安全坊やの立つ辻
児童公園のベンチに座っているのはどう見ても魔女だった。
もつれた灰色の長い髪、何の模様がプリントされていたのかわからなくなるくらい汚れたブラウス。もうすぐ夏だというのに、引きずるように長い毛糸のスカート。もちろんこれもひどく汚れて、もとが何色だかわからなくなっている。
顔は長い髪に隠れて見えなかったが、疣の付いた鉤鼻と白く濁った眼をした顔しか、僕には浮かべることができない。
今しがたまで容赦なく僕を小突き回していた矢島たちが、ベンチの傍らに置いてあった魔女の大きな紙袋を蹴り飛ばして、公園を出て行った。
つつじの繁みに倒れこんでいた僕は、矢島たちの嬌声が聞こえなくなってから立ち上がった。青いTシャツとジーンズには、土の汚れと腐った枯葉がこびりついていた。母さんにばれないように、それらを払い落とす。背中やお尻を必死でチェックしていたので、魔女がすぐそばに立っていることに気が付かなかった。ぷんと汗のすっぱい臭いがしたので、僕は初めて気が付いた。
魔女の背は、小学五年生の僕よりすこしだけ高かった。
すぐそばにいて僕を見下ろしているのに、やはり魔女の顔は見えなかった。顔を覆う灰色の髪の奥には、ただ黒い空間しかないように見えた。
僕は慌てて矢島にぶっ飛ばされたランドセルを茂みの中から拾い、そして、魔女と眼が合わないように、素早く横を通り抜けた。
その時、魔女が何かささやいた。でも、僕は無視して、公園の出口に向かった。
途中で紙袋が転がっていた。さっき矢島たちが蹴ったものだ。
すごく大きな紙袋で、四角い木の棒が三本突き出ている。ほかに何が入っているのか見えなかった。たいした厚みがないので、それだけなのかもしれない。何のための棒なのかわからないが、矢島が興味を示さなかったことに安堵した。あいつらがこういうものを持てば、何をしでかすかわからない。再び、僕に向かってくる可能性もあったわけだ。
紙袋を拾って、ベンチに立てかけた。別に親切心ではなかった。なんとなくだった。いつも母さんに整理整頓をうるさく言われているからかもしれない。目の前に散らかっているものがあると、つい片付けてしまう。そういう堅苦しい良い子ちゃんぶったところが、矢島の癇に障るのかもしれない。
ふと後ろを振り返る。魔女がこっちをじっと見ている。さっきよりも顔を上げているのに、やはり顔は見えない。なのに、にっこり笑っているような気がした。紙袋を拾ったことで、優しい子供だと思われたのかもしれない。いや、顔の部分はただ真っ黒にしか見えないのだから、笑っているというのはきっと僕の思い過ごしだ。
僕は早足でその場から逃げた。
「半年くらい前からかしら、あの辺の古いアパートに住んでいるのよ。身なりがああだから、うるさく言うお母さんたちもいるけど、あの人、本当は良い人なのよ」
夕食の手伝いをしながら、母さんに魔女のことを聞いてみた。ところどころ土の染みがまだ服に付いていたけれど、いじめられていることはばれなかった。少しの汚れくらい男の子には付き物だと思っているようで、運動が苦手で、あんまり外で遊ばない僕にも、それは当てはまっているらしい。
「あの人はね、安全坊やを描いて、危険な道路に立てかけてくれているのよ。勝手にしていることだから、たまにトラブルになったりしているけどね。でも、良いことをしているには違いないんだもの、悪い人じゃないのよ。はい、亘ちゃん、これテーブルに運んで」
サラダの入ったボウルを僕に手渡しながら、母さんは微笑んだ。そこに含まれている言葉は、こうだ。『だから、からかったり、いじわるしたりはだめよ』
母さんにかかればみんな良い人で、それ以外は気の毒な人なのだ。魔女が人の役に立つことをしていなければ、きっとかわいそうな人だと言うに違いない。
僕はこれ以上魔女の話はやめた。顔が闇のように黒いなんてことも言わない。母さんはきっと顔の汚れを揶揄しているのだと思って、僕をたしなめるに決まっているから。
テーブルに小皿を並べながら、小さなため息をついた。わがままいっぱいの矢島の顔が浮かぶ。ずる賢く光る眼、人を見下す視線。先生たち大人の見えないところで、僕をいたぶる。
母さんがいじめを知ったら、矢島のことを何と言うのだろう。きっとこうだ。そんな形でしか自分の気持ちを表現できない、気の毒な子供。だから、許してあげなさい。仲良くするのよ。
無理だ。シマウマが友好的に近づいても、ライオンはそれを食うだけだ。
母さんに解決の糸口を見出してもらうつもりはない。まして、仕事ばかりで、ここのところろくに話もしていない父さんにも、助けてもらうつもりもない。強い兄貴もいない。賢い姉さんもいない。頼る者のいない一人っ子は、ただ時を過ぎるのをひっそり待つ。いつまでも目をつけられないように。学年が上がってクラスが変わることをひたすら祈りながら。
リーダーの矢島とその子分、佐野、高山、小森の三人には、五年生で同じクラスになったときに目をつけられた。四年生のときは別の子が標的になっていた。その前の三年生も別の子、その前の二年生も別の子だった。
その子たちは今、矢島から離れられて、のびのびと学校生活を楽しんでいる。
そもそも僕を含め、いじめられていた子たちは、もともといじめられるような者たちではなかった。必要以上におどおどした弱虫だったり、クラスから浮いた変わり者だったりではない。矢島たちにいじめられる前までは、ごく普通にクラスメートたちと楽しく過ごしていた。
矢島の癇に障ったものがくじを引く。目をつけられたら、他の子たちは避ける。自分にとばっちりが来ないように。だけど、クラスが離れたらそれでおわり。矢島の対象は新クラスの誰かに変わる。要するに、単なるはけ口。誰でもいいのだ。
立派に言い訳が立つ理由があれば、いじめても良いというわけではない。でも、誰でもいいなんていうより、いじめられている立場から言えば、理由のあるほうが、納得がいく。いじめられっこにもプライドがある。誰でもいい、癇に障ったというだけでいじめの対象にするなんて、矢島は何様で、僕はいったい何なんだ?
