第二十九話 積み上げた固定概念
ララは元々がメイド服だったので、仮装をしなくても顔を隠すだけで充分だった。寧ろ着包みの中にどうやってフリルの付いた服を着込んでいたのか分からなかったが、着包みを脱いだララは手早く顔を隠す為の面を装備した。今度は真っ白く、大した装飾もされていないものを選んだ。
ララの真っ赤な髪色は目立つので、スプレータイプの髪染めを使って茶色に変えてしまう。シャンプーをすれば落ちる、簡易的なものだ。服屋の隣がコンビニエンスストアで助かった。
顔さえ隠れてしまえば、後は出来るだけ機能性のある物が良い。一番初めに服屋に寄ったのは、ララの装備を整える為だ。NPCを含め、今日は北の住宅地側に『ヒカリエ』内の人間が集結している。必然的に商業エリアはガラガラになり、扉さえ壊してしまえば簡単に侵入出来る。
「こんな感じでしょうか、恭一さん」
「ああ、それでいいよ」
しかし、長居は出来ない。時間が経てば、ここも衣装を求めるNPCでごった返し、それを狙うプレイヤーとの戦場に早変わりする事だろう。
此処までは、大方予定通り――……しかし、此処からが問題だ。『大聖堂』に向かうまでの道筋で、取れる手段は全て取っておかなければならない。
それに――――…………
俺は、道中で手に入れたステッキを服の中に仕込んだ。
「予定通り、進みそうですか?」
「今の所は、な。ララ、通りに人は?」
太腿のナイフに何時でも手が伸ばせる状態で、ララはカーテン越しに大通りの様子を窺った。可愛らしい服とのギャップが、妙に様になる。
それにしても、ララは分厚い着包みを来て走り回っていたにも関わらず、汗一つかいていない。一体どういう技術なのかと問い掛けたくなるが、今はそんな事を話している場合ではなかった。
「二人……三人。仮装をしているので、ジョブは分かりません」
「構わないよ。何をしているか、分かるか?」
「電話…………でしょうか」
グループか。……あまり、見付かりたくはないな。
ミスター・パペットの用意した写真は顔の部分がアップになって映っていた為、服を特定されるには至らないが。仮装をしていない人間の存在がより早く広まるかもしれない。
「裏から行こう。こっちだ」
◆
ララ・ローズグリーンは、俺の思っていた以上に機能する人物だった。NPCである以上、リズのように死亡や致命傷に対する恐怖があるものかと思っていたが、だからと言って身体が動かなくなる程、ヤワには出来ていないようだ。考えてみれば、終末東京の世界が日常である人間にとっては、地上のクリーチャーに対する恐怖と大して変わらない状況であり、気になる程の問題では無いのかもしれない。
地下都市であるが故に、天候を気にしなくて良いところもメリットだ。ララの髪染めが落ちる問題を防ぐ事が出来る。
俺達は再び、『ヒカリエ』中央通りから一つ隣の細い路地を歩いていた。着包みを脱いだ時点で、ここからは先頭をララ、背後を警戒しながら俺が付いて行く。俺の足下を歩く猫は随分と賢いようで、人の多い道では一声も鳴くことが無かった。声を出したら置いて行くしか無いと思っていたが、これは嬉しい誤算だ。
唯の猫とて、居れば居るなりに使い道があるものだ。特にそれが、相手の予想外に一枚噛めれば尚良い。
……何だって、利用してみせる。仲間をバラバラにされ、圧倒的に不利な状況に追い込まれてしまったのだ。恐らく、ギリギリまで踏み込む覚悟が無ければ、逆転は達成し得ない。
ララが廃ビルの非常階段を上がる。……予定通りだ。特に意識して見ていた訳では無かったが、『ヒカリエ』の地図は頭の中に思い描く事が出来ている。
リズが居れば、もっと早く目的を達成する事が出来たかもしれないが。それを言うなら、誰が居ても解決までの速度は飛躍的に向上する。今は、あるもので戦うしか無い。
「あまり音を立てるな、ララ。戦線離脱したプレイヤーがビルの中に隠れている可能性はある」
「あ、はい。申し訳ありません……」
最も、戦線離脱したプレイヤーはバトルスーツを持っていない側の連中だろうから、恐れる存在では無いかもしれないが。用心するに越したことはない。
