第十四話 梅雨の明けない海の向こう側
曰く、事実というものは小説よりも奇なりと言われる事があるように、長い人生の中で一度や二度、有り得ないと思える事態が起こったとしても、其れに驚くべきでは無いのかもしれない。
そのような事を頭の中では分かっていたとしても、しかしやはり確率的に低い現象が起こると、どうしても驚きを隠せずには居られない事もある。
人とは、出来事に一喜一憂するものだ。そして、当人が思っているよりも感情に支配されるもの――……動物が本能に逆らうことが出来ないように、人間心理において如何に理性というものが存在していたとしても、突発的に自らの自制心へと襲い掛かる衝動的なエネルギーを押し殺す事は難しい。例えるなら、崖っぷちで背中を押された時に踏み止まろうとする行為に似ている。
その例えで行くなら、今回の出来事もまた、珍しいものだった。
壊れたインターホン。本当は壊れている訳ではなく、新聞勧誘等が煩いので音を切ってしまっただけなのだが。従って何回押下を続けようとも俺が気付く事は無いし、室内生活に一切の支障はない。
それでも用がある人間は、何度か扉をノックしてくる。その日も例外なく、俺はノックの音を確認しながらも、黙ってコンピュータに向かっていた。……無視しているのではなく、それが確かな合図なのかどうかを確認しているのだ。
マウスで意味の無い所をクリックしては、外の気配を窺う。ついこの間、城ヶ崎が初めて俺の家を訪れた。特に何の知らせもなく、再度訪れる可能性は充分に考えられる。
三度叩いて、また三度。…………城ヶ崎との間で取り交わされた、俺達のルールだ。自分から積極的に外へ出る事が滅多に無い俺は、当然外界とのコネクションを断っている。世界から隔離された空間。まるで終末東京の世界で生活しているような気分になる。
それでも、やはり完全には現実世界との連携を断つことは出来ない。俺は仕方なく重い腰を上げ、扉の外に居るであろう城ヶ崎に向かって行った。
「そういや、海に行きたいとか言ってたな…………」
思わず、そのようにぼやいた。
まだ六月だ。海に行く季節としては、梅雨が開けて本格的に暑さが身を焦がす季節になるまで待つべきだ。雨のせいで外に出る機会が無いのだと、一昨日に終末東京の世界で、城ヶ崎自ら口にしていたのに。
終末東京の世界でも、無理なくレベルを上げて行き、ようやく下級のダンジョン程度なら楽に攻略出来る所まで辿り着いたのだ。それだけゲームに集中していた事もあり、俺としてはこのまま地下に潜った架空の世界で、のんびり染谷のコーヒーでも啜りながら月末を迎えたい。
最も、ダンジョン攻略の要となるのはいつも城ヶ崎であり、俺とリズはサポート程度にしか役に立たないのが現状なのだが。
如何せん、この『敗者の拳』を利用した一発限りの反撃は、無数の敵と戦わなければならないダンジョンとは相性が悪い。
「おい城ヶ崎、あんまり気軽に家を――――…………」
そのような事を考えながら、玄関扉を開いた時だった。
俺は、半分眠っていた意識を速やかに覚醒させた。
「恭一、久し振り」
曰く、事実というものは小説よりも奇なりと言われる事があるように。
俺は扉を開いた体勢のまま、固まってしまっていた。廊下側に立っていたのは、ストレートの黒髪を真っ直ぐに降ろし、白いボタンシャツと濃紺のタイトスカートを身に着けた女性だった。
三度叩いて、また三度。城ヶ崎と決めたルールが、意識せずとも過去に取り決めの交わされたルールと同じであったことに、俺は今更ながら後悔を感じていた。
ルールが違えば、少なくとも扉を開ける時に人物を間違えたりはしなかった。
「――――義姉さん」
木戸遥香。今はもう懐かしい存在である彼女は、何処か俺の事を寂しそうな目で見て、それでも笑っていた。
「入っていい?」
「……あ、ああ」
俺が返事をして頷くと、姉さんは俺をすり抜けて、部屋の中へと入って行く。その後姿を、俺は視線で追い掛けていた。
シャッターも開けない俺の部屋に入り、ディスプレイのバックライト以外に大した光源も無い状態から、窓を通して部屋の中に光を取り込んだ。一瞬眩い光が瞳孔と虹彩を刺激し、目が慣れて来た頃には、俺は改めて姉さんの姿を確認していた。
