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(五)


 秋津静磨は、今は安らかな寝息を立てる弟を見守っていた。隣室の水野は、すでに部屋を出て留守である。

 時間が停止したように、辺りは静けさに包まれている。

 この密やかさを打ち破れるのは、自分だけしかないような錯覚に、静磨は陥っていた。

 そうしていいものかどうかと、無意識に秤にかけている自分に、静磨は唇を引き苦く笑った。

「……何をためらう必要がある? これは、私の意志だ。

 同時に『家』の意志でもあるというだけの……」

 休養室の隅に置かれた、サイドボードの電話を視界に入れた。静磨は受話器を取り上げた。

 相手は待ち兼ねたように、即座に応対した。

「静磨です。騎道が、そちらに向かったもようです」

「待ちくたびれて、使いを出そうかと思っていたところだ」

 受話器の向こうの彼には、ずいぶんな余裕がうかがえる。

「私も、すぐに後を追います」

「静磨。我が家の家訓を忘れてはいないだろうな?」

 冷ややかな絶対的支配者の声が、静磨を縛り上げた。

「邪魔者は排除するんだ。どんな手を使っても。どんな相手だろうとな。お前の腕、見せてもらうぞ」

「ご心配なく。かならずや」

 受話器を戻し、もう一度、静磨は数磨を振り返った。

 ここを踏み出したら、二度と同じ場所へは戻れない。

 生きるということは、同じ伝を踏まないことに意義があるのだろう。同じ過ちを繰り返さないという改悛に。

「……これが私だ。秋津静磨という」

 一つの名前が示す事実を噛み締め、改めて、失われてゆく自分に別れを告げた。

 晴れやかな秋風を分けるように、彼は歩き出した。



 騎道を見送った後、考えた末に、彩子は数磨のいる休養室に足を向けた。加納育と同じ異能者である数磨の、繊細すぎる精神が気にかかっていた。

 超能力者であると発覚したのも、ちょうど去年のこの時期である。偶然かもしれないが、何か彼の身に起きたのではないかと想像していた。

 ドアを音を立てないようにそっと開けると、すすり泣きが耳に入った。

「数磨君……、どうかしたの?」

 はっと顔を上げて、数磨は涙を擦り上げた。

「……いえ……、なにもありません……」

 目を真っ赤にさせていながら、何もないと否定する数磨を、彩子は黙って見守った。

 涙の余韻を押さえ切れず、彼の毛布を握る指先は小刻みに震えていた。

「お兄さんは、いらっしゃらないの? もう生徒会室に戻ったのかしら?」

「あ、兄は、迎えを呼びに……」

 嘘は簡単に見破れる。ここにも電話があることを、彩子は承知している。

「具合は、よくなった?」

「はい。意識が朦朧としていて、はっきりそうとは言えないんですけど、騎道さんの声が聞こえました。

 そしたら、体が楽になって。僕は、騎道さんに助けてもらったんです」

 なぜか、数磨は涙ぐんだ。

「良かったわね。君のこと、騎道も心配していたのよ。

 この前、数磨君も見掛けたと思うけど、学園に来た加納育っていう男の子も、あなたと同じなの。

 興味本位じゃなくて、騎道はあなたたち二人を、理解して大切に思ってるわ。心配事があったら、何でも言える人よ。秋津会長に言えないことだって……」

 ふいに、隅の電話のベルが鳴った。

 秋津かもしれない。

 この電話は、内戦専用で外部からは直接かけられないようになっている。だから騎道であるはずがない。騎道なら早すぎる。なのに、彩子の胸は騒いでいた。

 駆け寄って受話器を取り上げた。

「……もしもし? 騎道?」

「お……姉ちゃん……?」

 誰? 彩子の思考は、停止した。

「彩子さん? 彩子さんなの?」

 誰かが、初めの少年の声に代わって、彩子の名を呼んだ。

「まさか……、幸江さんですか?」

