北の激戦と、閉ざされたままの『元栓』
空は分厚い暗雲に覆われ、太陽の光すら届かない極寒の地。
帝国最北端の国境線は、見渡す限りの異形の魔物たちによって黒く塗り潰されていた。
「第二陣、来るぞ! ガレス、右翼の防衛線を死守しろ! クロエは僕の魔法に合わせて前衛を押し上げろ!!」
「おうっ!!」
「了解です、レオンハルト殿!!」
戦場の最前線。王立アルカディア魔法学校から特別徴兵されたレオンハルトたちは、帝国軍第10師団の遊撃部隊として、血みどろの激戦の只中にいた。
「——灰燼に帰せ! 『灼熱の嵐』!!」
レオンハルトの杖から放たれた広範囲の炎撃が、群がる魔物数十体を一瞬にして灰に変える。名門アークライトの次期当主としての圧倒的な指揮能力と魔法技術。彼がいなければ、この防衛線はとっくに崩壊していただろう。
「セレス! 左翼に巨大種が三体! お前の魔法で消し飛ばせ!!」
「うんっ! えいっ!!」
レオンハルトの指示に合わせ、セレスが右手を突き出す。
ソフィアの血によってデバフが解除され、本来の力を取り戻したセレスの魔法は、以前とは比べ物にならないほど強力だった。
ドゴォォォォンッ!!
圧縮された魔力の弾丸が、巨大なオークの軍勢を地形ごと抉り取るように消し飛ばす。
「よし、いいぞ!」
レオンハルトは額の汗を拭いながら、戦況を冷静に分析していた。
セレスの火力は申し分ない。クロエとガレスの耐久力も限界を超えて機能している。
……だが、レオンハルトの天才的な観察眼は、セレスの戦いぶりを間近で指揮し続けるうちに、ある『かすかな違和感』を覚え始めていた。
(……おかしい。セレスの火力が落ちてきている?)
開戦から数時間。これまで経験したことのない、果てしなく続く『長期戦』。
息をつく暇もなく魔力を消費し続ける極限状態の中で、レオンハルトは気づいてしまった。
「はぁっ……はぁっ……。だめ、ちょっと疲れちゃったかも……」
セレスが膝に手をつき、荒い息を吐いている。彼女の指先から生み出される魔法の威力が、目に見えて弱まっていたのだ。
(……ありえない。デバフが解除されたあいつの体内には、海のように莫大な魔力が循環しているはずだ。……なのに、なぜ『回復』がこんなに遅い?)
魔力というのは、消費しても体内にある『魔力源』から汲み上げられ、徐々に自然と回復していくものだ。セレスほどの莫大な容量を持っていれば、使った端から瞬時に魔力が満たされるはず。
それなのに、今のセレスはまるで『巨大な水瓶の底に、ほんの少ししか水が溜まっていない』ような、異様な枯渇状態に陥っていた。
「グルルォォォォォッ!!」
「しまっ……! 敵の増援、上位魔族の群れです!!」
前衛で盾を構えていたクロエが、悲痛な声を上げた。
地響きと共に現れたのは、これまでの雑兵とは次元が違う、漆黒の鎧を着込んだ上位魔族の精鋭部隊だった。
「くそっ、このタイミングで……!」
レオンハルトも魔力の残量が底をつきかけている。ガレスの息も上がり、クロエの盾も悲鳴を上げていた。
「セレス! もう一度広範囲魔法を撃てるか!?」
「ご、ごめんレオン……! 魔力が、全然集まってこないの……っ! ソフィアに、絶対生きて帰るって約束したのに……っ!」
涙目で首を振るセレス。
完全に追い詰められた絶体絶命のピンチ。
その極限状態の中で、レオンハルトの脳内に、ある一つの『ありえない可能性』が閃いた。
(……魔力が集まってこない? 汲み上げられないのではなく、物理的に『道が塞がっている』のか……?)
レオンハルトは、迫り来る魔族の群れを前にして、魔力感知の意識をセレスの体の奥底へと向けた。
彼女の魔力循環は完璧だ。ダンジョンで教えた通り、一滴の無駄もなく体内で回している。
だが、その循環している魔力の「出どころ」——生命の根源たる『魔力源』と血管を繋ぐ部分を視て、レオンハルトは我が目を疑った。
完全に、固く、分厚く閉ざされている。
(……嘘だろ。まさかそんな事ありうるのか……?いやこいつならありうる……)
「おい、セレス……!!」
レオンハルトは、剣戟と怒号が飛び交う戦場の中で、震える声で問いかけた。
「お前……まさか、『魔力の元栓』を開いたことがないのか!?」
「え?」
セレスは、魔族の攻撃を避けながら、きょとんとした顔でレオンハルトを振り返った。
「もとせん……って、なに?」
「…………は?」
戦場の喧騒が、レオンハルトの耳からスッと消え去った。
「水道の蛇口みたいなやつ? おばあちゃん、お水は川から汲んできなさいって言ってたから、私、元栓なんて触ったことないよ?」
悪気ゼロ。純度100%の「知らない」という顔。
その瞬間。
レオンハルトの頭の中で、常識という名の脆いガラスが、粉々に砕け散る音がした。
(——な、なんだとォォォォォォッ!!?)