懐かしい容姿。少しくたびれた目尻には、しかし安堵の色が浮かんでいた。
「……シャッター、あんまり開けない主義なんだけど」
「あんまり、でしょ?」
何があったのだろうと思いながらも、俺は頷いた。
遠い記憶。俺が覚えている最後の姉さんは、それきり俺と会う事は無いだろうと云う予想をさせる程に、悲しい目をしていたが。狭い部屋にトートバッグを置くと、その中から小さな袋を取り出した。
どうして今更、戻って来たのだろう。
「はい、お茶買って来たよ。どうせ何もないだろうと思って。お湯くらい沸かせるでしょ?」
「いや、茶くらいはあるよ」
何の、理由があって。
俺は小さな袋の中身を確認して、姉さんに呟いた。
「また昆布茶かよ」
◆
窓の向こうでは、ひたすらに雨が降り続いている。天気予報を見た訳では無いが、その様子を見れば今日一日の中で雨が止む可能性は少ないのではないかと、簡単な推測を立てる事は出来る。
何故か、わざわざ喉の渇きそうな茶を買って来た姉さんは、湯呑に注がれたそれを一口飲んで、正座のままで窓の外を見ていた。普段は水以外にあまり口にしない俺は、空の湯呑をテーブルの上に置いたまま、姉さんの様子を眺めていたが。
改めて、俺の現在地を確認しているようにも見えた。
外の世界に触れる事で、社会から隔離された部屋に、幾らかの現実味が混じる。姉さんは湯呑をテーブルに置くと、今度はしっかりと、俺の双眸を理知的な視線で射抜く。
鷹の目のようにも見える鋭い眼光は、しかし僅かな穏やかさを同時に伴っていた。
「……最近は、どうしているの?」
どうにも居心地が悪く、俺は腕を組んだままで姉さんの視線を受け止める。
「別に、何も。姉さんは?」
俺の問い掛けに、姉さんは首を振って笑う。
「恭一がどうしてるかなと思って」
「いや、それはおかしい。久し振りに顔を見たいと思うような仲でもないだろ」
反射的に反論すると、姉さんは目を丸くして、首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって……」
俺達は、既に姉弟として成立する関係ではないからだ――――と考えてしまうのは、俺の感覚が乾いているからなのか、どうなのか。
遠い過去は俺にとって、感傷に浸るには無理がある程度には時間が経ってしまった。最も『義姉さん』にとっては、未だ現実味を帯びた出来事なのかもしれないが。
兄貴が居なくなってからの姉さんは、余りにも不安定だった。俺の思い上がりかもしれないが、姉さんは俺に兄貴の姿をだぶらせているのでは無いかと、どうしても感じてしまう部分があった。
身寄りが無く、単なる居候でしか無かった俺に、異様なまでの愛情と云うのか、そういったような感情を持っていたように思う。
「人は、理由なく誰かに会おうとしたりしないよ。……会社で何か、嫌なことでもあったのか?」
どこか疲れたような目をしているのは、そのせいではないかと疑った。姉さんは俺の態度に思わず苦笑した様子で、左手で握り拳を作り、口元を覆った。
笑みを作る時に歯を見せないよう口元を隠す、如何にも女性的な仕草。
俺は、思わず視線を逸らした。
「恭一は、相変わらずね」
相変わらずな姉さんの様子に、僅かな怒りさえ覚える。
「人って、皆が皆、恭一みたいに合理的には出来ていないわ。完全に人が合理的になるのって、自分に不利益があった時だけよ。……そうでしょう?」
確かに、それはそうかもしれないが。
ならば、姉さんに何か不利益になるような理不尽な出来事が、災厄のように唐突に降り掛かってきたと云うことだ。周囲に寄り掛かる場所の無い姉さんが、単に最も頼り易く都合の良い俺を、利用しようとしているに過ぎない。
見た目程、姉さんは気丈には出来ていない。……弱い、人間なのだから。
不意に、姉さんは部屋の隅に転がっていた、終末東京の世界へと転移する『ワープステーション』に目を留めた。その表情が僅かに歪む様子を確認して、軽い後悔を覚える。
