「地味で退屈だ」と婚約破棄された薬師令嬢、凍土の辺境伯に「君が必要だ」と溺愛される
「地味で退屈だ」と婚約破棄された薬師令嬢、凍土の辺境伯に「君が必要だ」と溺愛される
◆
「君は退屈な女だ、リーネ。——婚約は破棄する」
王太子ユリウスの声が、薔薇の咲き乱れる中庭に落ちた。
隣に立つ聖女フローラが、申し訳なさそうに目を伏せる。その白い指がユリウスの袖をそっと掴んでいるのを、私はぼんやりと見ていた。
三年。
三年間、この人の婚約者として宮廷医薬局を支えてきた。夜通し薬を調合し、流行病の処方箋を書き、兵士たちの傷薬の在庫を管理し続けた。
けれどそのどれも、ユリウスの目には映らなかったらしい。
——まあ、そうだろうな。
華やかな祝福魔法で民衆を癒すフローラの隣では、地道に薬草を擂り潰す私の手など、退屈にしか見えないだろう。
「……承知いたしました、殿下」
驚くほど穏やかに、言葉が出た。悲しみより先に、奇妙な安堵が胸に広がる。
もう、この人のために夜を削らなくていい。
母が遺してくれた処方箋の束を、意味がないと笑われなくていい。
私は深く一礼し、踵を返した。フローラが「リーネ様、あの……」と呼び止めたが、振り返る理由は、もうなかった。
——中庭を出た回廊の柱に、一人の男が凭れていた。
黒髪に灰色の外套。北方の冷気をそのまま纏ったような、無表情の男。
グラーデン辺境伯ヴェルト。「凍土の番人」と宮廷で囁かれる人物だった。
彼は私を見て、一瞬だけ目を細めた。
「——聞こえていた」
「それは失礼を」
「失礼なのは王太子のほうだ」
短い沈黙。
ヴェルトは柱から背を離すと、低い声で言った。
「薬師を探している。俺の領に来る気はないか」
「……は?」
「グラーデンは冬が長い。凍傷、肺炎、栄養失調。薬師が足りず、毎年民が死ぬ。——貴女の腕が要る」
婚約を破棄された直後の令嬢に向ける言葉としては、あまりにも実務的だった。
けれど、だからこそ。
社交辞令でも同情でもない、「必要だ」という言葉が、乾いた土に水が沁みるように胸に落ちた。
「……考えさせてください」
「三日後に発つ。それまでに決めてくれ」
ヴェルトは一礼もせず、外套を翻して去っていった。愛想のかけらもない男だった。
でも——あの目は、私の「手」を見ていた。顔でも家柄でもなく。
その夜、私は自室で母の処方箋を広げた。
黄ばんだ紙に、繊細な文字で記された数百の薬方。宮廷では「公爵令嬢の道楽」と笑われた知識の全てが、ここにある。
ユリウスは一度も、この処方箋を見ようとしなかった。
——手放そう。
王宮への未練も、「認められたい」という渇望も。
私の手が届く場所で、私の手を必要とする人がいるなら、そこに行こう。
三日後の朝、私は荷物をひとつだけ抱えて城門に立った。
◆
グラーデン辺境伯領は、宮廷の噂通りの極寒の地だった。
だが噂と違ったのは、ヴェルトという男そのものだった。
「薬房はここだ。足りないものがあれば副官のノクスに言え」
到着した翌朝、案内されたのは城の一角に設けられた薬房だった。質素だが、乾燥棚も蒸留器も揃っている。窓からは針葉樹の森が見え、空気は冷たいが澄みきっていた。
宮廷の医薬局より狭い。けれど、ここは「私の」場所だった。
最初の仕事は、凍傷に苦しむ老人の治療だった。
母の処方箋にある軟膏を調合し、患部に塗る。北方特有の薬草で代替が必要な箇所は、三日かけて配合を調整した。
一週間後、老人は自分の足で歩いて礼を言いにきた。
「薬師様、ありがとうございます。これで孫と遊べます」
——薬師様。
宮廷では一度も呼ばれなかった名で呼ばれた。指先が、少し震えた。
ヴェルトは毎朝、薬房に顔を出した。
用があるのかと思えば、棚の薬瓶を確認し、薪が足りているかを見て、何も言わずに去る。ただし、彼が立つ位置は常に入り口——誰かが入ってきたとき、私より先に対応できる場所だった。
最初は気づかなかった。
けれど、副官のノクスが呆れたように教えてくれた。
「閣下は薬房の警備順路を三度変えています。全て、貴女の作業動線に合わせて」
ある日、領民の男が薬房に怒鳴り込んできた。「女薬師に任せられるか」と。
私が口を開く前に、入り口に立っていたヴェルトが男の前に出た。背中で私を遮るように。
