第二十話 同一のシーンにおける相違点
俺は、この『ガーデンプレイス』で起きた事件をさらって、現状を確認していた。
似たような事件が二度続き、今日で三度目。一人目は、テトラ・エンゼルゴールド。二人目は、佐野利明。その二名に性別・年齢・性格等の要素で共通する事項はなく、一切の他人で関連性もない。
宿泊客と運営スタッフ、プレイヤーとNPC。所属からして違うにも関わらず、『自由自在に形の変化する剣』という共通の武器によって攻撃された。
加害者の攻撃手段、という視点で共通する二つの出来事について、しかし人物に一切の関連性が無いと云う事は、少なくともターゲットは絞られていない可能性が高く、『ガーデンプレイス』に現在存在している人間全てが次の被害者に成り得る、とも言い換える事が出来る。
そんな事を考えながら、俺は旅館の廊下を走っていた。
声の主は女性のもの。但し、松野涼ではない。ミリイ・ロックハインガムとララ・ローズグリーンは同じ部屋に泊まっている。その二人の声とも一致しなかった。
ならば、行く場所は一つ。サンズと佐野の部屋を監視するに当たり、誰がどの部屋に泊まっているのかは、明智を通して把握していた。
真っ直ぐに廊下を走り、非常階段から上階へ。
「秋津さん……!!」
走りながら、リズが目的地に気付く。
次のターゲットになったのは、秋津林二という女の子だ。サンズの陰に隠れ、最も口数の少なかった少女。あまり彼女の事はよく知らないが、分かっている事もある。
テトラ・エンゼルゴールドが殺された時、サンズとアタリは事件についての話をしていたが、秋津は殆ど会話に加わらなかった。状況を知っていた訳ではなく、極力自分から遠ざけるように、考えないようにしている様子が見えた。
強い怯え。それが真実だとするなら、秋津林二は事件と無関係の可能性が高い。
恐怖という感情を完全に覆い隠す事は、訓練しなければ難しい。『ポーカー・フェイス』という言葉があるように、普通にしていれば当人が考えている事は姿勢や雰囲気、表情といった要素の何れかに知らず滲み出てしまうものだ。
だが、それは現実世界での話だ。
俺達を始めとする、終末東京の世界に慣れている人間は。例外無く、『死に対する恐怖』という感情から遠ざかって行く。
この世界での出来事に慣れれば慣れる程、現実世界では起こり得ない事でも感覚は麻痺していき、思考は冷静になっていく。少し傷付いた程度ではパニックに陥らないように、知らず訓練されて行く。それは、俺達だけでは無いはずだ。
だとするならば、秋津林二は終末東京の冒険者として、まだ素人だと云う事。
従って、『ゴースト』作戦の首謀者である可能性は低い。
低い、筈だ。
明らかな意図を持って仕組まれた事件。『ミスター・パペット』が絡んでいる可能性。
俺は、『ゴースト』説を否定する。
「秋津!!」
非常階段を登った所で、腰を抜かしている秋津を発見した。青い顔をして、その場にへたり込んでいる――……俺とリズは直ぐに秋津に近付き、屈んだ。
ようやく俺達の存在に気付いた秋津は、回らない舌で呟いた。
「っつぁ……あ……っち……!!」
秋津が指を差した瞬間、俺は反射的に『敗者の拳』を構えた。視界の片隅に、何かが恐ろしいスピードで襲い掛かってくるのが見えたからだ。
体内に宿る、リオ・ファクター。その使い方は、今掛時男の事件があった時に心得ていた。自転車に乗るようなもので、一度使い方を覚えてしまえば、自然と身体に浸透する。
引く事は、許されなかった。
目を見開いた。目視で捉えることも難しい物体に、どうにか拳を合わせる。空間を切り裂くような風に顔を顰め、衝動に身を任せて右の拳を振り抜く。
「爆ぜろっ――――!!」
攻撃は、たった一発。だが、たった一発の切り札だからこそ、その攻撃を完全に信頼していた。
思考は許されない、刹那の攻防。
殴り飛ばす予定だった右の拳が、反発の意思を示した。自分が攻撃を受ける等とは微塵も考えていなかった俺は、その出来事に痛みを受ける以前に驚愕し、思考をまっさらにしてしまった。
衝撃に、身体が浮いた。バランスとコントロールを失い、勢力に抵抗出来なくなる。
これは――――…………!?