こうなると分かっていれば、玄関扉を開ける前に片付けたのに。
「……まだ、ゲームをやってるの?」
俺は答えない。
溜め息を付いて、姉さんは目を閉じた。自分で買ってきて自分で淹れた昆布茶を、結局自分一人で飲み干してから言う。
「私も、やってみようかな」
一体、何を言ったのだろうか。
俺は、ぴくりと眉を動かした。
「……大丈夫か? 本当は何があったんだよ」
「いや、だから、別に何も無いってば」
「何も無いって事無いだろ。有り得ないって。それか頭でも打ったか、どっちかだ」
この世で最もゲームが嫌いな姉さんの口から、「やってみようかな」等という単語が飛び出すのは。……確かに、終末東京の世界は普通のゲームとは違うが。それでも、ゲームである事に変わりはない。
ゲームの中に人の人生がある。姉さんにとっては、その程度の違いの筈だ。
とてもではないが、姉さんが終末東京の世界に入ってクリーチャーと戦っている姿など、欠片も想像出来ない。姉さんは口元だけで微笑んで、俺に言う。
「冗談よ」
目が笑っていないが。
嘘か真か判断の付かない冗談は言わないで欲しい。……やはり、あの兄貴にこの嫁有りと云った所か。
姉さんは呆気に取られた様子の俺に対してくすりと笑うと、背伸びをして俺のベッドを背もたれ代わりにした。心の中を擽られ続けているような居心地の悪さが、腹の中を渦巻いて止まらない。
……ここは俺の部屋なのだが。
「分かった、白状するわ。……最近友達がみんな結婚しちゃって、つまんなくて。遊びに付き合って欲しいなと思って来たの」
「遊ぶって、何処に」
「別に? 何処でも。遊園地とか、映画館とか」
「……生憎と、今は情報技術の勉強中なんだ。初級システムアドミニストレータでも取ろうかと思ってさ」
俺は嘘を吐いた。
姉さんが少し挑発的な様子になって、不敵に笑いながら言う。
「嘘つけ。参考書なんか一冊も無いじゃない」
「電脳世界に疎い姉さんには分からない事かもしれないけど、最近はインターネットで勉強すりゃ、大抵の事は分かるんだよ」
どうにも、調子が狂う。普段の俺なら、こんな事は言わないだろうと思える事を言っている。
ベッドに甘えるような態度を取っている姉さんの湯呑を回収して、キッチンへと向かった。先程までは来たら面倒だろうと思っていた城ヶ崎に、今更携帯なりインターネット経由なりでメッセージが来ないかと期待している程だ。
この調子だと、今日一日は帰らないだろう。適当に時間を費やして、上手くストレス解消して帰って貰う所だろうか。
湯を沸かすと、二杯目は戸棚から緑茶を出して、淹れることにした。……甘みも塩気も、飲み物においては苦手なのだ。
そうして、何の準備も出来ないうちに。
「ねえ恭一、暫く、こっちに居てもいい?」
姉さんは、衝撃的な一言を口にした。
「――――づぁっ!!」
思わず、ポットを握っていた親指に熱湯を掛けてしまい、俺は間抜けな奇声と共に勢い良く薬缶をガスコンロに戻した。姉さんが目を見開いて、座ったままで俺の方に身を乗り出す。
「大丈夫!?」
間髪入れず、俺は言った。
「それは困る。……部屋狭いし、寝る場所も無いから」
きょとんとして、姉さんは目を丸くする。
「別に良いのに。床で寝るよ」
そういう問題ではなく、俺が困るのだ。しかし、その態度を見て俺は確信した――……やはりまだ、姉さんは先の事件から立ち直っていない。
兄貴が居なくなったあの日から、姉さんは壊れてしまった。
大切な関係は、全てちゃぶ台をひっくり返され、地面に落ちて腐ってしまった。
茶を入れて戻って来ると、俺に拒否された事など気にも留めていない様子でベッドの上に居る。俺は溜め息を付いて、テーブルの上に二人分の茶を置いた。
「だって、突然出て行っちゃうんだもん。一人で、寂しいじゃない。……それか、恭一がうちに帰って来てよ」
どうすれば良いのか、長い時間が経った今でも、よく分からない。
姉さんと、どの程度の距離を保って接すれば良いのか。
「これ飲んで、そしたら、帰ってくれ。生存報告くらいは、するから」
少しは、伝わっただろうか。姉さんは俺の様子を、じっと観察しているようだったが――……やがて諦めたように姉さんは苦笑して、ベッドから起き上がる。
