(六)
その家には、三人の兄弟が居た。
彼等がそれぞれ幼かった頃。三人目の子供は生まれたばかりで、真ん中の子供はうまくしゃべれなかった。
分別のつく年頃になっていた一番上の兄は、奪い去られるようにして他家へ養子として連れて行かれた。
二番目の兄は、物心のついた頃、ただ一人の兄だから、小さな弟を守ってあげなければならないと決意した。
一番下の弟は、彼がいなければ何もできないほど弱かった。
だが、一番上の兄となった彼は、本当は自分も弟だったことを、ぼんやりと覚えていた。
自分の兄が誰だったのか? ある日、彼はまだ幼かったが、存在を確認する時が訪れた。
その日は、一人の少年が彼の家の庭に、こっそりと現れた日だった。
彼は、自分より五つ年上だった。時たま『本家』と呼ばれる大きなお屋敷に呼ばれた時、必ず弟と二人で、手をついてご挨拶をしなければならなかった少年。ただ黙って、自分たちを見下ろしていた少年だった。
しっ、と立てた指を唇に押し当てて、「僕がここに来たことは、誰にも言っちゃいけないよ?」と囁いた。
うん、とうなずくと、彼はにこりと笑ってくれた。
その時、二番目の兄は、感じた。
「ぼくの兄さんだ……」
嬉しかった。守ってもらえる弟で、居てもいいのだと、嬉しかった。嬉しかったけれど、大人たちに喜びを見せてはいけなかった。彼等は否定して隠そうとしたからだ。
ずっと、胸の内に秘めて、……忘れようと努力した。大人たちの為では無しに、忘れようとした。
なぜならば。彼の兄は、弟を守る人ではなかったのだ。
二番目だった兄は、一人で一番下の弟を守らなければならないと、もう一度決めた。
その三兄弟は、秋津の苗字を名乗っている。
「次に、あまり推測されていないだろう事実を、私は語らなければならないでしょう。
今述べた、4月と6月の無差別殺人以前に、もう一件、私は殺人を命じています。
2月14日。午後0時24分。尼園二丁目にて建設中のビルの側で、落下した鉄骨で怪我を負い死亡した老婦人は、私が配下の潮田を使って殺しました。事故ではありません。
動機は……。そう、単純に血を見たかっただけ。
だが、あんなものでは足りなくて、エアガンを使ってのハンティングを思いついたんです。
……なかなか、興のあるものですよ。一度やると、止められなくなる。虫ケラみたいな人間を、その通りにこの世の中から排除するんですよ。
悲鳴を上げ、懇願させて……」
「やめて下さい!!」
秋津統磨は、空中に遊ばせていた視線を床に落とした。
彼の座る折り畳み椅子の足元で、微かな機械音を立てて、一台のICレコーダーが作動していた。
録音状態にある。沈黙を統磨は長く続かせなかった。
「女性が嫌悪しているようなので、話題を変えましょうか」
統磨の足元に、太い四角のコンクリート柱に背中をつけて、座らされている女生徒。佐倉千秋は、ほっと肩で息をついた。だが、次の話題は、更に陰惨なものだった。
「8月20日。稜明学園北門で起きた、上坂という少年の事故死も、この私が命じました」
佐倉は蒼白な顔を上げた。
「無人トラックの暴走などと、取り沙汰されているようですが、とんだお笑いだ。一市民として、警察は何をしているのかと、追及したいくらいだ。いや、私を放置しておいただけでも、あなた方は責任を問われるべきでしょうね」
真っ向からの挑戦である。統磨は、頬に苦笑を浮かべ、先を続けた。
「彼、上坂は、第三の犯行を目撃したのです。その上で、私に自首を勧めにきてくれました。あとは皆さんがご承知の通りです。潮田がすべてうまくやりました」
食い入るように統磨を見上げる佐倉の眼から、大粒の涙が零れ落ちた。
「次にもう一人、目撃者がいるのです。運よくこれは、あなた方の失態じゃない。彼は証言能力に欠けていたんです。
だが、私は安心できなった。その子供がいつ、何を目撃したかを、誰かに話し始めるのではないかと、落ち着きませんでしたね。
彼は私の顔を見たんです。第三の被害者を、事件直前にアパートから連れ出す私を。
