、後から監視を増やされる危険もない。
「…………当然、明智大悟も仲間のままか!!」
椎名が貫通させた大聖堂の壁から、明智が銃で狙っている事を察知された。クリスは二丁拳銃を巧みに操り、明智の手から銃を払い落とした。
壁に隠れているから、明智本人に弾は当たらない。その中で、ベストな照準だったと言えるだろう。
「ちっ…………!!」
明智が堪らず、舌打ちをした。やはり、銃の腕は本物か。
「こんな奴等、何人集めても無駄だと思わないかい?」
余裕の笑みに、俺は笑みを返す。
「そうでもないぜ?」
明智は目眩まし。本当の狙いは、俺がクリス・セブンスターに近付く為の手段だ。クリスの腹を目掛けて、拳を振るう。
重圧はしかし、反動を受ける程でもない。腹から深く殴り飛ばした所で、バトルスーツを着ている今の俺に、耐えられない衝撃ではない。
そのまま、クリスを再び殴り飛ばした。
追撃をして、一気に畳み掛けるべきか?
……いや。まだ、時間が足りない。
「猫が監視カメラになっている事だけじゃない。もっと面白い事にも、気付いていたぜ」
壁に激突し、ついに衝撃で亀裂が入った。クリスを場外へ吹っ飛ばす程ではなかったが。破壊された壁はクリスの上から石の雨を降らせる。
構わず、クリスは笑顔のままで立ち上がった。
「…………へえ、何だい? パズルはもういいや、教えてくれよ」
冷や汗が出る。
本当は、今の連撃で倒れて欲しい所だった。……倒れるとは行かないまでも、調子を崩す素振りくらいは欲しい。
それが、息すら切らさないなんて。
「生体がカメラになっている事のデメリットは、その動物が持っている視界と聴覚。それしか乗っ取れないってことだ」
貼り付くようにクリスに浮かんでいた笑みが、僅かに引き攣るのを俺は見逃さない。
「だから動物としての本能で、眠っている時には監視する事が出来なくなる。お前は目一杯、日中は猫が眠らないように意識していた。だから、活動時間が人間と大差無かったんだ」
普通なら、日中にもっと眠っていてもおかしくはない。
「どうかな。そんなもの、ただの予測だろう? 当てずっぽうみたいなもので、確信があるとは言えない――――」
「随分、早かったと思わないか?」
クリスの言葉を遮り、俺は笑みを浮かべた。
「……何だって?」
「若しかして、誤算だったんじゃないか。……そう、思ったんだ。仮想パーティーの場でお前は、俺達大聖堂内に居る人間を根こそぎ眠らせようとしていた。それにしては――――『仕掛けられるのが、あまりに早過ぎた』」
最大の問題は、このポイントに尽きる。
「大聖堂の中に入ってから、俺が眠気を感じるまでに数分。周囲はまだ騒いでいた――……スキルだったのか何だか知らないが、薄い催眠ガスか何かを仕込んでいたんだろ? 俺は誰とも会話をしなかったから、他の人間よりも眠気を感じるスピードが速かった。どうして、眠らせようと思ったのか? それは勿論、今回の『NPC化現象』を引き起こしたかったからだ」
「…………へえ、それで?」
「それなのに、俺が僅かに眠気を感じただけで、直ぐに『NPC化現象』は発生した。……思ったんだ。あれは、本来深い眠りに落ちてから仕掛けられるべき内容だった。ステージで喋った事は、本当は動画か何かを使って公開しようとしていたんだろ? それなら、ゲーム開始が『朝から』って事にも納得がいく」
慎重な男だ。俺達とまともに接触する事なくゲームを開始し、こうまで俺達を追い詰めた。
だからこそ、不思議だった。どうしてミスター・パペットが、俺に夜から朝まで思考する猶予を与えたのか。強引にゲームが開始されたように感じられたのは、予定外が起こったからだ。
「催眠ガスは、本来上の方から降りてくる予定だったのかな。それなのに、『猫が先に眠ってしまった』。それは何故か? ……俺が、猫を抱えていたからだ」
