封じられた旧校舎と、月下を穿つ紅き光
夜の王立アルカディア魔法学校。普段は立ち入り禁止となっている森の奥の旧校舎で、1年生を対象とした恒例行事『宝探し&謎解きイベント』が開催されていた。
「うぅ……暗いね、ソフィア。なんだかお化けが出そう……」
「大丈夫ですよ、セレスさん。私がしっかり手を繋いでいますから」
月明かりだけが頼りの薄暗い廊下。セレスはソフィアの細い腕にギュッと抱きつきながら、おっかなびっくり歩を進めていた。
(セレスさんが、こんなに私に甘えてくれている……!)
ソフィアは平静を装いながらも、内心では心臓が口から飛び出そうなほどドキドキしていた。密着した肌から伝わるセレスの体温、ふわりと香る銀髪の匂い。暗闇というシチュエーションも相まって、ソフィアにとっては宝探しどころではない極上のご褒美タイムである。
しかし、ソフィアの鋭い観察眼は、密着しているからこそ、セレスの異変を正確に捉えていた。
(……セレスさん、いつも以上に体が冷たい。それに、息が荒くて、小刻みに震えてる……)
ここ数日、セレスの体調は最悪だった。
『月に一度の吸血』を長期間怠っていることによる極大のデバフ。これまでは持ち前の規格外な魔力循環でギリギリ誤魔化してきたが、それも限界に達しつつあった。
喉が、焼けるように渇く。水やトマトジュースをいくら飲んでも満たされない、魂の底からの飢え。
「セレスさん、少し休みましょうか。顔色が……」
ソフィアが心配そうに覗き込んだ、その瞬間。
——ギィィィィィィィンッ!!!!
旧校舎全体を揺るがすような、鼓膜を劈く甲高い耳鳴りが響き渡った。
同時に、窓の外の景色が禍々しい赤紫色に染まる。
「な、なにこれ!?」
「結界……!? いえ、ただの結界じゃありません。外の世界から完全に隔離する、超高密度の次元断絶結界ですわ!」
ソフィアが窓の外を見ると、旧校舎をすっぽりと包み込むように巨大なドーム状の魔法陣が展開されていた。外の敷地では、異変に気づいた教師たちが必死に結界を破壊しようと魔法を放っているが、傷一つついていない。
完全に孤立無援の『結界による密室』。
「グルルォォォォォォォッッ!!!!」
そして、旧校舎の地下から、這い出てくるような悍ましい咆哮が轟いた。
ただの魔物ではない。空気が恐怖で凍りつき、本能が「死」を直感するほどの圧倒的な邪気の塊。
「行こう、ソフィア! 地下で、誰かが戦ってる音がする!」
セレスはふらつく足に無理やり鞭を打ち、ソフィアの手を引いて地下へと続く階段を駆け下りた。
地下の広大な儀式の間。
そこには、絶望的な光景が広がっていた。
「はぁっ……はぁっ……! くそっ、なんだこのバケモノは……!」
「レオンハルト殿! 私の盾の後ろへ! ぐぅぅっ……!!」
大理石の床に膝をつき、血を流しているレオンハルト。
そして、ひび割れた白銀の盾を必死に構え、迫り来る巨大な黒炎をなんとか防いでいるクロエ。
二人の前には、四本腕と山羊の角を持つ、見上げるほど巨大な悪魔が立っていた。
外部の魔族の手引きによって、この旧校舎の地下に封印されていた古の超大物魔族——『災禍の暴君』が復活してしまったのだ。
「レオン! クロエちゃん!」
セレスが広間に飛び込む。
「来るなセレス!! こいつは、ダンジョンの時のバケモノとは次元が違う!!」
レオンハルトが血を吐きながら叫ぶ。
「僕の最大魔法も、クロエの攻撃も、全てこの黒炎に焼き尽くされる……! 結界のせいで先生たちも助けに来られない! 逃げろッ!!」
「そんなの、だめだよ……! 私が、みんなを助ける!」
セレスは右手を前に突き出し、フラフラの体で魔力を練り上げようとした。
しかし。
(……だ、だめ……力が、入らない……!)
極限の空腹状態。魔力という名の血液が全身に行き渡らず、指先に集めた魔力がポロポロと砂のように崩れ落ちていく。視界がグニャリと歪み、立っていることすらままならない。
「ほう。貴様らのような虫ケラの中に、少しは美味そうな魔力を持った小娘がいるではないか」
大魔族の四つの紅い眼が、セレスを捉えた。
「死ね」
無造作に振るわれた大魔族の裏拳が、セレスの小さな体を捉える。
「きゃあぁぁぁぁっ!?」
圧倒的な質量を持った一撃。セレスの体は、枯れ葉のようにいとも容易く吹き飛ばされ、広間の石壁に激突した。
「セレス!!!」
レオンハルトの悲痛な叫びが響く。
「あ、ぁ……」
壁際に崩れ落ちたセレスは、額から血を流し、そのまま力なく瞳を閉じて完全に気絶してしまった。
「おのれぇぇッ! お姉様によくもッ!!」
激昂したクロエが剣を構えて突撃するが、大魔族の放った黒炎に薙ぎ払われ、彼女もまた悲鳴を上げて倒れ伏した。レオンハルトも魔力切れで身動きが取れない。
完全なる絶体絶命。
大魔族が、とどめを刺そうとゆっくりとレオンハルトたちに近づいていく。
その絶望の空間で。
ただ一人、ソフィアだけが、倒れたセレスの元へ駆け寄っていた。
「セレスさん……! セレスさん、目を開けてください……!」
ソフィアは、ピクリとも動かないセレスを抱き起こした。
冷たすぎる肌。微かな呼吸。額から流れる赤い血が、彼女の白磁のような頬を伝っている。
(このままじゃ、セレスさんが死んでしまう。みんなも、殺されてしまう……!)