あの朝は私も無用心でした。早朝だから誰かに目撃されることもないと、自分で久瀬を呼び出しに行ったんですよ。
あなた方には幸運にも、私には不運にも、目撃者は生きています。関山荘の火事の中から奇跡的に救出されました。
そう、奇跡ですよ。彼が生きているなんて。
火事に見せかけて、殺してしまえるはずだったのに。
潮田を責めるわけにはいきませんでした。もっと早く、確実に彼を消してしまえばよかったんです」
謎解きはもう十分だと、統磨は判断した。
「以上が、一連の事件の全容です。細かい点は、どうぞそちらで追求していただきたい。
私はこれから、もう一件、ないしは二件の殺人を行うことでしょう。
これには何人かの、目撃者が現れるはずですから、彼等に証言を譲ります。
ただし。二件の事故の実行犯である潮田は、私が敗北した後は、絶命しているはずですので、この録音が、唯一の証拠となります。
私はここに、全ての事件の首謀者であると証言しますよ。
あなた方の、優秀な捜査に敬意を表してね」
低く、彼は笑い声を立てた。
「どうとでも言うがいい……。猟奇的な殺人者、気の触れた秋津の当主。これが、君らの手に渡った場合の話しだ」
彼は自作自演の一人芝居に酔っていた。一分の隙も狂いもなく、統磨の思うままに、すべては進行されている。
終幕も誓い。一人芝居の記録も無価値なものとなる。上り詰める確信が、彼を尊大にさせていた。
「佐倉君。何か聞きたいことがあるだろう?
言いたまえ。君の声も入れておきたい」
「……どうして、そんな録音をするんですか?」
涙で震える声が、コンクリートに反響する。
「遺言だよ。君と私、どちらか一人、敗北した方の遺言だ」
乾いた響きが、風に流されて消えて行く。
「どちらが生き残るにせよ、これが警察の手に渡ったなら、彼等も手間が省けることだろうね。無能な集団だから……。
だが、君もしくは騎道が敗北した場合には、これは私個人のコレクションということになるんだが。
そうなると、無駄になるな」
言葉だけの惜しむ声だった。
佐倉は統磨が語り続けた事実に、愕然としていた。
思考が麻痺するほど、ただ泣くしかなかった。
ここがどこであるのかすら、彼女には見当もつかなかった。逆にどうしても知りたいとも思わなかった。
統磨の中にあるはずの、優しい一面を信頼していたからだ。騎道は、まだ彼の中にそんな部分が残されているだろうと、確信する言葉を掛けてくれてさえいる。
なのに目の前の統磨は、それとは掛け離れてしまった別人だった。純粋無垢な時代を思い返すことができないほど、罪に浸り、彼には後悔のかけらもないのだ。
鉄筋を覆ったコンクリートが剥き出しの、太い柱ばかりしか周囲にはなかった。規則正しく並ぶコンクリート林の向こうに、青い空がうかがえる。
抜けるような青さ。囚われるもののない自由が、そこに輝いている。
統磨は背筋を伸ばし、切り取られた空を眺めている。
二人の間を、冷えた夕暮れの風が吹き抜けていった。
「怖いかい?」
統磨は立ち上がり、運び込ませていた毛布を佐倉の肩にかけた。
彼女の細い両手は、体の前できつく縛られている。拘束はそれだけだ。あとはずっと、統磨だけが一人、佐倉を監視していた。
階は四階。八階建てのビルであるので、ここは丁度中央部分に当たる。
あちこちに建設中の資材や機械類が放置されて、ここまで歩くだけでも不自由だった。
床には構造上の必要性か、何箇所か大小の穴が開いていた。そこを吹き上げる風に、無闇と逃げ出しては危険であると、佐倉は思い知らされていた。
その上、統磨は配下の潮田との会話の中で『爆薬』という言葉を使った。このビルとは関係ないのかもしれない。
が、恐怖を感じないといえば、それは嘘だった。
「お守り代わりに、これを預けておこう」
「……違うと思います」
「?」
レコーダーはまだ、録音状態のまま作動している。
「あなたは、嘘をついています」
彼の表情まで、録音することは物理的に不可能だ。この一瞬、それが、佐倉にはもどかしかった。
統磨はすぐさま目を見張った表情を、皮肉に取り繕った。
