第4幕:領地での同居生活
1.好物だらけの食卓と、女主人への就任
学園を(二人揃って)卒業し、本格的に領地での生活が始まって数日が過ぎた。
王都の喧騒が嘘のように穏やかな日々――の、はずだったのだが。
「……ねえ、ヴィンス」
「はい、ルビーナ。お肉の焼き加減はいかがですか?」
広々としたダイニングルーム。長いテーブルの向かい側ではなく、なぜか私のすぐ隣の席に陣取っているヴィンセントが、ニコニコと微笑んでいる。
「焼き加減は完璧よ。……完璧すぎるくらいに」
私は目の前の皿を見つめながら、こめかみを軽く押さえた。
初日は「歓迎の宴だから」と納得していた。だが、昨日も、そして今日も。
朝は私の大好物である甘さ控えめのベリーのジャムとふんわり焼かれたオムレツ。昼は私の故郷の郷土料理。そして今夜は、私が一番好きな、希少な香草を使った鴨肉のローストだ。
「初日のドレスのこともそうだけど……いくらなんでも、私の好みを把握しすぎじゃないかしら? 私、この香草が好きだなんて、実家の料理長にしか言ったことないのだけれど」
さすがの私も、頭の上にいくつもの「?」が飛び交っていた。
いくら彼が優秀でも、まるで私の頭の中を覗いているかのような完璧すぎる手回し。もしかして、ずっと前から私のことを調べ上げて……?
疑念の目を向ける私に対し、ヴィンセントはふっと目を伏せ、長いまつ毛を揺らした。
「……気持ち悪かったですか?」
「えっ」
「君が突然の環境の変化で、体を壊してしまうんじゃないかと不安で……お父様や実家の料理長に、こっそり手紙で教えを乞うたんです。やりすぎてしまったなら、謝ります。……ごめんなさい」
しゅんと肩を落とし、縋るように私を見つめてくるヴィンセント。
その弱りきった大型犬のような姿を見た瞬間、私の頭の中で警鐘を鳴らしていた「?」マークは、跡形もなく砕け散った。
(ああもう、私のバカ! 彼がどれだけ私のことを気遣ってくれているか、全然わかってなかった!)
「ち、違うの! 気持ち悪いだなんてとんでもない! ただ、ヴィンスが私のためにそこまで無理をしてくれているんじゃないかって、心配になっただけで……」
慌ててフォローを入れると、ヴィンセントはパッと顔を輝かせ、私の手をそっと両手で包み込んだ。
「よかった……。君の笑顔が見たくて、つい頑張りすぎてしまうんです。でも、実は少し困っていることもあって」
「困っていること?」
「ええ。王家直轄の事業と、この領地の経営……少し、僕一人では手が回らなくなってきていて。ルビーナ、優秀な君に、この屋敷の切り盛りを手伝ってもらえないでしょうか?」
真剣な眼差しで、まっすぐに頼りにしてくる彼。
「僕には、もう君しか頼れる人がいないんです」という殺し文句まで添えられて、私の世話焼きの血が騒がないわけがなかった。
「……も、もちろんよ! 私でよければ、いくらでも手伝うわ。帳簿の確認から使用人の束ね役まで、なんでも任せて頂戴!」
「ありがとうございます、ルビーナ! ああ、君がいてくれて本当に心強い」
ヴィンセントは嬉しそうに私の肩に顔を埋め、ギュッと抱きついてきた。
(ふふっ、本当に甘えん坊なんだから。私がしっかり支えてあげなくちゃ!)
