第十五話 『その世界』の人々
太陽光を受けて眩いばかりの光を反射する波は、まるで柔軟な、液状化した宝石のようにも見える。
寄せては返す波の色は天井の僅かな光の屈折によってなのか、又は薄っすらと透明な外壁に色が付いているのか、常夏の島のようにエメラルドグリーンに光っている。椰子の木こそ無いが、砂浜から海へと向かうように建てられた旅館は、四階建ての如何にもなリゾートホテルだ。
まるで、終末東京における南の島。リゾート施設と呼ぶには充分過ぎる程のスペックを持っており、それでいて人数も少ない。
これがハワイやグアムなら、波を浮遊する海月のように、ごった返す人波に揉まれ、おちおち昼寝も出来ないといった所ではないかと思うが。これもまた、架空の世界を旅行する事における一つのメリットと言っても良いだろうか。
「水着ギャルが…………いねえ」
最も城ヶ崎にとっては、大自然に囲まれた癒やしの空間よりも、目先に見える性欲的な刺激を満たすオブジェクトの方が重要視されるようだったが。
拍子抜けしたような顔をしている城ヶ崎と、苦笑しているリズ。椎名は城ヶ崎の事は特に気に掛けていない様子で、純粋に海へと感動の色を示していた。
「わあ、すごーい!! 私、貝殻拾ってくるー!!」
「あっ、ちょ……美々ちゃん、俺も行くよ!!」
薄桃色の半袖シャツに明るい青のジーンズを履いて、内側が透けて見えるカーディガンを羽織った椎名が、カメラを持って海へと駆け出した。今日は後髪を緩く一本の三つ編みにして、丸眼鏡を掛けている。
城ヶ崎は相変わらず、アロハシャツだったが……持前の体格から発される威圧感は毛ほども感じられず、慌てて椎名を追い掛けている。
椎名は城ヶ崎の告白について真剣に考えると言っていたが。この様子だと恋人同士に成る為には、万里の長城に匹敵する程度の距離を乗り越える必要がありそうだ。
「あっつ……」
不意に、隣で押し殺したような声が聞こえて来る。見れば、リズが額に汗をして、今にも倒れそうな様子だった。
「大丈夫か?」
聞くと、まるで何事も無いかのように苦笑して、リズは手を振る。
「大丈夫、大丈夫。……ちょっと、疲れたみたい」
あまり、大丈夫な様子では無かったが。
元々、現実世界では身動きが取れない状態なのだ。お世辞にも体力がある方とは言えなさそうだし、無理をさせるべきではないだろう。
全身黒一色の俺に対して、リズは真っ白な白衣。対照的だ。ふと、リズの服装に目が留まる――……そもそも、こんな日に長袖の白衣など着ているから暑いのでは。そう思ったが、リズは服の胸元をぱたぱたと動かして身体の熱を冷ましながらも、白衣を脱ぐ様子はない。
何か、事情でもあるのだろうか。
「先に、旅館にチェックインしないとな。城ヶ崎と椎名を呼んで来るから、リズは先にロビーまで行ってなよ」
「ごめん、ありがと」
敢えてリズの白衣について聞くような事はしなかった。配慮をする事に決めたのか、それともリズの内側に踏み込むタイミングでは無いと思っているのか、自分にも判断は付かなかったが。
自然な流れで、聞くタイミングになったら聞けばいい。そう思う事にして、俺は旅館へと思考を切り替えた。
◆
旅館のロビーは二階の天井付近まで高さがあり、開放感のある造りになっていた。
既に宿泊する気満々で訪れていた俺達は、旅館の内装を見るなり、その優雅さに驚きもした。柱の一本一本に装飾が施されており、ベルベットのソファは見ているだけで一眠りしたくなる程、柔らかそうな見た目だった。
しかし、人気は無い。ゲーム世界のリゾートに興味を持つ、俺達のような変わった輩は少ないと言われているかのようだ。受付の前には、豊かにウエーブした、金色の髪を持つ美しい女性――……しかし、瞳の色はデマントイドガーネットのような若葉色。あまり、現実世界で見掛けるような瞳の色ではない。
目であればカラーコンタクトレンズという手があるが、この場合は考えなくても良い所だろう。恐らく、彼女はNPCではないだろうか。赤いベストを基調とした制服に身を包んだ女性は、俺達を見ると柔和に微笑んだ。
「おお…………!!」
城ヶ崎が感嘆の吐息を漏らした。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」
