死の概念と、優しき怪物の真実
王立アルカディア学園、大図書館の最奥。
一般生徒は立ち入ることのできない『禁書指定区域』の特別閲覧室に、セレス、ソフィア、レオンハルト、そしてクロエの4人が密かに集まっていた。
「……アークライト家の権限を使って、吸血鬼に関する最古の文献をいくつか借り出してきた。セレス、お前が自分の力を恐れているなら、まずは『己を知る』ことが制御への第一歩だ」
レオンハルトは分厚い古書をテーブルに広げ、真剣な面持ちでセレスを見つめた。
セレスはソフィアの隣で小さく縮こまりながら、不安そうにこくりと頷く。自分が何者で、どれほど危険な存在なのか。それを知るのは怖いけれど、大切な友達を傷つけないためには、逃げてはいけないと決心したのだ。
「いいか、文献によると……吸血鬼は強大な魔力と身体能力を持つ反面、極端な『燃費の悪さ』を抱えている。彼らの力の源は血液であり、月に一度は必ず人間の血を摂取しなければならない」
レオンハルトが古書のページを指でなぞりながら、厳しい声で読み上げる。
「もし吸血を怠れば、魔力と身体能力は本来の『100分の1』まで低下する。極度の倦怠感、強烈な渇きに襲われ……最悪の場合、餓死……つまり、『死』に至るとある」
「…………え?」
セレスの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
「あの、レオン。……『死』って、なに? おばあちゃんみたいに、ずーっと冷たくなって、長ぁいお昼寝をすること?」
「……は?」
レオンハルトは、セレスのあまりにも無邪気で、無知な質問に言葉を失った。
「セレスさん……」
ソフィアが、痛ましそうに顔を歪めてセレスの手を握る。
「セレスさん。……死というのは、お昼寝ではありません。もう二度と、目を覚まさないということです。お話することも、一緒に笑うことも、触れ合うことも……永遠にできなくなることなんです」
「……え?」
セレスの紅い瞳が、大きく見開かれた。
森で、物心つく前からおばあちゃんと二人きりで生きてきたセレス。彼女の周りには、おばあちゃんの他には魔物しかおらず、人間という「寿命のある脆い生き物」の概念を知る機会が全くなかったのだ。
「おばあちゃん、もう起きないの……? ずっと、あのベッドの上で……?」
「……人間には、寿命があるんだ。お前を育てたその賢者殿は、お前を残して、寿命でこの世を去ったんだよ」
レオンハルトが、辛い事実を静かに、だがはっきりと告げた。
「あ……ぁ……」
セレスの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
ずっとお昼寝をしているだけだと思っていた。魔法学校で立派になったら、また森に帰って、おばあちゃんに褒めてもらうんだと、そう信じていたのに。
「おばあちゃん……っ、おばあちゃぁぁぁん……っ!!」
遅すぎる、初めての『喪失』の理解。
セレスはソフィアの胸にすがりつき、子供のように声を上げて泣き崩れた。ソフィアは何も言わず、ただ優しく、震えるセレスの背中を撫で続けた。
しばらくして、泣き疲れたセレスが目を赤くしながら顔を上げた。
「……ごめんね、みんな。私、なんにも知らなくて……」
「謝る必要はない。……だがセレス、一つ聞きたい」
レオンハルトが、胃の辺りを押さえながら、恐る恐る口を開いた。
「お前は森で、血を吸ったことはなかったのか? 吸血鬼の吸血衝動は本能だ。……お前が今まで、どうやってその渇きを抑えていたのかが分からない」
「血なんて、吸ったことないよ……」
セレスは首を振る。
「ただ、おばあちゃんが月に一度、すっごく美味しくて甘い『真っ赤な特製スープ』を作ってくれてたの。それを飲むと、体がポカポカして、力が湧いてきて……」
その言葉に、閲覧室の空気がピタリと凍りついた。
「……なるほどな」
レオンハルトは額に手を当て、天井を仰ぎ見た。
「その賢者殿は、お前が吸血鬼であるという業を背負わなくて済むように、お前に気づかれないよう、自分の血を……あるいはそれに代わる魔獣の血を、料理に混ぜて与えていたのだろう。お前が、人を傷つけるバケモノにならないように」
「おばあちゃんが……私のために……」
セレスは、おばあちゃんの底知れない愛の深さに気づき、再び胸が締め付けられる思いだった。
だが、レオンハルトの思考は、そこからさらに『恐ろしい事実』へと辿り着いてしまっていた。
「……おい、待てよ」
レオンハルトの顔から、スーッと血の気が引いていく。
「セレス。お前が森を出て、おばあちゃんのその『特製スープ』を飲まなくなってから、どれくらい経つ?」
「えーっと……魔法学校に入るために帝都まで歩いてきたから……もう、1年近く経つかな?」
「1年……」
「うん。最近はずーっと体が重くて、喉が渇いて……でも、この前の夜、ソフィアの血をもらったら、急にスッキリしたの!」
「…………」
レオンハルトは、ガクガクと震える手で古書の記述を指差した。
『月に一度の吸血を怠れば、魔力と身体能力は100分の1まで低下する』
(……つまり、こいつは。この1年間、ずっと)
レオンハルトの脳内で、これまでのセレスの規格外の行動がフラッシュバックする。
実技試験で山を吹き飛ばした、あの巨大な火球。
ダンジョン最下層で災害級のバケモノを消し飛ばした、あのデコピン。
学園対抗戦の決勝で、敵の『絶対吸収陣』を力技でオーバーフローさせた、あの暴力的な魔力譲渡。
(あいつ……あれ全部、『死にかけの飢餓状態』で、本来の力の『100分の1』のデバフがかかった状態でやってたのか……!?)
