第十二話 虐げられし者の決意
立ち上がった位置から、扉の先までの僅かな距離。急ぐ必要性も感じていなかった俺は、徐ろに歩き始める。
開きっ放しの扉。その部屋に入った二人の声は無く、思わず立ち止まったようだ。部屋の中で行われている出来事に、身動きが取れなくなっているのだろう。
「ここは危険だ!! 俺と一緒に逃げよう、今ならまだ間に合う!!」
集団心理。大多数の人間と同じならば自分も大丈夫だろう、と云う偽りの安堵感。自己で判断する事を放り投げ、他者に身を委ねてしまった人間の末路は、いつだって悲惨なものだ。
例えば、誰も赤信号を守らなければ、赤信号の横断歩道を渡る事に躊躇などしない。出来ない、ものだ。まさか自分の身だけに災いが降り掛かるなど、万に一つも無いだろう。そういった考え方をする。
勝率が七十パーセントだから、大方大丈夫だろう。そのように考える事で、十戦中三回の敗北には目を瞑る。確率というものが如何に不確定であるかを知らない人間は、いざ負けた時に絶望するものだ。自分は、何と運が悪いのかと。誰もが通過する中、自分だけがどうして負けたのかと。
「頼む、今だけ俺の言う事を信じてくれ!! 必ず、奪われた時計は取り戻すから――……」
椎名の場合もまた、同じことだ。
引き篭もり、社会から虐げられてきた人間。立場の弱い人間。…………だから、利用された。『まさか、椎名美々に逆襲される事は無いだろう』。『殆どの場合、無いだろう』。何故なら相手は、自分よりも圧倒的に権力が無く、常識に乏しく、能力の無い人間なのだから。
大方、七十パーセント程度は大丈夫だろう――……
「俺に任せていれば、大丈夫だから!!」
虫酸が走る。
俺も二人を追い掛けて、椎名の居る部屋に入った。今掛は彼女の手を握っており、奥にある非常用の扉へと向かおうと、その腕を懸命に引いていた。
随分と、必死な様子だ。そんなにも、椎名美々とデッドロック・デバイスを手に入れる事は重要な課題だったのか。その内容は、分からない。それを成し遂げる事によって今掛にどのような利益があろうとも、どうでも良い事だった。
興味が無い。
多数と同じであることに安堵し、権威を持ち、知ったような顔で残酷な事をする人間の真意など。
今掛が俺を発見し、僅かに焦りの色を深くする。小さく舌打ちをすると、どうにかして目的を達成しようと足掻いているようだった。
俺は真っ直ぐに、今掛の目を見据え。
「いつまで騙されているつもりなんだ?」
そう、言った。
何を言っているのか分からないと云った顔で、今掛が俺の表情を確認していた。
俺に取っては、今掛の態度を確認する事で、最早この包囲網を今掛が抜ける事は出来ないと、確信していた。その上に奥の手があったとすれば、俺は更にその上を行かなければならないが――……今掛はすっかり、パニックに陥っている。
今の今まで従順だった筈の椎名が、唐突に今掛に対して抵抗を始めたのだから、そうだろう。そして、焦燥感に我を忘れた今掛は、この先に一体何が待っているのか、それを推し量る事さえ出来なくなっている。
俺は黙って、城ヶ崎の隣に居る、茶色のローブを羽織った女性の隣に立った。
「悪いな、今掛。……俺はひとつ、お前に嘘を吐いた」
俺が何の確証も無く、場合によっては椎名美々が居るかもしれない檻を、戦闘の為に使うと思ったのだろうか。
恐らく、思ったのだろう。椎名の事を大切にしていない今掛が、そんな所に反応する筈もない。あの時、今掛が気にしていた事は、『キング・ラットが倒されるかもしれない』という心配だけだ。
信頼関係など――……
策に嵌めた事に、何の達成感もない。……寧ろ、そこに悲しみさえ覚える。