「そうよ、加納幸江。育が、どうしてもあなたの所に電話をかけるってきかなくて」

 懐かしい声だった。幸江親子と別れてから三週間も経っているのだ。

 その上、外部との接触をほとんど取れなかった育が、自分の意思で電話をかけると言い出したという。そこまで、彼が成長したことに、彩子は深く感動した。

「覚えていてくれたんですね、育くん。嬉しいな。

 でもどうしてここが? あたし、今この部屋に来たばかりなのに」

 わずかな幸江の沈黙。

「育がかけたの。電話に手を乗せただけで、つながったわ。

 どうしても、あなたと話しがしたかったのね……」

 育の中でまだ秘められていた能力に、微かな畏怖を覚える声だった。幸江は育と電話を代わった。

「お姉ちゃん……?」

 小さな声が、直接耳元に囁いたように、彩子の中に飛び込んできた。回線を通じて、彼の思考が流れ込んできた衝撃があった。

 彩子は目を閉じた。

 様々な情景が、切れ切れに脳裏に浮かんで消えていった。

「お兄ちゃんを、助けて……」

 彩子は戦慄した。彼の言葉は、未来を囁くのだ。

 育の声には、尋常ではない悲痛な切迫感がある。一刻も速く、彼にとって、兄である存在を救ってほしい……。

 彩子は足をすくませる恐怖を振り払った。

「……わかったわ。育くん。すぐに行くわ」

 兄とは誰か? 初めは、久瀬光輝だった。その光輝が逝って、光輝の『弟』である少年が、育に関わった。

「育くんは、騎道がどこにいるのか、解るのね?」

 彩子の瞼に浮かぶ、イメージの育はコクリとうなずいた。

「!」

 育の姿がスパークする。白い光の中心から、この街の情景が滲み出し、焦点を絞る。凄まじい勢いで、街を上空から見下ろしたまま、視点が疾走する。

「……わかったわ、もういい……。頭が痛い……」

 彩子は受話器を外した。強烈な精神波を直接受け止めて、こめかみがきりきりと痛んだ。

 ベッドの数磨はその余波を受け止めたのか、顔色を変えて彩子を見つめていた。

 ふと、彩子はこの二人なら、言葉なしでも、精神で交流できるのではないかと考えた。お互いを確かめあえば、少なくとも、異能者として孤立しているわけではないことを見つけ、支えにできるのではないかと。

 育はともかく、数磨は力ゆえに、ここで孤立しようとしているのだ。

「さっき話した育くんなの。話しをしてみる?」

 数磨は、うなずいた。ベッドを降りて、差し出された受話器を受け取る寸前で、数磨は微かにためらった。

「もしもし……?」

 沈黙が流れる。それは彼等なりのコミニュケーションだと彩子は受け取った。

 そのまま、彩子は部屋を出た。誰かが、行かなければならないのだから。



「……彩子……」

 駿河は呆然とした。彼等が占拠している小さな部室のドアを開けたのは、飛鷹彩子だった。

 これから校内中を駆け回って探し出し、この部屋に隠岐を監視役にして、彼女を閉じ込めるつもりだったのだ。

 戦力的に動けるのは駿河だけになってしまうが、それでも、彩子を一人にする気にはなれなかったのだ。

「やる気になってるみたいじゃない?

 茨子さんのところのエージェントとはリンクできたの?」

 一度、耶崎中の四神王時代にも、探偵事務所のエキスパートを動かしたことがある。彩子はそれを覚えていた。

 緊急の切迫した事態には、駿河が最後の切り札として、話しを持ち出すのだ。そしてその判断は大袈裟ではなく、適切なものだった。

 隠岐は、とまどいながらもコクリとうなずいた。

「やっぱり行動が素早いわね。鈍ってないって所ね」

 彩子はいつでもこの部屋を逃げ出せるように、開け放した戸口の壁にもたれた。

 気を取り直した駿河は、早速切り出した。

「騎道がどこに向かったのか、知っているなら、教えてほしい」

「……。隠岐は、知らないでしょう?

