第2幕:馬車の中
馬車の扉が重厚な音を立てて閉まり、夜会の喧騒が完全に遮断された。
途端に、隣に座っていたヴィンセントの肩が、目に見えて小さく震え始めた。
「ヴィンス……?」
私が声をかけるより早く、彼は糸が切れたように崩れ落ち、私の膝にコテンとその額を預けてきた。
「……ああ、怖かった。……心臓が、まだ止まりそうにないんです」
情けないほどにか細い声。
見れば、私のドレスの裾を握る彼の指先は、先ほどの夜会での堂々とした振る舞いが嘘のように、小刻みに震えている。
「ヴィンス、大丈夫よ! あなた、あんなに格好良くお兄様に言い返してくれたじゃない」
私は反射的に、彼の青銀の髪を優しく撫でていた。
さっきまで、婚約破棄のショックや周囲の冷ややかな視線で胸が塞がっていたはずなのに。今はこの、私を助けるために無理をしてくれた義弟を、どうにかして安心させてあげなきゃという思いで頭がいっぱいになっていた。
(※この先に挿絵があります)
「僕のような木偶が、兄上にあんな生意気なことを……。嫌われましたよね、ルビーナ。君にまで、見放されたらと思うと……」
「そんなことないわ! 私が、私がついているから。見放すなんて絶対にしない」
私が必死にそう告げると、ヴィンセントは私の膝に顔を埋めたまま、ふっと安堵したような吐息を漏らした。
その顔は私からは見えない。
けれど、私の腰に回された彼の腕が、少しずつ、けれど確実に力を増し、私を自分の体へと密着させていく。
「……約束ですよ、ルビーナ。……絶対に、僕を離さないで」
震えていたはずの声は、いつの間にか熱を帯び、耳元で低く甘く響く。
私はただ「相当怖かったのね」と、彼を抱きしめる力を強めることしかできなかった。
膝の上で彼が、計画通りに私を捕まえたことに満足げな微笑を浮かべているとも知らずに――。
「ルビーナ、これからどうしますか? 僕の屋敷に向かっていいですか?」
「え? ……そうね」ヴィンセントに言われて、我に返る。
「……ヴィンス、その前にまずは家に戻ってお父様に説明してもいいかしら?」
「ええ、もちろん構いませんよ。僕も一緒に行きます」
ルビーナの言葉にヴィンセントは頷いて、そう提案する。
もちろん、私にそれを断る理由はなく、馬車は私の家、アストリード侯爵邸に向かった。
◇◇◇
アストリード侯爵邸に到着した時には、夜会を早々に辞してきたお父様が、青ざめた顔で応接室を歩き回っていた。
「お父様……!」
「ルビーナ! おお、よく無事で……。本当に、すまなかった。まさかアーサー殿が、あのような暴挙に出るとは……我が家の名誉は……」
頭を抱え、崩れ落ちそうになるお父様。
私が駆け寄って謝罪しようとしたその時、背後に控えていたヴィンセントが静かに、けれど通る声で口を開いた。
「侯爵閣下。どうかご自身やルビーナを責めないでください。すべての非は、分を弁えぬ愚行に走った兄と、それを止められなかった我がヴォルカリス公爵家にあります」
お父様がハッと顔を上げる。
「ヴィンセント……殿? しかし、君は……」
『木偶人形』と呼ばれていた無口な青年の、あまりにも堂々とした口上に、お父様は目を丸くしている。
ヴィンセントは完璧な礼の姿勢をとると、まっすぐに私のお父様を見据えた。
「先ほどの夜会で、僕はルビーナに求婚し、彼女は頷いてくれました。閣下、どうか彼女を僕にいただけないでしょうか」
「なっ……! き、君に!? しかし、君は次男坊で、領地も……それに、世間の目もある。傷ついたルビーナを、本当に守れるというのか?」
お父様の懸念はもっともだった。
するとヴィンセントは、懐から数枚の書類を取り出し、静かにテーブルの上に滑らせた。
「ご安心を。……僕はすでに、王家直轄の事業をいくつか裏で任されており、その功績で、近々新たな爵位と領地を賜る予定です。兄上を頼るつもりはありません」
「な……王家直轄、だと……!?」
書類を一瞥したお父様が、息を呑む。
そこに記されていたのは、間違いなく彼個人の圧倒的な資産と、すでに手に入れている確固たる地位の証明だった。
「兄の愚行でアストリード家に泥を塗った以上、公爵家としても、有能な彼女を別の家に手放すわけにはいかないはず。僕と彼女が結ばれることが、両家にとって最も角が立たず、利益をもたらす『正解』です。……もちろん、僕が彼女を生涯かけて愛し抜くという前提ですが」
理路整然と、有無を言わさぬ圧を込めて語るヴィンセント。
私はその背中を見つめながら、胸がいっぱいになっていた。
(ヴィンス……私の家を守るために、こんな立派な言い訳まで用意してくれたのね)
彼がいつの間にそんな事業に関わっていたのかは分からない。けれど、きっと影で血の滲むような努力をして、この書類を整えてくれたに違いないのだ。先ほど馬車の中で震えていた彼が、今、私のお父様を前に必死に「立派な男」を演じてくれている。
「……閣下。僕では、力不足ですか」
静かな、けれど射抜くようなヴィンセントの眼差し。
お父様はしばらくの間、目の前の「見知らぬ青年」の底知れない気迫に圧倒されたように固まっていたが……やがて、深く、深く息を吐き出した。
「……いや。ルビーナを……娘を、頼む。どうか幸せにしてやってくれ」
「ありがとうございます。……我が命に代えても」
ヴィンセントが恭しく頭を下げる。
その横顔は、完璧な紳士そのものだった。
こうして私たちは、誰に憚ることもなく、正式な婚約者として認められたのだ。
挿絵としてAIイラストを1枚挿入しました。ルビーナとヴィンセントのイメージを形にしてみましたので、楽しんでいただければ幸いです




