(三)
隠岐が呼び出したデータは、九星気学の中でも白楼講が使用している天盤であった。
これに地盤、いわゆる占断する個人のデータを入れることで占盤が完成され、ここから占断が下されるのである。
といっても、白楼講の英知なくしては無価値の代物だ。
騎道の指示のもとに、別枠で他のデータを呼び出すと、今度は赤い記しのついた、この街の縮図が現れた。
データの呼び出しは完了され、最高の使い手を、彼等は待ち受けていた。
藤井香瑠は、学園長代行からの呼び出しに、緊張した面持ちでドアを開けた。
四人の顔ぶれに、一瞬怪訝な顔をしたが、騎道の招きに応じて部屋の中央に進み出た。
「どういう催し物ですの。珍しい顔ぶればかり。
私は、ギャラリーでよろしいのかしら?」
「とんでもない。これはあなたが望んだシナリオ通りです。
四件の事故と事件を調査した、優秀なメンバーが、あなたが語る真実の物語を待っているわけです」
騎道は丁重な言葉使いで、現代の巫女姫に最大の敬意を示してみせた。受け止める藤井もただ者ではない。毅然と、騎道を見つめ返した。
「調査結果の報告をなさっていただけますのね?
とても大袈裟なやり方だと思いますけれど」
再び四人を見渡して、藤井は、打ち沈んでいる彩子に視線を止めた。
「三時間ほど前、佐倉千秋という女生徒が、四件の首謀者と思しき男に拉致されました。
彼は僕に、取り返したければ一人で来いと、言い残しました。望み通りに、この街中を、心当たりの場所全てを回ってみたのですが、会えずじまいでした」
「……ご無事でなによりでしたわ。無鉄砲なことをなさるのですわね」
顔色を変えながら、藤井は責めるように言った。
「藤井さんが手を貸して下されば、もっと危険が回避できるんです」
「私が?」
怪訝な顔をする藤井に、騎道は手を差し出した。
「ここに掛けて下さい」
うながされるまま、藤井は学園長席についた。
「画面の右上が、九星気学でいう天盤です。今年は五黄土気の年ですので、中央には五黄が入れてあります。
左下は、この街の地図です。赤いマークは、あなたが駿河さんに提示して調査を依頼した、事件と事故現場です」
騎道がキーボードを叩くと、左下の画面が動きを見せた。
四つの赤いマークを、東西と南北にそれぞれ二本のラインがつないでゆく。交差した一点は学園の敷地だった。
「あなたは駿河さんに嘘を言ったんです」
藤井の問い掛ける視線を浴びながら、騎道は言い切った。
「あなたは、この四点が白楼陣を形成するために選ばれたであろうと仮定した上で、駿河さんに調査を依頼した。
当然、藤井さんほどの布陣術の使い手ならば、布陣の手段から逆に、それを布陣した者の狙いを読み取ることが可能でしょう。日々発生する数々の事故や事件の中で、他の人間には見当も付かない関連性を、わずかな資料さえあれば、見出せるはずです」
「根拠を、お教え下さるのでしょうね?」
騎道は極めて端正な横顔でうなずいた。
「まず、南の方角での老婦人の事故死。時刻は12時24分。南は九星気学では、11時から13時、老婦人を意味すると、あなたは僕に教えてくれました。
同じように、北は中年の男性と、時刻は23時から1時を意味する。これは殺害時刻と同じ時間です。もう一つは東。一人の青年が、明け方の5時頃、殺害されました。
三箇所も続けば、もうこれは偶然などではないんです。
四件目もこの学園で起きました。
事件を起した首謀者の狙いは、四つの方位に血の標を立てること。一つの方角の意味を強化できる、象徴的な時間と人間を選択し、しかるべき方法で惨殺する。
そうすることによって、巨大な布石を際立たせること可能となり、この街に、陰の白楼陣を布陣できるからです」
藤井はなんなくうなずいた。
「その通りですわ。
今年の2月14日をもって、何者かがこの街に、闇の布陣を開始したのです。偶然にも2月2日から五黄の年に入っています。破壊を象徴する気に満ちた、危険な年に」
九星気学の九星とは、八つの方位と中央の一つをめぐる九つの『気』を指している。
その中でも五黄土気は、九星中で最強の気をもち、『帝王の核心』と呼ばれる支配の核でありながら、反面「壊乱」「死滅」を暗示する、強い作用をもっている。
もしも五黄のもつ負の力に支配されるなら……これを『五黄殺気』と呼ぶ……あらゆる事象、人間の宿命さえも、おのずと破滅に突き進んでしまう、凶気であった。
「布陣は、この地を生きながら冥府へ突き落とそうとするものです。数多の怨念と悪霊を呼び覚ます為に。
この街の歴史の中で、無念の想いで死んでいった者の数は少なくありません。戦乱の世、太平の世を問わずに」
彼女の声は、予知者のもつ深い響きをまとっていた。
「陰の白楼陣が成されたなら、この街は混沌と無秩序においこまれるでしょう。闇の中に秘められていた全ての陰と邪悪なるものがまかり通り、混乱に陥ります。怨霊が跳梁し、人は苦悩に塗れ。生きながらの地獄絵。
白楼陣の持つ陰の力が、それらを呼ぶのです」
布陣者の望みが行き着く先は、陰陽道が激しく席巻した魔都、京都に栄えた平城京と様相を同じくすることとなる。
最も悲惨なのは、この街の人々が、京都の人々と違い闇の力に抗する知恵を何一つ持たないことであった。
無防備な街は、白楼陣が完了されたなら、ただ一人の支配者の手に落ちるのである。
「騎道様は、優れた布陣者としての素質がおありですのね。
ほんの三、四日のレクチャーで、そこまでお読みになるなんて。私の助けなど無用でありましょう?」
「……。そうやって、僕を見捨ててしまうわけですか?