だけど、反撃はしない。これまでの子達と同じように、黙って一年やり過ごす。なんだかんだいっても、本格的ないじめられっこになるなんて、やはりいやだ。
矢島に逆らったものはいないし、僕もそんなことをしたことはないが、もし奴を本気で怒らせたりしたら何をされるかわからない。
現在の、突き飛ばされたり、蹴られたり、持ち物を取り上げられて散々放り回されたあげくどこかに隠されたりなんていうのは序の口だと思う。時々、反対に突き飛ばしてやろうかと思うこともあるが、仲間のうちで体の小さい佐野ならともかく、矢島は無理だ。一瞬の隙を突いたらできるかもしれない。でも、すぐ体制を立て直すだろう。そして、自分に逆らったものとして本格的ないじめを開始する。矢島は自分にスイッチが入るのを待っているのだ。逆らうことはスイッチを押してしまうことになる。今まで誰もそれを押してはいない。だから、矢島がどこまで残虐なのか誰も知らない。けれど、僕にはわかる。いじめられていた他の子達もきっとわかっていたのだろう。
僕を殴るときの奴の眼、自分の子分が、僕を小突き回しているのを見る奴の眼、その眼の奥底に宿る危険な光は、いじめられている本人しか見ることができないから。
公園の魔女も、袋を蹴られても黙っていたから、無事に済んだのかもしれない。あれで悲鳴や抗議の叫び声を出していたら、今度は魔女自身が袋のように蹴られていたに違いない。魔女のように見えても所詮、老婆だ。四人に袋叩きにあったら命があるかどうかわからない。そして、それを見ていた僕は、一生、奴らに眼をつけられることになるだろう。
あと少し我慢すれば、夏休みが来る。二学期が始まれば、今度は冬休みが来るまで我慢すればいい。三学期になるとゴールは目前だ。
でも、もし六年になっても同じクラスだったら……。
そんな先のことは、今は考えないでおこう。
久しぶりに早く父さんが帰ってきて、夕食が始まった。
今夜のメニューは、クリームシチューと野菜サラダだ。サラダはともかく、クリームシチューは僕の大好物だが、ここ最近は何を食べても、おいしいと感じなくなってきていた。
放課後、僕はまた公園にいた。学校で矢島たちにランドセルを取られ、教科書や文房具がひとつずつ道端に捨てられているのを拾ってここまできた。
普通に道に置かれているのもあったが、犬の小便の掛かった電柱に立てかけられていたり、溝臭い排水溝に放り込まれていたり、鉛筆を筆箱から全部出して犬の糞に刺してあったりした。
公園のゴミ入れのかごには空っぽのランドセルが放り込まれてあった。
ここで誰かがお弁当を食べたらしく、タルタルソースや煮物の汁が付いた空の弁当箱がひっくり返して捨ててあり、僕のランドセルはその下になっていた。
弁当箱の蓋ぐらい閉めて捨てればいいのにと思ったけれど、矢島たちがわざわざ蓋を開けたのだろう。
僕は拾って持ってきた教科書やノートを地面に置いて、ランドセルをゴミ入れから取り出した。ソースや焼き魚の皮がべったりとくっついていた。
ズボンのポケットに入れていたハンカチやティッシュは、濡れた教科書や糞の付いた鉛筆を拭くのに使ってしまった。
教科書と一緒に地面に置いた溝臭いハンカチを、公園の水道で洗うため拾おうとしたとき、不意に涙が流れ落ちた。
教科書やノートはよれよれに波打って異臭を放ち、五本の黒鉛筆と二本の赤鉛筆は全部、削った部分が変色し、糞の臭いが染み付いていた。筆箱は道に置かれていただけで無事だったが、中身がこんなになっていては入れることはできない。消しゴムは新しいのを出したばかりだったので無くなっていた。誰かが自分のものにしたのか。三角定規もなかった。ブーメランみたいに飛ばして遊んだのかもしれない。
これ、どうしたらいいんだろう。母さんになんて言おうか。
なぜ僕がこんな目に合わなければいけないんだ。
思い切って母さんに相談しようか。先生にも話そうか。
でも、話して解決するんだろうか。かえってずっと目を付けられるんじゃないか。もっとひどい目に合うんじゃないか……。
いろんな思いがいっぺんに押し寄せてきた。
一度涙が出てくるともう止められなかった。出したくないのに、泣きじゃくる声が出てしまう。そばに誰もいないことが救いだった。
僕はうずくまったまま、顔を膝の間に隠して泣き続けていたので、誰かが背後に立ったことに気が付かなかった。
気が付いたときにはもう肩をつかまれていた。
後ろにいたのは、魔女だった。
「かわいそうに。かわいそうに」
口にコップをかぶせて喋っているような、くぐもった声がした。
実際は聞き取りにくく、何を言っているのかわからなかったけど、そう言っているように僕には聞こえた。
僕の目線の上に立っているのに、やっぱり魔女の顔は暗くて見えなかった。
慰めてくれているのはわかっているのに、僕は恐怖で体が強張ってしまい、涙も止まってしまった。
走って逃げようかと思ったが、地面に置いたままのランドセルや教科書を放っていくことはできず、とっさに体が動かなかった。
魔女はいつもの紙袋に僕の臭い教科書や文房具を入れ、汚いランドセルを気にもせず持ち上げた。そして、僕の右手を引っ張った。
立てないんじゃないかと思ったけど、僕の体はすっと立った。そのまま、魔女に引っ張られて付いていく。自分の意思じゃないみたいだった。
もう、逃げるという気は失せていた。ぐいぐいと引っ張られる力に、頼もしささえ感じる。
どこをどう歩いたのか、近くにも感じたし、遠くにも感じた。
母さんの話では公園の近くの古いアパートと言っていたが、公園から出てあっちこっちの路地をいくつも曲がった気がする。
