第十八話 或る、一つの結末
半開きになった窓から入り込んで来る海風は、不気味に漂う魑魅魍魎のように頬を撫でる。仄暗い部屋の中、椎名と二人で準備を終えた俺は、二階の二○三号室に待機していた。隣は勿論、佐野と松野が宿泊している二○二号室だ。
どうしても電力は必要だと伝え、曰く付きの電力室に全員で向かう。非常用の電源に切り替える事によって、明智に電力を復活させて貰った。但し、旅館に備え付けてある非常用の電源だ。シェルターの扉は、相変わらず動かないままという話だったが。
部屋には勿論存在しないが、廊下には防犯を防ぐ意味合いなのか、幾つかの監視カメラが設けられている。その一部を、室内のテレビモニターに表示する事に成功した俺達は、モニターの音を消して、扉の外の様子を窺っていた。
当然、外の様子に何かの変化がある訳ではない。至って普通の状況だったが。
全身の神経が、酷く昂ぶっている。今掛の時にもここまでは感じなかった肌を刺すような痛みは、痺れを感じているかのように微細な電流を流し続ける。
既に入浴し、それでいてバトルスーツを着込んだ椎名は、部屋のベッドに両足を抱えて座っていた。少しでもおかしな様子があれば動くことが可能なようにと、俺は耳を付ければ僅かに隣の物音が聞こえる位置で座り、聞き耳を立てていた。
時刻、深夜三時。もう直に夜明けだ。夜更けまで楽しそうな話し声こそ聞こえていたものの、今となっては時計の秒針の音が、耳障りな程に大きく聞こえてくる。
肝心の椎名はと言うと、特に船を漕ぐ訳でもなく、はっきりとした様子で一点を見詰めていた。この時間に微塵も眠気を感じさせないのはすごい。俺達がこの部屋に寝ていることは旅館のスタッフを除いて誰も知らないから、位置が悟られてはならない。従って、先程までの佐野・松野のように、眠気を覚ます為に大声で話す事も出来なければ、威勢の良いロックバンドの新曲を豪快に部屋の中で再生することも叶わない。
まあ城ヶ崎なら兎も角、俺と椎名の二人でロックを聴く事など、まず無いと言って良いのだが。
「……起きてる?」
不意に、椎名が小さな声で呟いた。それでも、時計の秒針が時を刻む音さえ明瞭に聞き取ることの出来るこの空間では、普段の話し声と何ら遜色なく、言葉を聞き取る事が出来た。
俺が顔を上げると、椎名は何処か思い詰めた様子で、真っ直ぐにその視線で俺の瞳孔を射抜いてきた。薄雲が掛かったように殺伐とした表情の向こう側に、何処かやるせなさにも似た感情を察する事が出来た。
「起きてるよ、勿論」
返答は一瞬。しかし、それきり場は再び、静寂に包まれた。
抱えた両足の膝に、項垂れるようにして横向きに頭を乗せる。椎名のダークブラウンの髪は、月明かりに照らされてやや緑がかっているようにも見えた。
そういえば。椎名はサンズ達との会合以降、殆ど口を聞いていなかった。その様子を見て、椎名が何かを考えていると云う事実が浮かび上がる。
「……すごいね、皆。まるで何事も無かったみたいに、してて」
それは、テトラ・エンゼルゴールドの死について、だろうか。
ふう、と溜め息をつくと、椎名は虚無感を伴う笑みを浮かべる。何処か、自虐的な様子にさえ見えた。
「私はまだ、全然だめ。……頭、回らないよ」
「目の前で、人が殺されたからか」
椎名は頷いた。