諦められた事が分かり、その瞬間、胸の奥が刺されたように鋭く傷んだ。
「……ごめんね、我儘言って。分かった、帰るよ」
そうか。
結局の所、あの日から決別が出来ていないのは、俺も同じなのだろう。遠く時間が過ぎ去ることは感情の傷を癒やすが、人間的な関係を解決するには至らない。
壊れてしまったものは、壊れてしまったままだ。俺の中にあった姉さん――『木戸遥香』という存在もまた、壊れてしまったまま、もう元に戻る事は無いのかもしれない。
「…………すまん」
「ううん? 私こそ、急に押し掛けてごめん」
姉さんは立ち上がり、トートバッグを再び背負う。わざわざ煎茶を淹れたのに、昆布茶以外に興味は無いらしい。好きなものに一途な所は、今も変わらないようだ。
「そうだ、言おうと思ってたんだけど。『姉さん』は、もう止めにしない?」
「……なんで?」
「だって私、もう姉さんじゃ無いじゃない? ……まあ一応姉さんでも合ってるんだけど、なんだか不自然な気がして」
俺は部屋の壁に凭れたまま、姉さんの目を見ずに言った。
「不自然じゃないと思うけど」
「ここはひとつ、『遥香さん』でどう? ね、言ってみて」
好かれているのだという状況に、どうしても気を許してしまいたくなる衝動はあったが。
崖際で背中を押されたからと云って、はいそうですかと落ちる訳には行かない。
「遥香姉さん。……また」
俺は、そう答えた。
結局の所、何の為に来たのか。玄関扉へと向かって行く姉さん――遥香姉さん――を見送る最中、俺はそんな事を考えていた。
いや、理由など分かり切っていた。姉さんは、嘘を吐かない。俺の内側にある感情など知っていて、それでも逢いに来たのだろう。それは、自らの孤独故にだろうか。
それとも――……
扉の向こうで、足音が聞こえた。姉さんがドアノブに手を掛けた瞬間、勢い良く扉が開かれ、軽く悲鳴を上げる。
「きゃっ!!」
俺はそこに立っていた人物を見て、頭を抱えたくなる衝動に襲われた。
「おお、恭一!! 海に行こうぜ、海に…………あれ?」
その後、現れた城ヶ崎に、遥香姉さんが義姉であり恋人ではないと云う事を理解させるまでに、凡そ一時間程度を必要とした。
◆
終末東京の空は青く、荒廃した都市に蔓延る生命体は、驚くほど強く、逞しい。
まだ海で楽しむには早い季節に現れて『海に行こう』などとぼやくので、何事かと思えば。城ヶ崎は終末東京の世界で旅行に行く計画を立てるために、俺の所に訪れたのだった。目を丸くしている遥香姉さんには悪かったが、家に帰す為の、都合の良い言い訳が出来た等と考えてしまう俺がいた。
ともあれ、城ヶ崎のバイトを調整した、翌週の金曜日。
既に他のメンバーを誘っていた城ヶ崎は、俺も含めて合計四名で、地下都市『アルタ』から遥々冒険し、『ガーデンプレイス』と呼ばれる場所を目指していた。
「城ヶ崎、あと二メートル後退」
植物の生い茂った線路の上で炎を吐くのは、巨大な蜥蜴のようなクリーチャーだ。リズの話に拠れば、これこそが先の回復薬『リザードテイル』の元になるクリーチャー、『リザードマン』なのだと云う。
二足歩行の大蜥蜴で、再生能力が高いのが特徴のようだ。一定時間で傷は再生する為、畳み掛けるように攻撃を仕掛けなければ倒すことが出来ない。レベルの低い冒険者にとっては、それなりに難しい相手となる。
城ヶ崎一人なら問題があったかもしれないが、既に城ヶ崎は『ガーデンプレイス』に向けて旅立つに当たり、重要な人物に声を掛けていた。
「椎名、炎を左足目掛けて撃ってくれ」
「おっけー!」
そう、椎名美々だ。
城ヶ崎の一歩後ろでメカニカルな杖を握る椎名は、『気象予報士』の職業を持っている。終末東京の世界では剣士に並んで最も多い職業であり、不遇でも優遇でもない、オールマイティな戦闘能力を持った存在だ。
それ故に、レベルがある程度あれば、ソロでの冒険も可能となる。弱点を突くことが出来なければ倒す事さえ叶わなかったクリーチャーに対し、様々な有効打を持つ貴重な存在。