最後に曲がった薄暗い路地に、テレビで見る昭和史に出てくるような古びた二階建てのアパートがあった。そこだけ時間の流れから切り離されている感じがした。
魔女は僕を引っ張って、一階右端の部屋の前に立った。木の枠に磨りガラスを嵌め込んだ引き戸を、がたがた音をさせながら開けた。微かにペンキのにおいがしてきた。
魔女は中に入ると、僕を引っ張り込み、引き戸を閉めた。
玄関の沓脱ぎには何もなかった。他の履物も靴箱さえも。傘立てもないし、もちろん花も飾っていない。空き部屋の玄関みたいだった。
僕はてっきり足の踏み場のないゴミ部屋に住んでいると思い込んでいた。魔女自身がゴミの塊のようだったからだ。
魔女は穴だらけの運動靴を脱いだ。まだ手を引っ張られていた僕はそれに倣い、上がり框へ上がった。
上がり框からすぐ右側に小さな台所があったが、ガスコンロも、鍋も、炊飯器も、食器も、食器棚も、冷蔵庫も何もない。
どうやって生活しているんだろう。っていうか、ここは本当に魔女の家なんだろうか。空き部屋に勝手に入り込んで寝泊まりしているんじゃないだろうか。まさかな。近所の目もあるのに。
僕は引っ張られながら、魔女の後ろ姿をしげしげと眺めていた。
上がり框からすぐガラス障子があって、その向こうは和室になっていた。そこにも何もない。天井に粗末な蛍光灯がぶら下がっているだけで、古びてささくれ立った畳が六枚敷かれてあるだけだ。
その奥は和柄の襖が閉まっていて、魔女はその前に立ち、襖を開けた。
薄闇の中から、むっとペンキのにおいが押し寄せた。嫌いなにおいじゃないけれど、あまり吸ってはいけない気がして、僕は空いている左手で鼻を押さえた。
魔女はその部屋に、僕を引っ張り込んだ。僕を気遣ってか、襖は開けたままにしてくれた。
その和室も畳が六枚分あった。出入りの出来る大きな窓が付いていたけれど、カーテンも掛かっていないのに薄暗かった。それは、裏に別のアパートが隣接しているからなんだろう。
ここには小さな文机がひとつだけあった。その上には毛羽立った筆が数本と、小さなペンキの缶が何色も置かれていた。それに、安全坊やの形をした薄い木の板が一枚。机の横の壁には何もかかれていない板が何枚も重ねて立てかけられている。周辺には四角い木の棒が数本、無造作に転がっていた。
僕はこの前見た、紙袋からはみ出ていた棒が安全坊やに付けるための棒だとわかった。
「座って」
くぐもった声がそういった。
相変わらず顔がぜんぜん見えなかったけど、僕はもう怖くなかった。ざらついた畳の上に座ると、紙袋を持ったまま、魔女はその部屋を出て行った。
開け放たれた襖の向こう側を覗くと、魔女が流し台の前に立っているのが見えたが、何をしているのかまでわからなかった。ただじっと立っているだけにしか見えなかった。
僕は視線を文机に向けた。
描きかけの安全坊やがそこにいた。平面で単純な線と色合いなのに、なぜかリアルに感じた。どこかにいそうな子供の顔という感じだ。
僕はそっと後ろを伺った。魔女はまだ流し台の前で、さっきと同じくじっと立ったままでいた。
視線を戻すと、僕は文机の引き出しを、音を立てないように開けた。中には錆びた釘の入った箱と錆びた金槌が入っていた。安全坊やに棒を取り付けるためのものだとわかって、そっと引き出しを閉めた。
もう一度振り向くと魔女が真後ろに立っていたので、僕は飛び上がった。
「ご、ごめんなさい」
思わず、謝ってしまった。勝手に引き出しを見た僕が悪いんだけど、こんな二人きりの家の中で魔女が怒ったらすごく怖いと思った。でも、魔女は何も言わなかった。
黙ったまま、手に持っているものを僕に差し出した。
教科書とノート、筆記用具が元のきれいな姿に戻って僕の目の前にあった。受け取った僕は裏返したり中を見たりして確かめた。信じられなかった。すべてに、僕の字で、『須川 亘』と、名前が書いてあった。中に書いたメモや落書き、アンダーラインがそのままだった。ということは、確かに僕のものなのだ。
なぜ、こんなにきれいにもとに戻ったんだろう。どうやったんだろう。
糞の臭いと色が染み付いた鉛筆も何もなかったようにきれいに戻っていた。
僕はお礼を言いたかったけど、涙が出そうで声が出なかった。魔女の顔を見つめるのが精一杯だった。でも、相変わらず、顔は見えなかった。
魔女は「わかってるよ」という風に、何度も頷いた。
魔女なんて呼んでごめんなさい。
僕は心の中で謝った。
ランドセルもきれいになっていた。この人は流し台の前に立っていたけれど、水を出した音も、拭いている気配もなかった。なのに、僕のランドセルは他のもの同様きれいになっていた。前よりもぴかぴかと輝いていた。
どうやって元に戻したのか不思議だった。やっぱりこの人は魔女なんだと思った。僕を助けてくれた、いい魔女だ。
ランドセルに荷物を詰めていると、魔女は文机の前に座って絵の続きを描き始めた。
まだ半分ほど白い部分が残っていたのに、安全坊やはすぐ完成した。
どうやって描いたのか、僕はじっと見ていたのに、思い出すことが出来なかった。
「この子、悪い子。野良猫の赤ちゃんを殺した」
魔女は出来上がった安全坊やを見つめた。くぐもった声に悲しみがこもっていた。
「安全坊やなのに?」
「これは、贖罪だよ」
意味不明だったけど、自分の作った安全坊やに人格を作り、ストーリー設定していることが面白かった。
「飛び出し注意とか、危険とか、書かないの?」
「そんなのいらない」
魔女は引き出しから釘と金槌を出し、安全坊やに棒を取り付けた。
たんっと、一発で釘を打ちこんだ音が、薄暗い部屋に響いた。
その日は母さんに何もばれることなく過ぎた。
魔女の直してくれた教科書とノートと鉛筆で宿題を済ませた。