僕も駿河さんたちも、もう用無しですか?」
藤井は何のことかと、口元で微笑んだ。
「僕が四件を関連つけることができたのは、久瀬光輝が、2月と4月の事件に注目していた節があったからです」
藤井を除く三人の目が、騎道に集中した。
「この地図は、亡くなった時のままにされていた、彼のアパートで発見したものです。
地図には、尼園二丁目と、楠一丁目にマークそれていました。僕は光輝の殺害現場にも記しをつけ、西の方位が空白であることに気付き、二ヶ月後の8月に起きている事件や事故を調べてみました。
そうすることが、光輝の死の真相を掴む手掛かりになるだろうと感じたからです」
藤井の表情に変化はなかった。
「8月20日に起きた上坂さんの事故は、無人のトラックが暴走するという不可解すぎる事故です。常軌を逸した殺人者には相応しい方法ではないかと直感しました。
多少の方位学の心得が僕にはありましたから、四方の方位を重視するのは、方位陣が狙いだと読んだんです」
「なぜ、久瀬光輝は初めの二件に注目したんだ?」
駿河は疑問を投げ掛けた。
「僕にはまるで推測できません。ただ、光輝は特殊な直感の持ち主なので、不穏な気配を感じたのかもしれません」
駿河たちに、光輝の特殊能力のことまで話す必要はないだろうという、騎道の選択だった。
騎道自身、光輝がサイキックで、統磨に思惑を感知したのだろう事実……推測によって確信できる範囲の事実ではあるが……までしか読めないのだ。なぜ光輝がこの二件に注目したのかという疑問は、光輝に尋ねるしか答えはなかった。
「この次に、布陣者はどう出てくるのでしょうか?」
騎道は藤井の変化を見守った。
「彼等は、新しい生け贄を欲しがっているのではないのですか? 布陣の最後の詰めを完了する為に」
藤井は顔を上げて、四人を見渡した。
「みなさんは、なぜ警察に届けようとしないのですか?
どうして騎道様は、全てを公にはなさらないの? 今また、新しい被害者が生まれようとしているというのに」
「そんなことをしても、無駄だとわかっているからです。
彼の背後には、財閥秋津家という強大な力があります。
秋津の家は次期当主を守りぬくために、あらゆる手段を講じるでしょう。警察の機構だって、期待はできません」
「たとえ秋津家でも、現実に人質をとっている人間をかばうことはできないはずですわ。騎道様。すぐに警察へ」
正論である。それが一番の方策といえた。
「これは僕の責任なんです。事を大きくしたら、傷付くのは秋津統磨だけではないんですよ?」
藤井は目を軽く見開いて騎道を見上げた。
「……あなたという人は、どこまでお優しいのか。私には理解できませんわ……」
漏らす通り、藤井には騎道の考えが理解できない。相手は凶悪な殺人者なのである。警察が介入したなら、残されたものは汚名を被るだろうが、それ以上に統磨は危険なのだ。情けをかける余地があるはずがないというのに。
「彼の次の狙い、どこでどうするつもりなのか、教えて下さい」
藤井は、無表情な沈黙で整った顔立ちを固めた。
あきらめて、騎道は別の話題を持ち出した。
「秋津と藤井両家は、何かと対立状態にあるそうですね。
秋津統磨の不始末が世間に公表されれば、秋津家は窮地に立たされる。藤井家には、好都合なことだ。
これはただの偶然ですか? 藤井さんが、この一連の事件に興味を引かれたことと、その犯人が仇敵であることは」
「……当然でしょう。私は、そこまで全能ではありませんわ」
頬を強張らせた藤井は、騎道の言葉を侮辱と受け止めた。本心から、そんな姑息な考えの行動ではないのだ。
「すみません。少し言い過ぎました」
騎道の謝罪に、藤井は救われた。意地悪な問いかけをした彼が少し恨めしかった。初めて、何を考えているのか計りかねる騎道の行動に、藤井は混乱しかけていた。
「でも、あまり驚いてはいないんですね、秋津統磨が、首謀者であることを……」
さりげなく、騎道はそう付け加えた。
見守る駿河も、それに気付いていた。単純に、藤井が冷静沈着であるせいだと、瞬時に内心で疑問を払ったが、騎道の指摘は再び疑惑を呼び起こしていた。
もしも。駿河は仮定だと自分に言い聞かせながら、藤井が真犯人を承知の上で、調査を依頼していたのなら、その狙いは何かと思案した。先ほどの屈辱の表情からは、秋津家の失墜を意図したものとは思えない。では……?