「恭くん!!」
リズの叫び声が聞こえた次の瞬間、俺は後方に吹っ飛ばされていた。
だが、それは相手も同じだったようだ。屈み込んでいる秋津を中心に、俺と得体の知れない敵は互いに廊下を吹っ飛び、転がった。右腕を中心に身体を回転させて、どうにか大ダメージを受けないよう、受け身に徹する。
背中を強く打ち付け、肺から押し出すように息を吐いた。
幸いにも骨が折れる事無く、勢いを殺した。瞬間的に空白になった意識を覚醒させ、直ぐに身体を起こそうとした。
「なっ――――んだとっ…………!?」
自由が効かない。痺れるような痛みが全身を襲っている。どうにかして、反対側の廊下の先に居る人物を確認しようと、俺は首を動かした。
目が合う。
廊下の向こう側に居たのは、眼鏡を掛けた黒髪の少年。……アタリだ。俺を見て、目を見開いていた。右手に握っているのは、サンズの剣だろうか。
異様なまでの殺気に、険しい顔になってしまう。
こいつも、操られているのか。……一度目はララ・ローズグリーン、二度目は松野涼、そして三度目はアタリ。相変わらず、被害者にも加害者にも統一性がない。敢えて違う人間を選択しているようにさえ見える。
松野の時も見た、人間的ではない視線。それでも、俺を相手にして硬直しているように見えた。
――――何かの、違和感があった。
瞬間、アタリの姿がそこから消えた。リズがハンドガンを構え、アタリに向かって数発、撃ち込んだからだ。
「恭くん、大丈夫!?」
リズが振り返るよりも早く、俺は叫んだ。
「下がれ、リズ!! 『二度目』が来る!!」
リオ・ファクターを使い切ってしまった俺は攻撃手段を失った。リズの動体視力では、暴走したアタリを止める事は出来ない。肉眼で姿を確認出来ない程の素早い動きは、リズの照準を狂わせる。
間違いない。松野の時よりも、更に素早くなっている。……憑依する度に、成長しているのか? 身体を使う事が上手くなっている?
俺達と、リズは違う。リズはこの世界で、死の可能性を秘めた出来事に対処し切れない。それが分かっていた俺は全力で走り、リズの前に躍り出た。
「ひいいっ…………!!」
秋津が叫ぶ。リズは秋津を抱き締め、固く目を閉じていた。
――――ああ、大丈夫だ。
この無力な身体でも、盾になる事くらいは出来る。
両手を広げ、身体を硬直させる。バトルスーツを着込んだ俺の身体に、刃が襲い掛かる。既に剣を受け切れない俺は目を閉じ、迫り来る痛みをどうにか耐えようとした。
「おおおおおおおっ――――――――!!」
鋭い金属音がして、俺の目の前を風が通り抜ける。リズの前で両手を広げ、固く目を閉じていた俺は、何時まで経ってもその身体に痛みが訪れない事に、僅かな疑問を抱いた。
「間に、合ったか?」
聞き覚えのある声がして、薄っすらと目を開いた。
広い背中と、茶色の短髪。そこまで確認して、佐野の時とは事情が違う事に気付く。
佐野利明が襲われた時は、俺達は佐野とサンズに焦点を絞って監視をしていた。事件が起こった瞬間、どうしても犯人かどうかを確定させる為、一段落するまで対象を監視し続ける必要があった。
今回は、違う。別の場所で事件が発生した時点で明智の部屋まで来る可能性が低いと見るなら、一人は来ることが出来るかもしれない。そうすれば『ゴースト』を追い掛ける人間が一人増えると云う事になり、二人で護る時よりも安全度が増すかもしれない。
攻撃は最大の防御。その手段を取る事に、躊躇いを覚えなかった。
豪快だが、感謝すべき選択肢だ。
「ああ、大丈夫だ。城ヶ崎」
事前に打ち合わせていた訳ではなかったが、城ヶ崎の機転に思わず胸を撫で下ろした。城ヶ崎は俺に背を向けたまま、アタリの剣に鉄パイプを当てながら言った。
「俺が居ねえと、恭一の防御が手薄になるだろうが……!!」
鉄パイプを真上から振り下ろす格好の城ヶ崎。このポジションは、重力を操る城ヶ崎にとって最も都合の良いポジションだ。重みが増しているのか、城ヶ崎の鉄パイプは少しずつ、アタリの剣を押していた。
