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3/12

(二)


「しばらく、そこにかけて待っていてくれないか。もう二人、来るのでね」

 学園長代行に言われるまま、彩子は来客用のソファに体を沈めた。

 古めかしい建築が、この部屋を何十年も前の時代のように見せている。その中で、窓辺にたたずみ、凄雀(すざき)は何かを待つように、遠くを見下ろしていた。

 1メートル90センチはある長身は鍛えられ、身長に比べれば細いと思えるほど、全身の無駄は削ぎ落とされている。

 日本人離れした高い鼻梁、険しくひかれた眉。どれもが凍て付いて、冷淡な整い方をする端正さを持っていた。

 しかし彩子は、彼の内部には、正反対に激しく強靭なものが隠されていることを知っている。

 その秘め方は、どこか騎道とよく似た、秘密主義を連想させた。騎道と異なっているのは、凄雀は冷酷な仮面を決して揺るがせたりはしないだろうこと。彼は完璧であった。

 ドアがノックされる。

「お呼びでしょうか。学園長代行」

 二人の生徒の入室する足音。彩子は、声に振り返った。

「彩子……」

 思わず足を止める二人。駿河と、隠岐だった。

 彩子は視線を引き離し、凄雀を見返した。

 同時に、駿河たちも、鋭く凄雀をうかがう。

「君達には、しばらくここに居てほしい。今日はこれで、私はエスケープをするので、君達にアリバイをつくろっておいてもらう為にね。話しはそれだけだ。では」

「なぜ、私たち三人なんでしょうか?」

 言い切り、立ち去ろうとする凄雀を、彩子は引き止めた。

「同感です。訳を教えて下さい」

 駿河に、ドアの前から動く気配はなかった。

 凄雀は聞き違えをしたかのように、彩子と駿河を眺めた。

「ここへは、無断で誰も入らないように伝えてある。

 用のある時は、こちらに内線電話が入るから、適当にごまかしておいてもらえば十分だ。

 退屈なら、この部屋の何を使っても構わないよ。

 電話は専用パソコンにセットされているので、外部との通信も可能だ。グレードの高い機種だから、気に入ってもらえると思うが。

 それと、騎道を見掛けたら、すぐに連絡をよこすように伝えてもらいたい」

「質問に、答えて下さい」

 駿河はもう一度尋ね返した。

「どきたまえ。

 これ以上、私に何を言えというんだ? 君たちの誘拐犯探しを手伝ってやっていると、そこまで言わせるつもりか?」

 さしもの駿河も動揺した。

 何かあると感じていた。元四神王の、呼べる限りの三人を、授業中にも関わらず連れ出したのだ。

 だが、佐倉千秋の拉致を承知の上でのことだったとは、三人とも、想像していなかった。

 凄雀という男、一体何者なのか。

 まるで神自身のように、すべてを見通しているといわんばかりの瞳をもって、映る悲劇を見越し、その光を暗く陰らせているような人間だった。

 駿河は道を開けながら、この不可解な凄雀の一面は、就任時から強烈に示されていたことを思い出していた。

 それは、9月1日。始業式において、学園長代行として行った就任の挨拶にあった。

 壇上で、凄雀は一同を無感動に見渡した。

「君達も承知の通り、8月20日、上坂副会長が、この学園の北門で亡くなった、事故死、だそうだ」

 短い静寂が、生徒たちの間に鋭い緊張を流した。

「この日は奇遇にも、私が教職者として、はじめてここへ足を踏み入れた日でもあった。

 故意にせよ、偶然にせよ。私のささやかな記念日に、血の烙印を押した存在を、私は少なからず憎むだろう。