「あ……えっと、四名で予約していたエリザベス・サングスターです」
少し躊躇ったような雰囲気で上目遣いに女性を見てリズが返事をすると、受付の女性は花が咲いたような笑顔になって、両手を合わせた。
「貴女が、噂の! 『アルタの妖精』様でいらっしゃいますか!? お待ちしておりました!」
瞬間、リズの頬が突如として沸騰したかのように赤く染まり、堪らずに咳き込んだ。
ステータスウィンドウのようなホログラムの画面が、受付に居る彼女の手元で幾つにも出現しては閉じられる。本人を特定したのだろう、女性はカウンターの下から金色の鍵を二つ取り出すと、受付票と共にリズへ手渡した。俺、城ヶ崎、椎名。全員、女性の放った強烈な一言に固まってしまい、リズを見る。
リズはそそくさと受付票を走り書きして、直ぐに受付の女性に突っ返した。
「人違いです!!」
この様子だと、おそらく人違いでは無いのだろう。にっこりとした笑顔を浮かべたままで、受付の女性は言った。
「これは、失礼いたしました。わたくし、この『ガーデンプレイス』で支配人代理を行っております、テトラ・エンゼルゴールドと申します。以後、お見知り置きを」
テトラと名乗った受付の女性は、わざわざリズの書いた受付票に目を通した上で、そう言った。
内心で、スマートなやり方だと思った。慌てて謝るにも、事情を知って謝るのではリズの立場を守る事が出来ない。本人の意志を尊重するなら、空気のように流してしまうのが最も印象に残らない方法だ。
俺も、『アルタの妖精』については何も聞かない事にしよう。
「それでは、皆様の『プレイヤーウォッチ』を預からせて頂きます」
何気無く、テトラは俺達にそう言った。その言葉に、俺は思わず反応してしまった。
「…………何か理由があるのか? 現実世界とのコネクションを断つことは、出来れば避けたい」
既に言われた通り、自身の左腕に装着してある腕時計を外していた城ヶ崎が、俺の質問を聞いて固まった。
終末東京の世界にログインすると予め装備されている時計が、『プレイヤーウォッチ』という名前だと云う事は初めて知った内容ではあったが。言ってしまえば、この『プレイヤーウォッチ』を奪うことは、自由自在にログアウトできる終末世界の世界で、ある一定の座標にプレイヤーを拘束する事の出来る唯一の手段だ。安易に手放せば好き放題利用されてしまう可能性のあるアイテムであることは、椎名の一件でよく分かっていた。
だからこそ、出来れば持っておきたい所だが……城ヶ崎はとても、素直な奴だと思う。
「この旅館では、プレイヤーとノンプレイヤーキャラクター、即ちわたくしのようなNPCとの区別をしない、と定められているからです」
ノンプレイヤーキャラクター。……まさか、NPCと呼ばれる人間の口から、実際に聞く事になるとは。分かっていても怪訝な表情になってしまうが、しかし。
テトラ・エンゼルゴールドは俺のような人間を見慣れてきたのか、欠片も笑顔を崩すことがない。
「ご宿泊中、旅館内では『プレイヤーウォッチ』の使用を認めておりません。その為、最低限必要な装備・貴重品等は具現化させ、お客様のお部屋に置くことで対応をお願いしております。勿論、ご宿泊中であっても、旅館を出る時には『プレイヤーウォッチ』はお渡し致しますので、ご安心ください」
「……嫌だと言ったら?」
「申し訳ございませんが、ご宿泊そのものをキャンセルさせて頂く事にしております」
そこまでして、プレイヤーとNPCとの区別を無くしたい。……あまり理由が感じられず、躊躇してしまった。ようやく考え出した城ヶ崎は「なるほど」としきりに頷いているが、恐らく理解はしていない。城ヶ崎の口から解決策について語られる事は無いだろう。
リズは既に事情が分かっていたからか、少し困ったような顔をしていた。……俺が警戒し過ぎているだけ、だろうか? 誰とも分からない他人のプレイヤーウォッチを手に入れる事でメリットがあるとすれば、個人情報の取得くらいだろうか。
しかし、現実世界ならいざ知らず、終末東京における住所・電話番号が分かった所で、盗人にメリットがあるとも思えない。それは分かっていたが――……どうにも、居心地が悪い。