騎道の謎掛けも不可解である。騎道は別の真実を知っているのだろうか? それとも、藤井に動揺を与えるために、嘘をついていると、当て推量で水を向けただけなのか?
「……あなたは、何がおっしゃりたいの?」
藤井はそう尋ねた。細い指先を机の上でからませる。思考も停止するほど、藤井の感情は波立っていた。
待つ沈黙が騎道にはあった。彼の内には、一枚だけ、誰も知らないカードがある。予測の範囲内での確信しかもてないが、価値は高いと知っている。ただ、明かすつもりは騎道にはなかった。
「警察へは私が届けます。それが一番ですわ」
「やめて下さい。藤井さんがそこまでする必要はないはずです。それに、今ならまだ間に合うんです」
騎道は、プッシュホンにかかる指が静止することを信じて、彼女には触れなかった。
「何が間に合うというのですか!?」
引き止められるまま、手が止まる。それももどかしくて、藤井は我を無くして声を強めていた。
「事を大きくしたら悲劇を拡大させるだけです。犯人たちが暴走する可能性も高い」
藤井は騎道の憂いを、完全に拒否した。
「他人を案じてばかりいるのはやめて下さい。
……そうやって、あなたは自分の命を軽んじるのですか?
一人で全て解決してみせようと……。
私は、そんなつもりであなたを……!」
滑らせてしまった真実の言葉を、もう手遅れであるが、藤井は押さえた。騎道を見上げると、彼は穏やかで、なんの変化もなかった。
「……そんなつもりで、僕を選んだんじゃない……ですか?
犯人を突き止めさせて、警察へ通報させる為だけの」
これが予測していた、最後のカードだった。ただ、騎道はそれを、直接藤井から聞きたいとは考えてはいなかった。
そのせいか、知らずに声が強張っていた。
「……違います……。それは誤解ですわ……」
「否定しないで下さい。僕にはわかっていました。
藤井さんの行動はとても不自然でした。
まず、駿河さんに調査を依頼しながら、僕に手掛かりになるだろう白楼講のレクチャーを受けるようにしたこと」
騎道は、藤井が老師の著作を隠させたことをすぐに察していた。
「駿河さんたちへは、僕と手を組めば捜査は進展すると言ったそうですね。まるで急かすように。
一番不自然なのは、あなたが、五行思想の使い手とならば付き合うという噂でした。おかしいじゃないですか?
あなたが最高の使い手であるのに、なぜ他の人間を、僕を必要としたのか。
あなたを責めるつもりは、僕たちにはありません。お互いの望みは一致していました。
ただ、本当のことが聞きたいんです」
騎道は、駿河たちの感情を勝手に代弁したが、駿河には怒る気にもなれなかった。騎道が言った通り、結果は同じことだったのだ。
「……。私は、三件目の事件が起きた時、何者かが白楼陣を成そうとしていると気付きました。あれは、祖父の門下生、それもかなりの高弟でなければ駆使できないものです。
迂闊にも漏洩した人間が誰であるにせよ、これは藤井家の不始末でもありますわ。こうなったのも、秘伝を守る立場であるはずの、私たちに非がありました」
隠岐は、混乱している頭を整理しながら、ぽつりと言った。
「……あの、なんでちゃんと自分で警察に言わなかったんですか? そうしていたら、こんなことには……」
「藤井の人間が、秋津家の不始末を告発するような真似をしたら、世間は良く見ないだろう? 正義を貫いたつもりが、逆に、他人は足をひっぱっているとしか思わない」
だからといって……。やや、隠岐は不満だったが、悲しげに目を伏せる藤井の姿に、すこし胸を打たれ黙った。
「僕にもう一度チャンスを下さい。これ以上、悲劇を起さないために」
まだ、藤井は答えを出すことができない。
重苦しい沈黙の中、唐突に、ドアが開け放たれる。
戸口で室内を見渡し、彼は顔立ちを険しくした。
「一体、君達はここで何をしているんだ?」
有無を言わさぬ強い口調で、秋津静磨は釈明を求めた。
駿河が冷ややかな調子で、秋津の怒りに答えた。
「学園長室は代行に呼ばれた人間以外は、入室禁止のはずですが?」
「それはわかっている。君達の方には理由があるのかね? 今は授業中だぞ」
語気が鋭い。駿河の発言は、秋津を無視しようという意図が明確である。
カチリと、駿河と秋津の視線が噛み合った。
「秋津会長は、生徒会室で今大会の報告受理と監督作業でお忙しいのだと聞いていましたが。学園長代行への、何か急な案件でも起きたのですか?