中心地である、『コア・カンパニー』『大聖堂』そして、『北の住宅街』からも遠く離れた、西の商業エリア。此処には建物を建造したは良いものの、何かに失敗したのか、利用者の居なくなってしまった廃ビルが幾つかあった。
予想する所では、現実世界の感覚を持ったプレイヤーが終末東京世界で商売を始めようとして、人口の絶対数の少なさに負けて撤退して行った、というような内容だろう。ゲーム自体も流行ると言うほど流行っていないから、わざわざ現金を持ち出して新たに拠点を構えようとするプレイヤーが少ないだけだ。
手早く屋上まで移動すると、身を屈めながら移動する。屋上の扉がある付近の壁に身を寄せると、ララが目を丸くした。
「すごい……本当に、見えますね」
「位置の問題だからな。当然見えるだろうさ」
地下都市『ヒカリエ』の大聖堂はコア・カンパニーに隣接しており、その二つの建物を中心に、十字を描くように大通りがある。と云う事は、大通りに近く、背の高い建物であれば、大聖堂の広場を確認する事が出来るのだ。
双眼鏡は無いが、バトルスーツを着ている今の俺達なら、肉眼である程度の確認をすることは可能だ。
「広場の様子は?」
「人は……居ませんね」
まあ、そうだろう。
俺は頷き、ララの手を引いて、大聖堂の広場から死角となる壁に身を隠した。
俺達の狙いは、当然大聖堂の内部となる訳だが――――此処に入るに当たって、最も危険なゾーンに足を踏み入れるという意識を持たなければならない。……確か、コア・カンパニーの建物には巨大な時計が設置されていた筈だ。
そう思い、陰から顔を出し、建物を確認する。時刻は昼前、十一時を回った所だ。こうも頻繁にプレイヤーウォッチに目を付けられると、あれ以外にも腕時計を持っておく必要すら感じられる。
「……頃合いだな」
「ですね」
俺は事前にララへ説明した内容を反芻していた。
大聖堂の前が危険となる理由は、幾つか考えられる。一つは、ミスター・パペットの協力者が大聖堂前を監視している可能性があること。恐らくプレイヤーかNPCかのどちらかに扮し、俺達を待っている。
奴等にとって、俺達は『ゲームをクリアさせる必要のない存在』だ。他のプレイヤーには公平である必要があるかもしれないが、俺達に限って言えばそんな事を気にする必要はない。
NPCとなった数多のプレイヤーには『デッドロック・デバイス』を探させるという目的があるが、俺達には無いからだ。
そして、もう一つは――……
「居た…………!!」
ララの声に、反射的に目線を合わせる。
もう一つは、大聖堂前に居るハンターと化したプレイヤーの存在だ。NPCを襲う事を諦め、プレイヤー同士の戦争を始めると決めた時、最も有効に働く戦術が存在する。
それは、大聖堂前の広場を中心に叩く事だ。
「じゃあ、俺は仕事を済ませてくる。サインを送ったら、行動開始だ」
「し、承知いたしましたっ!」
猫を連れて、俺は屋上を後にした。
アイテムを持っていないプレイヤーにとって、五つのアイテムを手に入れる事はそう容易ではない。しかし、確実に五つのアイテムを持っているプレイヤーだけを攻撃する方法があった。それが、『大聖堂前でゲームクリア目前のプレイヤーを待ち構える』という作戦だ。
最も的確で、ゲームクリアを狙える最短の道程。だが、ある程度NPCが襲われ、クリア目前のプレイヤーが熟している時でなければ効果を発揮しない。
だが、間もなく正午ともなれば、奴等は待ち構えるだろう。獲物を狙うハイエナのように、鋭く目を光らせて。
残念ながら、この作戦を取る人間は相当数居ると思われる。バトルスーツを着ていない人間でさえ、大聖堂前に構えている可能性がある――……殺されて零れ落ちたアイテムを拾ってしまえば、ゲームクリアは目前だからだ。
その上、奴等はプレイヤーを殺す事を前提とした集団。言ってしまえば、このゲームにおいて最も厄介な人種が襲い掛かってくる、魔の境地とも言える――――危険で残虐な、戦争の地と成り得るのだ。
――――――――覚悟、か。
胸の前で握り拳を作り、俺は走りながらも意識した。
俺だって、出来ればこんな作戦は使いたくなかった。
