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(七)


 啓示のような春が過ぎ、統磨は明らかに変化した。

 対外的には、街の東南に構えた重厚な屋敷には寄り付かなくなっていた。彼の新しい住居は『マジェラ』の上部にあるオーナー専用室と、連なった数部屋だった。

 内部では複雑な思いが幾重にも積もり、それを押さえ付けているのは、かけがえのないこの世で無二の存在だった。その為だけに、自分は在ると、信じようとしていた。

 夏が過ぎ、秋が訪れ、事態に好転の兆しはみえなかった。

 ここまで秋津の現当主である老人に、統磨に口出しする気配は微塵もなかった。それが逆に不気味だったが、あえて彼はその得体の知れなさを思考から追い払っていた。

「……関山荘が焼失?」

 統磨は遅すぎる朝食を取り終え、コーヒーに伸ばした手を止めた。

 潮田は彼の傍らに控えている。同年齢であるが、統磨の一歩先を読むような切れ者である。幼少から彼の側に使える、統磨が最も信頼を置く『家臣』だった。

「近所の者の中には、放火ではないかという噂もあります」

「目撃者が居るのか?」

「はい。火事の直前に、見掛けない若い男が203号室から逃げるように出ていったそうです」

「育の部屋……? ! ……まさか」

 統磨のうろたえる声に、潮田は冷静に返した。

「勝手ながら、目撃者にはすでに手を打ちました。多少痛めつけて、金を握らせました。口封じついでに、ただの火事だと吹聴するようにも」

 統磨の側近である潮田が、隠蔽しなければならない人間である。統磨には、すぐに察しが付いた。誰であるのかわかりすぎて、彼は狼狽していた。

「なぜだ!? なぜあいつが育のことを知っている!?」

 手が白いナプキンを投げ捨てた。

「統磨様。狙われたのは、加納育だけではありません。騎道若伴も、何者かに襲われたらしく。失敗してはいますが」

「ばかな……!」

「あの時、もっとあなた様をお引止めしてればと、今更ながら、私の短慮が悔やまれます」

 潮田の悔いは、光輝殺害の直前のことを指している。統磨は光輝を呼び出しに、関山荘へ一人で向かおうとした。

『無用心です。あなた様はあまり顔をさらさない方が』

 潮田はまだ暗い早朝であるが、目撃者の危険性を感じて、統磨を引き止めた。しかし、統磨は強い口調で遮った。

『構うな。そうしたいんだ。……そう、しなければな』

 答える統磨の頬は薄闇のせいもあっただろうが、これから起す事の為に、やや青白く緊張していた。

 それだけでなく、潮田は言葉に含まれた意味合いに、統磨が絶対に語ろうとしない決意を瞬時に悟った。

 そして、潮田が案じた通り、事態は危機的状況を迎えた。

「私が知りたいのは、なぜあいつが二人のことに感づいたかだ! 騎道など、いずれ私がこの手で消してやる!

 誰にも知られてはいないはずだ。第一、育には証言能力はないぞ。なのに、なぜ!?」

「ご老を甘く見られては、早計かと」

 舌打ちをする。秋津の老人であるなら、彼に耳打ちする可能性は大である。

「あの老いぼれか……! 当分は口出しされぬと思っていたが。私ではなくあいつに忠言するとはな。

 は……。私も、軽くみられたものだな」

 統磨は、力なくソファに体を投げ出した。

「老いぼれなら私が何をしたのか、すべて知っているな。私にしか興味のない奴だ。親切ごかしに、余計な真似を!」

 らしくない怒りに、潮田は内心やはりとうなずいていた。

「ですが当然の働きです。失敗に終わりましたが、あの方には初めてのことです、見事と褒められるのもよろしいでしょう。

 加納育を生かしておいては、あなた様の身が危険です。

 秋津の血を引くものとしては、潔い判断でした」

 統磨は片手で顔を覆った。

「……あいつまで、巻き込むつもりはなかった……。

 褒めるだと? 馬鹿な奴だ。……私が望みもせんのに、勝手に飛び込んできて……!」

 次から次へと憤りが湧いてくる。

「こうも愚かだったとは思いもしなかった! 何のつもりだ! 何のために!」

「無論。統磨様の御為に」

「私の……? 笑わせてくれる。こんな私の為に……。 !」

 目を見開いた。

「……そうか……。私があいつの……。だからなのか……?」

 そうだったなら、これほど喜ばしいことはない。そうならば、そうたった一言、彼が語ってくれるなら。この23年間の孤独も癒えるだろう。

 統磨は甘やかな願いを求めながら、引き返す道のない断崖に自分たちが立っていることを思い出して震えた。

 擦れ違ったまま、魂が触れ合う機会もなかった長い時を越えて。泥沼の底に落ちてやっと、一条の光が差し染めてくるとは。この時、運命の皮肉に、統磨は願うことさえ手放して、低く自らを嘲り笑った。