目的の為なら俺よりも遥かに速く頭の回る城ヶ崎に、少しだけ感心してしまう。『アルタ』周辺は兎も角、他の街まで移動するとなれば、戦力が足りないという事は直ぐに分かる事かもしれないが。
いや、単に椎名と一緒に海に行きたかっただけか。
「城ヶ崎、リザードマンを飛び越えるようにジャンプ。リズ、リザードマンの目を射抜けるか?」
「はい!」
以前も持っていた、科学者でも持つ事が出来る対クリーチャー用のハンドガン。リズはそれを手にして、リザードマンの瞳目掛けて数発、銃弾を放った。
命中してリザードマンが怯むと同時に、椎名の足元に敷いた火炎がリザードマンへと襲い掛かる。
堪らず、その場から数歩、リザードマンは後退した。
「配管工のオヤジを思い出すなあっ!!」
重力に補正を掛けた城ヶ崎の強力な踏み付けが、リザードマンの頭部に命中。そのまま、骨を砕いて地面まで向かう。
リザードマンが城ヶ崎に踏み潰されると、直ぐに光を放ってその場から消滅した。
戦う事の無い俺は、何時でも『敗者の拳』を振るうことが出来るように準備をしているが――……クリーチャーとの戦闘で使う事は、殆ど無い。椎名が加わったとは言え、労働者に科学者、自遊人。ろくに戦うことも出来ない面子である事には変わりがない。
俺は手袋のアイテムを外して、周囲を見回した。
「やーしかし、電車がねえっつーのはキツいな」
城ヶ崎がステータスウィンドウを開いて、私服に戻す。『バトルモード』という装備欄があり、わざわざ一アイテム毎に入れ替えなくとも、ボタン一つで元の服に戻る事が出来るというのは、戦闘経験の豊富な椎名から出て来た情報だったが。
「だな。そういや、車はどうにかすれば手に入るみたいだけどな」
椎名の一件で、去る今掛時男――の仲間――が黒塗りの車に椎名を乗せて逃亡した事は、まだ記憶に新しい。ミスター・パペットと名乗る人物が最終的に中型のトラックに身を隠して逃亡した事から考えても、クリーチャーに対抗する車の存在がある事は間違い無さそうだ。
地下都市『アルタ』でも情報を集めさえすれば、何かしら手に入るモノがあるかもしれないが。若しも車が現実世界の値段と似たり寄ったりなら、既にある程度使い込んだ染谷の五百万ドルで、車を買う事は出来ない。
染谷に返す金も、私生活の中で稼いではいるが。終末東京の世界でも、何処かで収入源を見付けなければならないだろう。
「もう少しだから。頑張って行こう」
そう言うリズには、少し疲労の色が見えていたが。
改めて、東京の街をそのまま廃墟にしたような風景には、慣れる事が無い。眠らない街。深夜でも人の笑い声や怒鳴り声が聞こえて来る都会の雑踏さえ、ここでは嘘のように感じられる。
風景としては、錆び付いてくたびれた以外には余り代わり映えのしない場所ではあるのだが。
遠くで聞こえる鳥とも思えない何かの声を聞きながら、俺達は歩いた。
「あ! ……あれじゃないかな? マップとも一致するよ!」
椎名がそう言って、通りの向こう側を指差した。
丁度、現実世界で言う所の渋谷を越えて行った所だろうか。少し向こう側に、海が見える――――海? 東京湾にしても、もう少し先……品川の辺りではないかと思ったが。
海を跨ぐように、巨大なドームが存在していた。一体どうなっているのか分からないが、恐らく地下都市のように外側とは隔離されている場所なのだろう。
『シェルター』の地上に面している部分を見た時も思ったが、見た目はドームのようだ。地下都市『アルタ』は全てが黒と銀色で構成されていたが、こちらは地表から顔を出している部分については途中から透明になっていて、中を見ることが出来る。言わばガチャガチャのカプセルを巨大化させて、半端に地中へと埋めたような風貌だった。
しかし、銀色の部分がそれなりの高さを持っているため、中に在るであろう建造物については、特に確認出来るものも無かったが。
「すっげーっ!! なんか近未来的じゃんか!!」
「いや、そもそもここは未来の世界っていう設定だからな?」
先程までは僅かに疲れの色を見せていた城ヶ崎も、急に元気になって目的地を目指す。……あれが、『ガーデンプレイス』か。文化は無く、観光地のような扱いを受けていると事前に聞いていたが。
