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(一)

 受話器を握り締めて、彼女が大きく笑っている。

「ほんとに? いやぁね、滝田君って」

 教務室の来客用窓口に据えられた、多機能電話である。

 今は、三時限目が終了した後の、短い休憩時間だった。

「うん? そうそう。彼って、意外とそそっかしいのよね」

 騎道(きどう)は足を止めた。会話が終わるのを待つつもりもあったが、笑顔が放つ暖かさに、目を奪われたせいというのが本当のところだった。

 くすりと、目を細める。ふわりと、軽いウェーブをもった髪が肩の辺りで揺れた。微かにそれが、頬に触れる。

 形良く尖った顎を上下させて、会話の相手に同調し、またひとしきり明るく笑い転げる。

 彼女の、こんなにも少女らしい仕種を目の当たりにするのは、初めてのような気がしていた。

 彼女はいつもどこか身構えて、気の強い自分を見せていた。手の中から失ったものを諦めようと、大人びた顔立ちで、本当は忘れ切れない辛さを繕っていた。

 この街に来てまだ一月半しか経っていないが、騎道はその理由を知っている。

 あんなに凶悪で残酷な事件さえ起きなければ。それ以前に、彼女がもっと普通の、誰かの後ろで守られているのを当然と信じているような、少女であったなら。

 騎道は手遅れな願いを、つい思い起こしていた。

 彼女は受話器を置いて振り返った。視界に入った騎道に、さきほどの笑みの余韻を向けてくる。

「園子からの電話なの。白凰高校の会場に着いたんですって。笑っちゃうわ、カメラマンの滝田君。会場で眼鏡が無いって大騒ぎして、今日から取材のためにコンタクトに変えたこと、本人が忘れてたんですって」

 滝田は生真面目な顔立ちで眼鏡がよく似合っていた。そのトレードマークがないことだけで、多くの笑いを誘うだろうと、彩子(さいこ)は思い浮かべて不釣合いさに笑ってしまう。