「嘘? 優しすぎるのも、いい加減にした方がいい。
でないと、悪い男にだまされるよ。私のような奴に」
首を振る佐倉。
「嘘ではない証拠を、じきに見せてあげるよ。
息のない、君の恋人を」
統磨は手を伸ばし、停止ボタンを押した。
「騎道さんは、私の恋人なんかじゃありません。
あの人には、他に好きな人が居て、誰も入り込めないほど想っていて。だから……、私は違います。
待っていても無駄です。私のために、罠だってわかっていて来るはずありません。きっと、警察が」
「だが君は、好きなんだろう?」
仕返しのように、残酷な問い掛けだった。
「嫌いです……。ふられたんですから。あなたと会った日に」
「それだけ言えれば十分だ。あいつが一人でこないはずがない」
不機嫌な険を含ませて、言い捨てた。
佐倉は身を乗り出して、統磨に少しでも近付こうとした。
「こんなことはやめて下さい。
数磨さんや、秋津会長が悲しみます」
統磨は首を傾けた。
「悲しむものか……」
「悲しみますっ。だって、あなたは二人のお兄さんじゃないですか!?」
くつくつと統磨は笑い出した。心底滑稽だと、戸惑う佐倉の目前で、ひとしきり笑い声を上げる。
「私が犯罪者だからといって、奴らは泣きもしなければ、責めもしないよ。
そんな権利はあれにはない。いや。それ以前に、私の考えと行動に疑問を挟む余地など、あの二人には存在しない」
佐倉をのぞきこんだ。
彼女は背筋を寒くした。違う、のだ。
「なぜだかわかるかい?」
まるで違う。彼の目は恐ろしい狂気に染まっていた。
「わかるはずがない……。君らには、わかりようがない!
私は秋津の次期当主で、あの二人は私の家臣。私の捨て石でしかないのだよ!!」
「……そんな……」
「私の為になら、どんなことでもする者どもだ。
いざとなれば、人を殺すことすら厭わないだろう。私の役目は、それを彼等に命令することだ。
私は絶対で、汚されることはない。後継者である私は、秋津の家そのものだ。
私という『家』を守る為に、あの家では、私以外の人間が存在するのだ。それが、秋津家だ!!」
武家社会において、その慣習を背負って生きる者は、存続すべき『家』がその全てとされる。それは、過ぎ去った時代であるなら生きやすいだろうが、現代ではタイムスリップしたような生き方を強制されるのだ。
「『家』って、そんなに大事なものなんですか? あなたの言っている『家』は、家名のことでしょう? そんなものを守って、どんな価値があるというんですか?
一番守らなければならないのは、そんな見えない、ほんの一握りの人しか価値を認めないものなんかじゃない。
大切なのは、家族でしょう? 入れ物なんかじゃありません!」
「……やめろっ……!!」
呻くように、声を統磨は絞り出した。
「嘘ですよね……? 統磨さんは、そんなことを信じてなんていませんよね? 今言ったことは、全部嘘だわ……。
本気だなんて、言わないで下さい……。お願いだから……」
佐倉は、目を閉じて祈った。彼に浮かぶ狂気を、消し去りたかった。
「……信じているのは、私ではなくて……、私にひざまずく人間たちだ……。私など、ただの傀儡でしかないのに……」
自分で言った言葉に、統磨は疲労した。
細く閉じかけた瞳で、彼は祈る少女に見入った。
23年間は、気が遠くなるほど重い時間だった。『家』が始終双肩にのしかかり、ひと時も離れることはなかった。
何の分別もなく受け入れるままだった少年期。『家』の持つ重圧に耐え切れず事件を起した思春期。この時、耶崎中の四神王と出会い、飛鷹彩子という少女を知った。彼女は生気に満ち、激しく輝いていた。
すでにレールが敷かれ、走り出し、飛び降りることも許されないと悟った青年期。
諦めていた彼の前に、一つの契機が訪れたのは、今年の春のことだった。
兄と呼ばれることがこれほど甘美に思えた一瞬は、今までの彼には無かった。彼はそんな感情に飢えていた。
生まれた時から、武家の仕来りという不自然な鎖にからめとられ、秋津統磨はただの操り人形でしかなかった。