クリスの視線が明らかに、俺を敵視し、そして危険視する類のものに変わった。
上手くフォローしたつもりだったのかもしれないが、現実、綻びはそこから生まれた。
「こいつは困った。お前は俺を監視して、例えば会場から出て行くとか――……そういうイレギュラーに対応しようとしていた。それなのに猫が眠ったせいで、俺の居場所が分からなくなってしまった。仮装パーティーだ。一度見失った人間を再度特定する事は難しい。……だから、あのタイミングで仕掛けるしか無かった」
後から考えれば、これは当然考慮するべき可能性だ。あの時は何を仕掛けられたのか、それを特定する事で精一杯になっていたが。
「ミスター・ゲーマーの弟、か…………君がどうやってこの状況を作り上げたのか、分かったよ」
限られた環境下で、人に上手く意思を伝えるのは難しい。それが監視されていたとあれば、尚更。クリスは、俺がどうやって仲間達と意思を伝達していたのか、その手法を探っている段階のように思えた。
ならば、問題ない。この時点で未だ手法を追っている人間など、戦略上は障害になる事はない。
後は、力量。クリス・セブンスター一人と、俺達全員を使って、それでもパワーバランスは下回っている、と見ている。俺の戦略で、それを上回る事が出来れば。
挑発をする余裕はない。俺は一直線に、クリス目掛けて駈け出した。
「――――――――『筆談』か!!」
そうだ。
俺は夜から朝に掛けて、ただ考えていただけではない。猫が眠っている傍らで、ララと二人で筆談を進めていたのだ。
猫が目覚めてから話した内容は、まだ俺が猫の監視に気付いていないと見せ掛ける為のブラフ。ララにはまだ作戦が伝わっていないかのように見せ掛け、作戦の根幹に触れない程度のネタばらしを、故意に行う。そうすることで、クリスの油断を誘った。
連携攻撃だ。椎名が背後から、俺に当たらないように炎の渦をクリス目掛けて放った。クリスはどうしてもそれを避ける為、大聖堂の中を走って避けるしかない。
「木戸くん!!」
「分かってる!!」
俺はクリスと椎名の放った炎の直線上に立ち、『敗者の拳』を構える。
『ヒカリエ』の街で、明智と出会った時。俺は猫に見えないように、曲がり角を曲がって衝突する形で明智と接触した。その瞬間に、胸ポケットに予め書いておいたメモを突っ込んでおいたのだ。
必然、明智と衝突してからの会話は、俺がギリギリの路線を目指さなければいけないのだという、錯覚を誘うものになる。若しも俺が『筆談』という手段で仲間達の意思統一を図らないのだとしたら、考えられる作戦など一つしかない。
無駄なものは捨てて、有効に使える人間だけを使う。
『椎名美々は、俺達のメンバーから外す』
元々、考えられる戦略だ。ミスター・パペット――――クリス・セブンスターが騙される可能性は、極めて高い。
明智は動揺したかもしれない。ホテルで俺と椎名が衝突していた事は、嘘でもはったりでもない。紛れも無い事実だったのだから。そして、それを確かに猫も見ていた。
椎名があの場で居なくなった事は、結果として俺に対して不利にはならなかった。それも、今があるから言える事だが――……俺はこの状況を作り出すまでに、危険な三本の綱渡りをしている。
まず、一つ。
俺は『敗者の拳』を振るい、目標を外した椎名の炎を、強引に対象の下へと向けさせた。
「それは厄介だな…………!! 気象予報士の攻撃に変化球なんて、考えた事無かったよ……!!」
俺は、明智と再び出会った時の事を思い出していた。
『気付け、明智。俺達はもう、連中の策にはまっている所からスタートだ。裏を取らなければ勝てない』
『おい、自分が何を言ってるのか分かってんのか!? 正気に戻れよ!! 木戸!!』
『煙草、貰えるか』
『…………はっ?』