 この日は統磨にとって、苦い確信を与える日であった。

 彼の想いに反して、統磨の目前に立った一人は、あくまでも家臣の仮面を下すことはなかっのだ。

「あなたを……!」

 静磨は、一瞬言い澱んだ。つのろうとする感情を堪えた。

「……あなたを、兄だと思ったことなど、一度もありません」

 感情を押し殺す弟を、統磨は視界から逸らした。

 彼は、たった今静磨にかけた言葉を、永久的に葬り去ることを胸の内で決めた。そうでなければ、本当に失ってしまうのだ。

「どうぞ二度と、我々二人を、お気にかけることのありませんように。

 ご自身と秋津の家のことだけを、お考え下さい」

 臣下の進言であった。最も忠実で、何よりも信頼のおける、統磨の礎の一人であった。

「……、よくわかった。余計な心配だったようだな……」

 薄く信頼する笑みを作った。

「これからも、お前の働きには期待させてもらうぞ。静磨」

 初めから予測はついていた。こうなるだろうことは。

 統磨は二人の弟を失う代わりに、最上の家臣を手に入れた。これが、秋津の家であった。



 統磨の部屋を辞した静磨は、廊下にたたずむ一人の青年の前で、擦れ違いざま立ち止まった。

 静磨よりは頭半分抜きん出た、筋肉質の体躯を持つ青年だった。

「初陣は武勲とはなりえませんでしたが、統磨様はあなたのお心掛けを心強く思われておいでですよ」

「……あんな風に肉親の情けに囚われているようでは、先々思いやられるな」

「その点、上坂の葬儀においては、静磨殿はお気持ちを見事にコントロールなさいましたな」

「お前に、上坂のことを持ち出される筋は無い……!」

 記憶が呼び戻されたのか、静磨は青ざめた。親友だからこそ、上坂は偶然知ってしまった事実を静磨に打ち明けた。実の弟である静磨からも、自首するように説得してくれと。

 兄に会う決意をしたその日。上坂に悲劇が起きた。

「悲嘆を堪える親友を演じたように、もう少し詰めを確実なものにしていただきたかった。中途半端な情けをかけるくらいなら、お出にならぬ方が無難。足手まといになるなら、御免こうむりたいのは静磨様の方ですぞ。

 ……もう少しお出来になると読んだからこそ、ご進言したのですが。しくじるとは……」

「! ならば、なぜもっと早くに手を打たなかった!

 騎道が、現れる前に」

「統磨様直々のご命でした。静観するようにと。

 今更後悔していられるのですか? 統磨様の為に働くことを。

 分家殿は甘い。命取りになると、統磨様もご案じでした」

 静磨の顔が陰る。

「……わかっている」

「分家殿は、統磨様とはまるで違う教育を受けてこられた。その分、気持ちが劣るのは当然でしょうが」

 立場が違う、住む世界が違う。統磨は、秋津家なりの帝王学ともいえる教育がなされてきた。言ってみれば、統治者のみに許される思想を刷り込む訓練である。

 家に背くものを敵と見なし、自分以外を自らの礎と見、扱い、必要とあれば切り捨てる。

 明確な、人の心を捨てた思考。それを貫くことで、現秋津当主は自らを生き長らえさせ君臨し続けている。それは、老人が自分のやり方を、そのまま次代の後継者に押し付けたにすぎなかった。

 まだ扱いやすい無垢な子供を選び、厳格に御して。

 誰一人として家の永劫の繁栄を願わないものはなく、老人に逆らおうという気概のある者も現れなかった。

 静磨自身、家名を守り先祖の功に報いんとする姿勢を評価し、それがあるべきと信じている。秋津の名に連なる者であるなら、そう思わぬ者のないほど、長きに渡る優れた統治で領民には喜ばれてきたのである。

 醜い内紛もありはしたが、この時にくるまでは、取り繕われてきたはずであった。

「では、その次期当主殿は、なぜあんな暴挙に及んだのだ。気が狂っているとしか考えようがないぞ……!