 かけた黒縁眼鏡がまるきり似合わない騎道とともに、逆の意味で笑いを誘う生徒になってしまったわけなのだ。

「白凰高校って、テニスの試合会場の?」

「うん。三橋(みつはし)は、一回戦を楽に突破したって」

「そう。それはよかった」

 堅い笑みを、騎道は彩子に浮かべた。

「何かあったの?」

「ええ。ちょっと……」

 騎道は背後に連れてきた一年生を振り返った。

「もう一度、くわしく話してくれないかな?」

 彼はやや緊張した面持ちで、彩子と騎道を交互に見返しながら、口を開いた。

「田崎には、口止めされたんですけど、やっぱり気になって……。だって、誘拐犯が指名したのは騎道さんですから、何かあった時、俺、心配で」

「誘拐? 何、誰のこと?」

「佐倉さんが、三時限目から姿が見えないだろ? どうやら、休み時間中に呼び出されて、拉致されたらしいんだ」

 騎道は冷静な口調で、一年生の話しを補足する。

「俺と田崎は、偶然見かけて。それで……」

『騎道に伝えろ。取り返したければ、一人で私の所に来い』

 それだけを、呆然と立ち尽くす二人の一年生に言い残すと、佐倉を乗せた白いセダンは走り出した。

「自分の名前は、秋津統磨(とうま)だって名乗って」

「秋津、って……?」

 秋津統磨。彼がなぜ? 彩子は戸惑いながら、統磨がどういう人間であるかを思い返し、肌寒いものを感じた。

「ありがとう、教えてくれて。感謝するよ。

 この事は事件が解決されるまで、口外しないでくれないか」

「ええ。勿論です。それじゃ、俺」

 肩の荷を下してせいせいした顔で、彼は離れていった。

「どういうことなの? 彼と何かあったの? まさかまた、喧嘩でも」

「……ちょっと、やっちゃったんです。光輝のことで」

 自分が囮になろうとしたことを、言い出すつもりはなかった。微かな苦笑で、彩子に応えた。

「なんてことを。挑発するような真似をして。

 自分で単独行動は厳禁だって、言ったじゃない」

「……反省してます。こんな形で彼が出てくるとは、思いませんでしたから……」

 騎道の声は低く響いた。

 彩子は、次に責める言葉を失った。押さえつけてはいるが、騎道はひどく動揺しているようだった。

「でも、どうして千秋なのかしら……?」

「統磨さんに見られたんです。佐倉さんと一緒のところを。

 たぶんそのせいでしょう。誤解されたんだな……。佐倉さんに、白紙に戻そうと話した直後だったのに……」

 彩子は思い当たった。急に、お弁当便が廃業になったのだ。不思議だったが、理由を騎道に聞くことはしなかった。中途半端な関係など、結局誰のためにもならないと、彩子は一度、騎道を責めたことがある。

「田崎君はどうしたと思います?」

「自分で追いかけたりはしないでしょうね。間違いなく駿河の所に泣き付いてるわ。耶崎の四神王は有名ですもの」

「でも、捜査するとしても彼らにはそれほど有力な手掛かりはないでしょう? 名指しされた僕の方が有利だ」

「だめよ、騎道」

 そう言ってみたが、引き止めても無駄らしいことは、彼の瞳の奥深い光が語っている。

「統磨さんが場所を指定しないということは、僕に探し出せということなんです。望み通りにしなければ、佐倉さんは見付からない」

「駿河たちには、情報屋がついているわ。何か掴んでいるかもしれないし。騎道が一人で動くのは危険だわ」

 不安を彩子は感じていた。

 騎道は情報屋の言葉に身を乗り出した。

「なら逆に好都合じゃないですか。彩子さんは駿河さんたちの動きを見張っていて下さい。確実な情報を掴みさえすれば、彼らは動き出すでしょう?

 それと、統磨さんから、僕に連絡が来るかもしれない。

 彩子さんはここで、連絡を受けてください。

 僕は、佐倉さんの居場所を突き止めたら、必ず連絡を入れます。単独では動いたりしません。約束しますから」

 約束、の真剣な一言に、彩子は息を詰めた。

 こくりと、彩子はうなずいた。騎道は生徒玄関へ歩き出す。

「待って、騎道!