サイズは『アルタ』に比べると小さく、地下都市では無い。この様子だと、『シェルター』にも色々な種類がありそうだ。
あっという間に、城ヶ崎の姿が小さくなって行く。……道中、一人でリザードマンに遭遇しなければ良いが。逃げながら追われて、複数体連れて来られると、流石に少し厳しい戦闘になるかもしれない。ならば引き止める所なのかもしれないが、苦労報われたといった表情で嬉しそうに走って行く城ヶ崎に、水を差す気にはなれなかった。
まあ、どうにかやるだろう。
「此処らへん、海が随分と広くなってるみたいだな」
「だよね。山手線途切れちゃってるし……」
俺の言葉に、椎名が眼鏡を外してマップを凝視する。すっかり現実世界と同じ格好になった椎名だったが、城ヶ崎は特に気にしていないらしい。寧ろ、私生活らしさが見えて来て尚良いと、何時だったか俺と二人の時に話していた。
城ヶ崎の椎名ブームは何時まで続くのか、少し興味が無いこともないか。
「突然変異で色々変化が起きているし、地震のせいで水没しちゃってる所もあるから、リアルと一緒にはならないよ」
リズが苦笑して、手を振る。
「設定は良いとして、ゲームの進行中にも起きることあるのか、地震とか」
「勿論、あるよ。『シェルター』に影響は無いことが多いけど、ダンジョンの消滅と発生なんかもあるし、知性を持ったクリーチャーの襲撃とか……終末東京には終末東京の歴史があって、単にプレイヤーが入って来たのがつい最近っていうだけだから」
成る程。考えてみれば、地下都市を作ったのは俺達プレイヤーではないのだから、当たり前か。先住民族のようなものが、生きる為の手段を模索していた筈で――……
「リズ。そういえば、聞いてなかったけど……NPCっていうのは、つまりプレイヤー以外のキャラクターって事だよな?」
「そうだよ。終末東京の世界に生まれて、リアルには行けない人をNPC、ノンプレイヤーキャラクターって呼んでる」
リズにNPCの概念について聞くのは、初めてだったが。そうすると、地下都市『アルタ』に居た、コア・カンパニーの受付嬢等が、恐らくNPCに当たるのだろうと思われる。
現実世界では、早々見かけない髪色。染めた様子もなく、自然的な色合いだった。
「一番最初は、NPCがカンパニーのリーダーだったんだけどね。ベータテストの時代は」
「自我はあるのか?」
リズは頷いた。
「勿論、ずっと同じ場所に立って同じ事喋ってるような村人Aじゃないよ。生活があって、人生もある。まあ、言っちゃえば私もNPCみたいなもんだし」
「えっ!?」
リズの言葉に、椎名が驚愕の視線を向ける。椎名にはまだ、リズの事情について話していなかった。『ガーデンプレイス』とやらに到着したら、椎名とも事情を共有しておく必要があるだろう。
「取り敢えず、中に入ろうぜ。此処にいたら、いつクリーチャーと遭遇するかも分からない訳だし」
既に城ヶ崎の姿は見えない。急いで行っても、結局パーティーリーダーであるリズが申請をしなければ、中には入れないと思うのだが。城ヶ崎は終末東京の世界を冒険する事について、俺達の中で誰よりも楽しんでいるようだったから、仕方が無い事なのかもしれない。
現実世界の悪天候とは打って変わって、こちらは快晴だ。突然変異によって、梅雨という概念が無くなった世界だったとしたら。少なくとも、季節感は違うようだ。
半袖シャツ一枚でも汗ばむ気温の中、リズの白衣がとても暑そうに見える。それでも決して白衣を脱がないのはポリシーなのかどうなのか。
リズは、汗一つかいていないが。
「うん? 恭くん、どうしたの?」
「……ああ、いや」
椎名よりも白い肌は、それが俺達黄色人種とは根本的に違う肌色である事を示している。太陽の光を受けて反射する髪に、暫しの間見惚れてしまった。
僅かに揺らいだ思考を前方へと引き戻し、俺は改めて、前を見る。
「うおおおおおおーっ!!」
…………そして、つい五分程前に走って行った城ヶ崎を引き止めずに放置した事を、俺は今更ながらに後悔する事となっていた。