「推理小説なんかで、主人公の名探偵の周りで人が当たり前みたいに死んでいくじゃない。特に何の疑問もなく見ていたけど、実際に起こると、ね。……だって、もうテトラさんは生き返る事はないんでしょ?」
「らしいな」
椎名は朧気な月にも似た瞳で、ぼんやりと窓の外を眺めた。
「皆が強くなれる、魔法みたいな世界なのに。……そこだけは、リアルなんだね」
その言葉を聞いて、思う。決してこの終末東京の世界は、魔法のように都合の良い世界ではない。
人が造り、人が管理し、人で構成された世界だ。そこには必ず人ならではのエゴが存在し、醜く汚れた部分がどうしても浮き彫りになっていく。
人ならではの、滑稽さ。また或る意味での、残酷さ。
「どうして、木戸くんは平気なの?」
しんと静まり返った、凡そ一拍の間。俺はどう答えて良いものか、考えていた。
いや、困っていたのだろう。純粋な疑問としてそう投げ掛ける椎名の言葉に、上手く誤魔化すような切り返しを思いつかず、詰まってしまった。椎名が目を丸くしてから俺の返答を待つまでの間に、結論として返さざるを得なかった台詞は、頼りなく揺れる綱の上に立っている時のような、か細い声だった。
「経験しているからな……」
知っているからだ。
或いは、気付いているからだ。自分自身も含めた、人間の弱さを。その上層に存在する世界の理不尽さに抗うことが出来ないだけでなく、いち人間同士の些細な揉め事にさえ、いとも簡単に命を落とす可能性があると云う事を。
ひとは、弱い。様々な部分に存在する大きな流れというものに抗うことが出来ず、また抗ったものは存在という価値観を断たれ、その場から退場せざるを得なくなる。
「え?」
その事実を、知っている。社会から爪弾きにされた者を見ている。だから人と云う生物が寄り添い、数を増やす生物であることも、当然の理屈と言える。
「何でもないよ。それより少し、寝た方が良いんじゃないか」
聞こえなかった事を口実に、言い逃れをする事にした。一度逸らされた話題を、容易に元のラインに戻すことは難しい。椎名の言葉をはぐらかした所で、俺は何事も無かったかのように、席から立ち上がる。
その時だった。
「うわああああああ!! りょ――――――――」
咄嗟に、体育座りをしていた椎名が立ち上がった。声の主が誰なのかを確認する間もなく、俺達は咄嗟にモニターへと視線を向ける。
廊下に、何かの変化がある様子はない。
ならば、室内か。
窓から入られたのだろうか。ようやく声の主が誰なのかを認識すると同時に、俺はポケットから『敗者の拳』を取り出すと、右手に装着していた。椎名もベッドの枕元に置いてあった杖を握り締め、俺に続く。
強く、扉が開く音がした。廊下に、出たのか。
心臓の鼓動が跳ね上がる。胃が収縮していく感覚がある――……自分自身が、酷く緊張している証拠だ。城ヶ崎とリズはサンズ側の監視に回っている。騒ぎを聞き付けて、ここまで到着するには時間が掛かるだろう。
俺は、自身の気が動転していく事をその身で感じていた。ざわざわとした棘のあるものが、腸内を蠢いているような不快感。せり上がってきて、兎に角今すぐ行動しろと囁き掛ける何か。
――――おかしい。
城ヶ崎とリズが、サンズの状態を監視している。若しもサンズに何かがあったのなら、必ず此処へと向かって来ている筈だ。そうでなければ、今回の事件の犯人は佐野利明。この旅館に残された、剣を扱うもう一人の冒険者が候補になっていた筈だった。