どのような理由があったのかは知らないが、少なくとも自分に対して好意を抱いている人間を、こんなにも簡単に裏切る事が出来るものなのだろうか。
感情は、表情には見せない。それは相手に考える隙を与え、逆転の発想を生む。
「……これでもう、言い逃れは出来ないな?」
唯それだけを、俺は今掛に告げ。
これが真実だと示すように、先程リズだと言った彼女の被っているフードを――――取った。
「なっ…………!?」
そこに居る女性――椎名美々――を確認して、今掛が驚愕する。
例え何も起こらなかった場合でも、恰もリタイアであるかのように装って、ダンジョンから一人、退出させる予定だった。……何れ訪れる脱走劇に裏から回り、今掛にチェックメイトを仕掛ける為に。
この終末東京の世界には、通常なら様々なオンラインゲームに存在する、転移系のアイテムと云う物が無かった。最寄りの街までワープする為のアイテムというものを見て来なかったし、ダンジョンに入る為には手前まで歩かなければならない、という事実も確認していた。
若しも転移が可能なら、地下都市から地下都市までの転移も可能になっていて良い。ところが、それさえない。地下都市『アルタ』から別の地下都市へと移る為の手段は無く、個々の地下都市は閉鎖空間になっていた。
その後、コア・カンパニーで確定的な情報を得る。そこで、俺に作戦が生まれた。
この世界では、『死亡』という特殊条件を除いて、当人の意思で自由なポイントに移動する手段が無かったのだ。
だからこそ、ダンジョンの最上階が引き渡し場所だと知った時、必ず何処かに非常用の通路があって、そこから逃げるのだろう、という確信を持つ事ができた。
リズは裏から回って通路を探させる為に、わざとリタイアしていたのだ。
例え非常用の扉に鍵が掛かっていたとしても、非常用の扉である以上は、内側から鍵が開くだろう。リズは非常階段を登り、今掛が俺と城ヶ崎に刺客を送っている最中に、知らず椎名と入れ替わる。
従って異常事態で無ければ、ダンジョン内から茶色のローブが現れた時に、椎名美々が檻の中に居ない事が確定する、という訳だ。異常事態なら、フードを外して登場すれば良い。
後は、リズが作業を行う時間を稼ぐ為に、今掛ことミスター・パペットにいちゃもんを付けるだけだ。
「……ごめんね。でも、お互い様だよ」
今掛が手を握っている少女が、フードを外した。
茶色のローブに隠しておいた拳銃を握り、エリザベス・サングスターが今掛に銃口を向けた。
沈黙があった。事の全てを把握した今掛は、静かにリズの腕を離し、両手を上げたままで俺達から距離を取る。非常扉の前に構えているリズから距離を取れば、必然的に今掛が行ける場所は限られて来る。
ようやく、気付いたのだろう。何故リズが、わざわざ茶色のローブを身に纏っていたのか。外敵から身を守る為の防具。ダンジョンを抜ける事を考えれば、そのように捉えられなくもない。ダンジョンに一度は入ったリズが離脱したのは、非常階段を探す為だったと気付く事が出来なければ。
「今掛。管理者には、『自分の操っているクリーチャーの視点から、物を見られる』という能力があるらしいな。……お前は、ダンジョン内の全ての出来事を監視・観察できた訳じゃない。やられたクリーチャーの視点から、俺達の現在値を把握していたに過ぎない」
ダンジョンに初めて入った時、ショートカットを行った。上空に居る最中にジャイアント・ラットが走って来たのは、たまたまそこに居合わせた訳では無かった。
ダンジョンに潜った俺達がどう攻略していくのか、それを追い掛ける為に偵察要員を配置した。……それが、非常事態に気付いて向かって来たのだろう。
今掛は椎名と、視線を交差させた。既に取り返しの付かない台詞を聞かれてしまった今掛は、椎名に何を弁解する事も出来ず、その場に佇んでいた。
