最下層の絶望と、次元が違う『初歩』
王立アルカディア学園魔法科の初の実戦授業、『ダンジョン実習』。
薄暗い石造りの通路を、等間隔に配置された魔石の灯りが照らしている。
「セレスさん、足元に気をつけてくださいね。少し段差になってますから」
「ありがと、ソフィア! いつもごめんね」
ダンジョンのひんやりとした空気の中、セレスは少しだけ息を弾ませていた。
そんなセレスを気遣い、ソフィアは片時も手を離さず、甲斐甲斐しくエスコートしている。
「少し汗、かいてますよ。拭きますね」
ソフィアが背伸びをして、いい匂いのするハンカチでセレスの首筋の汗をそっと拭う。
その瞬間、ふわりと甘い香りがセレスの鼻腔をくすぐった。
(あ……ソフィアの匂い。なんだか、すごく……)
至近距離にあるソフィアの白くて細い首筋。そこをトクン、トクンと脈打つ血管を見た途端、セレスの奥底で奇妙な衝動が跳ねた。無性に喉が渇く。思わずその柔らかい肌に、ガブリと噛み付いてしまいたくなるような——。
「セレスさん? どうかしましたか?」
「ひゃあっ!? う、ううん! なんでもない! ちょっと喉が渇いただけ!」
ぶんぶんと首を振って邪念(本能)を振り払うセレスに、ソフィアは「お水、飲みますか?」と自分の水筒を差し出した。
「あ、うん! いただくね!」
セレスが口をつけた飲み口を見て、ソフィアの顔がボンッと林檎のように赤く染まる。(か、間接キス……っ!)と内心でパニックになりながらも、彼女は繋いだ手をさらにギュッと強く握りしめた。
「おい、そこの田舎娘ども。ピクニック気分なら帰れ。目障りだ」
イチャイチャ(?)と和やかな空気を切り裂くように、苛立った声が響く。
先頭を歩く金髪碧眼の少年——レオンハルトだった。彼の隣には、腰巾着のように付き従う取り巻きの男子生徒が一人、ヘラヘラと笑っている。
「レオンハルト様の言う通りだぜ。お前ら、実技試験でまぐれ合格したからって調子乗るなよ?」
「ごめんなさい……でも、マッピングはちゃんとやってるよ?」
セレスが手書きの地図を見せるが、レオンハルトは鼻で笑った。
「こんな浅い第1層のマッピングなど、平民のやることだ。僕たちはこのまま第2層へ降りる」
「えっ!? でも先生は第1層までって……」
「黙ってついてこい。僕の邪魔だけはするなよ」
ソフィアの制止も聞かず、レオンハルトは強引に下層への階段を降りていった。
第2層は、1層とは打って変わって魔物の質が格段に上がっていた。
しかし、ここでレオンハルトはその圧倒的な実力を見せつける。
「——凍てつけ、『氷刃の雨』!」
群れで襲いかかってくる『影狼』の足元を氷の魔法で縫い止め、機動力を奪う。
「——貫け、『土竜の槍』!」
硬い装甲を持つ『岩石トカゲ』には、死角である真下の地面から岩の槍を突き上げて串刺しにする。
炎、氷、土、風。多彩な属性魔法を瞬時に切り替え、状況に合わせて最適な魔法を最小のモーションで放つ。その戦術眼と魔力コントロールは、学生の域を遥かに超え、熟練の魔法騎士すら凌駕していた。
「さすがレオンハルト様! 全属性をこれほど完璧に操るなんて!」
「ふん。アークライト家の次期当主として、これくらいは当然だ」
(やれる……! この調子なら、誰にも文句は言わせない。父上もきっと、僕の力を認めてくださるはずだ……!)
焦燥感に駆られていたレオンハルトの心に、余裕が生まれ始めていた。
その時、通路の行き止まりの壁に、不自然な窪みがあるのを見つける。
「隠し部屋……! ここで貴重な遺物でも見つければ、僕の評価は確固たるものになる!」
功を焦ったレオンハルトは、警戒もせずに部屋の中へと足を踏み入れた。取り巻きの生徒も慌てて後に続く。
「あっ、待って! なんだか嫌な予感が……!」
セレスとソフィアも部屋に入った、その瞬間。
——バタンッ!!!
背後の隠し扉が凄まじい勢いで閉ざされ、足元の床が禍々しい紫色の光を放ち始めた。
「なっ……転移の罠だと!?」
レオンハルトが叫ぶ間もなく、4人の視界はぐにゃりと歪み、強烈な浮遊感と共に暗闇へと飲み込まれた。
「……っ! みんな、無事か!?」
ドスン、と冷たい石の床に投げ出されたレオンハルトがいち早く身を起こす。
そこは、第2層の狭い通路とは全く違う、巨大なドーム状の空間だった。
ズシン……ズシン……と、地鳴りのような足音が響く。
暗闇の奥から姿を現したのは、体高10メートルはあろうかという巨大な魔獣だった。六つの紅い眼。口からこぼれる息だけで岩をドロドロに溶かすほどの、圧倒的な熱量と魔力の圧。
『深淵の覇者』。
熟練の冒険者が数十人がかりでようやく討伐できるかという、災害級のバケモノ。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!? な、なんだよコイツ!!」
取り巻きの男子生徒がパニックを起こし、出口を探して背を向け、走り出した。
「馬鹿っ、動くな!!」
レオンハルトの制止は遅かった。
魔獣の巨大な尻尾が、目にも留まらぬ速度で薙ぎ払われる。
「がはっ……!?」
取り巻きの生徒は為す術もなく吹き飛ばされ、壁に激突して白目を剥き、崩れ落ちた。一撃で戦闘不能だ。
「嘘、だろ……? なんでこんな学生用のダンジョンに……」
レオンハルトの全身が、絶望にガタガタと震え始めた。
格が違う。本能が「絶対に勝てない」と警鐘を鳴らしている。自分の多彩な魔法も、あの分厚い装甲の前では児戯に等しい。
「グルルォォォォォォォッッ!!!!」
魔獣が咆哮を上げ、次の獲物を見定めるように六つの眼をレオンハルトたちに向けた。
(死ぬ……僕のせいで、みんな死ぬ……!)