「木戸くん、別に良いんじゃない?」
不意に、椎名がそんな事を言う。俺は眉をひそめて、椎名の真意を探ろうとした。
「……万一何かの問題が発生した時に、俺達はこの世界で自殺するか、殺されるまでログアウト出来なくなるって事だ。……そういう意味で、気になってる」
「何かの問題って?」
「例えば、預けた『プレイヤーウォッチ』が盗まれる、とかな」
俺の言葉に、テトラは笑顔のままで言った。
「旅館内の金庫に、お纏めして預からせて頂きます。パスワードは旅館内の人間しか知りませんから、盗まれる事は無いかと」
仮に盗んだとして、有効利用する手立ても思い付かない。何かあれば、ロビーに来て時計を受け取ればそれで終わりだ。
…………分かっては、いるが。
苦し紛れに、俺は言った。
「……過去に、事例は? 『プレイヤーウォッチ』が盗まれたっていう、事例」
「勿論、それはない」
俺はテトラに問い掛けたつもりだったのだが、その問いに答えたのは別の人物だった。
声がした方――ロビーの奥へと視線を向ける。
「気になるのは分かるが、こればっかりはウチの方針でね……終末東京の住人が、利用し易くする為だ。理解してくれ」
初めに目に留まったのは、車椅子に座った女性の方。しかし、声は男性のものだった。車椅子のハンドルを握っているのは、眼鏡を掛けた黒髪の男性だった。
年齢は二十代後半か、三十代程度だろうか。短髪で、無精髭が目立つ男。何とも覇気のない様子で、チェックのシャツにベージュのチノを合わせている。
「素敵ダンディー…………!!」
丸眼鏡を輝かせて、真っ先に反応したのは椎名だった。……こういうタイプが好きなのだろうか。今掛とは、また全然違う雰囲気だが。
対して、車椅子に座っている女性は鮮やかなピンク色の髪を持っていた。男の方は兎も角、車椅子の女性はNPCという事で間違い無いだろうが――……成る程。こうして見ると、男の方がNPCでも何ら不自然な点はない。髪色や瞳の色から想像は出来ても、時計をしていなければ根拠には成り得ない。
意識していた訳ではなかったが、改めてNPCの存在を提示されると、誰がプレイヤーで誰がNPCなのかを考えてしまう。その為の『プレイヤーウォッチ』の回収、と言う訳か。
「あんたは?」
問い掛けると、男はズボンのポケットから名刺入れを取り出して、俺に渡した。
「初めまして。『ガーデンプレイス』の管理運営をやっている、明智大悟だ」
やる気の無さそうな表情の一方で、鷹のように鋭い目付きの向こう側には、人を推し量るような態度も見て取る事が出来る。
順番に明智と名乗った男が名刺を配り終える様を、車椅子に座った女性が見ていた。こちらは反対に包容力の高そうな、柔和な雰囲気を持つ女性だったが。
明智は自身の左腕を俺に見せて、くたびれた笑みを浮かべた。
「この通り、俺も旅館の中では、プレイヤーウォッチを外してる。……それとも、異世界人である事を誇示したい連中かな?」
妙な台詞回しをする。その言葉には僅かな疑問を覚えたが、俺は聞く事はしなかった。
「分かった。……まあ、リアルと変わらない状況になったと認識しておくよ」
そう、明智に答えた。
恐らく、明智大悟は『ガーデンプレイス』を実質的に支配しているプレイヤーだ。名刺にはそのような肩書が無いので、支配人は車椅子の女性の方だろうか。一瞥すると、笑みを返された。
「ミリイ・ロックハインガムと申します。どうぞごゆるりと、楽しんで行ってくださいね」
それだけを伝えて、二人は旅館の奥へと再び歩いて行く。
俺達は、それぞれ自身の持っている『プレイヤーウォッチ』をテトラ・エンゼルゴールドに預けた。金色の髪を揺らめかせながら、テトラは微笑み掛ける。
去り行く明智大悟とミリイ・ロックハインガムの後姿を見ながら、俺はリズに問い掛けた。
「……『プレイヤーウォッチ』が仮に盗まれた場合、どうなるんだ?」
「あまりに距離が離れ過ぎると、自動的に持ち主の所に転移されるようになっているよ。落とした時の為に外部の人間からステータスを確認する事は出来るけど、アイテムなんかは取り出せないから、まあ大丈夫だと思う」