遠くから、足音が聞こえる。……どうやら、騒ぎを聞き付けて来たらしい。俺は何時でも戦う事が出来るよう、ポケットに手を伸ばしたまま、様子を見ることにした。
「…………騙して、いたの?」
椎名は、今掛に問い掛けた。
今掛は、何も言わない。
「私は、騙されていたの?」
そう、聞くと。今掛は、何を考えているのか分からない様子で沈黙していたが。
「……くっ」
やがて、笑い出した。その様子を見て、椎名の瞳が揺れる。
何かに強制されていた、と告白する事。既に壊れてしまった関係を少しでも繋ぎ止めるような、頭の悪い謝罪の言葉を、椎名は望んでいたように見えた。
足音が近付いて来る。俺はリズに手を振って、非常扉から離れるように合図した。……良いの? 構わない。リズと目線だけで、無言のやり取りを行う。
リズが俺達の側に走って来る。椎名はスマートフォンを握り締めたまま、ふらふらと、今掛に向かって歩いて行くが。
やがて、力が抜けたのだろう。その場に、崩れるように座り込んだ。……今掛は錆び付いた笑顔のまま、椎名を見ていたが。
その、真意は見えない。
「なんかおせーなと思ったら……ピンチじゃん、時男くん」
遅れて、非常扉が開く。向こう側から、今掛と同じ位には背の高い、如何にも性質の悪そうな連中が入って来た。
「下で待ってろって言っただろ」
「だっておせーんだもんさ。助太刀に来たの、悪くないでしょ?」
三名。一人は金髪に染めた、肩程までに髪を伸ばした男。一人は筋肉質なモヒカンの男で、鼻ピアス。もう一人は化粧で素顔を隠した、不気味な男だった。
少なくとも、この作戦を実行する為には三人以上の人間が必要。……それも、事前に俺が言った事だった。
椎名を見付けると、男達は途端に目を輝かせる。
「おおっ!? ……時男くん、もしかして『デブ子』ってこいつ? すげー美人じゃん!! やった!!」
肩から痙攣して、椎名は無意識に反応した。俺達に背を向けたままの椎名は、どこか呆然と、男達を見ているように感じられた。
……予想を、裏切らない。
その予想は、信じられない程に最低な、目の前が真っ暗になるような『予想』だったが。特に、椎名に取っては。
「ねえ、邪魔してんのこいつらでしょ? 男はボコボコにして、女は時計を奪えば良いんでしょ?」
「……ああ、それで良い」
「ていうか、『労働者』? ……なーんで時男くんがこんな奴等に苦戦してんのかね。よく分かんないな」
そう言って、男達はステータスウィンドウを開き、装備を変更した。バトルスーツに着替え、それぞれの武器を持つ。
剣。ヌンチャク。杖。……皆、見るからに強そうな戦器ばかりだ。城ヶ崎のように、鉄パイプなど持ってはいない。
「ほら、危ないからデブ子ちゃん。ちょっとこっち来な」
椎名の腕を引っ張ろうと、金髪の男は手を伸ばした。
瞬間。
小さな音と共に、男の手は払われた。
「触らないで!!」
「――――あ?」
金髪の男は、椎名に睨みを効かせるが。椎名は、男の事など眼中にもない。ただ真っ直ぐに、今掛を見ていた。
「トキくん、答えてよ。私を、どこに連れて行くつもりだったの? ……こんなガラの悪い人達を連れて、どうするつもりだったの?」
瞬間、椎名は無理矢理に腕を引っ張られ、立ち上がらされた。その瞬間、椎名が大きく目を見開いて、後方に吹っ飛んだ。
蹴られたのだと気付いたのは、椎名が俺達の所まで飛び、地面を転がった後だった。……金髪の男は額に青筋を浮かべて、椎名を睨み付けていた。
「ヒステリー起こすんじゃねえよ、豚が。……可愛くねえなあ」
リズが転がった椎名へと駆け寄り、その身を起こす。意識を失ってはいないようで、未だ固く歯を食い縛っていた。