レオンハルトは、心の中で血の涙を流しながら絶叫した。
『魔力の元栓』。
それは、体内の魔力源から魔力を引き出すための、文字通りのバルブだ。魔法使いを目指す者であれば、幼少期に必ず開く『基礎中の基礎』。
本来、この元栓を開かなければ、魔力は一瞬で枯渇し、火ボタル程度の小さな光を出すことすらできない。
(じゃあ、なんだ……!? こいつが今まで撃っていた、あの山を吹き飛ばす火球は!? ダンジョンの魔獣を粉砕したあの一撃は!? 敵の陣形をオーバーフローさせたあの莫大な魔力譲渡は!!?)
レオンハルトの視線が、セレスの閉ざされた元栓に向く。
(こいつは……この元栓の隙間から『ほんの僅かに滲み出た漏れ魔力』だけで、今まであんな天災みたいな魔法を撃ち続けていたっていうのか……!!?)
「ヒッ……!!」
レオンハルトの口から、もはや何度目か分からない、カエルが潰れたような悲鳴が漏れた。
100分の1のデバフがかかった状態で、さらに『元栓が閉まりっぱなしのにじみ出た魔力』。
それが、今まで彼が見てきた「セレスの圧倒的な力」の正体だったのだ。
「レオンハルト殿! 敵が来ます! 防御が持ちません!!」
クロエの悲鳴で、レオンハルトはハッと我に返った。
上位魔族の凶刃が、すぐそこまで迫っている。
「……あぁもう、クソッ!! なんでお前は、いっつもいっつも僕の常識を根底からぶち壊すんだ!!」
レオンハルトはヤケクソ気味に叫ぶと、セレスの両肩をガシッと掴んだ。
「いいかセレス! お前の胸の奥底にある、重くて熱い塊を感じろ! そこに蓋をしている分厚い扉があるはずだ! それを、こじ開けろ!!」
「む、胸の奥……?」
「そうだ! 信じたくないが今まで滲み出ていたお前の魔力なんて、ただの結露だ! 本当のお前の力は、その後ろに海のように広がっている! 想像しろ、巨大なダムの決水門を、全開にするイメージだ!!」
「結露……ダム……」
セレスは目を閉じ、レオンハルトの言葉に従って、自分の内側へと意識を深く沈めた。
確かに、あった。
今まで無意識に魔力を循環させていた道のずっと奥に、ビクともしない重厚な扉のようなものが。その後ろからは、途方もない熱量と、脈打つような強大なエネルギーの気配が感じられる。
(これを開ければ……もっと力が出るの?)
セレスは、これ以上みんなを傷つけたくないと思っていた。自分の力が怖いと思っていた。
でも、今この扉を開けなければ、クロエちゃんが死んでしまう。ガレス君が死んでしまう。レオンが死んでしまう。
そして何より、帰りを待っていてくれる大好きなソフィアに、もう二度と会えなくなってしまう。
(……開けなきゃ!)
「死ねぇぇっ、人間どもォォッ!!」
上位魔族の漆黒の刃が、クロエの盾を砕き、セレスたちの脳天へと振り下ろされようとした、まさにその刹那。
「——開けっ!!!」
セレスが、自身の内なる『元栓』を、力任せにこじ開けた。
ゴァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!
「なっ……!?」
振り下ろされようとしていた魔族の刃が、空中でピタリと止まった。
いや、止められたのではない。
セレスの体から爆発的に噴き出した、目に見えるほどの濃密な『真紅の魔力の奔流』が、物理的な重圧となって、魔族の動きを完全に縫い止めてしまったのだ。
「な、なんだこの馬鹿げた魔力は……!? 空気が……重い……っ!!」
上位魔族たちが、その場に膝をつき、恐怖に顔を歪める。
セレスの髪が、重力に逆らうようにふわりと舞い上がる。
開かれた元栓から流れ込む魔力は、これまでの「滲み出た水滴」とは次元が違った。それはまさに、無限に湧き出す『力の奔流』。
枯渇していた魔力が、コンマ一秒で全身に満ち溢れ、さらにその限界を軽々と突破していく。
「あはは……っ。なんだか、すっごく体が軽い! 魔力が、いくらでも湧いてくるよ!」
セレスは、真紅に輝く瞳で、膝をつく魔族たちを見下ろした。
そして、その後ろで。
「…………終わったな。色んな意味で、終わった」
レオンハルトは、セレスから放たれる『真の規格外の力』を前に、もはやツッコミを入れる気力すら失い、ただ乾いた笑いを漏らしながら、迫り来る魔族たちに深く同情するのだった。