ならば、椎名の時のようにログアウトを防止する事くらいしか、プレイヤーウォッチを盗む意味も無いということか。
考え過ぎだ。いつもの疑り癖が抜けないだけだと一方では思いつつ、何か嫌な予感がする、ともう一方では考えていた。
◆
燦々と輝く太陽は日陰暮らしの白い肌には厳しく、焼け焦げる前に早く避難しろと身体は警鐘を鳴らしていた。
寄せては返す波は、現実世界では中々見ることが出来ない程に青く、僅かに緑色に見える程に輝いている。現実世界で確認できる海の色と言えば、昨今ではすっかり灰色一色だ。そう考えると、地上で生活する事が無くなった終末東京の世界で、如何に水が浄化されて来たのかが分かる。
いや、これも突然変異の影響なのかもしれないが。
リズに言わせる所の、『ゲームだから研究は無駄』と云う話も、地下都市の中に居る限りでは印象が薄かったが……こうして地上に出てみると、よく分かる。殆ど全ての現象は、『突然変異』か『リオ・ファクター』というブラックボックス、言ってしまえばデウス・エクス・マキナのような役割を果たす事象により、現代日本に摩訶不思議な現象を起こした世界というものを表現しようとしている。
内側を追い掛ければ何かはあるかもしれないが、何もない可能性の方が高い。見方によっては、馬鹿も休み休み言えと思われても仕方が無い事をリズはして来たのかもしれない。
ビーチパラソルの下で寝そべっている俺の隣では、リズが白衣姿のままでオレンジジュースを飲んでいる。海の方では、城ヶ崎と椎名が仲良くビーチバレーをしていた。
「城ヶ崎くん、パース!!」
心底嬉しそうな顔をしている城ヶ崎は、鼻の下が伸びっ放しになっている。……確かに、俺から見ても椎名の胸部は破壊力を持った大きさであり、それがビキニを着ているとなれば――……敢えて考える事でも無いが、城ヶ崎にとっては至福の一時なのかもしれない。
「あっはっは!! 美々ちゃん、パース!!」
「えっ……ちょっと、飛ばし過ぎー!!」
今、絶対にわざと、椎名の胸が揺れるように打ち返した。
見ている方は、別段楽しくもない。椎名がビーチボールを片手に、パラソルの下に居る俺とリズへと視線を向けた。
「もー……木戸くん、リズちゃん、ダブルスやろうよー!!」
「ああ、俺はパス」
日焼け止めも塗っていないのに、こんな炎天下で遊べる筈もない。奴等は焼けた後の痛みを忘れる事が出来る連中。俺からしてみれば異次元の生命体なのだから。
太陽の光を浴びる砂浜程に白い目をして城ヶ崎と椎名の様子を眺めているリズも、既にオレンジジュースからアイスクリームへと移行していた。旅館にあったクーラーボックスが最大限活用されている。
リズはそもそも、水着すら着ていない。椎名は直ぐに諦めたようで、城ヶ崎に再びボールを投げ返していた。
「こうして見ると、バカップルに見えなくもないな」
「そうだねー」
俺は寝転がったまま、視線だけをリズに向けた。呆けた顔でアイスクリームを舐めるリズの手は、既に溶けたバニラアイスで汚れている。……まあ、この気温ではどうしようもない。
「別に中で待ってても良いんだぜ? あんまり得意じゃないんだろ、日差し」
未だに白衣を脱がない程なのだ。おそらく内側は、余程暑いに違いない。……と思っていたが、リズの足を見て気付く。少し身体を起こして、白衣の内側が見えるように頭の位置を調節した。
「ううん、大丈夫だよ。恭くんこそ、遊んで来たら?」
なんと、白衣の内側に水着を着ていた。
何故、そこまでして白衣を。そうは思ったが、先程まで意識して聞かないようにしていた事を思い出し、俺は中途半端に腕捲りをしたリズの白衣を視界から外した。
あるかもしれないだろう。二の腕に傷とか、背中に手術の痕とか。唯のこだわりである可能性も全く否定出来ない状況ではあったが、ネガティブな要素である可能性が残っている以上、俺の口からリズに聞く訳にも行かない。
霧がかかったような、晴れない思いは胸の奥を渦巻いた。……やはり俺は、気になるものは確認しなければ気が済まない性格のようだ。
「そういえば、『存在の不確定』ってアビリティは、どんな能力なんだ?」