だが、そうだとするなら。
隣の部屋から聞こえて来た野太い声は、一体何だと言うのだろうか。
部屋の扉を我武者羅に開き、廊下へと出た男の姿を視界に映す。右手に装着した武器を構え、両手を胸の前に出すようにして、自分の身を守る。
そして。
「佐野さん!!」
椎名が叫んだ。その信じられない光景に、自身の頭がおかしくなってしまったのではないかと、俺は自問自答した。
途絶えた絶叫は、男から聞こえていた。左腕を飛ばされ、脳天を剣で貫かれた男。……佐野利明は、既に意識を失っているように見えた。
何が、起こったのだろうか。今、俺の前に見えている光景は、一体何だと言うのだろうか。
恐らく佐野の持っていた剣だろう、それを握り締めて、佐野利明を貫いた状態で固まっていた。俺達を確認するや、鬼のような形相で俺を睨み付けている。咄嗟に戦闘態勢に入るが、身が竦んでしまい、その場から一歩たりとも動く事は出来なくなっていた。
瞬間、佐野の全身から光が発される。目の前に立ち尽くす殺人鬼を見たまま硬直している佐野は白い光に包まれ、まるで嘘のようにその場から消えて行く。
ログアウトの反応だ。それを確認した殺人鬼は、今度は俺達にターゲットを定める。
金色に染めた髪。やや小麦色に焼けた肌を持つ、ギャル系のファッション。先のテトラ・エンゼルゴールド殺人の時に、第一発見者として名乗り出た女性は。
少なくとも、剣を扱う冒険者では無かった筈なのに。
「松野――――」
俺が、呆然とそう呟いた時だった。殺人鬼と化した異様な形相の松野涼が、恐ろしいスピードでこちらに向かって来る。
「木戸くん!! 危ないっ!!」
剣を構えた松野が、俺を狙う。咄嗟に椎名が俺と松野の間に割って入り、杖を振るった。椎名から放たれた爆炎は松野涼に当たりこそしなかったが、彼女を怯ませるには充分な働きをしたのかもしれない。
しかし、依然として松野は俺達を睨み付けている。昨日までの松野涼とは、似ても似つかない。
「カエセ……。奪ったモノを、カエセ……」
絞り出すような声で、そう言われた。その声色が間違いなく松野のものである事を確認して、俺は驚愕と絶望の渦に呑まれていた。
余りにも、想定とは違う光景。推測の全てが否定された現実を前にして、身動きが取れない。松野は俺達を睨んだ後、直ぐに佐野と宿泊していた部屋に戻った。
――――何か。何か、動かなければ。裏切られた時こそ、何かをしなければ。突き動かすような得体の知れない衝動に、ようやく俺は金縛りから解けた。松野は扉を閉め、既に鍵を閉めていた。
推測。監視。証拠。解読。実行。そのルーチンから出遅れてしまえば、今までに作り上げて来たものが全て失われて行くような気がしてしまう。
そのような思考になった時が最も危ないと分かっていて、その場から抜け出す方法が見当たらない。
「恭くん!!」
リズが、俺達の下に走って来ていた。城ヶ崎はきっと、まだサンズを監視しているのだろう……いや、無駄なことに意識を集中している場合ではない。
焦燥にまみれた思考は既に誠実さを失っている。力強く扉を叩くと、俺は叫んでいた。
「開けろ、松野!! くそ!!」
「木戸くん、下がって!! リズちゃんが!!」
椎名の呼び掛けに気付いて、その場から後退した。走って来たリズは、常に装備している対クリーチャー用ハンドガンではなく、少し大きめの銃を構えている。あれは――――ショットガン?