『煙草』
正気じゃ、勝てない。あの時話した内容だけが、会話の中で最も真実に近いものだった。
俺が胸ポケットを指差し、明智がその場で俺の仕込んだメモを改めないこと。俺が仕込んだと気付いた時に、どういった理由があって仕込んだのかを考えれば直ぐに気付く事が出来るかもしれないが、現実、余裕のない状態でそれを容易に実行出来る者は少ない。
それでも、明智には猶予を与えた。敢えて煙草の入っている『胸ポケット』に狙いを定める事で、明智が咄嗟に胸ポケットに手を伸ばす動作をカモフラージュしたのだ。
結果として、俺が煙草を吸うと言った事が余程の予想外だったのか、明智は固まって悩んだ末、動き出したが――……それはそれで、構わない。
椎名を犠牲にして大聖堂に向かうと明言すれば、クリスは当然、俺と姉さんを大聖堂二階に閉じ込めた時、明智の侵入を意識するだろう。
そこで、椎名だ。
俺の変化させた炎を再び避ける格好になったクリスが、最も明智に近付く。その瞬間、物陰に隠れていた明智がクリス目掛けて、手製の薬――――毒薬を飲ませようとする。
俺が明智と衝突した時、明智の様子を窺っていた。当然ながら、バトルスーツを着た人間とそうでない人間では、衝突した瞬間の動きに変化が生じる。吹っ飛んだ衝撃に目を回すようでは、バトルスーツを着ていないと断定できる。
だが、明智は咄嗟に振り返り、俺に向かって銃を構えた。この行動で、明智が自分用のバトルスーツを何処からか持ち出して来た事が判明した。
「明智!!」
「分かってる…………!!」
次に、椎名の時。俺に対して敵意を感じていた椎名を俺は追い掛け、背後から抱き締める形で交渉に出た。
普段人との接触を最も嫌う俺が、何故あんな事をしたのか。そこから作戦を推測されはしないかと、多少の緊張もした。だが、本当の綱渡りはそんな所にはない。
俺だって情が乗れば普段とは違う事をするだろうし、そう考えると俺の『椎名に恋愛感情を持っている』というはったりは、あの場でしか使う事は出来なかった。
椎名を背後から抱き締めた俺は、背後の猫を意識しながら、店で手に入れたステッキを椎名に握らせ、ローブの内側でメモを見せる。椎名が俺の事を信頼してくれるなら。そう、前置きを置いたメモだ。
監視されている。だから、椎名の返答も『はい』『いいえ』ではない、何かの言葉にしなければならなかった。
俺が出した合図は、椎名が俺の言葉に対して、何かの台詞を言うこと。
『…………どうすれば、いいの……?』
あの瞬間に、俺と椎名は意思を共にする事に成功した。
椎名が、俺の事を信用してくれるか。バトルスーツを着ていない椎名が、怯えずに大聖堂へと走れるか。……これが、二本目の綱渡りだ。
俺が大聖堂目前で椎名を裏切る瞬間、猫は真っ直ぐに俺の方へと走って来ていた。当然、更にその後ろから椎名をフォローする為に登場する、明智とララには目もくれない。……劇的な裏切りだ。椎名が俺のメンバーから外れるとなれば、もう椎名を意識する必要もなくなる。
しかし、それこそが心の隙。俺が自ら手札を切り捨ててここまで来たという確信は、俺に解決の糸口を与えた。
明智は真正面からクリスと対峙し、その口に向かって右腕を伸ばした――――…………
「――――それは、アタリくんの時に見たかな」
クリスは明智の右手に向かって、銃口を合わせた。
俺は、走り出していた。
堪らず右腕を引っ込めた明智に、勝利を確信するクリス。この位置からでは、椎名の炎は間に合わない。俺の『敗者の拳』も、届く事はない。
銃声が響いた。明智は左足を射抜かれ、バランスを崩してその場に崩れ落ちる。
そうだ。奴等にとって、俺達は人殺しなどまるで素人。その中で、明智大悟一人が死去する事など、この男にとって何のデメリットでもない。
「ワンパターンは良くない」