 秀一ってね、小学校中学年の頃まで、すっごいイジメられっ子だったのよ」

 駿河は耳を疑った。

「クラスで一番背が低かったことが、大方の理由だったの。

 今じゃ、そんなことがあったなんて全然思えないくらい、こんなに格好よく育っちゃって。

 ターゲットにされて、毎日泣いてたのよ?」

 黙ってしまった駿河を気にかけながら、隠岐は新事実を語る彩子の話しに乗った。

「ほんとですか? 信じられないな」

「で、彩子さんの登場よ。

『秀をイジメル奴なんか、よーしゃしないよっ』とか、たんか切って、いじめっ子全部片付けてやったのは、このアタシ」

 ほほほっ。とまで、彩子は高笑いしてくれる。

 アハハハッ、と本心で笑ってから、隠岐は駿河の視線に口を噤んだ。

「……そんなの、大昔の話だろ……」

 暴露されて赤面する駿河だった。

「じゃ、最近の話しがいい? 秀一ってね」

 また、秀一……。二文字が駿河をさらに動揺させた。

「知ってます。先輩、小学校の高学年から、かなりのプレイボーイやってたんですって? 女の子を次々とっかえて。

 耶崎中学に入ってからだと思ってたから、最初同級生から聞いた時には驚きました。

 今でも、昔の彼女らしい人が寄ってくるんですよ。

 引きも切らさずで、僕なんか代理の呼び出しをしょっちゅう食らって、本気で迷惑してるんです。

 なのに稜学に入ったら、全然女の子に見向きもしなくなって、何か悪い病気にでも……アタッ」

「隠岐っ! お前、回りすぎる口ってのも、身を滅ぼすってこと、よーく覚えとくんだなっっ!」

 投げ付けられた角の尖ったファイルと罵声で、完全に隠岐は萎れてしまった。

「そこが隠岐のいいところじゃない? むっつりして、何考えてるんだかわからない秀一よりは」

 むっつりナントカと、言われないだけ救いだと、駿河は意味もなく髪をかきあげた。頬が熱いのが癪に障る。

 隠岐は調子を回復し、小さくVサインを彩子に送った。

「彩子っ! そんな話しをしに来ただけなのか!?」

 冷静沈着をかなぐり捨てて、駿河は言い放った。

 昔の話しで掻き回すなんて、何を考えているんだ……。駿河はしっかりと、彩子の陽動作戦にはまり込んでいた。

「あたし、騎道の向かった場所を知ってるわ。

 これから行きたいの」

「駄目だっ! 絶対に、ここから出さないぞ」

 歩み寄ってくる駿河に、彩子はふっと後退って廊下に出た。仕方なく足を止める駿河。投げられては元も子もない。

「騎道が、待ってるの……」

「その騎道が、お前を危険に晒したくない、近付けたくないと思っているんだよ。少しはあいつの気持ちも考えてやれよ!」

 こっちの気持ちもな……! 赤面させられてから、駿河は幼馴染の会話の応酬に陥っていた。秀一という響きがそうさせるのだ。

「わかってる……! わかってるわよ……。

 さっきバイクを渡した時も、騎道は言ったわ」

『僕の後ろに居て欲しいんです。でなければ僕は動けない』

「あたしなんかが、ストッパーでいてくれないと、何をするかわからないって。

 ただ、必ず統磨さんの居場所を掴んだら、連絡を入れるから来てくれって……。でも、そんなの嘘。

 大嘘なの……」

 統磨の潜伏先を掴んで、彩子が到着するまで待つ猶予などあるはずがないことくらい、彩子はわかり過ぎるほどわかっていた。

 それでも、彼女は必ず行くからと、うなずいて返した。

「……あいつらしいぜ……」

 大事なところで下手な嘘をつくバカ正直さは、呆れていいのか同情するべきか。駿河は無性に腹ただしかった。

「そうよ……。だから、あたしも大人しくしてるふりをして追いかけるつもりだった……」

 だった……? 駿河は彩子をうかがった。

 彩子の白い手が、自分の顔を覆った。

「でも……、やっぱり、あたし怖いのよ……。

 今度も、誰かが酷く傷付くのかと思うと、その中に飛び込んでゆけないの。悲しいのは、もう嫌なの……!」

 駿河は崩れそうな彩子の肩に手をかけた。

「でもね、騎道は心の底では、本当にあたしのことを待っているの。ただ来て、居てほしいってだけで、それ以外は何も考えてなくて。

 行ってそばに居たいわ……。けれど、統磨さんと対決しようとする騎道はそれを望んでない。あたし自身、そんな死闘を見たくない……!」

 彩子は額を駿河の胸に押し当てた。全身が震えて、バラバラになりそうだった。

「……どうしたらいいの、秀一? ……もう、わからないの……」

 聞き取れないくらい微かな声が、駿河の胸に沈んだ。

 どうして、なぜ? それを聞きたいのは駿河の方だった。

 なぜ騎道の存在が、彩子をこんなにも苦しめなければならないのか。騎道への怒りではなく、駿河は、時と出会いの悪戯に、衝撃を受けていた。

「……あいつが、お前の一体何だっていうんだよ……」

 運命に怒りをぶつけていた。

 現れて二ヶ月も経たない転入生が、17年間に渡ってきた駿河と彩子の関係を簡単に凌駕し、それ以上に彩子を理解している。そのことだけでも、幼馴染としての駿河のプライドを粉々にしたのに、今度は彩子が騎道を支えたいと願うほど、深く関わっているのだ。