直ぐに俺の前に出ると、そのショットガンを構えた。容赦無く扉に向かって、ショットガンを放つ。
――――そうか。ハットン弾。扉を開ける時等に使われる、跳弾の心配が無い専用弾薬だ。……まさか、そんな物まで持っているとは。
「恭くん、お願い!!」
リズが指示した。言われた通りに、俺は扉に向かって右肩を構える。本当は、こういった仕事は城ヶ崎に依頼したい所だったが――……勢いを付けて、扉に向かって体当たりをした。
鈍い音がして、扉が開く。バトルスーツは大したもので、扉を破壊しても大したダメージは無かった。これなら、わざわざショットガンを使わなくても入れたのではないか。……いや、対バトルスーツ用に扉が強化されている可能性はある。
様々な思考は、頭の中を巡った。現実を見ていない内は、冷静な思考が戻って来ていたが。
「松野!!」
そう言って、俺はその場に立ち尽くした。
リズが登場した事で少し冷静になっていた思考は、地上へと這い上がる前に奈落の底へと叩き落とされた。部屋の中の状況を確認して、俺は苦虫を噛み潰すような気持ちで両手を強く握り締めた。
電気の消えた室内。開いた窓に、別段荒れている様子も見当たらないインテリア。白いカーテンは、夜の海風に撫でられて淡く揺れている。その向こうに、穏やかな星空さえ見えた。
椎名とリズが入り、その様子を確認する。ダブルベットに人は一人も寝ていない。全室に配置してある化粧台とチェア、ソファにテレビ。ベッドの形状以外、先程まで俺達が居た隣の部屋と何ら変わりはない。
部屋の隅にまとめて置いてあるバトルスーツは、二つ。片方は剣術士と思われる、屈強な鎧を含むもの。そしてもう片方は、気象予報士と思われる、軽装なもの。
その中央に倒れている人間に向かって、事情を知らないリズが駆け出した。
「松野さん!?」
「リズちゃん、待って!!」
それを、椎名が制する。立ち止まったリズは、事情が分からずに困惑していたが――……程無くして、俺は動き出した。
全ての望みが絶たれた後で。予測が、推測が、何一つ当たっていない事を確認し、しかもそのリカバリすら出来ずにまんまと煙に巻かれた後で、ようやく俺は動き出していた。
椎名が俺の行動に、疑問を示す。
何の事はない、既に全ては終わっているのだ。分からない事には、対処が出来ない。それは当たり前の出来事であり、経験しなければそれを利用する事は出来ない。
倒れている松野の肩を、叩いた。
「…………松野。……松野涼、起きろ」
海風が、部屋へと差し込む。薄っすらと、松野が目を開いた。
「…………あれ?」
発された言葉は、疑問だった。普段と違う顔が視界に入って来たからだろう。瞬間的に目を覚ました松野は、俺から飛び退くようにして離れる。きょろきょろと辺りを眺めながら、少し怯えたような顔をして俺達を見ていた。
小動物のように、頼りない視線は揺れ動く。
「トシ? ……え? 何これ……。マジ有り得ないんだけど……」
遠くから、足音が聞こえて来る。一人ではない、複数の足音だ。いち早く気付いて走って来たリズは、既に起きていたからこそ駆け付ける事が出来た。ショットガンと体当たりの音に目を覚ました他の人間が、こちらへと向かって来ているのだろう。
松野に、俺達へと襲い掛かるような殺気は一切見当たらない。……これは、演技なのか。そうではなく、本当に居るというのか。
思考が混濁する。否定された推測を捨てるべきなのか、それとも目線を固定するべきなのか。『ゴースト』説を認めて、クリーチャーへの対策をしなければならないのか。
いや。だとしたら、プレイヤーウォッチを回収した悪意ある犯行は、一体誰に拠るものなのか。それとも、『ゴースト』とは他のクリーチャーと違い、自我を持ち、頭の回る敵なのだろうか。
「おーい!! 大丈夫か!?」
「扉が開いてるよ!!」