そんな事は分かっていた。足を射抜いて動きを止めた次の一瞬、必ず明智の心臓に照準を合わせる。その一瞬だけは、俺も椎名も攻撃を届かせるには距離が合わず、為す術もなくなる。
届くか。……届かないか。
緊張を、肌で感じる。
明智しか見ていなかったクリスが瞬間、驚愕する。二つの銃口を合わせるには間に合わない。
俺達の強みは、数だ。正直言ってしまえば、この状況ではそれしかない。様々な能力を持った仲間達が、今、俺の周りに居ること。それが訓練された人間に対する唯一の優位性であり、そして勝利を握るための。
「――――明智さんは、殺させません!!」
鍵だ。
明智の更に後ろにもう一枚。潜んでいたララが、短剣を振り被った状態でクリスの前に現れる。バトルスーツを着こなした、ある程度の熟練者の動き――……先程の連続攻撃で、俺の拳を、クリス・セブンスターは避けきれなかった。現実世界ではどの程度動くことが出来るのか知らないが、現段階では終末東京の身体は、完全にクリスの手中に収まっていないように感じられた。
だが。クリスは咄嗟に、明智に向けた銃口をララへと向け直すだろう。その圧倒的な反射神経と、信じられない程のスピードで。
俺は、そんなララとクリスの攻防の間に。
その身を、飛び込ませた。
「馬鹿な…………!!」
自ら死にに行くようなもの、と思うだろうか。クリスはその瞬間、きっとそう思ったに違いない。
だが、誰もがNPCであるこの状況では、死の恐怖を完全に拭い去る事が出来る者など居ない。クリスに怯えて動きが鈍くなっても、仕方がない事なのだ。
ならば、どうするか。『ミスター・パペットが唯一殺せない人間』を、盾に使えばいい。
ララが登場し、既に一度ブラフを掛けられた後で、咄嗟に合わせた照準は変えられないだろう。だが、迷いは生じる。俺は『敗者の拳』を既に構えている。クリスの銃弾を跳ね返し、その身体を貫通させる為の一撃。
これが、最初で最後の、本気の攻撃だ。
「うおおおおおおあああっ――――――――!!」
気合、一閃。
クリス・セブンスターは俺に殴られ、一直線に吹っ飛んだ。今までとは違い圧倒的な破壊力で、大聖堂の壁目掛けて一直線に飛んで行く。
全力の一撃は確かにクリスを真正面から殴り飛ばし、骨が折れるような手応えもあった。
そのまま、大聖堂の壁を破壊し、その向こう側へ。衝撃と破壊音が辺りに響き、それを起こした元凶とは思えない程に小さな身体は、場外に落下した。
「や、やった!!」
椎名が思わずそう呟いて、俺の下へと駆け寄る。俺は深くため息をつき、その場に座り込んだ。
静寂が訪れた。崩れ落ちた明智は何も言わず、笑みを浮かべた。ララは達成感に満ちた表情で、クリスの破壊した壁を見詰めていた。
…………終わったのか。
俺は、敗者の拳を装備した右腕を握り――――…………、そして、背後を見た。
「いたた…………流れ弾、当たっちゃいました」
短剣が払い落とされ、僅かに手から血を出したララ。俺を見て、苦笑していた。
何気無い一瞬。ふとすると通り過ぎてしまいそうな、僅かな気の緩み。
違和感。
「良かった。……早く、皆を元に戻さないとね。……もしかして、一緒に吹っ飛んじゃったのかな」
椎名が脳天気な声で、クリスの破壊した壁を見詰めている。既に大聖堂の壁は穴だらけで、柱さえ壊れればいつ崩壊してもおかしくない状態だった。
違う。
まだ、終わっていない。
その確信が俺に、更なる緊張と恐怖を与えた。張り詰めて緩んだ意識は、今一度現実へと舞い戻る。
俺は現状を確認し、確かに誰も死んでいない事を確認した。遠くで座り込み、動けなくなっている遥香姉さんを見て。
「全員、早くここから離れるんだ…………!!」
そう、言った。
ララが手を押さえている。それはクリスの銃弾を受け、武器を取り落としたからだ。
どうして?