今掛は釈然としない態度で椎名を真っ直ぐに見据えると、金髪の男の肩を叩いて、感情を隠したような顔で、呟いた。
「……あんまり傷付けるなよ。引き渡しの時に値打ちが下がるだろ」
それは、あまりに残酷だったが。
間接的にではあったが、確かに椎名の質問に答えていた。
椎名が大きく、目を見開いて――――涙を零した。目の前で起こっている事が信じられず、腹を抱えたままで。
「あー、でももう、全部ぶっ壊しちゃっていいや。何とかしてデブ子は確保したかったけど、まあ『デッドロック・デバイス』は手に入ったし」
極めて面倒臭そうに、今掛は言った。その言葉を聞いて、俺の背後から、殺意にも似た感情の波が感じられた。
「マジで!? ……デブ子ちゃん、欲しいんだけど」
「じゃあそれはお前にやるよ」
静かに、俺はポケットから取り出した手袋を、右手に装備した。
直ぐに反応したのは、城ヶ崎。俺の背後から現れ、鉄パイプを握り締めて金髪の男に向かった。声も無い。それ程に、怒りを感じているようだった。
しかし跳び上がり、上空から振り下ろされたパイプは、容易く金髪の男が持っている剣に弾かれた。押し潰すつもりの攻撃だったのだろう。受け流された城ヶ崎は右腕を切り落とされ、恐ろしい程に威力の高い蹴りを喰らい、部屋の壁に突っ込んだ。
「城くん!!」
リズの声。バトルスーツの差がどれ程大きいのかという問題については、先の俺で証明された事だったが。城ヶ崎の気持ちも、よく分かる。
……城ヶ崎は、もう充分に戦った。今動いたとしても、キング・ラットを倒した時のようなスペックは発揮出来ないと知っていた。城ヶ崎は痛みに叫び声を上げる事もなく、その場に留まっていたが……まだ、目は死んでいないか。
俺は警備員から貰っていた『リザードテイル』をリズに向かって投げた。受け取ったリズは、慌てて城ヶ崎にそれを投与しに向かう。
さて。
それなら此処からは、俺の出番だろう。
真っ直ぐに連中へと近付いて行く。『相手が駆け出して、俺に攻撃を仕掛ける事が出来る程度の』半端な距離で立ち止まった。
「聞いても良いか? ……椎名が、何をした? 何かお前の気に障るような事があったのか?」
ポケットに手を入れたままで、俺は今掛に問い掛けた。既に体裁を取り繕っても意味が無いと判断したのか、今掛は静かに、残虐性を伴う笑みを浮かべた。
朱に交われば、赤くなると言う。……若しかしたら、今掛は周囲の連中に影響を受けてしまい、『赤信号を渡る大多数の内の一人』になってしまったのかもしれない。
椎名に都合の良いように考えれば、そのようにも捉える事は出来るが。
「別に。俺が俺の女をどうしようと、俺の勝手だろ? ……横から出て来るんじゃねえよ」
「時男くん、こいつは?」
「『自遊人』。一人じゃ何も出来ねえから、目も開かないくらいボッコボコにしてくれよ。後ろのデブと協力してた時はやられたが、それももう無理だ」
「えええ!? 時男くんダッサッ!!」
「うるせえ」
そこに展開される、軽いやり取りに。沸々と湧き上がる怒りは、穏便に物事を解決させようと云う選択肢を、俺から奪って行った。
「もう一度だけ、聞くぞ。……椎名はお前に、何かをしたのか?」
俺の言葉など、聞く耳も持たない。
力と権力と云う者は、古くから同列だった。周囲よりも強い者が先頭に立ち、弱い者を導く。そうした中に昔から、弱者を導かず、弱者から貪り取ろうと考える人間は存在していた。
「ねえ、自遊人くん? お前出しゃばっちゃったから、今からボコボコにされるけどいいよねえ……!!」
今一度、思う。
そういう輩には、虫酸が走る。
俺は『切り札』を装備した、右の拳を構えた。リオ・ファクターの能力値とやらを測定した後、リズに言われていた。