「ヒッ……!!」
レオンハルトの口から、名門の次期当主らしからぬ、カエルが潰れたような悲鳴が漏れた。
100分の1であの天災レベル。デバフが解除された今、彼女の本来の力はどれほどの次元に到達しているのか。想像するだけで、レオンハルトの胃が物理的にねじ切れそうだった。
「どうしたのレオン? お腹痛いの?」
「……気にするな。僕は今、世界の理不尽さと己の矮小さを噛み締めているところだ」
レオンハルトは真っ白な灰のように燃え尽きながら、机に突っ伏した。
「セレスお姉様」
沈黙を破り、ここまで静かに話を聞いていたクロエが、スッと立ち上がった。
セレスはビクッと肩を揺らし、クロエから距離を取ろうとする。
「こ、来ないでクロエちゃん……! 私、血を吸うバケモノなんだよ!? いつか、クロエちゃんを傷つけちゃうかもしれない……!」
しかし、クロエの足は止まらない。
彼女はセレスの目の前まで歩み寄ると、騎士の礼をとるように、その場に片膝をついた。
「バケモノ? それがどうしたというのですか!」
クロエの瞳には、微塵の恐怖も、迷いもなかった。あるのは、ただ真っ直ぐな尊敬と、燃えるような騎士の誓いだけ。
「お姉様が人間であろうと吸血鬼であろうと、私の憧れであることに変わりはありません! 力が大きすぎて他者を傷つけることを恐れ、涙を流す……。お姉様のその『優しさ』こそが、私が背中を預けたいと願った、気高き騎士の魂そのものです!!」
「クロエちゃん……」
「月に一度の血が必要ならば、私の血を飲めばいい! 騎士たるもの、主君のために血の一滴、肉の一片を捧げるのは本望! さあお姉様、遠慮なく私の首筋に噛み付いてください!!」
クロエは勢いよく立ち上がると、制服の襟をガバッと広げ、健康的な白い首筋をセレスの前にグイッと突き出した。
「わ、わわっ!? だ、だめだよそんなの!」
セレスが真っ赤になって慌てふためく中。
スッ……。
「……申し訳ありませんが、クロエさん」
ふわりと甘い花の香りと共に、ソフィアがセレスとクロエの間に、見事なステップで割り込んだ。
ソフィアはニコッと清楚な笑みを浮かべながら、クロエの突き出した首を、無言でグイッと押し返す。
「セレスさんの『専属の食事係』は、この私ですわ。昨日も、今日も、そして明日も。……貴女のその血の気ばかり多い筋肉質な血など、セレスさんのお口には合いません」
「な、なんですって!? 私の血は毎日の鍛錬によって血流が良く、新鮮で栄養満点です! 貧血気味なソフィア殿の血より、絶対に美味いはずです!」
「あら? 私はセレスさんに一番美味しく召し上がっていただくために、毎日鉄分とビタミンを計算したハーブティーを飲んで血の質を極限まで高めておりますのよ? 貴女のような野蛮な血とはコクが違いますわ!」
「ならば飲み比べていただきましょう! さあお姉様、右の首と左の首、どちらからいきますか!?」
「いいえ、私からですわ!!」
「えぇーっ!? ど、どうしてそうなるのー!?」
自分の血を巡って謎の『鮮度と味のプレゼンバトル』を繰り広げ始めたソフィアとクロエを前に、セレスは完全にキャパオーバーとなり、オロオロと慌てふためくしかなかった。
「……ふっ」
そのドタバタ劇を横目で見ながら、突っ伏していたレオンハルトの口から、思わず小さな笑いが漏れた。
(……どれだけバケモノじみた力を持っていようと。こいつは結局、ただの優しくて不器用な少女なんだな)
恐怖は、ない。
レオンハルトは顔を上げ、かつてないほど穏やかな瞳で、騒ぎ立てる3人の少女たちを見つめていた。
自分の力が大きすぎることに怯え、人間という存在に寄り添おうとする不器用な吸血鬼。
彼女がその強大すぎる力を制御し、この世界で生きていくためには、きっと自分たちのような「鎖」が必要なのだ。
(僕が、トップとしてお前を導いてやる。……お前のその規格外の力が、誰かを傷つける刃にならないように。僕が完璧な盤面を作って、お前を制御してやるさ)
名門の次期当主として、そして一人の友人として。
レオンハルトは、セレスと共に歩む『覚悟』を、静かにその胸に刻み込むのだった。
しかし、彼らの穏やかな時間は、そう長くは続かない。
力を自覚し、仲間との絆を深めたセレスの前に、最大の試練——『魔族の全面侵攻』が、すぐそこまで迫っていたのである。