例えば将棋では、歩、銀、飛車、と三枚に構え、本命を敵陣に乗り込ませる為に弱者を犠牲にして突っ切る『棒銀』と呼ばれる手段が戦術として有名だ。
碁では、敢えて石を取らせる事で敵陣を崩す、『ホウリコミ』と呼ばれる手筋が存在する。
ギリギリまで踏み込むとは、そう云う事でもある。ミスター・パペットは……いや。騒ぎの首謀者は、きっと俺の作戦に気付くだろう。
それは、生きる為の犠牲か。はたまた、強者だけを戦場に残す為の作戦とも言えるのだろうか。
細い路地だけを通れば良いのは、楽で助かった。商業地区は殺伐としていて、人の気配は殆どしない。もう少し大聖堂に近付いていると思っていたが、何かあったのだろうか。
俺の後ろを、猫が付いて来る。俺は振り返り、猫に笑みを向けた。
「……お前のお陰かな? 運が向いてきたみたいだ」
せめてもの願掛けになれば良いと、頭の中では考えていた。
曲がり角を曲がると、再び細い通りに出る。唐突に目の前に現れた人影に、俺は為す術もなく激突した。
「うおおっ――!?」
声を出したのは、俺ではなかった。
文字通り反射して、地面に尻餅を付いた。強いが、弾力性を伴う衝撃に意識が浮遊しそうになる。もう一人の影は咄嗟に振り返ると、銃を持ち出していた。そうして、構えた所で驚愕に目を見開く。
「木戸…………!?」
タキシードに、目元の隠れる簡易的な仮面。それを外すと、目の前の男は確かに俺――木戸恭一――である事を確認し、衝撃を受けていた。
「明智。探したぜ……」
明智大悟も、曲がり角を曲がる直前だったようだ。恐らく、大聖堂へと向かっている最中だったのだろう。俺は細い通りを選ぶ為、わざわざ大回りをして明智に会いに来ていた。
銃など持ち出してはいるが、明智は銃使いではない。リズと同じような専門職以外でも扱える武器を、何処からか持ち出して来たのだろう。
確かに、明智の能力では。この戦場を無傷で動くには、戦力が圧倒的に足りていない。
「どうしてこんな所に居るんだ? ……てっきり、もうお前さんは大聖堂の中かと思ったぜ?」
「流石に、それは無理だよ。大聖堂の前、見なかったのか?」
そう言うと、明智は鼻で笑って大通りを見た。
「ああ。……正面突破は絶対無理だと思ったけど、お前さんなら抜け道とか何か、見付けてるかもってさ」
「一応気にしなかった訳じゃないけど、円形で窓もない。よじ登るには人目に付き過ぎるし、厳しいな」
天井から入る事が出来れば、ミスター・パペットと対峙する上では有利かもしれないが。ドームのような作りは、広場の前で待機している連中から丸見えだ。狙撃に秀でた職種から狙い撃ちにされて終わりだろう。
どの道、正面突破しか手段は存在しないという事だ。
「椎名が見付からねえんだ。一応、大聖堂の周りを中心に探したんだが……あいつ、何処かに隠れてるのかもしれねえ」
「だろうな。ミスター・パペットに近付こうにも、大聖堂に入れない。バトルスーツも戦器も無しじゃ、手段が無いだろう」
一人で攻略すると言っていたが、一体どのような手段を用いて攻略するつもりなのか。俺が聞きたいくらいだ。
だが、今の椎名は仲間を疑っている状態だ。そうなってしまうのも仕方が無いだろう。
疑惑。知らず、目付きが鋭くなるのを肌で感じる。言葉を交わすだけでは決して理解し合う事は出来ない部分に、表層からは見ることが出来ない本音というものが隠れている。
仮装パーティーの直前までは、椎名があのような事を考えている等とは微塵も思っていなかった――――初めから、少なからず思っていた部分があったのではないか。行く先々でミスター・パペットと接触する俺達に、元から何かがおかしいと感じていたのかもしれない。
気が付かなかった。
「…………明智。椎名は、もう探さなくていい」
明智が、頭に疑問符を浮かべて言った。
「探さなくていい? ……そりゃ、どういう意味だ」
「椎名美々は、俺達のメンバーから外す」
俺の背中で、猫が欠伸をした。
明智がぴくりと眉を動かす様子を、俺は無表情のままで見詰めていた。怒っていると言うよりは、焦っているようにも見えた。
俺に託された手札は二つ。一つ目は、既に見過ごされてしまった――……だが、手を緩める事は出来ない。場の空気は次第に張り詰めていくが、俺から動く事は無かった。