緊急でしたら、連絡をお取りしますが」
涼しい顔で、騎道は受話器に手を伸ばした。
「教頭が、わざわざ生徒会室にお見えになったんだ。
四人もの生徒が授業中にも関わらず、学園長室に呼び出されているようだが何かあったのかと、ご心配なさっておられた」
なるほどと、大袈裟に騎道はうなずいた。
「騎道君。君は早退したんじゃなかったのかい? 教頭は、君までここに居るとは、おっしゃらなかったが」
「ずっとここに居ました。代行に呼び出されましたので」
秋津は、一瞬苦々しい光を瞳に浮かべた。
「藤井君は、顔色がすぐれないんじゃないのかい?」
言外に、藤井の側に立つ騎道を責めている。
「藤井さんのことは、僕が責任を持ちます。ご心配なく」
くすりと、駿河は含み笑いを浮かべた。辣腕と人気実力とも他を寄せつけない秋津会長を、ここまで顔色を無くすことができるとは、それも、声一つ荒げることなく、もの穏やかに、従順を装ったままで。
騎道はこの場に完全な勝利を迎えようとしていた。少なくとも、藤井が口を開く寸前まで、それは確実だった。
「……そんなにも、佐倉が大切ですの?」
深い思案から戻った藤井は、ぽつりと呟いた後、ゆっくりと顔を上げた。
「男として、助けたいだけです」
うなだれた藤井の声に打たれて、騎道はその表情さえ視界に捉えようとはしなかった。
「それだけの言葉では納得できませんわ……」
口を挟んだのは秋津だった。
「何のことだ?」
「秋津会長には、関わりのないことです。どうぞお引取り下さい」
それまで微動だにせず、うつむき加減にソファに掛けていた彩子が、秋津に言い放った。
「? 関わりのないことでも、興味深いな。元四神が三人も揃っているくらいだ。駿河君。何があったのかね?」
彩子を危険な事件に巻き込まないと、二人の思惑は一致していたはずなのに、駿河は騎道に迎合する発言をした。
秋津としては、非常に不愉快だった。
「2Bの佐倉千秋が、連続通り魔殺人犯と思われる男に拉致されたんです。生徒思いの会長殿なら、この会見の重要性は認識していただけるでしょう?」
駿河の要求通り、秋津はうなずいて沈黙を約束した。
藤井は指先を絞るように両手を重ねた。
「私が、あなたを危険にさらすようなことをしたくないと、考えることと同じ感情ですか?」
「僕の責任ですから」
真摯な感情の問い掛けに、騎道は誤魔化して答えることができない。短く言い切るので精一杯だった。
「それは、どういうことですの?」
「彼女が、僕の弱みだと思われたせいでしょうから」
「弱みと思われた? 現実にそうなのではないのですか?」
憤りを含んだ藤井の言葉。藤井はどうしても、騎道が佐倉に好意を持っていると決め付けようとしている素振りだった。騎道は首を振った。
「違います」
「なぜ違うとおっしゃるの? 矛盾してますわ。
あなたは全てに優しいのに、たった一人の人間に気持ちを受け止めるどころか、認めようともなさらないのね」
藤井は、形の良い細くひかれた眉を寄せた。
「ならば、僕はどうすればいいと言うんですか?
あなたは事件の解決を願っているのに、なぜ最後の一番重要な部分を隠そうとするんですか? 僕とあなたの利害は一致しているはずです。違うんですか?」
「……私は全能ではないと、先ほど申し上げましたでしょう。
大切に想う人を、傷付けたいなんて思いませんわ」
突きつけるように言い置くと、藤井は立ち上がった。
自分さえ沈黙を守れば、騎道は出てゆくことはない。統磨に望み通りに、布陣は完了される。
自己の矛盾に、眩暈を覚えた。そうなってしまうのなら、今まで手を下してきたことはなんだったのか?