――――少しずつ、押している。しかし、押し潰す事は敵わないのか。
微かな疑問。城ヶ崎の鉄パイプを遂に受け止め切れなくなったアタリが、城ヶ崎から飛び退いた。瞬間、城ヶ崎の鉄パイプは勢い良く地面に叩き付けられ、床に傷を付ける。
尋常ではない速度。それだけで、敵の実力が分かる。
「ちっ……!! 待ちやがれ!!」
追い掛ける城ヶ崎だが、スピードは比べ物にならない程、アタリの方が速かった。廊下の曲がり角にアタリは消え、それを城ヶ崎が追い掛ける。
……この、パターンは。前回、松野の時と同じではないのか。そう思った俺は、黙って様子を窺っていた。どの道戦う事は出来ないので、仕方がないのだが――……
「秋津!!」
階段の下から、駆け上がって来る足音があった。俺とリズが振り返ると、長髪を後ろで縛った高身長の男が、秋津を呼んでいた。
切羽詰まったような顔をして、息を切らしている。……余程急いで、階段を上がって来たらしい。後ろには、松野の姿もあった。呼ばれた秋津はかたかたと震え続けていたが、サンズの姿を見ると目を見開いた。
「サンズッ…………!!」
「ああ、俺だ!! 大丈夫か!?」
「うあ――――――――!!」
当初の気の強い雰囲気は何処に行ったのか、大泣きでサンズにすがりつく秋津だったが。
俺とリズを一瞥すると、サンズは俺達に軽く頭を下げる。俺は頷き返し、再びアタリと城ヶ崎の消えた廊下を見詰めた。
「……今度は、誰だった?」
サンズが俺に問い掛ける。
特定は、出来ない。
前回――佐野利明の時と、殆どが同じシチュエーション。被害者が佐野から秋津に、加害者が松野からアタリに変わったと云うだけで、何ら変化はない。城ヶ崎の消えた曲がり角がやたらと静寂に包まれている所を見れば、戦闘が起こっていない事など直ぐに分かる。
曲がり角から、城ヶ崎が現れた。背中にアタリを背負っている…………やり切れないと云った様子で、城ヶ崎は苦い顔をしていた。
「……倒れた。また、正気に戻ったんだろ」
サンズは舌打ちをしたが、アタリの無事に胸を撫で下ろした様子だった。松野は加害者が自分だけではないと確定した事に、何処か安堵したような様子だったが。
「やっぱり、『ゴースト』か……。一体、どうやって倒しゃ良いんだよ……」
呆然と、秋津の頭を撫でながらそう呟いたサンズ。対して俺は、何かを掴んだようで居て、未だ宙に浮いた霞のような状態から先へと進めずにいた。
城ヶ崎の背中に居たアタリが徐ろに目を覚まし、呆然と辺りを見回す――……程無くして、松野の時と同じように慌て始める。
「あれ……何か、あったんですか? 僕はどうして……」
「アタリ、よく聞いてくれ。……あまりこんな事は言いたくないが、今度はお前が憑依されたらしい」
「憑依……? って、『ゴースト』にですか?」
城ヶ崎がアタリを降ろし、サンズと秋津に合流するアタリ。
松野の時と、何も変わりない。おそらく秋津は、アタリと同じ部屋に居た筈だ。それが急に憑依されたかのように豹変し、秋津を襲い、そして一定時間が経ってから元に戻った。
ならば、ヒントは無いのか。
――――――――いや、違う。
よく考えろ。既に不可解なポイントは、それなりに出て来ている。無数の点を線に繋ぎ合わせ、立体にする事が出来ていないだけだ。
三度目の正直。次は無い。偶然、俺達のグループは今のところ狙われていないが……もう残っていたのは、この二人だけだ。後は、明智とミリイ。メンバーの欠けている状態で、狙われる可能性が高いのはこの二点だろう。
「――――あれ」
そう思った時の事だった。
何かが、繋がったような気がして。
「恭一、大丈夫か? ……顔色悪くないか?」
城ヶ崎の言葉に、俺は黙ったまま少し待ってくれ、と左手で制止を掛けた。……今、全く気付かない所で俺は、何かを特定しなかっただろうか。
そうだ。狙われる可能性が高いのは、俺達のグループと明智のグループだと思った。……それは何故か?