「……お、おい。幾ら何でもそりゃあ……あいつ、バトルスーツも戦器も持って無えんだぞ。この状況じゃ、何があってもおかしくない」
「ああ、分かってる。……だけど、信頼関係を失ってしまったものに手を掛けている余裕が無いからな」
頬を、汗が伝う。
明智が取り乱している様子が、手に取るように分かる――……通りに背を向けて立っている明智の向こう側と、自身の背中を意識しながら。俺は――――、ついに。
「…………正気か?」
「チェスに例えて言うなら、『たまに相手も動かすことが出来るルーク』を手中に抱えているようなもんだ。そんな状況で、お前なら戦えるか?」
動き出した。
ぎりぎりまで。切れる寸前まで弓を引かなければ、届かない。その為の最善策が、これだ。そして、明智大悟が理解してくれるかどうかが、大事な課題になる。
そうでなければ、大聖堂前を無傷で通過する事など不可能だ。唯でさえ、明智も椎名も、間もなく連中の標的になるのだから。
駒を捨てる。誰にと云う訳でもないが、これもまた、大切な戦略となることを理解させなければならない。
「たっ、確かにあの嬢ちゃんはお前を疑ったかもしれないが……見捨てる訳には行かねえだろ。生き死にの問題だぞ」
「だったらどうする? 全員で死にに行くか? ……それも良いかもな。『ガーデンプレイス』でだって、俺がどうにかしなきゃララは見殺しだった」
大丈夫だ。明智は頭が良い。
「気付け、明智。俺達はもう、連中の策にはまっている所からスタートだ。裏を取らなければ勝てない」
「おい、自分が何を言ってるのか分かってんのか!? 正気に戻れよ!! 木戸!!」
この程度の謎掛けなら、直ぐに明智は気付いてくれる。
「煙草、貰えるか」
「…………はっ?」
「煙草」
明智の胸ポケットに入れられた煙草の箱を指差し、俺はそう言った。俺を咎める姿勢だった明智が、不意の発言に目を丸くした。
暫し、硬直があった。明智は迷いの末、胸ポケットを弄り――……手を止める。
その後、胸ポケットから煙草を一本取り出し、俺に手渡した。俺はそれを咥えると、火を点けるように促す。未だ難しい顔のまま、明智が俺の煙草に火を点ける。
煙を含んだ。
瞬間、肺の奥から湧き上がる刺激に、堪らず咳き込んだ。
「お、おい。……やっぱお前さん、吸わないんじゃ……」
今の俺は、どんな顔をしているだろうか。『ガーデンプレイス』で戦ったアタリにも似た、狂気の表情で居るだろうか。膝を折って咳き込んだ状態から、明智の顔を見上げ、威嚇するように睨み付けた。
「――――勝てねえんだよ、正気じゃ」
地獄の底からだって、這い上がってみせる。その覚悟は、明智に届いただろうか。戸惑いの色を見せていた明智は、やがて俯き、自身も煙草を一本取り出して、火を点けた。
大きく煙を吸い込むと、吐き出す。思考を整理するかのように、深呼吸をしていた。
糸が切れるまでの数秒間、俺は一切の身動きを取ること無く、明智の様子をただ見詰めていた。たった一言、発された言葉は、恐らく明智の意識の深層に届いた。
「…………分かったよ。それで、どうすりゃあいい」
その反応、態度を確認して、俺の考えは明智に届いたのだという確信を得ることが出来た。
「特に何もしなくていい。今は、路地に身を隠すんだ――……何れ、大聖堂前の広場を突破する為の波乱を一つ、仕掛ける。そのタイミングに合わせて出て来てくれれば、すんなり大聖堂に向かう事は出来る筈だ」
それだけを話すと、明智は頷いた。俺は踵を返して、明智に背を向ける。
そうして、走り出した。
道中、少し開けた十字路に出ると、先程まで屋上に居た廃ビルの方へと目を向ける。室内へと続く扉の壁に隠れているララは、ずっと俺の様子を窺っている。
予め決めておいた、合図を。小さいと気付いて貰えない危険性があるが、あまり大袈裟にすると悪目立ちする可能性がある。それでも…………手を振ると、ララの姿が屋上から消えた。
――――よし。一応、ここまでは順調だろうか。
いや、失敗など出来ないのだ。俺には、そのような決意があった。