 例えそれが、何者かにとっての必然、もしくは、宿命の必然であったとしても、そんなことは、私には無関係だ。

 私の憤りはすでに消すことはできない。

 諸君にも承知しておいてほしい。

 私は教職者である以前に、そういった人間だ」

 しんと、全校生徒たちは静まり返った。教職者である以前に、怒りも憎しみももった人間だと、凄雀は語ったのだ。

「以上だ。少し大人気なかったが」

 そう、凄雀は演壇から、秋津会長を顧みた。

 鋭い視線を少し、笑ったように緩めていた。あまりにも険しく整った顔立ちであるため、微笑を読み取り憎かった。

「いえ。上坂になりかわって、お気持ちに感謝します」

 凄雀の存在感は、他の教師達のものとはまるで違うのだと、秋津同様、学生たちは受け止めていた。



「待って下さい」

 駿河は、部屋を後にする凄雀を、素早く追いかけた。

「騎道ですか。騎道が、あなたの耳に入れたんですか?」

「あいつは我が家の下宿人なのでね、全ての行動を把握する義務が私にはある」

「騎道の行動は、学園長代行のお墨付きなんですか」

 凄雀は親切にも、立ち止まり駿河を見返した。

「? 何の為のお墨付きか、理解できないが」

 駿河は攻め手を切り替えた。

「では彼は、学園長代行にとっては何なのですか?」

「さあね。ひどく手のかかるガキとしか言えないな」

「公認捜査ですか?」

 のらりくらりと、上流階級の御曹司らしくかわす凄雀に、駿河は畳み掛けた。

「行動を把握しておられるなら、ご存知でしょう? 騎道は、連続通り魔事件とその他二件の事故を探っています」

 凄雀はやれやれというように、駿河を眺めた。

「どう考えようと、私は構わない。君の指す捜査の対象は、興味は引かれるが、私の関わるべきことではないからな」

「そんなはずはありません。上坂副会長の不審な死は、代行にとっては、不快な事実なのではありませんか?

 そう、就任時の挨拶にあなたはおっしゃった」

「少なからず憎むとは言ったが、その上でどうこうするとは、一言も言っていないし、そんな気もない。

 ともかく、あの手に負えない奴を、あまり買い被らないほうが君の為だ」

「それは、警告ですか?」

 呆れ果てて、凄雀は駿河を見下ろした。

「勝手にしろ」

 吐き捨てて、そのまま階段を駆け降りていった。

 凄雀の態度は拒絶だが、冷淡でも立腹したわけでもなかった。おもしろがるような、微かな期待があったのだ。

 一体、自分たちに何をさせようというのか。

 駿河は、騎道とともに謎めいた学園長代行も、計り知れないと認識した。



 気まずい沈黙に、隠岐はただ戸惑うばかりだった。

 駿河と凄雀が部屋を出て、学園長室には彩子と二人だけで取り残されてしまったのだ。

「……彩子さん。あの……。

 騎道さんって、どこに行ったんですか……?」

 しどろもどろである。

 彼は役者には向かない。考えていることがすぐに顔に出てしまうのだ。損な部分であり、他人には得な部分だ。

「知らないわ。知ってたって、あなたたちには教えない」

 ソファに掛けたまま、彩子は顔を逸らした。

 こんな仕打ちを、隠岐は承知していた。しかし、騎道と手を組んでいる彩子しか、騎道の手掛かりを知る人間はないのだ。

 駿河は帰らない騎道に焦れて、すでに統磨自身が直接騎道とコンタクトを取ったのではないかと憂慮していた。そうなってしまっては、駿河たちには手の打ちようがない。

 頼みに情報屋からの手掛かりも、さっぱりと途絶えていた。彼等は浮き草のような立場である。情報は掴んでいても、秋津本家怖さに口をつぐんでいることも、考えられなくはない。