三度目の加害者がアタリ。被害者が秋津。二度目の加害者が松野で、被害者が佐野。最初の加害者がララで、被害者がテトラ。
――――そうか。三度の事件の被害者、として関連性を追い掛けるんじゃない。加害者と被害者の組み合わせで見るんだ。そうする事で、関係性が生まれる。
被害者と加害者が、ペアである理由。
例えば仮に、一度襲われた人間は『憑依』の対象から外れるとする。そうすると、初めに居た十三人の人間の中から、テトラ、ララ、佐野、松野、アタリ、秋津の六人が候補から外れる事になる。
従って、残るのは明智、ミリイ、俺、リズ、城ヶ崎、椎名、サンズ。この七名になる。だから、俺か明智のグループが襲われる可能性が高いと判断した。このまま、『一度憑依された人間は次の候補にならないルール』が進めば、残っているのは必然的に俺達か明智とミリイ、この二択になる。
サンズは、他の誰ともペアを組めないからだ。
「……おい、木戸。ちょっと良いか」
サンズが俺の事を呼んでいた。見ると、手招きをしている――……他の人間に、聞かれたくない話なのだろうか。黙って、サンズに付いて行く。
……偶然か? たまたま、重複して襲われなかっただけ。……いや。今回の事件は、クリーチャーが起こしたものではないと考えるべきだ。だとすれば、必ずそこに理由がある。
二度起こす事が出来ない理由。
廊下の隅に隠れると、サンズは少し言い辛そうに切り出した。
「あのさ……。こんな事、言うべきじゃねえってのは分かってるんだけど。今夜は、部屋から出ないでくんねえかな」
部屋から出ない。
一度目の事件は、電力室だった。二度目と三度目は、客室だった。
全て室内で発生した。これも、一つの共通項だ。
「理由を、聞いても良いか?」
「……俺は、『ゴースト』のせいだと思ってるよ。だけど……ほら、お前さ、全部の事件で第一発見者になってるじゃないか。……警戒してんだよ、俺の仲間が」
全ての事件を、実際に当事者として見たのは俺だけ。
よく考えれば、それも不自然だ。
ミスター・パペットは、この旅館に居る人間の中で、確実に俺を危険視している。それは、ミリイの言葉からも明らかだ。
一度目は仕方無いとする。……二度目の事件、佐野の時は違う。若しも犯人が内部の人間だったとして、『ゴースト』を装うのであれば、犯人が剣を使う人間であるという情報を晒していて、敢えて佐野の部屋で事件を起こす理由がない。
佐野とサンズは、俺達の警戒範囲内。そうでなくても、あの段階では剣術士として他の人間から警戒されていたかもしれない。
そうだ。完璧なカモフラージュで進んでいる中、どうしてわざわざ俺に二度目の事件を見せる必要があった?
第一発見者は違う人間になっていた方が、情報が不明瞭になるという点で優れている。ならば、一度目の第一発見者である俺と松野から遠い、アタリと秋津の事件を先に起こすべきだ。そうする事で、全く雲に紛れるように、犯人は二度目の事件を収束させる事ができた。
より、分からなくさせる方法があったんだ。そして犯人は、何時でもその手段を取ることが出来た。
しかし、現実はそうならなかった。
――――そうか。
「頼むよ、今夜だけ。……何かあったら俺が出るからさ。出しゃばらないで、部屋に居て欲しいんだ」
「…………分かった。努力するよ」
「良かった!! ……サンキューな、木戸」
サンズはそう言うと、懐から菓子を取り出した。最初の夜、飲み会で出ていたものだ。
「あとこれ、食っちゃってくんないかな。連チャンで夜通し騒ぐ予定だったから、余っちまってさ」
サンズから菓子を受け取り、俺は向こう側を見る。……余程余ったのか、アタリと秋津もリズや城ヶ崎に菓子を配っていた。
これでも食べて、明日はどうにかしろと言いたいらしい。
だが。明日の夜は、俺も慌ただしく動く事になりそうだ。
「ああ、ありがとう」
「それじゃな。今日はもう寝ようぜ」
サンズから菓子を受け取ると、再び他のメンバーと合流する。俺とサンズが何を話して来たのか、気になっている様子の城ヶ崎。生き延びたことに安堵してか、その場に座り込んでしまっているリズ。