だが、レオンハルトは名門の誇りをかけ、恐怖で竦む足を必死に叩いて立ち上がった。
そして、その後ろで青白い顔をして立っているセレスを振り返り、血を吐くような悲痛な声で叫んだ。
「おい、田舎娘!! お前のその異常な魔力量なら、あるいはあの装甲を抜けるかもしれない! お前の魔力を限界まで練り上げて、クリーンヒットさせろ! 協力しろ!!」
「えっ……?」
「僕が囮になって時間を稼ぐ! だから、ありったけの魔力を練れぇっ!!」
レオンハルトは決死の覚悟で前へ飛び出し、魔獣の注意を引くために炎の魔法を放ち始めた。
しかし、その後ろで指示を受けたセレスは、きょとんとした顔で小首を傾げていた。
「魔力を、練る……ってなに???」
——ピタッ。
その瞬間、死闘を繰り広げようとしていた空間の空気が、完全に凍りついた。
魔法を放とうとしていたレオンハルトも、悲鳴を上げていたソフィアも、なんなら咆哮を上げていた魔獣でさえもが一瞬動きを止め、全員の頭上に「え???」という特大のクエスチョンマークが浮かんだ。
「おまっ……はぁぁっ!?」
魔獣の攻撃を間一髪で避けながら、レオンハルトが裏返った声で叫ぶ。
「ふざけるな! 魔力を練る事も知らないだと!? そんなの、程度の違いこそあれ、魔法使いを目指す者なら産まれた時から身を守るために行う初歩中の初歩だぞ!!」
「だ、だって、おばあちゃんはそんなこと教えてくれなかったし……!」
「ああもうクソッ! いいか、お前みたいにダダ漏れにしてる魔力を、体の中に閉じ込めろ! 水道のホースをつまむみたいに圧縮して、血液と一緒に全身をぐるぐる循環させるんだ! それが『練る』だ!! 早くやれ!!」
レオンハルトの投げやりな、しかし的確なアドバイス。
その言葉が耳に届いた瞬間、セレスの頭の中でパズルのピースがカチリとはまった。
(……そっか。外に出さずに、中にギュッて閉じ込めて、回せばいいんだ!)
セレスが目を閉じ、意識を内側へ向けた瞬間。
——ヒュンッ!!!
空間の気圧が急激に変化した。
これまでセレスの体から無自覚に垂れ流されていた膨大すぎる魔力が、一瞬にして彼女の体内へと逆流し、極限まで圧縮されたのだ。
「なっ……!?」
レオンハルトが目を疑う。
漏れ出ていた魔力が消えたのではない。彼女の細い体の中に、超新星の如きエネルギーが限界まで圧縮され、完璧な効率で循環し始めたのだ。
無駄が一切ない、恐ろしいほどに澄み切った魔力の奔流。
(うわぁっ……! なにこれ、すっごく体が軽い!!)
魔力が体内で循環したことで、魔力による身体強化が無意識に働き、身体能力が劇的に跳ね上がった。
「グルルァァッ!!」
異変を感じ取った魔獣が、セレスを危険な敵と認識し、丸太のような巨大な腕を全力で振り下ろす。
しかし。
「えいっ」
ドゴォォォォンッ!!!
セレスは片手で、ただ無造作にその巨大な腕を受け止めていた。
足元の石床がクレーターのように陥没するが、セレスの細い腕は1ミリも沈んでいない。
「うそ……だろ……」
レオンハルトの口から、呆然とした声が漏れる。
「なんか、今の私ならおばあちゃんみたいに魔法が使える気がする!」
セレスは空いた右手の指先に、ほんの小さな、ビー玉ほどのサイズの魔力の塊を生み出した。
それは、今までダダ漏れだった魔力を極限まで圧縮し、純度を高めきった『魔法の原液』。
「いっけー!」
セレスがその小さな光の玉を、中指で指弾のようにピンッと弾く。
光の玉は、音を置き去りにする速度で魔獣の胴体に直撃し——。
カッ……!!!
次の瞬間、音も、光も、全てが飽和した。
最下層の空間全体を揺るがす規格外の大爆発。
爆煙が晴れた後には、魔獣の姿は跡形もなく消え去り、壁に巨大な風穴が開いているだけだった。
「……えへへ、できちゃった! レオン、教えてくれてありがとう!」
満面の笑みで振り返るセレス。
しかし、レオンハルトはその場に膝をつき、ガタガタと震えを止められずにいた。
(基礎の基礎すら知らなかった素人が、たった一言のアドバイスで……なんだ、あの次元の違う魔力循環の完成度は……!)
自分が血を吐くような努力で手に入れた技術の完成度を、あの少女は息をするように、いとも容易く凌駕してしまった。
圧倒的な格の違い。しかし、レオンハルトの胸にあったのは嫉妬ではなく、己の小ささを知ったことによる純粋な畏怖と、得体の知れない熱い感情だった。