 彩子同様、駿河たち二人も、焦燥感を強めていたのだ。

「彩子さん!」

 ふいに立ち上がる彩子に、隠岐は声を上げた。構わずドアを開け、彩子は通り抜けていく。

「先輩っ! 彩子さんを、止めて下さい」

 悲鳴のような隠岐の声を受けて、駿河は彩子の腕を取って、部屋に引き戻した。代わって、今度はガッチリと、やや頼りないが、隠岐がドアの前に立ち塞がった。

「彩子。騎道がどこに行ったのか、教えてほしい」

「いやよ」

 隠岐は、駿河に肩をすくめて見せた。

「知っていても、教えないって、彩子さん……」

 なるほどと、駿河はうなずいた。

「どうしても、教えてもらう。騎道をこのまま、見殺しにしたくないのなら、言えるはずだ」

 隠岐と違い、駿河は彩子に対するやるせない仲間意識を捨てていた。少なくともこの場は、忘れ切らなければならない。その決断さえ、彼女を救う一助になるのだから。

「見殺しですって?」

 大袈裟な言葉に、彩子は猜疑の目を向けた。

「彩子ならわかるはずだ、今の騎道のターゲットは危険すぎる。

 奴は自分で手を下して、もう二人の人間を消してる。その上、10歳にしかならないような子供まで、秘密保持の為に消そうとした。今度は佐倉の拉致、狙いは騎道だ。

 少なくとも、騎道はこちらの切り札だ。

 だが奴の手に落ちたら、生きては帰れない。奴のバックの力は強大だ。こんな事件くらい簡単にもみ消せる。

 俺たちがどんなに足掻いても、そうなったらお終いなんだよ」

 彩子は瞳に戸惑いを見せた。駿河の思惑にはなかった、強い疑問がそこに浮かんだ。

「奴って、誰のこと? あなた達、通り魔事件の犯人を知っているの? 10歳の子供って、育君のことなの?」

「え……?」

 耳を疑ったのは駿河だった。

 目の前の彩子は、ただ尋ねるだけの表情しか浮かべていない。訳がわからず、戸惑って、初めて聞く事に驚愕を向けていた。

「? 彩子さん、騎道さんから何も聞いていないんですか?」

「隠岐、言うなっ!」

 咄嗟に、駿河は隠岐を怒鳴りつけていた。

「切り札ってどういうこと? 真犯人が誰か掴んでいるの?

 まさかあなたたち……、手を組んで……!?」

 遅かった。駿河は迂闊だったと、自分を悔いた。

 彩子は駿河の前に詰め寄っていた。

 彼女の戸惑いは消えていた。瞳はいままでになく強い光をもって、駿河を見つめた。

「言って。誰なの?」

 低く言い放つ。

「だめだ。これ以上は話す気にはなれない。騎道が君に隠していたことを、僕らが言うわけにはいかない」

 駿河は顔を逸らした。

 懐かしささえ感じる、激しさを秘めた瞳だった。

 四神王と呼ばれていた頃、どれほどこの光の強さに、気持ちが駆り立てられたことか。四神王にとって、彩子は指標、揺るがせない『感情』だった。彼女のマインドなくして、彼等は事件に飛び込むことはなかった。

 この光を二度と見ないと、駿河は誓ったのだ。彩子と関係を絶ったのも、その為。なのに……! この様だ……。

「……あなたたちの心配性のおかげで、察しはつくわ。

 意外と、お人好しだったんだ、駿河って。

 嘘ばっかりの騎道なんて、放っておけば良かったのにね」

 彩子の声は、いいようのない憤りに震えていた。

「あの騎道から離れる気になってくれたんなら、嬉しいよ。

 ……いったい誰だと思うんだ?」

 力無い駿河の言葉に、彩子はぐっと顔を上げた。

「私が知らなかったとでも思っていたの? 甘く見ないでよ。あいつら、あなたたちに圧力をかけたんですって?

 猫狩り事件の時」

 完全に、駿河は目を閉じた。

 お終いである。美しく残っていたはずの、四人で居た時間でさえ、裏切りの烙印が押されていたことが判明した。

「知ってたわ。わかったのは、ずいぶん後のことだけど。

 聞いた時は、あなたと章浩を恨んだわ。大嫌いになった。

 少しは嬉しかったわよ。心配されて、大切にされて。

 でも、かなり許せなかった。

 仲間だと思ってたのに。あなたたちはそうじゃなかった。

 違ってた……」

「まってくれ。あの時は、俺も賀嶋もどうしたらいいのかわからなかったんだ。ただ、彩子だけは……」

 駿河が守り抜きたかった彩子は、心の底からの怒りをぶつけてくる。強く首を振って、

「いい加減にしてよ……!

 あたしは守られるために生まれてきたんじゃないのよ?

 大事にされる為だけに生きてるんじゃない。

 あたしにだって、意志はあるの。感情だって、暴走する時だってあるのに。

 どうして一緒じゃダメなのよ? なんで同じところで同じように走っちゃいけないの!?」

 責め、挑み、射抜く視線。

 あえて駿河は、激しさを正面から受け止めた。

「彩子……。俺たちは、今の騎道と同じ理由で、決めたんだ。これからも変えるつもりはない。

 命を張ったって君を守る。何だってする」

 彼女は耳を塞いで声を上げた。

「嫌っ! 聞きたくない……!」

「君を二度と、危険にさらさない……!」

 この一言が、彩子の重荷になることはわかっている。だが、これが彼等のこれ以上もこれ以下もない本心だった。

「そんなの嫌なのよ! 私に構わないで……。

 隠岐、そこを退いて!」

「彩子さん、ダメです。絶対ダメ!」

 ドアに張り付いて、隠岐は頭を振った。

 室内が冷たく凍り付こうとしていた。

 彩子の部屋の中央に立ち尽くすしかなかった。男たちの優しさなど、彩子には傲慢としか思えなかった。

「あなたたちはひどいわ。卑怯だわ。あたしの気持ちなんてまるで無視して、自分の思うようにやっているだけじゃない。自分だけが満足していればいいんじゃない!?