私は彼の背中を優しく撫でながら、女主人の仕事に思いを馳せていた。
――彼が私に渡した「屋敷の全権」が、すなわち「この領地の正妻」としての外堀を完全に埋める行為であること。
そして、彼が抱きついてきた拍子に、使用人たちへ向けて「見ただろ? これが君たちの女主人だ」とでも言うような、冷たく絶対的な視線を放っていたことなど、私の知る由もない。
翌日から、私は屋敷の女主人として執務室でペンを走らせるようになった。
「ルビーナ、お疲れ様です。少し休みましょう」
「ありがとう、ヴィンス。……って、ちょっと近すぎない!?」
仕事中も、隙あらば背後から抱きしめられ、首筋にすりすりと顔を擦り寄せられる溺愛の毎日。
彼が私を絶対に逃がすまいと、蜘蛛の巣のように甘く緻密な罠を張り巡らせていることなど露知らず、私は「仕方ない子ね」と笑ってそれを受け入れ続けていたのだ。
◇◇◇
2.使用人たちの救世主と、執務室の甘い時間
私がヴィンセントの領地にやってきてから、早くもひと月が経とうとしていた。
女主人の仕事にもすっかり慣れ、執務室で領地の報告書に目を通していると、控えめなノックの音が響いた。
「ルビーナ様。休憩のお茶をお持ちいたしました」
「ありがとう。ちょうど一息つこうと思っていたところよ」
入ってきたのは、初日から私のお世話をしてくれているメイドのアンナと、ヴィンセントの有能な秘書であるセオドアだ。
アンナが手際よく淹れてくれた紅茶は、今日も私好みの完璧な温度と香りだった。
「いつも美味しい紅茶をありがとう、アンナ。セオドアも、先ほどの帳簿のまとめ、とても見やすくて助かったわ」
「も、もったいないお言葉です! ルビーナ様のお役に立てるなら、このアンナ、身粉にしても働きます!」
「恐縮です、奥様。ですが、ご無理はなさらないでください。……これ以上ルビーナ様がお疲れになると、我々の命が危ういので」
「え?」
セオドアが最後にボソッと呟いた言葉が聞き取れず、私が首を傾げたその時。
「――ルビーナ。僕のルビーナ、働きすぎていませんか?」
執務室の扉が開き、少し不満げな顔をしたヴィンセントが入ってきた。
彼はまっすぐに私のもとへ歩み寄ると、椅子に座る私の背後から、大きな体で覆い被さるように抱きついてきた。
「ヴィ、ヴィンス! 今はセオドアたちもいるんだから……!」
「構いません。僕が君の温もりを補給する時間です。……ルビーナ、いい匂い」
私の首筋にすりすりと顔を擦り寄せ、大きな犬のように甘えてくる彼。
恥ずかしさに顔を赤くしてチラリとセオドアたちを見ると、彼らは「我々は空気です」とでも言わんばかりの完璧な無表情で、音もなく後退りし、そっと執務室の扉を閉めていった。
――扉の外。
完全に廊下に出た瞬間、アンナとセオドアは同時に、深い深い安堵の溜息を吐き出した。
「はぁぁ……助かった……」
「ええ。今日もルビーナ様がご機嫌で、本当に何よりです」
二人は顔を見合わせ、まるで戦友のように強く頷き合う。
ルビーナが来る前のこの屋敷の主――ヴィンセント・フォン・ヴォルカリスは、文字通り『氷の暴君』だった。
僅かなミスも許さず、常に冷酷な目で領地経営を推し進め、使用人たちは毎日胃に穴が空くような緊張感の中で働いていたのだ。
『ルビーナがこの屋敷で、少しでも不快な思いをしたら……分かっていますね?』
彼女が来る前日、絶対零度の声でそう脅された時は屋敷中が震え上がったが……いざ蓋を開けてみれば、ルビーナは天使のように優しく、働き者の非の打ち所がない女主人だった。
しかも、彼女さえ笑っていれば、あの恐ろしい主は一日中ご機嫌で、甘いオーラを振り撒いているのだ。
「ルビーナ様は、この屋敷の救世主よ……! 私、一生ルビーナ様についていくわ」
「私も同感です。……間違っても、ルビーナ様が『王都へ帰る』などと言い出さないよう、我々も全力で外堀を埋めねばなりませんね」
使用人たちの切実な忠誠心が、ヴィンセントの思惑と完全に一致してしまっていることなど、執務室で彼に甘く囲い込まれているルビーナが知るはずもなかった。