 解せぬのはお前もだ、潮田。何のための目付け役か、なぜ彼を引き止められなかった?」

「知らされた時には、引き返しようのない状況でしたので」

 防音措置のされている建物である。統磨の部屋にまで、会話が届くとは思えないが、二人は共に声を低くしていた。

 潮田の言い訳など聞く耳はなかった。

「私がご老の耳に入れれば、あの方とて只では済まぬ」

 鞘を抜いた剣であった。老人の名の前では、統磨であっても無力な若者でしかない。

 鋭い牽制を、潮田は嘲笑じみたものでかわした。

「要らぬ心配ですな」

「なんだと」

 力強い体に似合わぬ格式張った口調が、異彩を放つ。

 潮田はゆっくりと、静磨に視線を置いた。

「分家殿があの程度とわかった今、期待はありません。すべて、我々で片をつけます。それならば、分家筋の次期家長殿といえど、ご老には相知らずと、面目が立つでしょう。

 いらぬ注進はお控えなさるがいい」

「潮田。重ね重ね、誰に向かってそんな口を……!」

 静磨は眼光を鋭くした。

「私の主は統磨殿です。あなたも分家も、統磨殿の礎でしかない。そういったことをわきまえていないのは、あなたの方ですな、静磨殿。

 秋津の家は、統磨殿と同一ですぞ。それとも、形だけの『家名』の為に、真の主に盾突くおつもりか?」

「彼がやっていることは、その家名に泥を塗ることだ……!

 なぜそれが判らん!?」

「家名と言われますのか?

 主あっての家。主をないがしろにして、何が家名か。

 そのようなもの、打ち砕いた方が未来にとっては……」

「貴様っ!」

 自分に伸びた静磨の拳を、なんなく片手で押さえた。

「考え違いをなされるな。これは、統磨殿のお考えです。

 だが、反逆などとはお受け取り下さいませぬように」

 あくまでも、遜って従順な面を保ったまま。静磨は、手向かう気配のない潮田に、苛立ちながらも手を引いた。

「無論、ご老に盾突こうなど、お考えではありません。

 自分が今まで何によって生かされてきたか、何によってこれからも生き長らえるか。あの方は、よくご存知ですよ」

「よくわかった。お前の逆心は忘れてやる。

 主の意に背いて、私に手を下させたこともな」

 眉一つ、潮田は動かさない。

「私の望みも言っておく。これ以上の波風を立たせぬようにしろ。どんな手段を使っても、彼を食い止めろ。

 次に何か起きたら、ご老が動き出す。それは保証するぞ」

 カチャリと、オーナー室のドアが開いた。

「静磨? まだ居たのか。まあ、丁度いい」

 統磨は戸口に立ったまま、続けた。

「静磨。私はこのまま、黙って引き下がるつもりはないよ。

 奴がいずれ、私のことを嗅ぎ付けるのは明らかだからな」

 静磨の忠告は早くも無に帰した。統磨とは心を一つにする潮田は承知していたが、潮田の計算も次の統磨の言葉で狂いが生じた。

「お前には、騎道の動きを見張ってもらう」

 打って変わって、統磨は静磨を自分たちの企みの中へ引き込もうというのだ。

 潮田には新たな不安が生まれた。静磨は二度は同じ過ちを繰り返したりはしない人間だ。次は自らの甘さを排除することに成功するだろう。その時ようやく、他者の血であがなわれてきた秋津の血筋に相応しい冷徹さを身に付ける。

 統磨と同等になるのだ。

「どうなさるおつもりです?」

「……奴が命を惜しまないようなら、消すしかないだろう?