それぞれのメンバーはそれぞれの客室へと戻り、じきに夜が明ける。廊下を黙々と歩いていると、三人になったタイミングで城ヶ崎が俺の肩を叩いた。
「なあ。何を話してたんだよ」
「いや。別に、大した話は無かったよ」
「そんな訳ないだろ? なあ、教えてくれって」
俺は、笑みを浮かべて城ヶ崎を見た。
その表情が久し振りだったからだろう、城ヶ崎は一瞬、驚いたかのように目を丸くした。直後、俺の中に何かの確信が芽生えたことに気付いたのだろう。釣られて笑みを浮かべていた。
リズが俺と城ヶ崎の無言のやりとりに、きょとんとしている。
証拠は充分。根拠もある。後は打ち破るための策と、リスクを背負う覚悟を負うだけだ。
「仕掛けは分かった。……反撃するぜ」
全ての仕組みは、複雑な迷路のように入り組んでいる。決して明るみには出ない種を明かす段階で、満足してはいけない。その先にある一手を打って、初めて目標達成だ。
俺は笑みを消し、再度、自分に言い聞かせた。
見ていろ、ミスター・パペット。
この勝負は、俺が貰う。
◆
次の日になると俺は真っ先に、或る証言を確認した。どちらも直接『ゴースト』には触れないものだ。
ひとつ。佐野利明の事件があった夜、松野は確かに一人で部屋に居て、夜は佐野とコーヒーを飲んで話していただけ、という事。
確かに密閉空間だった。……それもその筈だ。俺の推測が正しければ、事件は必ず室内で始まらなければならない。その裏付けが、俺の推測を確かなものへと変化させた。
俺は明智の部屋まで戻り、その全貌の全てを包み隠さず話した。結論を聞いた一同は驚いていたが、出来事に辻褄が合う事を確認して、その推測を信じる事に決めたようだった。
『…………仮にそうだったとして、これからどうするんだ』
そう言ったのは明智だ。兎に角この状況を解決させなければ、安全は保障されないという使命感故に、だろう。俺は頷いて、ララ・ローズグリーンに言った。
『大きな方眼紙とペン、ないか』
『あ……は、はいっ。少々お待ちくださいっ』
唐突に起きた、幽霊騒動。その背後を突いて、事件を解決するための目的と戦略。俺は一人、俺達が本来借りていた客室の片方に待機し、二つのスマートフォンを握っていた。
うち一つは、リズの持っていたスマートフォン。もう一つは、椎名の持っていたスマートフォン。俺と城ヶ崎はまだ終末東京の世界で繋がる携帯電話を持っていないから、二人から借りるしか無かった。
昼の間は寝ていたから、夜が来るのが早い。……時刻、一時。それぞれがそれぞれの持ち場に付いている為、今の俺は一人だった。
しんと静まり返った室内。城ヶ崎が居なければ、話をする相手も居ない。手にしたのは『敗者の拳』のみ。グループの中で、装備の面では相変わらず、俺が最も手薄で殺され易い。
リオ・ファクターは回復しただろうか。……今日の一発だけは、許可して欲しい所だ。
時計の秒針の音が聴こえて来る。僅かな虚無感と、弱火で煮込んだように冷えず、じわじわと暖まる緊張感。
何れにしても、相手は肉眼では捉え切れない程の速度を持ち、ベストポジションから攻撃した城ヶ崎のパワーと張り合う程の力を持った相手だ。手段が分かっても、一つ間違えれば誰かが死に兼ねない。
俺、城ヶ崎、椎名は良い。帰る場所がある。問題は、リズとミリイだ。ララは隠れているとして、この二人は絶対に殺してはならない。
その時は分からなかったとしても、テトラ・エンゼルゴールドをみすみす死なせてしまった事は。あれは、事件の始まりだ。自分どころか、誰にも警戒する事は出来なかった。……そう分かっていても、悔しく思えてしまう。
俺は壁に凭れたまま、明智の言葉を思い返していた。作戦会議が終わった後、個人的に呼び出されたのだ。
『木戸。……少し、良いか』
テトラ・エンゼルゴールドが如何なる人物であるのか、俺は知らない。そこにどのような歴史があり、人生があり、何を経験して来たのかを、今後生涯にわたり、俺が知る事は有り得ないだろう。