サンズの声が聞こえる。後に聞こえて来たのは、サンズと共に居た、アタリという少年のものだろうか。兎に角全員に事情を説明して、『ゴースト』の存在が確実である事を話して……それから。
若しも『ゴースト』の仕業に拠る事件だとしたなら、最早プレイヤーは全員が結託しなければ駄目だ。佐野と松野は同じ部屋で、夜になっても暫くは大きな声で会話をしていた。壁に耳を付けて聞いていた俺には、僅かに声が聞こえていた。
予兆はなく、寝込みを襲われた。一体どのタイミングで松野に憑依したのか、それともあれは『ゴースト』が見せた幻覚のようなモノだったのか、それとも…………
連中が到着し、部屋の中へと入って来た。佐野利明名義で宿泊している部屋に、俺とリズ、椎名。それから、未だ寝起きと云った様子で事情の掴めていない松野涼。
「どういう状況だ、こりゃあ……」
サンズがぽつりと、呟いた。俺はどうしようもなく、天井を仰ぎ見た。
――――ああ。こういう時は、駄目だ。
何かに裏切られた時ほど、腹を立てた時ほど、人は何の根拠も事実確認もなく、感情に訴え掛けて行動を起こそうとする。そういう時が、一番危ない。自ら底なし沼にはまっていき、その自覚も無く、気付いた時には取り返しの付かない事になっているものだ。
「木戸。……何があったのか、説明してくれないか」
サンズの近くに、城ヶ崎が居る。俺と視線を合わせると、一体何が起こっているのか分からないと云った様子で、困惑した表情を俺に見せた。
つまり、サンズは部屋から一歩も出ていない――……最早この現象は、『剣術士』の手で起こされているものではないと、説明がされてしまった。
プレイヤーの起こした現象ではなかった。ならば、本当に『ゴースト』なのか。
「…………佐野利明が襲われた。殺され、終末東京からログアウトされたよ」
サンズの表情が、歪む。
個人投資家には、途転という言葉がある。これは、片方の事実が否定された場合に、直ぐに反対側の可能性に賭けるという手段のことだ。何しろ、こと投資においては、投資した物の価値とは上がるか下がるかの二択しか無いのだから、一見有効な方法のようにも見える。
「何だそりゃ。…………誰にだよ」
だが、その手段が有効に機能する時とは、予測とは反対のサインが確認出来ている場合に限る。
多くの場合、思惑通りに進む可能性のある事実が発生したにも関わらず、投資した物の価値が逆行したと云う事は、投資した物の価値そのものが、方向性を見失っている場合が多い。小さく揺れ動いている時には上昇も下降もなく、従ってどちらに賭けたとしても、投資家は底なし沼に足を取られ、沈んでいくだけだ。
だから、目を覚ませ。そう、自分に言い聞かせた。
腹を立てた時ほど、深呼吸をして落ち着かなければならない。裏切られた時ほど、一旦引いて様子を見なければならない。
そのような時に行動すると云う事は、戦場に丸腰で殴り掛かる行為に等しい。
俺は、知っている。人の多く存在する世界で、社会から爪弾きにされた世界で、生き残る方法を知っている。そのような愚かな行為に、今更手を染める真似はするべきではない。
直ぐに問題を解決したくなる思考を、どうにか落ち着かせる。そうして、俺はサンズに言った。
「松野。……そこにいる、松野涼が佐野利明を襲った」
「――――何だって?」
◆
混沌とした夜が明け、穏やかな朝が訪れた。
松野涼は、当然のように『自分はやっていない』と話した。怒り、パニックに陥った松野は、サンズに問い詰められた時に俺を指差し、言った。
『そもそも、私はトシと同じ部屋に居たのよ!? どっちか言うと、この人の言ってる事がおかしいに決まってるじゃん!!』
予想された言葉だ。松野に反発される事は当然として、俺はそう証言するしか無かった。そして、テトラ・エンゼルゴールドの時に松野が証言したララ・ローズグリーンの一件も含めて、更に問題は解決不可能な段階へと進んでいた。