 邪魔者は排除する。これが我が家の家訓じゃないか?」

 統磨が、静磨の中にある非情になりきれぬ部分に対して危機感を抱いていることを、潮田は知っている。秋津を背負う血筋である以上、それは命取りであることも。



 統磨は酷薄な瞳で、静磨を眺めた。同族としての同意を強要し、ためらうようなら罵りつけるつもりだった。

 忠実な家臣は、ただうなずいて統磨の前を立ち去った。

 老いてもなお厳格に権力を握っている、秋津の現当主。『ご老』と呼ばれる老いぼれに、静磨が今度のことを自ら注進するとは考えられなかった。

 統磨自身、次期当主という地位を利用し、打てる限りの方面に口封じを講じていた。

 だからといって、老人の耳に届くはずがないと、安穏としていたわけではない。ある一線を越えるまでは、若気の至りと、黙認されることくらい、彼も計算していた。

 一線を越えさえしなければ、老人との関係は保たれる。

「統磨さん……、あの……」

「ここには誰も近寄るなと言っておいたはずだぞ!」

 考えを絶たれて、統磨は不躾にノックもなしにドアを開けた矢崎を怒鳴りつけた。矢崎は調子のいいばかりが取り得の男だ。抜け目のない顔をぴょこんと下げただけで、

「……はい! ……ですが、数磨さんが、どうしてもと……」

「数磨が?」

 統磨の怒りが、戸惑いに変わったのを見取って、矢崎は背後の少年を一人置いて、そそくさと立ち去った。

「ごめんなさい……、兄さん」

 リビングのソファを回って、統磨は立ち尽くす数磨を招き入れた。『マジェラ』のオーナー室の隣にとった、居住用に改装させた部屋の一室だった。

「どうしてこんな所に来たんだ? あいつに知れたら、また叱られるぞ」

「いえ……。さっき出ていった静磨兄さんとは、顔を合わせていません。黙って、後をつけてきたんです。

 僕、また兄さんたちが喧嘩になるんじゃないかと心配で、じっとしていられなくて……」

 中学生といってもいい童顔に涙を滲ませて、彼はうつむいた。涙を隠す数磨の頭に手をおいて、統磨は漏らした。

「心配性だな……」

 柔らかい吐息のような言葉に、数磨は押さえていたものが込み上げて両目を手で隠した。

 膝を付いて統磨は自分の肩に、数磨の頭を押し当てさせた。うなだれて数磨は声を押し殺す。二人に交流する熱い感触は、肉親の暖かさであった。

「もっと強くなれ。それと、お前の兄貴たちをしっかり信用するんだな。

 自分の兄弟を信頼できないようでは、他人を信じて友達を作るなんてことはできないぞ」

「……はい」

 かろうじて丁寧な返事を返そうとした数磨のわずかな気丈さに、統磨は満足して笑みを浮かべた。

「あれは喧嘩じゃない。さっきも、少し話しをしただけだ。

 あの時は、生まれて初めて意見が食い違って、手加減がわからなかったから、ああなっただけだ。もうあんなことは起きないさ。俺も大人気なかった」

 喧嘩は対等な立場にあってできる対立だ。もう二度と同じ立場などにはならない。統磨は冷めた目で、静磨に下知した自分を思い起こしていた。

 それまでは、一方的な静磨から統磨への従関係だった。

 あの瞬間から、拒否を許さない主従関係を統磨は自ら求めた。潮田が察した一つの思惑をもって、踏み出した。

「……僕の為に……、僕がこんなふうじゃなかったら、兄さんたちは……」

「泣かなくていい。俺と静磨で、お前を必ず助け出す。

 四方に布陣を取りさえすれば、すべてが終わる。

 心配しなくていいんだ」

「……ごめんなさい……、兄さん……」

 たとえそれが『家』の望みであっても。老人が厳しく戒めたとしても、彼等の思惑に自分を譲れない。秋津統磨は、『兄』であることを捨て切れないでいた。



「現れました。あと、二、三分で到着します」

 斥候に出した矢崎の報告を受け、潮田が携帯電話を通して伝えてきた。

「よし。手を出さずに上にあげろ。私が、息の根を止める」

 統磨は電話を切り、床からレコーダーを取り上げた。

「やめて下さい。……お願いですから……」

 無表情に統磨は、佐倉の手の中にレコーダーを乗せた。

「おとなしくここに居るんだよ」

 ふわりと、左手が佐倉の頬に触れた。

「……最後に、誰が君を迎えに来るのか、楽しみだ」

 逃げるように統磨はその場を離れた。

 呼び止める声に耳を塞ぎ、足を早める。一歩一歩が、最後のためらいを振り捨てるように重かった。



 もう一度、統磨は潮田を呼び出した。

「潮田。ここへは上がって来るなよ」

「統磨様……」

 名前を呼ぶほんの一言に、次の言葉を続けられないもどかしさが込められていた。

「これまでのお前には礼を言う。嫌な役目をさせてきた。