『木戸くんが、私達を『ヒカリエ』に連れて来たんだよ。ミスター・パペットと、本気で戦うからって。そしたら、こんな事が起きて……』
椎名の言葉を、忘れない。
走りながら、俺は思い返していた。椎名の疑惑は至極真っ当な意見で、そう思われても仕方が無いと思えるようなものだった。しかし、既に俺がミスター・パペットの協力者だと勘違いされる事など、些細な問題はどうでも良い事だ。
俺は、俺自身の選択によって、真剣に吟味して俺に付いて来てくれた仲間達を危険な目に晒してしまったのだ。
城ヶ崎仙次郎。椎名美々。明智大悟。ララ・ローズグリーン。木戸遥香。
……エリザベス・サングスター。
ミスター・パペットは、強敵だ。俺一人では、太刀打ち出来そうにない。そして奴と戦う理由さえ、言ってしまえば俺のエゴのようなもので、自分勝手で独り善がりな理由だった。
確かに、椎名を始めとする誰もが、ミスター・パペットの手によって実際に苦しめられた。それは、周知の事実ではあったが。
俺が奴を敵だとみなす理由は、もっと直接的で感情的な理由によるものだ。
――――いや、そうとは気付いていなかった。
悪戯に人を傷付ける何者かを、もうこの終末東京の世界に置いておく事の無いよう、極めて一般的な正義感から動いていたつもりだった。
『怜士!!』
まだ、引き摺っているのだろう。
俺もまた、遥香姉さんと大して変わりない。木戸怜士を取り巻く一連の事件を、知らずのうちに追い掛けているのだ。この世の何処かには未だ兄さんが生きていて、そのうちひょっこり顔を出すのではないかと考えているのだ。
出来れば、ミスター・パペットが本物の木戸怜士であれば良いと、俺は考えているのだ。
何を、恐ろしい事を。仮に兄さんが生きていたとして、このような犯罪紛いの事件を起こす男に会いたい等と。建前上は、自分自身を咎めている。
だが、実際は――――。
姉さんだって、俺と同じように考えているかもしれない。だからこそ、俺を無視して一人で動いているのかもしれない。
リズが言っていた。現実世界では、光を超える素粒子の存在は確認されなかったと。理論上は存在するかもしれないが、それを俺達人間の手で確認する事は出来ないと。
何故なら、全ての物質は高速に近付く程に、エネルギーに変わってしまうからだ。しかし、ゲームの世界においては、その法則を無視して新たな素粒子を作り出す事が出来る。
或いはそれは、リオ・ファクターのように。
タイムマシン、か。そのような物があってくれれば良いと、今は思う。ゲームの中だけでも構わない。俺を、あの時代に戻して欲しい。
力も知恵も無く、ただ我武者羅に目の前の問題に殴り掛かる事しか出来なかった、あの日の自分に。
「…………リズ」
未だ、その姿は見えない。
初めて出会った時から、何か異様な雰囲気を肌で感じていた。それは俺にとっての天使のようであり、悪魔のようでもあった。混沌とした記憶を引き摺り出したかのように見えたリズの面影は、確かに俺の中の記憶と、何処かで繋がっているように思えた。
ミスター・パペットの協力者である可能性。
いや、本人がミスター・パペットである可能性も、あるのだろうか。
だが、どちらの可能性を考慮したとしても、今はまだ単なる予想でしかない。
ならば、まだ出会って間もない時に、彼女が『タイムマシン』を作りたいと本気で話していた――――あの笑顔を、俺は信じたいと思った。
そうだ。――――ならば、きっと彼女は、ミスター・パペットに捕まっているのだろう。
今もなお、誰かの助けを待っている。俺や城ヶ崎や、仲間達の助けを。
心配するな。仲間は全員、この『ヒカリエ』から生きて出す。『全員』『必ず』。何度も、自分に言い聞かせた。
大通りの一つ外側の通りを走る。特に出入口側には沢山の人が居る筈だが――……何処か隠れられる所で、かつある程度は安全な場所が良い。
大通りが十字を描いている以上、大聖堂広場の前を狙っているプレイヤーは、一つ外側を走っている俺に気付く事が少ない。何しろ、今日一日しか時間が無いのだ。自らが隠れていて見付かる危険が無いなら、背後の人間になど構っている余裕は無いだろう。