最も陥りたくなかったパターンにはまり、ぶれていく犯人像。やはり『ゴースト』の仕業だと確信を持ったサンズ。既にそれ以外の選択肢が無いと云う事も、全員が『ゴースト』を信じるしか無い状況へと追いやられていた。
……いや。やはり、『ゴースト』は実在するのだろうか。この終末東京の世界で、何が起きても不思議では無いと云う事だろうか。だが俺は、既に出ている複数の事実から、どうしても『ゴースト』説を信じられずにいた。
テトラ・エンゼルゴールドに金庫の鍵を開けさせ、全員のプレイヤーウォッチを奪った、と云う事実。
シェルターには、通常は『管理者』の権限を用いなければクリーチャーが入る事は無い、と云うリズの証言。
登った太陽は、明るい。旅館を出た俺は、朝食も取らないままに砂浜へと向かい、漠然と海を眺めていた。
サンズのグループも、既に半分崩壊気味だ。『ゴースト』説を信じ、既に次の事件に向けて動き始めているサンズ。剣を使う相手だと分かっている為、どちらかと言えばサンズを警戒しているアタリ。途方に暮れてしまい、一体どう動けば良いのか分からなくなって隠れている秋津林二。
松野涼はすっかり疑心暗鬼になってしまい、部屋から出て来なくなってしまった。問題が解決し、プレイヤーウォッチさえ戻って来れば、速やかにログアウトして二度と終末東京の世界には戻って来ないだろう。
明智大悟とミリイ・ロックハインガムは、相変わらずララ・ローズグリーンを連れて閉じ込もっている。すっかり取り残された旅館のシェフが、気不味そうな顔をして食事を出していた。
最も、俺は食事の風景を一瞥すると、こうして外に出て来ている訳だが。
「大丈夫かよ、リーダー」
不意に、視界の右端に缶が見えた。振り返ると、城ヶ崎が二人分のコーヒーを購入して、俺の所に来ていたようだった。砂浜だからだろうか。足音が全く聞こえなかった。
それとも、今の俺は城ヶ崎の足音も聞こえない程に、メンタルを壊されてしまっているのか。
「…………リーダーじゃないって」
缶を受け取りながら、そう言う。城ヶ崎は鼻歌を歌いながら、俺の隣に座った。目の前に広がる、綺羅びやかに太陽光を反射する海を見ていると、とてもではないがこの場所が殺人現場と化している事など信じられそうにない。
まるで生ビールか何かのように、城ヶ崎は缶コーヒーのプルタブを開けると、中身を一気飲みした。
「っかー!! 徹夜明けにコーヒーが染みるぜ」
「オッサンか」
「何だよ。悪いか」
「いや、別に」
城ヶ崎の空気を読まない明るさに、少しだけ救われる。そして、同時にそれが城ヶ崎なりに気を遣ってくれている事実だと云う事も、それとなくではあったが理解していた。
つまり、城ヶ崎仙次郎という男はこうなのだ。常に明るく、楽しそうに振舞っている事で、周囲をネガティブな思考から引っ張り出す。落ち込んでいる時は嫌という程そばに居て、それでいて何かを聞いてくる事もない。
良い奴だと、思う。
「……悪いな。俺の読みは外れていた」
そう言うと、城ヶ崎は含み笑いを浮かべて、俺を見た。
「これが戦場なら、今頃後ろから刺されてる所か?」
「いや、元々背水の陣だから海に飛び込んでいるかも分からん」
「確かに」
俺は笑う気にはなれなかったが、城ヶ崎は少し楽しそうに笑う。波の音だけが、辺りには響いていたが。
「まあ、恭一がやられなかったから大丈夫だ。死な安だよ、死な安」
死な安……死ななきゃ安い、の俗語か。相変わらずスラングなど、その辺の事情に詳しい。
だが、俺はすっかり自信を失っていた。目の前に起きている事象に対し、まともな推測を立て、現状に対処するだけの策を講じる事が出来なくなっていた。
ころころと入れ替わる犯人像。繋がらない二つの事件。そして、俺自身が見た――――見てしまった、通常では考えられない現象。
あの時、佐野利明が襲われた時の松野涼は、とてもではないがまともな状態では無かった。素直に考えれば、何かが発生して正常な状態では居られなくなった松野が事件を起こしていたという事になる。