消しゴムの補充は、余分に買ってあるから間に合った。三角定規は、今度自分のお小遣いで買おうと思った。だから、物を大切にしなさいという母さんにお金をねだる必要もなく、なぜ失くしたか説明する必要もなかった。
夜、僕はベッドに潜り込んだけど、明日学校で矢島がなんて言うか考えると、眠れなかった。自分たちの滅茶苦茶にしたものが何事もなかったように元に戻っているのを見たら、きっと僕を問いただすだろう。それとも、そんなことは矢島にとってはどうでも良いことかもしれない。何も聞かないで、もう一度、何度でも、僕の持ち物を滅茶苦茶にするだろう。それが、奴らの楽しみなのだから。
魔女はまた助けてくれるだろうか。
あの後、どうやって魔女の家から、うちに帰ってきたのか覚えてなかった。魔女と一緒にアパートを出て歩いたのは覚えている。なのに、道順の記憶がなかった。魔女の家を覚えておこうと思っていたのに。
魔女は出来たての安全坊やを紙袋に入れて持っていた。どこかに立てに行くのだろう。紐とか、針金とか、取り付けるための道具を持っていなかったので、どういう風に立てるのかはわからないけど、きっと、魔女だからまた魔法を使うんだと思った。
安全坊やをどこに立てるのか知りたかったけど、公園の前に来ると、魔女はもつれた長い髪の奥から「さよなら」と言った。僕も、お礼を言って頭を丁寧に下げたあと「さよなら」と言った。
魔女の手が僕の頭に伸びてきて、「良い子」と言いながら撫でてくれた。伸びて汚れた爪も、体から漂う臭いも、ぼろぼろで汚れた服も、もう、ぜんぜん気にならなかった。
僕は寝返りを打って、眼を閉じた。
あの安全坊やはどこに立っているのだろう。
散々迷った挙句、僕はついに学校をさぼってしまった。
ランドセルを背負ったまま、公園の周囲をうろついていた。始業時間はとっくに始まっている。お節介そうな顔をしたおばさんがこちらをじっと見ているので、僕は遅刻して慌てているように、その場から離れた。
あっちこっちの人気のない路地を入ってみたけど、魔女のアパートへ行くための路地は見つけられなかった。覚えていないのだから見つけられないのは当然だが、もしかして、見覚えのある路地を見つけられるかもという期待をしていた。
何度も、何度も、右に左に路地を曲がった。しかし、とうとう見つけられず、交通量の多い道に出てしまった。その道は学校とはまったく正反対にあって、知らない道ではなかったけれど、あまり通ったことがなかった。
その十字路で、路地ではなく別の見覚えあるものに出会った。きのう、魔女が描いた安全坊やだ。魔法でではなく、標識のポールに、普通に針金でくくり付けられていた。
この道は、駅が近いためか、歩行者や自転車やバイクに乗る人が多く混雑している。
自動車が対向できないくらい狭いので、車両の進入を禁止されているが、渋滞しやすい主要道路の抜け道として、勝手に自動車が侵入してくる。もちろん事故も多いから、学校はこの道を安全区域から外して、通ってはいけない道に指定している。
安全坊やはすでに何かにぶち当てられて、頭の左側部分と走る恰好で振り出した握り拳が引き千切れていた。千切られた箇所は板がぎざぎざになっていた。
せっかく魔女が作ったのに。
親切なことをしても、それを何も思わない人がいる。思わないだけじゃなく、さらに踏みにじっていく人がいる。
僕は悲しくなって、じっとささくれ立った安全坊やを見つめていた。
「僕、何してるの? 今まだ学校じゃないの?」
振り返ると、優しげな笑みを浮かべた、でも眼の奥が光っているおばさんが立っていた。僕は返事もせずにそこから走って逃げた。
追っかけてきたら怖かったので、後ろを振り向かず走り続けた。来たときのように、あっちこっちの路地を曲がった。
息が切れて立ち止まった僕は、煙っている薄暗い路地に入り込んでいた。魔女のアパートの近くに似ているけど違う。
その路地は真っ黒な板塀に囲まれた四辻だった。
板塀の角から子供がいっぱいこっちを覗いていた。他のそれぞれの角にも子供がいっぱい立って、辻から伸びるそれぞれの路地を覗いている。
子供たちはみんな安全坊やだった。どの安全坊やもどこか欠けていた。さっき見た安全坊やのように、板が引き千切れてささくれ立っていた。
安全坊やたちの顔は印刷された一定のものではなかった。手書きで微妙に違ったものというのでもなかった。
この安全坊やたちはそれぞれ特徴を持った顔をしているのだ。人間のように。
頭や顔や手足、上下左右の半身を失っている安全坊やたちが、いっせいに僕を見た。
その中に、さっき見た頭の左側と腕が千切れた安全坊やもいた――
気が付くと、もう夕方で、僕は自分の家の前に立っていた。あの路地からどこをどう来たのかまったく覚えがなかった。あの辻を見たのも本当なのかどうか、眠っていて今起きたみたいに頭がぼんやりしていた。
玄関を開けると、奥から母さんが飛び出してきた。僕の顔を見ると一瞬ほっとしたような表情を浮かべたが、すぐ、すごい剣幕で怒り出した。
「学校休んでどこ行ってたのよっ。先生から電話あって、散々探したのよ」
眼が赤い母さんの顔を見ると、無断で休んだことを後悔した。
「ごめんなさい。急におなかが痛くなって、公園で休んでたんだ」
心配かけている上に、嘘までついて、僕は眼を伏せてしまった。
「どうしてすぐ帰ってこなかったの? もう大丈夫なの?」
僕は俯いたまま、頷いた。
母さんはため息をついた。
「無事帰ってきてよかったわ。先生に電話しなくちゃ。ねえ、亘、いじめられているんじゃないよね」
本当のことを言おうか、一瞬だけ考えて僕は顔を上げた。
「うん。いじめなんかないよ」