『弾性衝突を、起こす筈なの』
リズの生み出した、『自遊人』最後の武器。戦器を握る事が出来ない俺に与えられた、一発限りの攻撃方法。
それを俺は、『敗者の拳』と名付けた。戦力を持たない者、最も弱い者が、強者に抗う為のたった一つの方法。……何故か、そのように感じられたからだ。
『虚数のエネルギーを持ったタキオンは、自然界に存在する普通の物質……タージオンと接触した時、その運動エネルギーだけをタージオンに受け継ぐ性質を持つの。全くエネルギーを減少させずに、方向だけを変える――……これが『リオ・ファクター』にも認められるなら、無属性のリオ・ファクターは武器に成り得ると思って』
連中は俺へ、戦器を構える。対して戦器を持たない、丸腰の俺。まさかやられる等と、微塵も考えていないだろう。
だが、構わない。
この終末東京の世界で、俺が戦器を握る必要などない。
『恭くんから見て静止した物体には、『リオ・ファクター』は何も起こさない。恭くんから見て動いている者だけが、エネルギーをぶつける事によって弾性衝突を起こすはず』
『……つまり、どうなるんだ?』
事実、奴等の戦力は強大だ。そこそこ強くなった筈の城ヶ崎が、簡単にやられてしまう程度には。
一般職で無ければ、支配する事が可能だと思うだろう。ある程度レベルが上がっているのなら、敵は居ないとも思うかもしれない。
だが、戦器を握って打ち勝つのでは、意味が無いのだ。
『つまり、この現象が認められるなら――――相手が強ければ強い程、そのエネルギーをカウンターで返す事が可能になる筈なの』
武器を持った人間は、武器を持たない人間よりも強い。ならば、武器を持たない人間を好きなように出来るだろうか? 答えはノーだ。殺す事は出来ても、本当の意味での支配など出来やしない。
なら人数が居れば、遭遇する全ての有利な戦闘に、必ず勝つ事は可能だろうか? 勿論、そんな事は無い。例外と云うものは何時いかなる時でも発生し得る現象であり、だからこそ人は、その確率に備えるのだ。
驕る平家、久しからず。俺を『自遊人』だと判断し、まず間違いなく戦う事は出来ないだろう、と油断した。一度も見ていない相手を差別し、鼻で笑ったのだ。
弱者を奴隷のように扱う、その驕り。
「あまり、『弱者』を――――舐めるな」
全て、撃ち砕く。
奴等の攻撃に合わせて、俺は右の拳を構えた。真っ直ぐにそれを、振り抜く。
刹那の攻防。奴等から出現した炎、電気、水、様々な自然現象に合わせ、拳を振るう。
恐怖が無い訳ではなかった。自然現象を『殴る』など、勿論経験は無かった。行ったのは、このダンジョンに入る前の研究室で、リズが放ったホースの水を殴る事が出来るか、という試験だけ。
俺に向かって放たれた攻撃は右の拳に接触すると、まるで何事も無かったかのように向きを変える。
――――ならば、リズの発明は、確かに効力を持っていた。
「えっ――――――――」
三人分の攻撃は今掛を巻き込み、反対側へと跳ね返った。凝縮されて重なり合った恐ろしい程のエネルギーは爆発となり、ビルの壁を突き破り、男達をその向こう側へと吹き飛ばす。
轟音が響いた。俺よりも背後に居る人間は揃って耳を塞ぎ、同一の方向に跳ね返ったエネルギーを見る事も無く、目を閉じていた。砕けたビルの壁を見て、俺はその向こう側に吹き飛んだ男達が、気を失ったままで落下して行くのを確認した。
地面に激突すれば、ログアウトされるだろう。それまでの意識は無く、気が付けば家で目覚めるという事になるだろうか。
振り抜いた拳を、俺は戻した。……少しの時間が過ぎて、ビル壁の破片が地面に落下する音が聞こえた。非常階段は一部が破壊された。下へと降りることは出来るが、この状態で屋上に上がることは難しいだろう。