どのような話題にするべきかと散々悩んだ挙句、結局リズの情報について問い掛けている自分には苦笑を禁じ得なかったが、他に話題も無い。リズはクーラーボックスからミネラルウォーターを取り出して、手を洗いながら俺の方を向いた。
一体、旅館からどれだけの飲み物食べ物を取って来たのだろう。
「ブランク定数を操作するものだって、私は思ってるけど」
「ブランク定数?」
リズの表情が僅かに活気に満ち始めた。お得意の物理学の話が出るのだろうと云う事は、直ぐに予想が付いた。
「思考実験の話でね。運動量と位置は同時に求まらないから、即ち物体の本当の居場所っていうのは、誰にも分からない、っていうのがあって」
「……どういう事だ? 位置が求まらない?」
愛嬌のある微笑みで、リズは頷いた。……毎度の事ながら、俺にはさっぱり理解の出来ない範疇の話だったが――……リズが楽しそうなので、もう少し話を聞く事にした。
「ほら、私達は光……光子が何かの物体に反射して、それを『目』っていうレンズを通して見る事で、物体を確認しているでしょ? ということは、より小さなものを確認する為には、より大きなレンズが必要になるよね。望遠鏡みたいに」
人差し指を立てて話すリズに、俺は頷いた。
「極端な話だけど、『レンズを通してものを見ている』以上は、その光が『レンズのどこを通ったから見えているのか』っていう事は、絶対に分からないでしょ? という事は、レンズを大きくすればするほど、その物体が本当は微妙に動いていたとしても、止まって見えている可能性があるのね」
どこかで、聞いたような話だった。割と有名な話のような……
砂浜の向こう側では、椎名と城ヶ崎が同じように『ガーデンプレイス』を訪れていたグループらしき男女に、声を掛けられていた。俺は他人のふりをして、リズの話に集中する。
「より細かく、はっきりと物の位置を確認する為には、大きなレンズが必要になる。でも、レンズが大きくなればなるほど、その物体の運動量はあやふやになっちゃう。……簡単に言っちゃえば、そんな矛盾の話だよ。この『わからなさ』を、『ブランク定数』って名付けた人がいたの」
「……それが、『存在の不確定』と関係して来るのか?」
リズは頷いた。
「現実世界ではブランク定数って、六.六二六一掛ける、十のマイナス三十四乗J秒って定められているんだけどね。私に関係するものだけ、このブランク定数をリオ・ファクターの力で操作する事が出来るようになるの」
「すると、どうなる?」
「そうすると……」
思わず、俺は目を見開いてしまった。
リズの姿が、その場から消えた。いや、消えたと表現するのもどこか不自然な気がするほどに、異様な現象が発生した。
砂浜から向こう側が透けて見えた訳ではない。たった一瞬だけ、リズの周囲を視認する事が出来なくなってしまった。光を失ったかのように、そう――曖昧に――なってしまった。
それは、初めてリズと出逢った時と、同じ現象だったような気もしたが。
「…………っと、こんな感じに。気が遠くなるんだけど、色んな障害物を無視して通り抜ける事が出来るようになるんだ」
気が付けば、リズは俺の背後に立っていた。肩で息をしているのは、アビリティを使ったからだろう。城ヶ崎は『重力』であり、それも労働者としては特殊だと言われた事があったが。リズのこれは、異次元の能力だ。
膨大なエネルギーを消費するのだろう。それは、リズの様子を見れば明らかだった。
『アルタの妖精』。
誰に説明された訳でもなく、その異名の意味を理解する事になろうとは。……俺は、珍妙なものを見たという意識が抜けなかったが。
「あんまり、連発出来るようなものでも無さそうだな」
「そうだね。私も特殊なアビリティだから、元素関数は『不確定性』になるみたいで。ブランク定数を大きくすれば、より遠くに転移できるけど、リオ・ファクターの消費が激し過ぎて……あんまり、使い物にならないみたい」
少なくとも、俺の隣から背後に移動しただけで息を切らしているようでは。……戦闘中に使う事は、まず無理だろう。リズはそれが分かっているからか苦笑して、再び俺の隣に座った。
「何だか揃いも揃って、ろくなステータスじゃないよね、私達」
通常では出来ない事が出来る。イレギュラーの良い所は、意表を突く事が出来るという部分にある。俺としては、リズが戦力にならないとは考えていなかった。