不安そうな母さんの顔が僕を覗き込んでいた。涙が出そうになったけど、我慢した。どうせ、言っても解決なんかしない。矢島たちと少しだけ話し合いをして、上っ面だけの謝罪を聞いて、それで終わり。そして母さんはこういうんだ。「許してあげるのよ」でも、いじめは終わらない。むしろ、もっとひどいのが始まってしまうんだ。
「だったらいいのよ。さ、早く上がんなさい」
母さんは僕の肩からランドセルを外して、疲れた足取りで、先に廊下を歩いていく。「あれだけ公園も探したのに……」と、首をかしげながら呟いているのが聞こえた。
夕食の時間まで、僕はベッドで休んでいた。また、おなかが痛くなってはいけないからと母さんに言われて。
公園を探したという母さんの言葉で、嘘がばれているのかと思っていたけど、どうやら母さんは信じているみたいだった。
連絡をしていたらしく、早めに帰ってきた父さんは、部屋から出てきた僕を見ても「大丈夫か」といっただけで、あとは何も言わなかった。
おかずは野菜中心だった。ジャガイモの煮転がしに、ほうれん草のおひたし、お豆腐と玉ねぎの味噌汁。そして白身の焼き魚。
魚があまり好きでない僕は、普通だったら母さんに文句を言ってしまうところだけど、嘘をついたんだから仕方ない。僕の体のためを思って、体に優しい料理を作ってくれたんだから。
「ねえ、亘ちゃん、大前君って知ってる? 今、中学一年なんだけど、同じ小学校だったらしいの」
「たぶん、知らない。うちが近所だったら顔は知ってるかもしれないけど」
もそもそとおひたしを食べながら、一応、思い出そうとしたが顔が浮かんでこなかった。
「その子が何なんだ」
おひたしを口の中でもごもごさせながら、父さんが聞いた。父さんもあまり野菜が好きじゃないらしい。子供の手前、はっきりとは言わないけど。
「きょうね、亡くなったんだって。自動車事故で」
父さんと僕は顔を上げて母さんを見た。
「きょうは、亘ちゃんの件でスーパーへ行くのが遅くなっちゃったでしょ。それで、仕事帰りのカズ君のお母さんにたまたま会ったのよ」
カズ君とは僕より一つ年下の近所の男の子だ。
「カズ君のお母さんね、営業であっちこっち回ってるんだけど……」家族以外誰も聞いていないのに、母さんの声がひそひそ声になった。「見ちゃったんだって、大前君が自動車に撥ねられて倒れているところ。すごかったらしいわよ。頭の左側と手がタイヤの下敷きになってぐちゃぐちゃだったって」
「飯食ってるときによせよ、そんな話」
父さんが母さんを睨んだ。
「ごめんなさい。でも、それ聞いたとき、怖かったわ。もしかして、亘ちゃんがそんなことになっていたらと思ったら。きょう、散々心配させられたから、他人事じゃなかったわよ」
湯飲みにお茶を注ぎながら、母さんは僕をちらっと見た。
父さんも僕を見た。何か言いたげだったけど、何も言わなかった。でも、僕はそれどころじゃなかった。母さんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
頭の左側と手がぐちゃぐちゃ。
きょう見た安全坊やも頭の左側と手が引き千切れて壊れていた。
まさかね。と思いつつ、大前という二つ年上の生徒をもう一度思い出そうとしたが、思い出したのは魔女が描いた安全坊やの顔。単純なのに、リアル。どこかにいそうな子供の顔。坊やに付けられた妙なストーリー。
そのとき、なぜリアルに感じたのか気がついた。安全坊やの右目の下に黒子が付いていたからだ。そして、その黒子で、大前の顔を思い出した。彼が動物をいじめているという噂があったことも思い出した。
魔女が言った、子猫を殺した贖罪。そのときは贖罪の意味がよく飲みこめなかったけど、今はわかる。そして、そんなことが出来ると信じられる。だって、あの人は魔女だから。
あの四辻が目に浮かぶ。
一人ひとりの子供の顔を持った安全坊やたちが、千切れた顔や体を、辻の角から覗かせながら、僕を見ている。
「おい、須川、何で、きのう休んだ?」
席に着いてからランドセルをフックに掛けていた僕に、矢島がのしかかって来た。
「休んで何したんだよ」
「何もしてないよ」
佐野がしゃがんで顔を近づける。
「おれたちがいじめてるって、ママに泣きついただろ」
「言ってないよ」
小森がランドセルを外して、中身を机にぶちまけた。
「もう、新しいの、買ってもらったのかよ」
矢島が算数の教科書を手に取り、ぱらぱらとめくった。佐野と小森もそれに倣う。高山は筆箱を開けて新しい消しゴムを取りかけ、手を止めた。
四人は顔を見合わせた後、僕の顔を見た。
「どうなってんの? これ」
小森が眉をしかめた。
「魔法でも使ったか?」
矢島がからかうように笑って、僕の肩をぎゅっとつかんだ。「とにかく、お前が告げ口したせいで、おれら先生に呼び出されたんだ。うるさいこと言われて、迷惑したんだ。この責任取ってもらうからな」
教室の戸が開いて、担任の沖村が入ってきた。
矢島たちはすばやく席に戻った。
先生はしばらく僕の顔を見ていたけど、僕が何事もなかったような顔を作ったので、何も言わなかった。
母さんは何も知らなかったみたいだから、先生はいじめのことを言っていないのだろう。矢島たちに注意して、それでことが収まれば問題にならなくて済む。
それにしても、僕は先生に何も言っていないから、きのうの無断欠席で誰かが先生に忠告したのかもしれない。余計なお世話だ。奴らが先生に注意されたことが、僕のせいになってしまった。
そっと首を動かして、後ろのほうに座る矢島の顔を見た。
矢島の目だけが動いてこっちを見る。感情のない暗くて冷たい瞳だった。まだ、怒りが浮かんでいたほうがましな気がした。
汗と埃と黴臭いにおいが僕の体を包んでいた。