『次はもう、失敗は無いと思って良いんだよな』
『ああ。失敗しないという意味じゃなく、もう失敗が出来ない。これも負ければ、俺達の負けだ。全滅の危険もある』
『そうか。……ま、俺はお前さんを信用するよ。ミリイが、お前さんを信用してる限りな』
この『ガーデンプレイス』で、明智を始めとする人達が、どのような人生を歩んで来たのか。そこに、どのような経験と喜び、そして或る意味では、挫折があったのか。
『あのさ。ミリイさんは……』
明智大悟が俺に言わんとしていた言葉もまた、当事者である明智のように上手く理解は出来ていない筈で。
『ああ。……もう、長くない』
『治療は、出来ないのか? 終末東京の世界にも、医者くらいは……』
だから、その言葉に明智が苦笑した理由も、きっと本質的には理解していない筈だった。
『仮にさ。残された命が後僅かだと、分かっていたとして……お前さんなら、今死んでも、後で死んでも、事情は同じだと思うかい』
そう話す明智の瞳には、俺は映っていなかった。澄み渡る湖のように明瞭な声色の向こう側に見えたのは、溢れんばかりの愛おしさと、その両手から零れ落ちて行く空虚さだけ。
この事件が勃発してから、明智はどのような想いでいたのだろう。ミリイの事を言っているのは明らかだったが、その言葉には、それ以外の意味も混じっているように思えた。首を振ることしか出来なかった俺に、明智は少しだけ寂しそうな瞳を向けた。
『木戸。……俺は、現実世界で医者をやってた……なあ。人の命の重さは、長いとか、長くないとか、そう云う事じゃねえと俺は思う』
その泣きそうな笑顔はきっと、何かを失った者の優しさなんだと。少なくとも、俺にはそう見えた。
『この世界に生まれて、悪戯にプレイヤーから攻撃されて命を落としていく人間にだって、生活があって、人生があるもんじゃねえかな』
その時、気付いた。
明智大悟は、当人達でさえプレイヤーと自分達とを区別する為に使う『NPC』という単語を、唯の一度も口にしていなかった。
言う必要も無いからだと思っていたが。若しかしたら明智は、口にしないよう気を付けていたのかもしれない。
『……どうしてそんな話を、俺に?』
『ミリイがお前さんを信頼する理由って言うのかな……』
それだけで、明智は信頼を寄せても良い人物なのではないかと、俺は思った。
『お前さんは、大切な人を失った眼をしている』
静かだ。
これから起こるであろう嵐のような戦いに、俺は身を投じる準備をしている。肉体的な準備は既に完了し、後は精神の安定を図るばかりだ。明智大悟の言った言葉は、気が流行りミスをし兼ねない敵の強大さに、怯えないだけの力を持っていた。
『何かを失った人間は、強い。失った経験がある程、人に優しくなれるもんだ』
『……良いよ、俺の話は』
『はは。まだ若いお前さんに何があったのかなんて聞かねえから、安心してくれや。どうしてそんな話を……って質問の返事だと思ってくれりゃ、それで良い』
そうだ。
何かを失った人間は、強い。初めから持っていない者よりも、遥かに。
若しも犯人が俺の予想する人物で、間違いがないのだとしたら。どうしても、俺はその犯人の人物像について考えてしまう。まるで人当たり良く振る舞い、裏ではとんでもない、過激なことを考える人間の思考と云うものは、何故かいつも似通っているものだ。
『頼むよ、木戸。……ミリイ・ロックハインガムを、生かしてくれ』
恐怖に呑み込まれてはいけない。ミスは許されない。二つのスマートフォンを操作し、互いに通話状態にする。片方をスピーカーにして、靴箱の上に。もう片方を、ポケットに入れた。
ルートは確認済みだ。屋上まで上がる為の手段は用意している。先程廊下で人が走る音が聞こえたから、間もなくタイミングは訪れる筈だ。
窓際まで歩く。窓の鍵を開ける。窓を開くと、穏やかな海風が流れ込んで来る。
「リズちゃん!! 私だよ、目を覚まして!!」
俺は、窓の外へと飛び出した。