まあ、屋上に用事など無いのだが。
すっかり穴が空いた壁へと近付き、俺は下を見る。……僅かな、白い光が見える。
ログアウトされたのだろう。
未だ奮い立ったままの決意と、相反するかのように解けて行く緊張。それは、俺がこの作戦を完璧に遂行し切った事を意味していた。
…………弱者、か。
まるで今掛を『強者』であるかのように扱っていたが。彼の態度を見る限りでは、自分の事を強者だと思っている様子ではなかった。俺達を、弱者と扱っただけで。
ならば、椎名が願っていた『頭の悪い謝罪の言葉』も、場合によっては今掛の口から聞かせる事が出来たのかもしれない。
それが椎名の為になるかどうかと云う問題については、また違った観点から考える必要はあるが。
覗いた外界の景色。最上階から眺める終末東京の空は、騒ぎなど知らなかったかのように青かった。
「……ごめんなさい。……でも、ありがとう」
ふと見ると、無表情のままの椎名が、俺の隣に立った。下にもう誰も居ない事を確認して、力無く微笑んでいた。
「馬鹿だな、私。……ひとりで舞い上がって、ひとりで裏切られて。……ちょっと、反省した」
こんな時、どんな事を彼女に言えば良いのだろうか。……俺には、あまり経験が無い。人から離れて生活をして来たから、寧ろ今の状況が不思議な位だ。
「でも、どうすれば良かったんだろう」
誰にも、分からない。
面倒事というものは、ふと気が付いた時に巻き込まれているものだ。それ程に人と人との関係とはややこしく、面倒なもの。……だから、それを避けて一人で居るという選択もまた、ひとつの考え方だろう。
しかし、そんな事を椎名に言うべきなのだろうか。……こういう時は、そう。
「美々ちゃんは悪く無いんだから、仕方ねえよ」
城ヶ崎にでも、任せておくべきだろう。
椎名が振り返って、城ヶ崎を見た。『リザードテイル』を服用して復活していた城ヶ崎は、腕を組んだまま、真剣な表情で椎名を見ていた――……その顔に、椎名も幾らか身構えたようだった。
「こんな時に言っても、仕方ねえんだけどさ。……全部が全部、あいつらみたいな感じじゃねえからさ。そこは分かってくれたら、良いなと思うよ」
「…………ありがとう」
人懐っこく、人と仲良くなるのが上手い城ヶ崎は、凍り付いて固くなってしまった、人の心を溶かすのが得意だ。その見た目通りの包容力の高さには、俺には無い魅力があると思う。
「あと、俺との交際についても本気で考えてくれたら、良いなと思うよ」
「…………え?」
余計な事さえ、言わなければ。
素っ頓狂な声を出した椎名に城ヶ崎は大きく笑って、湿った空気を吹き飛ばした。……成る程、この場の雰囲気を変えるという意味では有効な言葉だったのかもしれないが、幾ら何でも状況が悪すぎる。
まあ、言われた椎名が言葉の意味を理解していないので、特に何も問題にはならなかったが。こんな時に、自慢のノリの軽さを披露しなくても良いだろう。
「そういえば、デッドロック・デバイスが落ちちまったな……流石に壊れたか? 下に行けば見付かるかな?」
そして俺は、城ヶ崎が作戦の概要しか理解していなかったのだと云う事を、この時初めて理解する事となった。
思えばダンジョン内で俺達と共に行動する時には、リズの保護が最優先だと話した筈だった。真っ直ぐに突っ込んで行った結果、リズが危険な目に遭ったことを考えると、この作戦も俺が思っているより、大変な綱渡りだったのかもしれない。
俺はすっかり呆れてしまい、城ヶ崎の肩を叩いた。
「…………あのな。デッドロック・デバイス、渡してないぞ」
「え? いや、だって投げてたじゃん」
「研究室でダミーを作っただろうが!! お前、何も話を聞いてなかったのかよ!!」
「えっ? ……えっ?」