「藤井さん。僕を危険から回避させたいという、あなたのお気持ちは感謝します。僕にまだ、今までと同じ感情をもっていて下さるなら、僕を信じて下さい。
馬鹿げた結果で、あなたを悲しませたりはしません」
我を取り戻して、じっと騎道を見つめた。
「何を言い出すのかしら? 私はあなたを思うままに操ったのですよ? 憎んでくださっても構いませんわ」
「教えて下さい。引き換えに何だってします。
あなたの望み通り。だから……」
跪くことさえ厭わないだろう騎道の姿がそこにあった。
彼は今まで、藤井に操られるまま彼女と手を組み、望まれるとおり五行思想のレクチャーを受けてきた。
藤井の本心がまるで見えなくとも、本当の理由一つ尋ねることもなく。それは、そこまでの行動に出なければならない、藤井の気持ちを気遣っての沈黙だった。
今は、そんな悠長な状況にはすでにない。
「何を、どこまでなさって下さると言うの?」
ほんの少しだけ、目の隅で騎道を射た。
「僕ができうる限りに」
藤井はふいに向き直って、握り締めた拳を騎道の胸に押し当てた。頬が紅潮してゆく。
「あなたの心は私にはないのに、どんな望みがかなえられるというのですか? 私の為に死んでほしいと、言う権利も私にはないのに……。酷い人だわ」
「……あなたが佐倉さんと同じように悪意にさらされるなら、それがどんなに危険であろうとも、僕はそこから助け出します。
そうするしか、僕はあなたの気持ちに応えられないから。
僕ができる限りという意味は、その程度です……。
あなたが僕を好きでいてくれる限り、僕もそれに応えます。僕を信じて、怖がらないで下さい」
受けた分だけ返す。まるで取り引きのようだが、最大には命さえもかけるという大きな賭け。騎道はその異様さに、まるで気付いていない。
なんのために? 本気で愛するとも言わないで、本気で死んでもいいとなら、簡単に口にする。
「あなたを見損ないました……。そんな風にしか、人を愛せないのですね……!」
部屋を飛び出してゆく藤井を見送って、騎道は肩を落とした。
「君が、こんな男だとは思ってもいなかったよ……。不器用にもほどがある」
秋津は、低くなじった。
「どうとでも言って下さい。
僕は誰かの心に、嘘だけはつきたくない……」
「では、今の言葉は本心なのかね? 本心でないのなら、君は残酷なことを、彼女に言ったんだぞ」
「……。自分でもわかりません……。
心にあるだけを伝えたまでです……」
白々とした空気が流れた。
駿河でさえ、今の騎道に失望していた。強引で冷酷なやり方ではない部分は、男として評価したい。だが、あまりにも、甘すぎるのだ。悪くいえば八方美人。割り切ることのできない、ある種の危険人物だ。
卓上の電話が鳴る。
隠岐が駆け寄って、受話器をとった。
「秋津会長! 数磨が教室で倒れて、今、保健室に運ばれたそうです……!」
素早く秋津は、隠岐から受話器を受け取った。
「静磨です。……はい。わかりました。すぐに向かいます」
青ざめた顔色を隠すように、秋津は受話器を置くのももどかしく、ドアに向かった。
「神経性の発作ですか?」
騎道が問いかけながら後を追う。
「君には関係のないことだ。私一人で十分だ……」
「そうであるなら、僕には処置の心得があります」
はっと、秋津は騎道を返り見た。
「……君は、知っているのか?」
秋津数磨が異脳者、加納育と同じ超能力者であることを、騎道は承知している。
「ええ。以前、数磨君と彼の『力』のことで少し話しをしたことがあります」
秋津は、立ち塞がるようにノブに手を掛けたまま足を止めていた。騎道の申し出を快く思っていないのは確かだった。
「数磨は、君に何を話したんだ?」
なぜか秋津は、弟の能力を隠そうとしてきていた。今、その数磨が危険な状態にあってさえ、助け手を受け入れるか、ためらっている。
「自分は人と違うからと、不安がっていました」
秋津の脳裏に、制御できない『力』を発揮してしまい、ただ彼に謝るだけの弟の顔が浮かんだ。不安と怯えだけがそこにあった。秋津自身、いつも正視に耐えなかった。
「いきましょう。手遅れにならないうちに」
騎道の言葉に打たれたように、秋津はドアを開けた。