 喧嘩別れした元仲間にすがらなければならないほど、彼女を苦しめて。

 彩子は不思議な笑みを漏らした。

「……つながっちゃった、のね。騎道が何を考えているのかわかるのよ。一番弱い部分も知ってる」

 顔を上げ、彩子は駿河の手を戻し、一人で立った。

「彼を傷付けるのは簡単よ。それには力なんていらないの。

 とても簡単。彼を好きになればいいだけだもの。

 それだけで、騎道はその人間に命を賭けてしまうわ」

「だろうな。あいつはとんでもなくバカ素直だから」

 駿河のささやかな反撃に、彩子はうなずきを返した。

「騎道の支えになることは、完全に距離を置いてあげることなの。

 私は、ここに居るから」

 最後の一言を、彼女は苦しい瞳で告げた。

「彩子……」

 その瞳を食い入るように、できるなら悲しみを奪い取りたいと願いをこめながら、駿河は見返した。

「お願い。私の代わりに、騎道に手を貸してあげて」

「……わかった。すぐに向かう、場所を……」

 地図を取りに、駿河は離れる。

「彩子さん……」

「そんな顔しないで。信用してよ?」

 隠岐は、何度もうなずいて平気な顔を作るが、無駄である。泣きそうな顔にすぐ戻ってしまう。

「必ず……。僕ら、必ず無事に戻ってきますから」

「約束するよ」



 彩子は、下校して行く生徒たちを擦り抜けて、正門に向かう二人の少年を見送った。

 彼等は、駿河のマネージャーである間瀬田がハンドルを握るセダンに乗り込むと、三階の部室を見上げた。

 わずかなブランクを逃さず、二人の後を追いかけてきた背の高い少年が、前の助手席に断りもなく乗り込んだ。

 田崎の執念に負けた形で、駿河はそのまま車を発進させた。恋の一念は、人をこんなにも変えるらしい。

 行き先は彩子も、二人とともに地図を広げて確認した。

 手掛かりは、育が彩子に送り込んだ街の情景である。

 印象的だったのは、真新しい四車線の幹線道路に向かい合う二つのビルだった。一方は完成間もない新築のビルで、もう一方は落成にはほど遠い、鉄筋コンクリートがむき出しのまま、壁もない状態だった。

 逆に考えれば、滅びかけているようにも見えるビルに、育の視線は辿り着き、その中心部へ飛び込み、彩子の視界は真っ暗になった。

 恐らく騎道はここに向かうだろう。育の予知では、そういうことになるのだ。

 学園から見て西方向に住む隠岐が、真っ先に心当たりを告げた。彼が住む住宅街を西に抜けると、新しい都市計画の一環である工業団地の敷地が広がっているという。

 そこはまだ開発初段階で、広大な区画整理されたばかりの土地に、ポツリポツリと工場や建設中のビルなどが立ち並んだ状態である。

 真昼でも人影はなく、怪しい企みをもつ人間が、何をするにも好都合な場所であるはずだ。

 当然、地元財閥である秋津家が、この計画に関わっていないはずがない。事実、幹線道路に威風を放つべく、向かい合わせに建設中のツインビルは、隠岐の記憶に違いがなければ、秋津家がオーナーだった。

 車を飛ばしても、片道30分近くはかかる距離である。

 手遅れにだけはさせたくない。彩子はパソコンの前の椅子に腰を下ろして、祈った。それしかもう……。

「駿河! 彩子を見掛けなかった?