放課後、人気のない体育倉庫に呼び出された僕は、ボールをパスするように、矢島たちに散々突き飛ばされ、転がされて、茶色の染みだらけのマットに挟み込まれた。
さすがの僕も抵抗したけど、サンドイッチにされて、次から次へと重いマットを重ねられると、もう身動きが取れなかった。その上に四人が順番に飛び乗ってくる。
顔だけでも出せたら、少しは楽だったかもしれなかったけど、全身挟まれてしまって、息が出来なかった。ところかまわず飛び乗ってくるので、胸の上やお腹の上に衝撃が来たとき、僕はもう死ぬんだと思った。だってもう、本当に息が出来ない。頭が痛い。胸が苦しい。押さえつけられている鼻の代わりに口をぱくぱくしても、マットが塞ぐ。
これでいいんだ。死んだほうがましだ。
六年になるまでの辛抱だと、我慢に我慢を重ねる自分。先生に気付いて欲しいけど、気付いてもらいたくないとも思う自分。母さんにばれないように、服の汚れや持ち物のチェックを毎日、毎日繰り返す自分。もう疲れた。だから死んでもいい。
意識が遠のいていくのがわかった。
突然、矢島の叫び声が聞こえ、僕の意識が戻った。佐野や小森の声も聞こえる。
矢島は痛い、痛いと叫びながら、転がり回っているようだった。あっちこっちにぶつかる音や何かが倒れる音がしている。
僕は重くて持ち上がらないマットを、それでも少し持ち上げた。隙間が出来て、わずかだけど呼吸が出来た。
「せ、先生を呼んでくる」と言う佐野の声がして、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。高山と小森が、矢島の名を呼びながらおろおろしているのが、見えなくてもわかった。
体中が痛くて、大きな息が出来ない。それに、腕が痺れてきて、力が入らなくなってきた。マットがまた鼻と口を塞ぐ。
「お前ら、何してるんだ」
沖村先生の声が、再び遠のいていく意識の中で聞こえた。
「矢島、おい、矢島、どうした。佐野、他の先生呼んで来い。それから救急車」
あわてて走っていく足音がした。
「お前らこんなとこで何して……」
先生の息が止まる音がした。
「お前らあ」
先生の搾り出すような叫び声がした後、僕の上にのしかかる重みが少しずつ軽くなってきた。
「須川、須川、すがわっ」
先生の大きな声が僕の意識を揺さぶるが、もう僕は息をしていなかった。白い霧の中に浮かぶ先生の泣き顔が見えた。
たくさんの足音も聞こえる。人工呼吸だの、AEDだの怒鳴り声に、女の先生の悲鳴も混じっている。
霧がだんだん濃くなり、白一色になった。
僕は濃い霧の中を手探りで歩いていた。ふわふわと体が宙に浮いているようなのに、ひどくだるかった。どこまで行っても、白くて濃い霧の中――
僕は死んだのだろうか。死の世界は闇の中ではなくて、真っ白なのだろうか。
しばらく行くと、微かな人の騒ぐ声がしてきた。嫌な声だった。自分を小突き回す矢島たちの声に似ていた。
声が少しずつ大きくなると同時に、霧が薄くなってきた。その向こうに見えたのは、見覚えのない体育倉庫だった。数人の人影が見える。
その人影は僕と同じ年くらいの男子で、嬌声を上げながら、狂ったように何かを蹴っていた。四人いたので、矢島たちだと思ったが、顔はまったく知らない子たちだった。
蹴っているのは丸められたマットだった。そのマットの中心に一人の男子がいた。
その子の顔も見たことなかったが、僕の胸が痛くなった。
僕と同じいじめを受けているんだ。
四人は容赦なく、マットを蹴りまくり、代わる代わる跳び箱からその上に飛び降り、玉転がしをするように倉庫の中を転がしていた。
マットの中の男子は、僕と違って頭は外にでていた。髪は綿埃まみれで、顔はまっ白だった。半開きの目は白目になっていて、口からはよだれが糸を引いていた。どう見ても生きているように見えない。それでも、四人の男子は楽しそうにマットで遊んでいる。時々、マットから出ている顔を覗き込んでいるから、異常に気が付いていないわけではなかった。みんなで笑いながら、頭を汚い上履きで突きまわして、またマットで遊ぶ。
僕はやめろと叫んだが、声が出なかった。止めに入りたかったけど、そこに僕の体は存在していなかった。
僕は何度もやめろと叫んだ。聞こえないのはわかっていたが、泣きながら、叫び続けた。
霧が徐々に濃くなって、視界が狭まる。男子たちの嬌声が遠のいていく。
僕は再び、霧の中を歩き始めた。今度は悲痛な泣き声が聞こえ始めた。
霧が薄くなり、どこかの家の中が見えた。夜なのか、カーテンを閉めているのか、電気の点いていない和室は暗かった。ただ、小さな祭壇に灯るろうそくの火だけが揺らめいている。
祭壇には黒いリボンがかけられた写真と新しい位牌、果物や饅頭の供え物がしてあった。線香の煙がゆっくりと棚引いていた。
女の人がその前でうずくまって泣いている。「郁生。郁生」と、名前を叫びながら悲鳴のような泣き声を上げたり、低いうなり声のような泣き声を発したりしていた。女の人の両手は畳をかきむしっていた。爪の間から血が滲んでいる。
写真の顔はマットにくるまれていた男子だった。女の人はこの子のお母さんだろう。見たことのない人だったが、どこかで会ってるような気もした。
不意に泣き声が止んだかと思うと、女の人は顔を上げた。
怖い顔をしていた。目が吊り上がり、眉間には深い皺が何本も刻まれている。きつく結ばれた口からはぎりぎりと歯が音を立てていた。宙を睨む赤い眼はぬらぬらと光っていた。やっぱり顔には見覚えはなかったが、女の人の後ろに魔女が立っていた。魔女の体がスライドして、女の人と重なった。
魔女の顔に重なる女の人の眼が、見えないはずの僕を見た。
あっと思った瞬間に、僕はまた濃い霧の中に立っていた。少し進むと、また霧が薄くなってくる。
