第5幕:木偶人形の告白と、燃えゆく手紙
執務室の机で、すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。
領地の仕事を手伝うと言って張り切っていた僕の愛しい婚約者は、疲れが出たのか、ペンを握ったまま幸せそうな顔で微睡んでいた。
僕はそっと彼女を抱き上げ、執務室の奥にある長椅子に寝かせて肌掛けをかける。
少し動いた彼女が「……ヴィンス……」と寝言で僕の名前を呼んだ瞬間、胸の奥が甘く、ひどく熱く締め付けられた。
ルビーナ。ああ、僕のルビーナ。
君が僕の腕の中にいる。この領地で、僕の用意したドレスを着て、僕の用意した食事をとり、僕のためだけに微笑んでくれている。
――それは僕が、十年の歳月をかけて叶えた狂気じみた執念の結晶だった。
ヴォルカリス公爵家での僕の扱いは、ひどいものだった。
実の父は僕に関心がなく、次期当主の母である継母からは「目障りな子」として隠れて辛く当たられ、兄のアーサーはそんな母の態度を見て、僕を見下し、虐げるようになった。
反抗すれば、何をされるか分からない。
だから僕は息を潜め、感情を殺し、ただ図書室の隅でやり過ごす日々を送っていた。
あの日もそうだった。
兄に大切な本を池に投げ捨てられ、悔しさと惨めさで一人、庭の片隅で泣いていた僕を見つけたのは、兄の婚約者として挨拶に来ていた、燃えるような赤髪の少女だった。
『どうしたの? 迷子? ……まあ、泥だらけじゃない!』
彼女は公爵家の複雑な事情など知る由もなく、ただ目の前で泣いている僕に駆け寄り、躊躇いもなくその真っ白なハンカチで僕の泥だらけの頬を拭ってくれた。
『もしかして、アーサー様の弟君? ふふっ、じゃあ私の弟も同然ね! 辛いことがあったら、いつでもお姉ちゃんに言いなさい!』
太陽のように明るく、温かい手。
愛されることなどないと諦めていた氷の底に、彼女は唐突に、そして強引に光を差し込んできたのだ。
その日、僕は誓った。
いつか必ず、この手を僕のものにする、と。
だが、もし僕が少しでも優秀さを見せれば、継母たちは僕を危険視し、ルビーナとの接触を絶たれてしまうだろう。
だから僕は『木偶人形』になった。
兄と比較されることもない、無能で無感情な置物。誰もが僕を侮り、警戒を解いたその裏で、僕は王家直轄の事業に食い込み、自らの力と財力を、何年もかけて狂気のように蓄え続けた。
兄がいずれ、持ち前の傲慢さで彼女を裏切ることは分かっていた。
僕はただ、ルビーナという美しい鳥を迎え入れるための完璧な「鳥籠」を作り上げ、兄が自らその手を離す瞬間を、息を潜めて待ち続けていただけだ。
「失礼いたします、ヴィンセント様。……また、王都のアーサー様から手紙が届いております」
ノックの音と共に、秘書のセオドアが執務室に入ってきた。
手には、王都の紋章が押された数通の手紙。この数週間、兄からルビーナ宛てに送られてきている「弁明」と「復縁」を乞う見苦しい手紙だ。
「……暖炉へ」
僕が短く命じると、セオドアは一礼し、ルビーナ宛ての手紙を躊躇いもなくパチパチと燃える暖炉の炎の中へ放り込んだ。
ルビーナは一度も、この手紙の存在を知らない。一生、知る必要もない。
「兄君も、もう後がないのでしょう。王都での孤立は決定的。公爵家の資金も底をつきかけているはずです。……いずれ、直接ここに乗り込んでくるかと」
「構わない。むしろ、好都合だ」
僕は長椅子で眠るルビーナの赤い髪を一房すくい、そっと唇を落とした。
「あの男がルビーナの前に現れた時こそ……彼女の未練も、ヴォルカリス公爵家も、すべてが完全に終わる瞬間だ」
僕の木偶人形としての長い長い演技は、もうすぐ終わる。
愛しいルビーナ。君はただ、僕に甘やかされて、何も知らずに笑っていてくれればいいんだよ――。