 隠さないでよ。あなたたちが何をやっているかぐらい、うちの新聞部だって……!」

 大きくドアを開けて、飛び込んできたのは、椎野鈴子だった。彼女は正面を見据えて、自分自身にうなずいた。

「……あなた、ここに居たの……。

 やっぱり、また危ない真似を始めたのね……」

 憎しみさえ、冷ややかに保った視線に込められていた。

「あなたの新聞部が、何を掴んでいるっていうの?」

 彩子は静かに聞き返した。言い争いをする気力は無かった。今の椎野にそれは通じない。彼女は皮肉で切り返した。

「これで確定的ね。元耶崎中の四神王は、一人欠けた状態だけど、勢揃いしてまた活動を始めた。

 最初の捜査対象は……、佐倉千秋拉致事件ね……?」

 さすがに椎野は、層の厚い情報網をもっているらしい。

 作業に一息入れて、教室へ戻ったところで佐倉の姿のないことを知り、即座に情報を掻き集めたのだろう。彩子と騎道まで消えているとあれば、気が急くのも道理だった。

 事件の背後関係までは手が回らなかっただろうが、佐倉がいわれもなく拉致されたという事実だけで、彼女を怒らせるには十分な材料だった。

「四神は復活なんかしないわ。もう終わってるの」

 真っ直ぐなショートヘアを揺らして、椎野は彩子に詰め寄った。

「駿河君たちは、千秋を探しに出たの? 騎道君も?」

「ええ。居場所が確定できたの。いずれ結果が、駿河から入るわ」

 二人の女生徒は、にらみ合う形になった。実際には、椎野の怒りを、彩子が無表情に受け止めていた。

 椎野が左手を伸ばす。彩子の制服の襟元を握り締め、ぐっと引き上げた。

「……あなたはどうして行かないの? こんなところに籠もって、優雅にお留守番?

 あなたは一体誰? 何でここにいるの?

 こんなのは、飛鷹彩子じゃないわね!」

 低い声が畳み掛ける。

「立ちなさい。居場所を知っているんでしょう?」

「椎野。あなたに黙っていたことは、悪いと思ってるわ。でも……」

 パンと、彩子の頬が鳴った。

「寝とぼけてるのはいい加減にして!」

 息を詰めて、椎野は彩子を見据えた。彩子をぶった右手を堅く握り締める。

「あなたに謝ってもらおうなんて思ってないわ!」

 ふいに彼女は天上を見上げた。

「……腹が立つ……! こんなに気分の悪いのは初めてよ!」

「……ごめんなさい……」

 椎野はもう一度、彩子の顔を上げさせた。

「そのしおらしい態度をやめなさいって言ってるの!」

「……でも……」

 椎野には、それは泣き声のようにしか聞こえなかった。

「あなたの眼は生きてない。それがムカつくのよ……!

 飛鷹彩子は、大事な人間を危地に送り出しておいて、ぼんやりしていられるような人間だった?

 できなかった。黙ってられなかった。じっとしていられなかったから、あんな酷い事件を起したんじゃない!?