今度は真っ黒い板塀に囲まれた、あの四辻だった。
どこかが欠けたたくさんの安全坊やたちのいる辻の真ん中に、魔女は立っていた。手に棒のついていない安全坊やを持っている。
その安全坊やの全身は、ピンボールの台のように釘がいっぱい打たれていた。顔にも釘が打たれている。その顔は矢島の顔だった。
これは贖罪だよと言った魔女の声を思い出した。
うつむいた魔女は「郁生」と呟いた。
そのとき、辻に風が吹き、魔女の顔を覆う灰色のもつれ髪がめくれ、顔がはっきりと見えた。
魔女の顔は母さんの顔だった。泣きながら「亘、亘」と呼んでいる。
「母さん」
僕は魔女のほうに手を伸ばしながら叫んだ。
「亘、亘ちゃん」
目を開けると母さんが僕を覗き込んでいた。頬には、幾筋も涙が流れていた。
ぴっぴっという機械の音と、消毒薬のにおいでここが病院だということがわかった。体中が痛くて動かない。眼だけ動かすと、父さんにもたれて泣いている母さんが見えた。「よかった。よかった」と、母さんの背中を撫でている父さんの顔にも涙が流れていた。
僕は生きているんだ。魔女が助けてくれたんだ。
釘の刺さった安全坊やを持った魔女を思い出しながら、僕はまた眠った。
「何でいじめのことを言わなかったの。もうずいぶん前からだそうじゃない」
りんごの皮を剥きながら、母さんは僕を見た。
あれから一週間が経って、僕は少しずつ起きられるようになった。肋骨にひびが入っていたので、退院するまでもう少しかかるそうだ。打撲傷の全身の痛みはだいぶ取れたし、内臓は破裂していなかったので命に関わることはなかった。でも、発見されたとき、呼吸が止まっていたのでいろいろと大変だったみたいだ。脳に異常はなかったらしいけど、まだまだ検査があるらしい。
「四年まであんまり服を汚さない亘が、五年になってからよく服を汚してくるんで、おかしいなとは思っていたのよ。でもね、活発に遊んでいるんだと思って。まさか、いじめられていたなんて……」
母さんは果物ナイフを持った手の甲で涙を拭いた。
「危ないよ、母さん」
そばで新聞を見ていた父さんと僕は、同時に母さんに注意した。
「本当になんで言わなかったのよ。先生に言えなくても、お母さんには言って欲しかった。どんなことをしても助けるのに」
「もう、やめないか。亘を責めても仕方ないだろう。こいつだっていろいろ悩んでのことだ」
「責めてないわよ。亘は何も悪くないんだもの。悪いのは気付かなかったわたしよ。それが情けなくて……」
母さんはまた涙を流したが、突然、きっと宙を睨んで「もっと悪いのはあいつらよ。許さない。絶対許さない。一人は死んだけど、後の三人は絶対許さないから」と、ナイフを振った。
「危ないって」
父さんが新聞を置いて、母さんからナイフを奪った。そして、母さんが落ち着いてから手の中のりんごも取り、自分で剥きだした。
「矢島君、亡くなったんだよ」
父さんは剥いたりんごを皿の上で半分に切った。さくっという小さな音が聞こえた。もう話してもいい頃合いだと思ったのだろう。僕の眼を見てから静かに話し出した。
「亘に暴力を振るっている最中、突然、苦しみだしたそうだ。全身に小さな穴が開いて血が流れ出したらしい。救急車で病院に運び込まれたときには、もうだめだったそうだ」
母さんが薄笑い浮かべた。今まで見たことのない顔だった。
「ばちが当たったのよ」
父さんはちらっと母さんを見てから話を続けた。りんごを四等分に切って、種の部分を三角に切り取っている。
「全身に開いた穴とかそこからの出血よりも、痛みの激しさでショック死したらしい。新種のウィルス性の病気を疑って、一時は大騒ぎになりかけたけど、そうじゃなかったみたいだな。原因は今でもわからないらしいよ」
僕はりんごを貰って、父さんの話に頷きながら、自分だけが知っている矢島の死んだ原因を思い出していた。もちろん、誰にも話すつもりはない。
「沖村先生がお前を見つけてくれたんだよ。マットの間から髪の毛が見えてたらしい。矢島君に気を取られて、発見が遅かったら、お前は死んでた」
父さんはりんごの皮をゴミ箱に捨てるため、下を向いた。涙が浮かんでいるのを見られたくなかったのかもしれない。
「何が、『見つけてくれた』よ。いじめがあったこと知ってたのに、隠そうとしてたじゃない。きちんと対応してくれていたら、こんなことにはならなかったのよ」
母さんはりんごをざくっと噛んだ。細かい汁が飛んだ。
「先生は矢島君たちに注意してくれただろ。大事にならないようにしようと、先生も考えていたんだよ。結果がこうなっただけで。亘は助かったんだ。体に障害も残らないし。もう、いい加減、怒るのは止めなさい」
父さんが母さんを諫めても、母さんの険しい顔は直らなかった。
「いいえ、止めません。先生も、後の三人も、死んだあの子だって許すつもりはないわ。絶対許すもんですか」
父さんは諦めたようなため息をついて、僕の顔を見た。怖い人間に変化した母に対する子供の様子を窺っているようだった。こんな母さんは初めてだったので、父さんはきっと戸惑っているのだろう。いつも穏やかで、寛容な人。僕もそう思っていた。だから、いじめのことを母さんに打ち明けられなかった。でも、今の僕にはわかる。もし、僕に何かあったら、母さんはきっと、郁生という子の母親のように、あの魔女のようになるだろう。
「ありがとう、母さん。でも、もういいよ。済んだことだから。もしまた何かあったら、今度はちゃんと母さんに相談するから」
母さんの眉間の皴が緩んだ。目から涙がこぼれる。
そんな母さんを見て、父さんは僕の頭を優しく撫でた。
しばらくして、僕は退院し、学校にも戻った。