ある筈が無い。
弾き返した筈の『流れ弾』が、ララに当たる事など。
直前で、軌道を変えられた。ぎりぎり、ララが武器を取り落とす位置まで操作されたのだ……即ち、クリスは未だ自分の攻撃を、自分自身で受けていない。
ならば、俺のパンチ一発で倒し切る事が出来るとは思えない。
戦いはまだ、終わっていない。
「どうしたの、木戸くん。急に声、張り上げて…………」
誰が危険だ。この場で最も危険なのは。怪我をしているが、バトルスーツを着ている明智。元気だが、バトルスーツを着ていない椎名。プレイヤーで無い為に瀕死になれない、武器を取り落としたララ。
順番に、視線を向け。
「――――姉さん!! こっちへ!!」
俺は、走り出していた。遥香姉さんは立ち上がり、覇気のない足取りで、俺の下へと歩く。
それでも、まるで戦いは終わったかのような笑顔でいた。怜士兄さんの面影を探し、すっかりくたびれた姉さん――……走った。俺は全力で走り、どうにか遥香姉さんを庇おうと死力を尽くし、そして。
「姉さん!!」
遥香姉さんは、胸を撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちた。
一瞬だった。小さな銃声に、椎名は惚けた表情のままで視線を向け。明智は一度閉じた瞼を、再び驚愕に見開き。ララは眉をひそめていた。
――――ああ、姉さん。
だから、こんな所に連れて来たく無かった。
「……やれやれ。君が欲しがっているのは、こいつだろう? 実はスイッチなんだ……本当は、僕がその気になれば今直ぐにでも、この状況を元に戻す事が出来るんだけどね」
破壊された壁。剥き出しになった床に手を掛けて、身体を持ち上げる人間の姿があった。紛れも無い、倒し切る事が出来なかったクリス・セブンスターの顔が下から覗き、俺に笑みを向けた。
将棋には、『棒銀』と呼ばれる戦略がある。歩、銀、飛車と三枚に構え、敵陣を突き破る布陣……だが、失敗してしまえば最後、攻撃も防御も手薄になり、戦況はどうしようもなくなる。
俺は今、その状況下にいる。……全てを賭けた、連続攻撃だった。倒す事が出来なければ、強烈な反撃が来る事を、予め予想した上での攻撃だった。
…………いや。『強烈』で済むなら、まだ良い方かもしれない。
俺は咄嗟に、近くに居た椎名の直線上に立ち、盾になった。銃弾攻撃なら、曲線を描いた攻撃は出来ない……せめてもの、防衛策だった。
「木戸くん…………!!」
両足の腿に、激痛があった。クリス・セブンスターに足を撃ち抜かれたのだと気付いた時には、既に俺は膝を折り、崩れ落ちていた。
遥香姉さんのすぐ近く。他に三人の、動ける仲間を残して。
「木戸おおおおお――――――――っ!!」
明智が叫び、俺を助けようと走る。だが、明智も既に左足を撃ち抜かれた身だ。銃も落とした明智に術はなく、そのまま――……
どうしてだろう。
霞んだ思考の中、俺はそんな事を考えていた。……確かに俺は、最善の策を取った。少なくとも自分が取る事の出来る中で、最善の行動を。
それが、どうしてこのような事態に陥っているのだろうか。
やはり、抗うことは出来ないのだろうか。
『強者』には。
「木戸恭一、取引をしよう」
明智は両腕両足を撃ち抜かれ、無様にも頭から、駆け出した勢いのままで崩れた。
「…………やめろ」
俺は精一杯に、それだけを口にする事しか出来なかった。