 私はあなたたちの飾りじゃない。自分で選ぶ。

 もう誰も信じないわ。騎道も、章浩も……。

 顔も見たくない……!」

 二人は黙って、彩子の罵声を受け止めるだけだった。

 どう言われようと、彩子をここから解き放ってはいけないのだ。激しい感情だけが走り出して、人間に醜さに傷付くのは、彩子なのだ。

「あたし、臆病だったわ……。でもこんな思いするくらいなら、初めから一人でやればよかった。

 嘘つきの騎道なんて、信用しなければよかった……」

「彩子。あいつだって、本気でお前のことを」

「口先だけよ……! ほんとは何もわかってくれてなかった……」

 彩子は呟きながら、後ずさった。

「ばかな真似はよせっ」

 窓枠に手をかける彩子。

 ここから飛び降りるつもりなのだ。下は柔らかい芝生だ。彩子ほどの身の軽さなら、二階という高さ程度で怪我をする可能性は低いが。

 駿河は肩を抱くようにして、その場から引き離した。

「離してっ!」

「隠岐っ、窓を閉めろ!」

 言われるまま駆け寄る隠岐。

 ふっと、抵抗する彩子の力が抜けた。

「! 騎道……!?」

 ノックもなく、ドアが開いていた。

 目を見張って、三人に顔を向けているのは、他の誰でもない。騎道だった。

「……どうして、ここに? 代行は居られないんですか?」

 さしものポーカーフェイスも、驚きを隠しきれなかった。

 その騎道の目前で、彩子は駿河の手を払い除ける。

 ひとまず息をついて、駿河は乱れた前髪をかきあげた。

「エスケープだそうだ……。我々にここでアリバイを作るようにと言いつけて。ここで誘拐犯の捜査をしてもいいとも、非公式におっしゃられた」

 棘を含んだ答えだった。

「なるほど、僕だけでは心許無いということですね。

 信用されていないんだな、僕は」

 溜め息とともに、騎道は肩を落とした。

 ゆっくりと、閉じたドアに体を持たせる。顔色が蒼白なのは光の加減のせいではないだろう。全身が、どこか気だるい様子で、口を開くのもおっくうなほど疲労している。

 彩子は、腕を組んで騎道を眺めている。

 かたくなに感情を閉ざした状態だ。駿河は、彩子の怒りを気に掛けながら、騎道に切り出した。

「なぜ彩子に、統磨のことを話さなかった?」

 騎道は反射的に顔を上げた。

「話したんですか?」

「……。てっきり、伝わっていたのだと思っていた」

 騎道は再び力を失った。首を弱く振ると、

「疑われても仕方ありませんね。でも、最低限の約束は守るつもりでしたから」

「……すまん」

 心の底からの謝罪だった。それを受け止めて、騎道は弱い笑みを返した。

「いえ。いずれ、こうなることですから」

「こうなるって、どういうこと?」

 彩子のきつい声を響いた。

「手を組むって言ったわ。単独行動も厳禁だって。

 駿河たちと組んでいたなら、あたしは何なのよ?

 騎道のやっていることは、全部嘘ばかりじゃない?」

 ドアを離れて、騎道はソファに体を沈めた。

「駿河さん。代行から伝言はありませんでしたか?」

「あ、ああ……」

 彩子を無視する騎道の態度に、駿河は一瞬戸惑った。

 騎道はかなりのフェミニストと聞いていたのだ。

「君から来たら、連絡を入れるようにと」

「わかりました」

「騎道!?」

 彩子の声に耳を貸さず、騎道は立ち上がって受話器を取り上げた。短縮ボタンを押すだけ。すぐに繋がった。

「騎道です。手掛かりはまるでありません。足取りも、どうしても掴めませんでした。

 ……いえ。大丈夫です。まだやれます。

 声? 気のせいですよ。平気です。昼食を抜いたせいですよ。生憎まだ、ピンピンしています」

 冗談口を、騎道は学園長代行と交わしていた。

 一転して口調が改まる。

「わかっています。……はい。すみませんでした」

 受話器を置いて、騎道は一息ついた。彼の疲労が、昼食を抜いた程度のせいではないのか明らかだった。

「僕の状況はこういったところです。街中探してみたんですが、無駄足でした。駿河さんの方はいかがでした?」

「その前にまずかけて、体を休ませろ。

 隠岐。購買へ行って、何か食べられるものを調達してこい」

「いえ。隠岐君はここに居て下さい。しばらく休めばなんとかなります。今は少しでも、時間が惜しいんです」

「……わかった」

 うなずいて、駿河は移動する騎道を見守った。

「何か他に手立てはありますか?」

 頼みの情報屋が当てにならないことを、駿河は正直に打ち明けた。秋津の圧力に恐れをなしているだろうという駿河の推測に、騎道も同調した。多くは語らず、二人は改めて自分たちの向かっている敵の強大さを確認した。

