紅き自覚と、優しき怪物の孤独
あの大事件から、三日が過ぎた。
旧校舎の地下に封印されていた大魔族は、セレスの放った一本の「光の柱」によって、文字通り宇宙の塵となった。
教師たちは「旧校舎の地下にあった古い防衛機構が作動した」と結論づけ(というかそう解釈するしかなく)、生徒たちは無事日常へと戻っていた。
しかし、ただ一人。セレスの日常だけは、完全に崩壊していた。
「……」
女子寮の自室。ベッドの上で膝を抱えるセレスは、自分の両手を震える瞳で見つめていた。
これまでは「ちょっと燃費が悪くて、魔法が苦手な人間」だと本気で信じ込んでいた。おばあちゃんの規格外な教育のせいで、世間の常識と自分の力のズレに気づけなかったのだ。
だが、あの夜。ソフィアの血を口移しで飲んだ瞬間……全てを、理解してしまった。
口内に広がった、鉄の味と、甘く熟れた果実のような命の匂い。
それを飲み込んだ途端に、全身の細胞が歓喜に震え、頭にかかっていた分厚い靄が晴れ渡るような、絶対的な全能感。
そして、自分が空に向かって放った、星すら撃ち落とせそうなあの赤い光の柱。
(……私、人間じゃない)
セレスはギュッと目を閉じた。
彼女は昼休みに、図書室の禁書区画に忍び込み、古い魔物図鑑を読み漁っていた。そこに描かれていた『吸血鬼』の記述。
『——人間の血を糧とし、人の数百倍ともいわれる人知を超えた膂力と魔力を持つ夜の眷属。本能のままに人間の命を啜る、災厄の化身である』
図鑑の挿絵に描かれた、血に塗れた怪物の姿が脳裏にこびりついて離れない。
(私、ソフィアの血を吸った。……あんなに美味しくて、もっと欲しいって思っちゃった。もし、あのまま理性が飛んでたら……ソフィアを、殺してたかもしれない)
ゾッとして、全身から血の気が引く。
さらに恐ろしいのは、自分の中に眠る『暴力的すぎる力』の全貌に気づいてしまったことだ。
ダンジョンでレオンハルトに「魔力を練る」ことを教わってから、無自覚に力を振るってきた。だが、今のセレスには分かる。あの時の自分は、ホースの先をただ指でつまんで水を飛ばしていただけの、ひどく歪で危険な状態だったのだと。
(あんな適当な魔法で、山を吹き飛ばしたり、闘技場を壊したりしてたんだ……。もし、力加減を誤って、レオンやクロエちゃんに直撃してたら……)
考えただけで、呼吸が浅くなる。
自分がどれほど脆くて大切なガラス細工(人間)たちに囲まれて生きていたのかを、残酷なまでに自覚してしまったのだ。
「……怖いよ」
誰よりも強大な力を持つ「バケモノ」は、たった一人でシーツに顔を埋め、静かに涙を流した。
翌日から、セレスの態度は明らかに不自然になった。
「あ、セレスお姉様! おはようございます!」
廊下でクロエが元気に手を振って駆け寄ってくる。いつもなら「おはよう!」と呑気に抱きつきにいくセレスだが。
「っ……ご、ごめん、クロエちゃん! 私、急いでるから!」
ビクッと肩を震わせ、脱兎のごとく逃げ出してしまった。
「えっ……? お姉様……?」
取り残されたクロエは、伸ばした手を宙に浮かせたまま、ぽかんと立ち尽くす。
教室でもそうだった。
レオンハルトが「おいセレス、次の実習の班分けだが……」と声をかけると、セレスは露骨に距離を取り、怯えたような目で彼を見た。
「ご、ごめんねレオン。私、一人でやるから……あんまり、近づかないで」
「は? お前、急にどうしたんだ……?」
レオンハルトは眉をひそめた。あの無自覚で脳天気だったセレスが、まるで傷ついた小動物のように自分を拒絶している。その異常な変化に、特級の観察眼を持つ彼が気づかないはずがなかった。
そして、誰よりもセレスの拒絶に傷ついていたのは、ソフィアだった。
「セレスさん……」
寮の部屋でも、セレスはソフィアと目を合わせようとしない。
食事の時も、着替えの時も、常に一定の距離を保ち、ソフィアの白い首筋が視界に入るたびに、ギュッと目を逸らして震えている。