リズが寄って来て、茶色のローブの内側から白い包み紙を取り出した。ダンジョンの二階に上がった時、リズがリタイアするタイミングで、『リザードテイル』をリズに渡した。中身は『リザードテイル』だけではなく、入り口では俺が持っていたデッドロック・デバイスを、二つ重ねてリズに引き渡したのだ。
流石に、理解出来ない。リズもそう思ったようで、呆れ顔で城ヶ崎に言った。
「城くん。……こっちが本物だから」
城ヶ崎は、リズがデッドロック・デバイスを持っていたのを見て、更に疑問を深めたようだった。……もう、放っておこう。
一度は手放したアイテム。俺はリズからそれを受け取り、椎名に渡した。
「どうするかは分からないけど、処分するなり何なり、自分で決めた方が良いだろ。また、誰に狙われるかも分からないし」
「うん。……ありがとう」
椎名はアイテムを受け取り、悲しそうに微笑んだ。……別にデッドロック・デバイスそのものが今掛と椎名を引き裂いた訳ではなく、元から関係は破綻していたのだろうが――……それでも、何とも言えない気持ちになるのだろう。それは、分からないでもない。
やがて、下から人の声が聞こえて来た。俺は腕を組んだまま、柱に凭れて外の様子を確認する。……そうか。時刻を確認すると、昼過ぎになっていた。今掛が言った『サービスイベント』という嘘を聞いて、何かの利益があるかもしれないと人が集まって来たのだろう。
恐らく、作戦が無事遂行された後に、人目を忍んで逃げ果せる為の手段。実際にこうして人が集まって来ている所を見ると、今掛の作戦も悪くは無かった事が分かる。
何にしても、これで問題解決だ。俺は目を閉じ、僅かな達成感と大きな安堵を、今更ながらにその身で感じていた――……
「あれ?」
――――瞬間。
椎名が呟いた疑問の一声で、宙に浮いた俺の思考は現実に引き戻った。デッドロック・デバイスを握り、その中身を確認している椎名が、何かの異変に気が付いた。
城ヶ崎もリズも、一体どうしたのかと椎名を見ていた。椎名はブレスレットの形状をしたデッドロック・デバイスを回転させながら眺めると、うーん、と唸って首を傾げた。
まさか。
――――いや。――――それは、――――有り得ない筈で。
「美々ちゃん、どうしたんだ?」
「なんか、変なんだよね。……確かこれ、リオ・ファクターを込めると光り出す筈なんだけど」
城ヶ崎の問い掛けに、椎名はそのように答え。
同時に俺は、地上で行われる祭のような騒ぎの中、建物の陰に隠れた男の姿に、目が留まっていた。
視線を感じたから、目で追い掛けた。湧き上がる不吉な予感に、俺は視線を泳がせた。
「光る?」
「そうなの。……ほら、ここに蒼い宝石が仕込んであるでしょ。これが、光るはずで……」
身体の芯から冷えて行くような感覚。狐か狸にでも化かされてたかのような、或いは幽霊でも見たかのような、恐怖にも似た感情が駆け巡った。
まさか? ……俺の気付かない瞬間に、何らかの異変が起こった?
「……そもそも、私達に手渡された時には偽物だったのかな」
リズがそう呟いたが、それは違う。だとするなら、デッドロック・デバイスを既に手に入れている筈の連中が、こんな騒ぎを起こす筈がない。
デッドロック・デバイスを手に入れてからは、常にアイテムは俺かリズの手元にあった。……それは、有り得ない。
「――――――――そんな、馬鹿な」
目を見開いて、思わず腹の底から、絞り出すように呟いた。
その時俺は、確かに見た。黒いローブに身を包んだ人物の姿が、建物の陰に隠れた。そしてその人影は、つい数分前まで俺の事を見ていたように感じられた。
そしてその手に、微かな蒼い光が、見えたような気がした。
俺は非常階段へと飛び降り、走り出した。