少なくともリズは、自遊人として何の能力も持たなかった俺に切り札を与えてくれたのだ。一発限りとは云え、『敗者の拳』のお蔭で椎名の一件はどうにかなったような、ものだ。
「まあ、良いんじゃないか。珍しくて」
椎名のアビリティが何かにもよるが、そもそも俺達は終末東京の世界でも、弱小が寄って集まっただけの団体に過ぎない。ゲームとしての戦力を揃えようと思ったのなら、初めからこんな面子では集まっていない。
「ステータスの弱さは、人の強さに影響しないと思うよ、俺は」
少なくとも、そう信じていたい。世界のルールが変わってしまった、架空の世界の中だけでも。
リズはきょとんとして、目を丸くしていたが――……やがて、俺の言葉に賛同したのか、無邪気な笑みを浮かべた。
「…………そだね」
不意に、椎名と城ヶ崎が話していたグループが、俺達の方を向いた。椎名が何やら指をさして、俺達の存在を連中に教えているようだったが。ビーチバレーを仲良く楽しんでいれば良かったのに、自己紹介の時間になるのだろうか。
あまり、無闇に人数が増える事には慣れていない。出来れば遠慮したい所だが…………俺の願いも虚しく、連中は俺に向かって歩いて来た。
長い黒髪を頭の後ろで縛った長身の男と、黒髪に眼鏡を掛けた、如何にもインドアな青年。それから、前髪をアップにしてカチューシャをした、セミロングの娘。全員水着を着ている所を見ると、どうやら他の場所で遊んでいたようだ。
長身の男が一番前に出て、俺に向かって右手を差し出した。
「あんた、このグループのリーダーかい?」
はっきりと、男は俺に向かってそう言った――……どうやら、椎名が俺の事をリーダーだと説明したらしい。このパーティーのリーダーは一応、名義上はリズという事になっているのだが。
俺は立ち上がり、長身の男と向かい合った。城ヶ崎と同じ位の身長だが、こちらは筋肉質な身体つきをしている。少なくとも、日蔭育ちの俺では喧嘩で勝つことは難しそうだ。
「リーダーは彼女だけど」
「ああ、そうなのか。まあ、そこは実はどうでもいいんだ。さっき、向こうの二人にも話したんだけど、もし良かったら今晩、一緒に飯でも食わねえ?」
そう言って、別の方向に視線を向ける――……二人というのは城ヶ崎と椎名の事ではないのか。
岩の上に座っている男女。どちらも髪を染めていて、男の方は茶髪で女は金髪。見るからにカップルだが……まさか、あれに声を掛けたのか。神経が太いのか、それとも神経が無いのか。豪快でどこか軽い性格の印象を受けるが、第一印象そのままなのだろうか。
俺は、長身の男と握手をした。
「実は、怖い話大会でもやろうかと思ってるんだけどさ。三人じゃ足りないなと思って、声掛けて回ってるんだ」
「……と言っても、あんまり宿泊客は居なさそうだけどな?」
「ははは、まあそう言うなって。俺はサンズ。こっちの眼鏡はアタリで、こっちのちっこい女の子は秋津林二」
どれも、現実世界に居そうな名前ではない。秋津と呼ばれた女の子だけが、唯一普通な雰囲気の名前だが――……男の名前だ。恐らく、ハンドルネームか何かなのだと考えた方が良いだろう。
俺は自己紹介についてどうするべきか迷ったが――、
「……俺は木戸。リズ、城ヶ崎、椎名。まあ、よろしくやろう」
結果、苗字だけを伝える事にした。わざわざフルネームを伝える必要も無いだろう、という考えだった。
リズについては、分かり易い呼称があるので良いが。顔も姿も見える世界で、『きよ』だの『バハムート』だのといった名前で呼び合うのも気が引けるというのが本音だ。
インターネットを通じて知り合った人間は、オフ会を通じてハンドルネームで呼び合うらしいが。何しろ城ヶ崎が初めてのネット友達である俺には馴染みが薄いし、どうにも慣れない。
サンズと呼ばれた長身の男は腰に手を当てて、旅館を見上げた。
「『ガーデンプレイス』に今日泊まっている客は、これで全部みたいだな」
急に人が増えて対応に困る最中、愉快そうに笑う快活な男は、しかし不意に眼光を鋭くさせると、八重歯を見せた。
「不吉な夜が……始まるぜぇ」
不敵に笑うサンズという男に、俺は城ヶ崎と通じる何かを感じていた。