そして――――そうだとするなら、この一回り外側の通りの何処かに、俺の探している人物は居る筈だった。
肩を掴み、俺はその人物に呼び掛ける。
「椎名」
反射的に身を翻し、椎名は驚愕の表情で俺を確認した――――その顔は、一瞬安堵の色に染まる。背後から攻撃される事を恐れていたのだろう。
だが、直ぐにその顔は険しいそれへと変わった。
「……何しに来たの?」
椎名の足下に、先程まで俺に付いて来ていた猫が擦り寄る。随分と、警戒されているようだ……当然の事ではあったが。
さて、どうするべきか。この状況では、騙す事などそう簡単ではない。椎名の服装は仮装パーティーの時と同じ猫耳姿で、露出の多い過激なものだったが、その姿は上から黒いローブを羽織って隠されている。
大衆から目立たないようにする為だろう。……俺にとって、楽な展開だ。
商業エリアに居た時から仕込んでおいたものに、それとなく手を掛ける。
「少し、話し合いたいんだ。そんなに警戒するなよ」
「……どうして一人なの?」
「別に、大した理由はないよ」
「嘘。……ねえ、知ってる? 『ガーデンプレイス』にはね、そっくりそのまま他人になれちゃうアビリティを持った人が居たの。……同じアビリティが二つ存在しないって保障はないよね?」
冴えているな。この場合、誤解ではあるが。警戒すべき内容としては、及第点だ。
ならば――……
「椎名美々。地下都市『アルタ』を出るまで、今掛時男と付き合っていた。普段はコンタクトで、ラフな格好の時は眼鏡を掛けている。……まあ、どちらも終末東京の世界では必要のないモンだけどな」
僅かに、椎名の緊張が解かれた気がした。同時に、薄っすらと頬が赤く染まる。
「どうせ、大聖堂に入れなくて苦戦してる所なんだろ? ここは仲直りして、手を組まないか」
タイミングが大事だ。この状況を変えるためには、一瞬を突かなければならない。この通りには、俺達を除いて他に人は居ない。……ミスター・パペットの仲間が居たら困っている所だが、椎名もそこまで愚かでは無かったか。
椎名は完全に、俺を敵だと思っている。……この状況を、変えるには。
「嫌。……今回は、私も命が掛かってるんだよ。木戸くんも早く諦めて、自分で動く方法を探したら」
「生憎と、俺の能力じゃあ単体で攻め込んだ処で墓穴を掘るだけだからな」
「じゃあ、黙って見てれば良いでしょ! 私に関わらないでよ!」
椎名が俺に背を向け、走り出す。反射的に、俺も椎名の後を追った。
――――――――今だ。
椎名の手を掴み、自分の方へと引き寄せる。背中から抱き竦めるような格好になると、椎名は驚愕に固まった。
俺の背中で、椎名に逃げられた猫が一声、小さく鳴いた。
「…………なっ…………」
息遣いの音が聞こえる。これだけ距離が近いと、俺だって平静ではいられない。元より、他人に近付くのも近付かれるのも苦手なのだから仕方が無い。
特にそれが女性ともなれば、尚更だ。……だが、四の五の言っていられるような状況ではなかった。
誰も見ていない。大聖堂広場から見て死角になるこの場所なら、人が通った処で俺達に気付く者など居ない。
俺は、椎名のローブの内側に、手を差し入れた。
「椎名。……もっと、俺の事を信用してくれよ。一緒に『ヒカリエ』から生還しよう」
小さな声で、呟いた。
椎名は真っ赤になったまま、その場に硬直している。……見た目は恋愛経験が豊富そうだが、椎名も俺と同じ引き篭もりのニートだ。こういった事には耐性がないのだろう。
ローブの内側で、俺は両手を動かし。……椎名に、広げて見せた。
明智は気付いた。……気付いてくれ。そう、胸の内で願った。
「……あんまり、慣れてない。黙って、動かないで聞いて欲しい」
人の心を動かす方法。……椎名とて、この状況で逃げる事など出来ないだろう。完全に騙される制限時間は、一体どの位だろうか。
派手にやると、逆に意識されてしまうかもしれない。言葉に真実味を持たせるには、ある程度俺も本気でこのシーンを演じる必要がある。
より、身体を密着させる。椎名の耳元に唇を寄せ、出来もしない甘い声で、椎名の脳を揺さぶる。
「――――――――椎名が好きだ」
自分が、役者か何かにでもなったような気分だった。