ソフィアの脳裏に、以前から感じていたセレスへの違和感と、御伽話の伝承がフラッシュバックする。
圧倒的な治癒力。透き通るような白くて冷たい肌、無意識に太陽を避けるような動き。そして、水では決して満たされることのなかった『異常な渇き』。
(セレスさんは、吸血鬼。……もしそうなら、失われた力を取り戻す方法は、一つしかない)
ソフィアは、一切の躊躇なく、割れて床に散乱していたガラスの破片を拾い上げた。
そして、自分の左手の掌を、躊躇いなく深く切り裂いた。
「っ……!」
激痛に顔をしかめるが、すぐにその傷口から、温かく赤い鮮血が溢れ出す。
「ソ、ソフィア……何を……!」
遠くで倒れているレオンハルトが、信じられないものを見る目でソフィアを見つめていた。
ソフィアは、自分の血で赤く染まった左手を、気絶しているセレスの口元へ寄せようとした。
しかし、意識のないセレスの口は固く閉じられており、血を飲ませることができない。
「……セレスさん。私、準備はできてますって、言いましたよね」
ソフィアは、覚悟を決めた。
彼女は自分の左手から溢れる血を、自らの口にたっぷりと含んだ。鉄の味と、生温かい命の匂い。
そして、ソフィアは目を閉じ、気絶しているセレスの顔にそっと顔を近づけ——その薄紅色の唇に、自分の唇を重ね合わせた。
「……えっ?」
レオンハルトが、状況も痛みも忘れて間抜けな声を漏らす。
ソフィアは、口移しで、自らの温かい血をセレスの口内へと流し込んだ。
コクリ、と。
意識のないはずのセレスの喉が、本能に従うように動いて、その血を飲み込んだ。
ドクンッ……!!!
その瞬間だった。
旧校舎の地下に、心臓の鼓動のような、生々しくも巨大な音が鳴り響いた。
「……ん、ぁ……」
セレスの目が、ゆっくりと開かれる。
いつもの透き通るような紅い瞳ではない。それは、暗闇の中で自ら発光するような、深く、濃密な真紅の瞳。
本来月に一度は吸血しなければ文字通り死ぬほど魔力が低下する吸血鬼の『極大デバフ』という重い枷が、ソフィアの血という触媒を得て、今、完全に砕け散ったのだ。
「セレス、さん……?」
唇を離したソフィアが、至近距離でその圧倒的な変化に息を呑む。
「……ソフィア。血、出てるよ。痛かったよね。ごめんね……そして、ありがとう」
セレスはゆっくりと身を起こし、ソフィアの傷ついた左手をそっと握った。ただそれだけで、ソフィアの傷口が淡い光に包まれ、一瞬にして塞がっていく。
「な、なんだ貴様は……!? その得体の知れない気配は!!」
大魔族が、足を止めて戦慄した。
先ほどまで虫ケラのように吹き飛ばした少女から、突如として、自分など足元にも及ばないほどの『神話級の威圧感』が放たれ始めたからだ。
「レオンとクロエちゃんをいじめて、ソフィアに怪我をさせたこと……絶対に、許さない」
セレスは、一切の感情を排した冷たい真紅の瞳で、大魔族を見据えた。
そして、右手をスッと、真っ直ぐに上段へ向けて突き上げた。
魔法陣も、詠唱も、魔法名すらない。
それはただ、本来の力を取り戻したセレスが、自身の内に渦巻く『莫大な魔力の海』の、ほんのしずくを外へ放出しただけだった。
「消えなさい」
——カッ!!!!!!!!
音も、熱も、全てが置き去りにされた。
セレスの突き上げた右手から放たれたのは、純粋な魔力そのものが極限まで圧縮された、太さ数十メートルにも及ぶ『真紅の光の柱』。
「ば、馬鹿なァァァァァァァァッ!!?」
大魔族の悲鳴すら、光の中に一瞬で溶けて消えた。
光の柱は、旧校舎の堅牢な天井を消し飛ばし、結界をまるで薄紙のように貫通し、さらにその上の厚い雲を穿ち、文字通り『宇宙の彼方』まで一直線に伸びていった。
帝都中が、真夜中に突如として現れたその神々しい紅き光の柱を見上げて、言葉を失った。
「……うそ、だろ……」
レオンハルトは、天井が完全に消滅し、美しい星空が見えるようになった地下広場で、ただ呆然と呟くことしかできなかった。
光が収まった後。
そこには、大魔族の欠片すら残っていなかった。
「……ふぅ。なんか、すっごく元気が出たかも!」
セレスは真紅の瞳をいつもの色に戻し、パァッと満面の笑みを浮かべてソフィアを振り返った。
「セレスさん……っ!」
ソフィアは涙を浮かべて、セレスの胸に飛び込んだ。
「よしよし、ソフィア。怖かったよね。もう大丈夫だよ」
セレスは優しくソフィアの背中を撫でながら、自分の体の中に、今まで感じたことのないほど温かくて力強い力が巡っているのを感じていた。
そして、遠くで倒れたままのレオンハルトは、夜空にポッカリと空いた巨大な風穴を見上げながら。
(……あいつ、ついに次元の壁をぶっ壊しやがった……。)
と、安堵と絶望の入り混じった涙を流し、そっと意識を手放すのだった。