 忘れたなんて口きかせないわよ? 去年の4月のことよ」

「…………」

「これ以上、そんな死んだような眼をしていたら、あなたを本気で、……一生許さないから!」

 許さない……。入学当初からずっと、なぜか椎野鈴子は彩子を敵対視してきた。今はその敵意が、半ば憎悪に近く、残り半分は人間としての苛立ちを込めていた。

 彩子は小さな瞬きの後、唇を引き締めた。

 白い手に、椎野の手は払い除けられた。

「あなたに許してもらおうなんて、こっちも思ってないわ」

 ぶたれた頬に手を触れて、彼女は椎野を見返す。

「そんなにひどい眼をしてた?」

「……ええ。二目と見れないような、ね」

 突然、彩子の双眸に宿った強さに、椎野は怯んだ。

「わかってたわ。……なんか、自分じゃないみたいだったもの。ばからしいわね、こんなの」

 手を伸ばして、彩子は椎野の手首を掴んだ。

「けしかけたのは椎野なんだから、付き合ってもらうわよ。

 言っておくけど、修羅場で泣き言なんて、立場を考えてからにしなさいよ。新聞部部長」

 とたんに嫌味の言葉も流暢に口をつく。これが紛れも無く、飛鷹彩子だ。

「だ、誰が泣き言なんか。彩子よりは、ましな度胸をもってるつもりよ」

 さっさと立ち上がると、椎野をひきずってゆく彩子。

「逃げたりしないわよ! 手を放しなさい!」

「やーよっ」

 廊下を駆け出す二人の少女たち。お互い、謝ろうとか許す許さないなど、もう頭にはない。

 貸し借りを続けるのが人の生き方である。返し切れないことを、別の相手に向ける。照れ臭くて言えないことを、他の誰かに託す。これを永遠に繰り返して生きる。

 今はお互いの関係を、佐倉千秋を挟むことでバランスを取る。ただ、彼女を取り戻しに、走る。



 許してもらおうなんて思わない。許されたいなんて、自分には過ぎた考え……。許されるはずのないことを起してしまったのだから。

 おとなしく過ごしていれば、許されるなんて、ひどく甘い考えだったと、彩子は噛み締めていた。

 身勝手だった。逃げ出したことも、飛び込んだことも。

 だから、もう一度……。

 駿河は呆れる? 呆れ果てる。やっぱり来たのかと。

 隠岐は悲しむ? 約束したじゃないですか! と、きっと悲しむ。

 言い訳なんかしない。わかってくれる。

『騎道は心の底では、あたしに来てほしいって思ってるの』

 騎道は微笑む。誰よりも素敵に、誰より一番。



「……一体、どういうことなんですか?

 学園長代行も、彼等とグルなんでしょうか?」

 ドライバーズシートの青年は肩をすくめた。

 バックミラーに映る、椎野の詰問する視線をチラリと眺め、答えを待つ彩子の姿も、彼は確認した。

 極めて上品なフォルムをもった、白銀のセダンは、西へ向けて疾駆している。

 行き先は彩子が告げた。凄雀は、二人の窮地……タクシーを待つ時間も、二人にはもどかしかった……を救う形で、送ってやると申し出たのだ。

 二人が動き出すのを待ち構えていたように、青年は姿を現した。エスケープと言いながら、実は校内のどこかで、全員の動きを監視していたのかとも、疑ってしまう。

「それは、公式な質問だろうか、新聞部部長?」

 淡いブラウンのサングラスに覆われた瞳には、何の感情も読み取れない。引き締まった頬は、相も変わらず端正で、他人を拒絶していた。

「……非公式と、申し上げておきます。

「気配り有り難いな。これで腹蔵の無いところが話せるよ」

 どうかしら……。と、彩子は胸の内で今の言葉を疑った。

 謎めいた凄雀は、何一つ事件に関して事実を語ったことはないはずだった。

「危険人物の監視だよ。特に君達二人は、要注意人物だからな」

 ああ、そうでございますか……。

 これが、名指しされた二人の一致した感想だった。

 次いで。

 一応は二人ということにして、代行も気を使ったのね。本当は一人と言いたかったはずよ。

 と各々、胸の内で断定していた。

「それと、高みの見物だ。私の庇護者が何をするかのね」

 これが本音ならば、騎道は悲惨なまでに非人間的な後見人を得ていたことがはっきりする。

「こちらも聞きたいが、君達は何をするつもりだ?」

 椎野は彩子に答えを譲った。自分は傍観者であると決めているのだ。

「彼を、秋津統磨を説得します。自首するように」

「彩子らしいわね。できるの? あの人、結構なワルじゃない? 性根から腐ってる奴に正論なんて利かないわよ」

「椎野は知らないでしょうけど、あの人にはまだ少しは人間らしい感情があるの。もう一度、それを信じるしかない。

 きっとわかってもらうわ。わからせる……」

 数磨や静磨のためにも……。彩子は胸のうちで彼等の存在を重く感じていた。二人の兄という部分を盾にするつもりだった。統磨が数磨をESP実験の対象にできなかったという事実だけを根拠に、勝てると信じようとした。

「騎道の気持ちはどうする? あいつは、兄貴の敵を討ちたがっている」

「騎道が怒りで我を無くするなら、私が引き止めます。でも、心から復讐を望んでいるとは思えません。

 学園長代行は、それをご存知なんでしょう?」

 住宅街の向こうに、暮れ色の山々が連なっている。紅葉の美しさ以上に、空は煙るような金色に燃え始めていた。

「あいつが、手を組んでもいいと思っただけの価値はあったな。いいパートナーシップだよ。

 君が考える通り、かなり甘い考えで動いている」

「それが騎道君の短所ですか?」

 椎野は確認した。

「命綱でもあり命取りにもなる。運、だな」

 招くのは悲運か幸運か。凄雀は続けた。

「窮鼠猫を噛む。頭でわかっていても、相手が牙を剥いて襲い掛かってくる可能性もあることを忘れるな」



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