 お昼には必ず帰ってきて。何も掴めなくても、絶対よ?」

 初めて彼等二人は、パートナーとして動き出す。お互いがそれぞれの位置を確認し合っていなければ、どちらも動きが取れなくなる羽目に陥るものだ。

 学園に残る彩子は、これからの騎道にとっては、大海原にポツンと輝く灯台のような存在になる。

「ええ。そうします」

 騎道は片手を挙げて、姿を消した。

 視界から消えた騎道の後ろ姿を追ったまま、彩子はその場にしばらく立ち尽くしていた。我に返ったのは、授業開始を告げるチャイムの音に打たれてからだった。



「おばさん! 明太子のおにぎりもう売り切れ? ウッソー。ほんとにないの? まいったなぁ。駿河先輩、我が儘だから、他のじゃ機嫌悪くするだろうし……。

 じゃあさ、ツナサラダは? それも無いの? 僕、ツナ食べたかったのにぃ……」

 こんなに遅く来て、御託並べてんじゃないよっ。と、おばちゃんは、よく口の回る男子生徒を叱り飛ばした。

 しかたくな残り物を袋に詰めてもらって、彼、隠岐克馬は、足早に引き返そうとした。

「! 彩子さん……」

 目の前に立つ彩子と、差し出された二つのおにぎりに、隠岐は戸惑う視線を交互に置いた。

 明太子とツナサラダ。喉から手が出るほど欲しいが。

「忙しそうね。お昼くらい、落ち着いて食べたら?」

 彩子には全て読まれていると、隠岐は直感した。

「騎道の分と思って買ったんだけど、なんか戻って来そうにないのよね。折角だから、あげるわ」

 声が棘棘しい。これは絶対に、自分たちのせいじゃない……。ぼーっとした隠岐でも、それは理解できた。

 騎道が、彩子のことを怒らせている。それを悟ると、隠岐は『触らぬ神に祟りなし』の言葉を思い出した。

「た、助かります。ご馳走になります。それじゃ……」

 そそくさとその場を逃げ出す隠岐。

「もう騎道さんの耳に入ったのか……、佐倉さんの誘拐。

 でも、あの彩子さんの怒り方だと、勝手に騎道さんが一人で動いているから、我慢の限界に来てるって所だよな……」

 振り返ると、遅い時間の食堂で、一人ポツンと定食をつついている彩子が居た。まるで進まない箸が、やり場のない気持ちをすべて物語っている。

 騎道からも、統磨からも、何の連絡も入らないのだ。

 逆に彩子も、隠岐のあの様子では、駿河たちの調査にも何の進展が見られないと読んだ。

「……騎道って、口だけは上手よね。役者並だわっ……」



 時間だけが過ぎてゆく。授業は五時限目に入った。

 教室内は、各種大会の開催日が重なっている為、公欠者が多く、出席している生徒は半数くらいだった。

 佐倉の早退は、親友で新聞部部長である椎野の手伝いに回っているからだと決め付け、誰も不審には思っていない。騎道の方は、体の具合が悪いと彩子が言い訳をした。

 椎野が不在なのは、唯一の好材料だった。

 彼女は、競技会速報をメインに据えた特別紙の編集作業の為に、部室に籠もりっきりなのだ。稜明学園は優良校であるため、何かと他校の注目を集めている。他校への対抗意識も手伝って、作業に熱が入るのは当然といえば当然だった。

 いずれ佐倉拉致は椎野の耳に入る。しかし、今は、あまり事を大きくするわけにはいかないのだ。

「……一体、今どこにいるのよ、騎道……」

 講義を進める声は、耳を素通りするだけ。

 何も考えたくなかった。考えれば、彩子の頭の中は、最悪の状況しか思い付けない。

『約束する』と言った真剣な瞳は、彼には簡単なお芝居だったのではないだろうか。

 整った顔立ちと真っ直ぐに見通す瞳。柔らかい物腰に隠されている並外れた強靭な意志。一面純粋で高貴ともいえる雰囲気を漂わせながら、気取った部分がまるでない騎道。

 個性の一つ一つがこの上なく綺麗に整っていながら、彼の存在はアンバランスな印象を隠しきれなかった。

 青木園子はジャーナリストの視点で、『仮面を被っている』とその複雑さを言い表した。

 八日前、彩子自身が夜の中で、騎道の別の表情を目撃していた。だが、それすらも騎道の全てではない。

 彩子が知っているのは、ごく一部の騎道の姿なのだ。それさえ、今では偽りのようにさえ思える。

 不安に疑いが入り込み、彩子は自分が一人、静かな教室にいることさえ罪のように感じはじめていた。

 外は、澄み渡った晴天。野外大会には絶好の好天に恵まれている。各校の選手たちは、代表としての誇りと、これまでの一年間の成果のすべてをもって、それぞれの場所で全力を尽くしているはずである。

 三橋も、取材を続けて飛びまわっている園子も。ここで授業を受けている生徒たちでさえ、刻々と飛び込んでくる試合速報に一喜一憂し、何か胸を騒がせている。

 騎道も、必死な思いで、佐倉を追いかけている。

 自分だけが、何か別の世界に置かれている……。わけもなく、焦りが彩子の胸に広がってゆく。

 反面彼女は、ここに居たい。耳を塞いでいたいと、願っていた。怖かった。犯罪が最後に行き着く悲劇を、目の当たりにしたくはなかったのだ。

 彩子は静かに、ノートと教科書を閉じた。エスケープを決めた。苦しさから、逃げ出すつもりだった。

 ガラリと、教室のドアが引かれた。顔を出したのは、事務教員であった。

「飛鷹彩子さんに。学園長代行がお呼びです」

「あ、はいっ!」

 不思議だった。なぜ、彩子を代行が名指しするのか。誰もが、彩子自身も、不思議でならなかった。

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