 静磨のことも、荒療治になったが、いずれこうしなければならなかったことだ」

「いいえ。どうぞ私を、お恨み下さい……」

 きっぱりとした謝罪の中に、初めて感情が滲んだ。

「恨めるか。私の右腕になれるのはあいつしかいないと思っていた。当主としては不適格な私でも、あいつの天分は見えていた。第一、秋津の名をもつ以上逃れられん。

 いい機会だった……。

 だが、しくじったのは、手痛かったな。潮田」

「はい……」

「兄弟揃って、十の子供の二の足を踏まされるというのも、何かの因縁だ。うまくはゆかないものだ……」

「あなた様のお好きになさって下さい。もう、私はお引止めいたしません」

 はっと、統磨は息を止めた。思い当たり、ゆっくりと笑みに変えた。よく分かり合った友は、彼の奥深い憂いさえ悟っていた。それが、統磨の胸を暖かくさせていた。

「安心したよ。おまえにしか頼めないことだった。

 静磨が一人前になれば、数磨のことを任せられる。

 ……これで、思い残すことはない」

 統磨はおおらかな笑みを、彼方に浮かぶ青い空に向けた。

「胸が躍るよ。私はやっと解き放たれて、こんなにも自由だ。思いのままに未来を選べるんだからな」

「それは、よろしゅうございました」

「あとは任せた……」



 潮田は携帯電話を閉じ、手にする麻袋の底にしまった。

 真っ直ぐに、矢崎が止めた車に向かった。ビルの一階にあたるフロアに直接乗り入れさせたのだ。

 後部座席から獲物を取り出す矢崎に、短く配置を指示し、自分もその一つを受け取った。

「終わったら、この車で帰るぞ。私が静磨様をお連れする間に、お前がエンジンをかけて待て」

 威勢のよい返事で、矢崎は言われた通り、ビルの正面近くへと小走りに向かった。サバイバルゲームの延長のつもりなのだ。このまま本物の殺し合いを続ければ、そのうち押さえが利かずに、ただの殺人狂になり兼ねない奴だった。

 麻袋を後部座席の足元に転がし、潮田も矢崎よりは奥まった所に高く積まれた資材の影に向かった。

 ブルゾンに突っ込んだ左手は、アクリルガラスの覆いを掛けた小さなスイッチを握り締めていた。もう一度、統磨に一言だけ伝えたい思いが、脳裏を強く過ぎった。



「君は、思っていたよりも間抜けな男だな」

「なぜですか? あなたの望み通り、僕はこの場所を探し当てましたよ。ちゃんと、殺人を犯さなければならない時間内に」

 頭上から見下ろす統磨の表情を、こちらから見取ることは不可能だった。

 金色と黒のコントラストの中に、騎道は立っていた。

 指し染める夕日の色は、フロアの中央部、次いで東端部へと進むにつれて、光量を落としている。

 エスカレーター孔と思しきこの部分は、建物のほぼ中央に位置していた。

 ひらりと、統磨の頬に金の一条が走った。小首を傾げている。

「どうしてあんなにいい子をふったんだ?」

 非難と嘲笑が言葉に浮かぶ。

「あなたが誰かに対してやったことと、同じ理由です」

 騎道は、不思議なくらい素直に受け止めた。

「傷付けたくないから、そうしたんです。

 違いますか?」

 不気味な沈黙など、騎道は恐れもしなかった。

「あなたは、猟奇的な殺人狂なんかじゃありません。

 過去に起きた『猫狩り事件』の頃なら、あなたはここまで手を下したかもしれない。

 でも、あなたはそんな時代を潜り抜けてきている。

 あの時、飛鷹彩子の強いマインドに触れて、生まれ変わったはずだ。少なくとも、やり直す力を得たはずです。

 彼女はそういう人だから。彼女があなたを許したということは、あなたに変化を見たから許したんですよ」

「……甘いな、貴様」

 警戒しなければならなかった。騎道は、頭上から何が降り掛かってくるか、慎重に慎重を重ねていなければならなかったのだが。彼はただ、顔を上げ見守るだけであった。

「ここに来るがいい。騎道。彼女はこの先に居る。

 罠など仕掛けてはいないよ。安心しろ」

 統磨の姿は変えた。遠ざかる声は自信に満ちている。

「二度とそんな口はきかせない……。

 彼女の目の前で貴様を打ちのめし、この手であの世へ送ってやる。久瀬光輝以上に、のたうちまわってもらうぞ!」

 久瀬光輝……! 通行人の無い明け方、彼は出血多量のショック死状態で発見された。

 敗北の言葉を知らず、高いプライドをもって生きてきた彼には、無念すぎる最後であっただろう。

 兄のように、騎道に生き方を諭した光輝。かけがえのない人間の一人であった。光輝の尊厳を取り戻すために、騎道はここまで統磨を追いかけてきた。

 すべての日没は、目前にあった。




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