「あるにはあるが、もう少し捜査のポイントが絞れなければ無意味だ」

「僕も同じです。どこに集中したらいいのか……。呼び出しておいて雲隠れするなんて、考えられないんですが」

「何か、時間稼ぎでもしているんでしょうか?」

 隠岐がポツリと呟いた。駿河は小さくうなずいた。

「可能性はあるな」

 騎道は腕時計を見やった。

「二時を回りますね。佐倉さんが拉致されて、もう三時間経ってしまう……」

 動かしようのない事実に沈む声だった。

 彩子は腕を解いて、ドアに向かった。

「待って下さい。彩子さんには、ここにいて手を貸して欲しいんです」

「……いい加減にして」

「なんですか?」

 騎道は立ち上がりもせず、聞き返した。

「もう嫌だって、言っているの。

 嘘を付かれるのも、誤魔化されるのも。沢山だわ……」

「彩子さんに嘘を付いたのは謝ります。でも、ここからは嘘や誤魔化しはありません。だから」

「騎道の言うことなんて信じられないわ!」

 騎道はソファの腕に手を掛けて席を立った。つかつかと彩子に歩み寄ると、強く言い放った。

「信じてくれなくても結構です。ただ、君はここにいて下さい。勝手な真似をして、すべてを打ち壊さないで欲しい」

「!」

 騎道を見上げる大きく見開かれた瞳が、さっと潤んだ。

「そんな言い方……」

 声を上げる隠岐を、駿河は視線で黙らせた。

 彩子は唇を噛み締めて、頭を振った。

 そんなつもりではないと、叫びたかった。だがそうしたら、涙が零れてしまうのだ。

 騎道は、視線を引き離し、壁に腕を付いた。

「どうしてわかってもらえないんです? 今は、こんなことをどうこう言っている場合じゃない……!」

 深い焦燥が滲む。全ての手を尽くした結果に打ちひしがれ、一番苦渋を飲まされているのは、騎道自身だった。

 駿河が、騎道の肩に手を置いた。騎道は顔を上げ、もう大丈夫だというように、小首を傾けた。

「後は、藤井さんに賭けるしか手立てはありません」

「藤井香瑠に?」

「統磨さんの狙いは、布陣の完了でしょうから」

「四方だけでは足りないのか」

「ええ。なんらかの意図に基づいて、時間を稼いで僕を待っている。次の犠牲者は、僕か佐倉さんのはずです。

 その布陣が読めるのは、藤井さんしか居ません。

 もしも僕が辿り着けなかったなら、佐倉さんを、僕の身代わりにするつもりだ」

「最後の生け贄のつもりか……!」

 次第に、騎道には生気が蘇りはじめていた。

「そんなことをさせる気は、僕にはありませんが」

 駿河も隠岐も、彩子でさえ、騎道のこの変化に見入っていた。ほんの数秒前までの混乱を、騎道は強靭な精神力で抑え付け、今まで以上に冴えた表情を見せていた。

 騎道は机上のパソコンを指した。

「隠岐君。君に頼みたいのはハッキングなんです。

 簡単ですよ。パスワードは、僕が知っています。

 そこのパソコンを使って下さい」

 弾かれたように、隠岐は学園長席についた。

「呼び出すのは、FISのセクション№E。パスワードは二つあります。初めは、エレメント。次は、ジン。

 犯罪にはなりませんよ。この間、僕がこちらのセクションに移すよう依頼しておいたデータですから。このパソコンがアクセスを承認されていないだけで」

 打ち込みを始める隠岐を確かめて、騎道は駿河に向き直った。

「さてと。今はまだ授業中なんですが、僕らは休憩時間まで待っていられるほど悠長じゃない。

 どうしましょうか?」

 駿河は、ニヤリと笑った。

「学園長代行と同じ手を使えばいい。呼び出してもらえるように、職員室に電話を掛けるだけだ」

「……なるほど。ほんとうに、皆さんが居てくれて助かります」

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