ならば、テトラ・エンゼルゴールドを殺したのも、第一発見者である松野涼なのか? ……だが、それは違う。最初の事件の時、松野は剣を持っていなかった。あの時は俺が佐野・松野のペアと合流してから、他のメンバーが到着するまで二人のそばからは離れなかったが、別段おかしな挙動も無かった。
松野が犯人だと仮定するなら、彼女は自由自在に刃物の形を変えられる、剣術士でなければならない。
実は、松野涼が剣術士で、佐野利明が気象予報士だった。そのような仮定は、考えられるだろうか――……いや。何よりも、決定的におかしな部分がある。
佐野利明が攻撃された時、『松野涼はバトルスーツを着ていなかった』。部屋の隅には、二人分のバトルスーツが転がっていた。
松野は、旅館の浴衣を着ていただけだ。
「……恭一」
唯の女性に、あれだけの剣を振り回す腕力があるだろうか。冒険者の装備は、バトルスーツを着ているからこそ気軽に振り回す事が出来る。そうでなければ、軍人や侍でも無ければ自身の右腕のように扱う事は難しいだろう。
だから、やはり松野涼は犯人ではないのだ。部屋に戻った松野が、すっかり何事も無かったかのように振舞っていた事も。とてもではないが、嘘を付いていたようには思えない。
彼女は寝ていたから分からないと話した。何故ベッドに眠っていた筈の自分が、部屋の床に倒れていたのかも。
そして松野は佐野よりも先に部屋へと戻り、夕刻には眠っていた、と話した。若しもそれが本当だとするのであれば。俺が夜間に聞いていた話し声は、一体何だったのだろうか。
あの時既に、『ゴースト』に取り憑かれていたのだろうか。それでいて、恰も本物の松野であるかのように、振舞っていた――……?
――――――――煮え切らない思考は怒りを呼び、思わず頭を抱える。
「恭一!! しっかりしろ!!」
城ヶ崎の呼び声に、ふと現実に舞い戻った。城ヶ崎は検相な表情で、俺の肩を掴んでいる。その握力は、肩が痛む程だった。
「城ヶ崎……?」
俺が意識を浮上させた事を確認して、城ヶ崎は安堵するかのような溜め息を付いた。この男がこれ程までに真剣になる様を、俺は未だ嘗て見た事が無かった。
ひとつひとつ確認するかのように、城ヶ崎は言う。
「なあ、恭一。分からねえ時に無理して考えんな。別にお前が間違っていた訳でも、悪い訳でもねえんだよ。それは、俺が一番よく知ってる」
な、と呟いて、城ヶ崎は再び笑みを浮かべた。……頼もしい、笑みだった。
自分の中で、何かが変わった気がした。
混濁した推測の中に、解答はない。それは分かっていたが、人間が一度正解だと考えた思考を覆すのは、中々に難しい。冷静になって考えているつもりで、実は更なる深みにはまっている。俺は、未だそのループから抜けられずにいたのだろう。
思えば城ヶ崎は、テトラ・エンゼルゴールドの死に対して特別な感情を抱いているようには見えなかった。この情に厚い男が、敢えてテトラの死を憐れむような言葉を口にすることは無かった。
乗り越えてきたのだろうか。城ヶ崎もまた、俺の知らない何処かで、自身に一本の太い信念を持つ為の、何か悲痛な出来事を。そうでなければ、椎名のように絶望を感じてしまうかもしれない――――しまうような気がする。
「…………そうだな」
俺はたった今、城ヶ崎に底なし沼から引っ張り上げられたのだろう。それが本人には出来ないと分かっていたから、城ヶ崎仙次郎はこの場所に現れた。
粋な奴だと、思う。
城ヶ崎に、初めて笑みを返した。城ヶ崎は軽く俺の背中を叩いて、立ち上がる。
そうして、ふと遠方に見えるものへと視線を動かした。
「恭くん!! 城くん!!」
走って来たリズに、俺も振り返った。リズは僅かに息を荒らげて、急ぐ必要性のある何かを俺達に伝えようとしていた。すぐ近くまで到着すると、両膝に手を添えて呼吸を整えていた。
「リズ?」
一息付くと、リズは顔を上げて言った。
「ミリイさんが。……私達を、呼んでる」