「明智さん!!」
ララが動き出す。完全に感情が先行した、戦略も何もない行動で。クリスは次の標的をララに定め、二丁拳銃を自在に操り、踊るようにララの投げた短剣を躱した。
二丁の拳銃を持ったまま、クリスが踊る。
鮮やかで、美しい動きだった。脚本を与えられた役者が舞台の上で踊る時のように、クリスは残酷で、しかし神にも似た微笑を浮かべ、ララ・ローズグリーンの全身を余すところ無く撃ち抜く。
寒気がした。全身からすう、と熱が引いていくような悪寒。口が震え、碌に言う事を聞かない。
「やめろっ…………!!」
口に出す事が出来たのは、それ程に拙い言葉でしか無かった。
ララが崩れ落ちた。杖を握ったままの椎名が恐怖し、怯え、腰を抜かしてその場にへたり込むのが見えた。クリスは何事も無かったかのように俺の下へと歩くと、動けない俺の髪を掴み、そのまま持ち上げた。
「大丈夫だ。まだ、誰も殺していないよ。初めは殺そうかと思っていたんだけどね……気が変わった。確かに君は、ミスター・パペットが言うように、『こっち側』に来るべき人間なのかもしれない」
クリスも、無傷ではない。確かにダメージを受けているようで、それは確実だったのに。
それでも、これだけの動きが出来る程に、体力を残している。ぎりぎりの所で銃口を逸らした結果、クリスは生き延びたのだ。
ああ。
今の俺に、できることは。
「あ…………あ…………」
椎名が、声にならない声を発している。クリスは微笑みを浮かべたまま椎名を見ると、再び視線を俺に戻した。
「誰も、殺したくないだろう? ……なら、僕と共に来るんだ。嬉しい事に、もう『ヒカリエ』に隠れているデッドロック・デバイスは見付ける事が出来てね……後は、君だけなんだよ」
俺は、椎名に向かって合図を送る。
既に、人質は取られた。早く行け。お前が無駄に傷付く必要はない。……俺は、そのような意味を込めて、精一杯に手を払ったつもりだったが。
椎名は、その場から動けずにいる。
「可哀想に、あんなに震えて……早くしないと、君の仲間達も死んじゃうよ。……ああ、一人だけNPCが混ざっていたんだっけ? それはもう、どうしようもないけど……ほら、本当は彼女の事も、大切だったんだろう?」
クリスはそう言って、俺の顔を椎名に向ける。
……この状況で、どうにかする術はあるのか。これでは本当に、どうしようも無いのではないか。
逆転する、術は。…………何か。
「裏切った振りをしてまで、助けたかったんだろう。大切な仲間……そう、仲間だ。君にとっては、命を賭けても護りたかった仲間……そうなんだろう?」
ああ、そうさ。
怜士兄さんの影に隠れて生きてきた俺には、まともに友達と呼べる人間なんて居なかった。唯一恋愛感情を抱いていた遥香姉さんでさえ、怜士兄さんに奪われていた。
俺は、ずっと一人だった。
救われたような、気がしたんだ。
信頼出来る仲間と共に居るという事は、こんなにも、素敵で。
「さあ、一度だけチャンスをあげるよ。……僕と、共に来るかい?」
はい、と言え。
もう手は尽くした。チャンスはない。これ以上、時間も稼ぎようがない。だとするならば、人は訪れない。この状況下で、俺達だけで逆転する事など無理だ。
自分が、自分を焦らせる。とにかく一言、付いて行くと言え、と。俺は、僅かに口を開いて。
「もう、やめてよ…………!!」
発しかけた言葉を、椎名が遮った。