最初、クラスメートたちは、僕の回復を喜んでくれたけど、腫れ物に触るような感じは拭えなかった。でも、やがて、何事もなかったみたいに普通の学校生活に戻れた。
沖村先生も、僕が転校もせず学校に戻ったことを喜んでくれた。事件のとき、母親の剣幕がどれほどのものだったのか、僕を見る先生の眼にはすこし怯えの色が見えていた。でも、あれから母さんは元に戻り、何らかの行動を起こすことはなかった。
機会があって、先生に発見してもらったことへのお礼を言うと、涙ぐみながら僕の肩を軽く二回叩いた。
それからの沖村先生は口だけじゃなく、いじめを無くすために全力でぶつかる先生になっていった。
佐野、小森、高山のことは、母さんは決して許していなかった。時々、僕が席を外したとき、父さんに文句を言っているのを聞いたことがある。その度に父さんは、母さんを慰め、諫めている。父さんも母さんの気持ちはわかっている。でも、いつまでも怒りを引きずった醜い姿を僕に見せたくはないんだろう。
しかし、母さんが何もせずとも、三人は町から去っていった。
僕へのいじめが発覚して、今までいじめを受けた者がすべてを先生や親に話し出したのだ。それらは僕同様、凄まじいものだった。よく今まで死人が出なかったとみんな眉をひそめた。学校中が奴らを白い眼で見、家族も近所から冷たい視線を浴びた。首謀者は矢島だったが、奴はもういないので、非難は三人に集中した。奴らは家族も含め、学校だけでなく町にも居づらくなったというわけだ。
矢島も原因不明の突然死をしたのに、非難されこそすれ、哀れみをかけられることはなかった。残された家族はやっぱりこの町に居づらくなって、どこかに引っ越してしまった。
三人がどこに引っ越したのか、どこの学校に転校したのか、僕はぜんぜん知らない。だけど、生徒たちの間で流れている噂がある。佐野は引っ越した町の大通りで交通事故死。高山も引っ越し先で、バックしてきた車に撥ねられて脳死状態。小森も両親の故郷で暴走してきた車に撥ねられて片手片足の切断。
小耳に挟んだだけで、確かな情報かどうかはわからない。あくまで噂だ。けど、元気でいるという話も聞かない。結局、奴らのその後はどうなったのかわからない。
あれから魔女もいなくなってしまった。僕はどうしても助けてもらったお礼を言いたくて、毎日、放課後に公園に行った。でも、魔女はいなかった。探せないとわかってはいるけど、魔女のアパートを探して、路地のあちこちをうろついてもみた。やっぱり、見つからなかった。あの四辻にも、もう行けなかった。
佐野たちの噂を聞いたとき、もしかしてと思い、奴らに似た安全坊やを探したけど、この町のどこの道にもなかった。
安全坊やの効き目は奴らのいる町でないとだめなのか、だから魔女はあとを追って行ったのかと、僕は考えた。でも、あれは単なる噂だ。
そう、噂。あの三人は引っ越した先で、きっと生きている。魔女はあえて彼らを見逃したんだ。人から精神的な制裁を与えられたことで、もう贖罪は済んだとでもいうように。
魔女がいなくなったのは、救えなかった息子の代わりに僕を救い、背負っていた悲しみや憎しみが消えたからなんだ。魔女が魔女でなくなってしまったのか、体ごと消えてしまったのか、それはわからないけれど。
それから僕は魔女に出会うことはなかった。
僕は六年生になった。
魔女はいないとわかっていても、時々、公園を見に行く。最初に彼女を見たベンチは、ペンキが剥げてさびしげに見えた。
「ちゃんと使いやすい参考書選ぶのよ。漫画なんか見に行っちゃだめよ」
母さんはそう言うと、週刊誌の棚のほうに行ってしまった。
しばらく母さんはこっちに来ない。僕は参考書を後でささっと選ぶことにして、そこら辺をぶらついた。
デパートに来たついでに、参考書を買おうということになった。勉強についてうるさく言う親ではなかったけれど、このところ算数の点がすこし悪くなってきているのを心配していた。僕は精一杯やっているつもりだから、なるようにしかならないと思っている。
漫画本はサンプル以外、ビニールで包装されていて、立ち読みできないようになっていた。好きな漫画は友達に借りて読んでいるので、別に残念とは思わなかった。
参考書のコーナーに戻るのもつまらないし、ぶらつきながら目に留まった面白そうな本を手に取り、ぱらぱらとめくっていた。
ホラー本のコーナーで、都市伝説関連の新刊が、数種類平積みされていた。
不気味な写真で構成された表紙の一冊を手に取り、拾い読みする。
どこか地方のトンネルでは死者の声が聞こえ、引き返さずにトンネルの出口まで行くと、断崖絶壁に引きずり込まれるとか、謎の銀行員のバイクの箱を開けると、子供が一人分みっちり詰まっているとか。そのなかで、安全坊やが車に当たって壊れると、その坊やの顔に似た人間が交通事故で死ぬというページがあった。
思わず声が出そうになった。
魔女はどこかにいるんだ。そして、今でも悪い子の安全坊やを描いて、わざと危険な辻に立てている。
鼻の奥がじわっと熱くなった。泣けてきそうなのに、笑えてくる。
「もう、いないと思ったら、こんなとこに。こんな本見てる場合じゃないでしょ」
母さんが来て、僕の手のなかの本を取り上げ、棚に戻した。そして、僕の手を引っ張り、参考書のコーナーに戻った。母さんの目は参考書に向けられていて、泣き笑いの顔は見られずに済んだ。
僕は参考書を探している振りをして、別のことを思っていた。
魔女が消えてしまったのではなく、どこかにいるのなら、また出会うことがあるかもしれない。この町にも戻ってくるかもしれない。
そのとき、助けてもらったお礼を言おう。そして、いろんな話をしよう。
郁生という子の分まで――