(……セレスさんは、自分の正体に気づいて、私を傷つけるのを恐れているんだわ)
ソフィアには、痛いほど分かっていた。
あの夜、自分が血を与えたことで、彼女に「自分が人間ではないバケモノだ」という残酷な真実を突きつけてしまったのだと。
その日の夜。
消灯時間を過ぎた静寂の中、セレスは一人、寮を抜け出して中庭のベンチに座っていた。
月明かりに照らされた自分の青白い手を、じっと見つめる。
(もう、学校にはいられない。私がいたら、いつか絶対に、みんなを傷つけちゃう)
荷物をまとめて、あのおばあちゃんの森に帰ろう。そう決意して立ち上がった、その時だった。
「……どこへ行くつもりですか、セレスさん」
背後から、静かで、けれど絶対に逃がさないという強い意志を持った声が響いた。
振り返ると、月光を背に受けたソフィアが立っていた。
「ソ、ソフィア……。来ちゃだめ……! 私に近づかないで!」
セレスは後ずさり、怯えた声で叫んだ。
「私、人間じゃないんだよ……! 血を吸うバケモノなの! あの夜、ソフィアの血を飲んで……すっごく美味しくて、もっと欲しいって思っちゃった自分が、怖いの!」
涙ながらに吐露するセレス。
「それに、私の力は大きすぎる……! ちょっと触れただけで、みんなを壊しちゃうかもしれない! だから、もう……一緒にいられないよ……!」
泣き崩れるセレスの前に、ソフィアはゆっくりと歩み寄った。
「来ないでってば……っ!」
ギュッ……。
セレスの拒絶の言葉は、温かく、力強い抱擁によって遮られた。
ソフィアが、セレスの震える体を、正面からしっかりと抱きしめたのだ。
「ソフィ、あ……」
「……バケモノでも、いいじゃないですか」
ソフィアの声は、震えていた。だが、それは恐怖ではなく、セレスを想うがゆえの切実な愛の震えだった。
「あの夜、私が自分の意志で、貴女に血を捧げたんです。貴女が人間じゃなくても……私の血を欲しがる怪物でも、そんなこと、どうでもいい。私は、セレスさんが生きていてくれるなら、なんだっていいんです!」
「でも……っ! 私のせいで、ソフィアが死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「死にませんよ。だって、貴女はこんなに優しいじゃないですか」
ソフィアは、セレスの背中に回した手に、さらにギュッと力を込めた。
「自分の力で誰かを傷つけることを、こんなに恐れて、一人で泣いてる……。そんなに優しくて不器用なバケモノが、大好きな友達を傷つけるはずがありません」
「……あ、あぁ……っ」
ソフィアの温かい言葉が、セレスの冷え切った心に染み渡っていく。
「お願いです、セレスさん。私を置いて、どこにも行かないで。……もし喉が渇いたら、私がいくらでも血をあげます。力が制御できないなら、私が傍で支えます。だから……」
セレスは、もう我慢できなかった。
彼女はソフィアの肩に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。人間ではない自分が、この温かい世界に繋ぎ止められた気がしたから。
「うぅ……っ、ソフィアぁ……っ、ごめんね、ごめんね……っ! 私、本当は……どこにも行きたくないよぉ……!」
「はい。ずっと、一緒にいましょうね」
月明かりの下、孤独な怪物と、彼女を全て受け入れる少女は、静かに寄り添い合った。
しかし。
セレスが自らの力と業を自覚し、それに怯えながらもソフィアとの絆を深めていたその裏で——。
帝国全土を揺るがす、最悪の『災厄』が、ひたひたと足音を立てて迫りつつあった。
北の国境。
かつてない規模の『魔族の軍勢』が結集し、人間界への全面侵攻を開始しようとしているという凶報が、学園の教師たちの元にも届き始めていたのである。
戦火は、すぐそこまで迫っていた——。