「彼女は俺が招いた薬師だ。——文句があるなら俺に言え」
声は静かだった。けれど男は一瞬で黙り、頭を下げて出ていった。
ヴェルトは振り返って、ぼそりと言った。
「すまない。民の教育が足りていない」
「いえ、ありがとうございます」
「礼はいい。仕事に戻れ」
素っ気ない。けれどその背中が入り口に戻るとき、ほんの一瞬だけ私のほうを振り返ったのを、見逃さなかった。
◆
二週間が経つ頃、私はグラーデンの風土病に取り組んでいた。
冬になると子供たちの間で広がる高熱の病。これまで有効な薬がなく、毎年幼い命が失われてきたという。
母の処方箋を繰り返し読む。組み合わせを変え、北方の薬草で代用できるものを探す。
失敗を重ねた。七回目の試作でようやく手応えを掴んだが、投与量の調整にさらに三日かかった。
ある夜、蒸留器の前で意識が飛びかけたとき、肩に外套がかけられた。
「寝ろ」
「あと少し——」
「薬師が倒れたら民が困る。寝ろ」
ヴェルトの声は素っ気なかった。けれど外套は温かく、彼の体温が残っていた。
——この人は、「貴女が心配だ」とは絶対に言わない。代わりに「民が困る」と言う。
その不器用さが、なぜだかひどく胸に沁みた。
翌朝、薬房の机に温かい茶と焼き菓子が置いてあった。差出人の名はない。けれど菓子の包み紙は、ヴェルトの執務室にあるものと同じだった。
その週の終わり、処方箋の応用がようやく実を結んだ。
風土病に効く煎じ薬の試作が完成し、高熱に苦しんでいた子供が三日で回復した。母親が泣きながら私の手を握った。
「この子が冬を越せるなんて……薬師様、薬師様……」
嗚咽混じりの声に、自分も泣きそうになった。——ここに来てよかった。
ヴェルトはその報告を聞いて、一言だけ言った。
「よくやった」
たった四文字。
けれどその夜の夕食に、見たこともない南方の果実が添えられていた。ノクスに聞くと、「閣下が早馬で取り寄せました。往復五日の距離です」と言う。
あの無愛想な顔で、一体どんな指示を出したのだろう。少しだけ、笑ってしまった。
翌日から、ヴェルトは私を領地の会議に同席させた。
「薬の供給計画は民政の根幹だ。薬師の意見がなければ予算は組めない」
発言権を与えられた。席を用意された。
宮廷では「道楽」と笑われた知識が、ここでは政策の柱として扱われている。
会議の席で私が薬草栽培の拡大を提案すると、ヴェルトは即座に予算を承認した。反対する文官を一瞥で黙らせて。
「薬師が必要だと言うなら、必要だ。以上」
その言葉に、文官たちが目を見合わせた。——辺境伯がここまで他人の意見を即決で通すのは、前例がないらしい。
◆
グラーデンでの暮らしが一月を過ぎた頃、王宮から使者が来た。
「リーネ・ヴァイスハルト嬢。王太子殿下より帰還命令が出ております」
——やはり来たか。
予感はあった。私がいなくなった宮廷医薬局では、在庫管理が崩壊し、流行病の処方箋が書ける者がおらず、兵士たちの傷薬が底を突き始めていると、風の噂で聞いていた。
フローラの祝福魔法は派手だが、百人分の薬を安定供給する地味な実務は、できない。当然だ。そもそも求められる技能が違う。
けれどそのことに、ユリウスは今さら気づいたらしい。
使者の前に、ヴェルトが立った。
私と使者の間に、壁のように。
「帰還命令の根拠は」
「王太子殿下のご意思です」
「婚約を破棄した相手に帰還を命じる法的根拠を聞いている」
使者が黙った。
ヴェルトは振り返りもせず、言った。
「リーネはグラーデン辺境伯領の主席薬師だ。俺の臣下に対する不当な召還には応じない。王太子に伝えろ」
——リーネ。
初めて、姓ではなく名で呼ばれた。しかも「俺の臣下」と。
正式な主席薬師の任命。それは、王太子であっても手が出せない辺境伯の人事権の行使だった。
使者は蒼白になって帰っていった。
その背中を見送ってから、ヴェルトが言った。
「事後承諾で悪い。——嫌なら撤回する」
「いいえ。ありがとうございます、ヴェルト様」
「……様はいらない」
「では、ヴェルト」
名前を呼ぶと、彼は一瞬だけ目を逸らした。耳の先が赤い。あの「凍土の番人」の耳が赤い。
——可愛い人だな、と思った。不謹慎にも。
◆
問題は、それで終わらなかった。
二週間後、王宮から正式な招待状が届いた。セレスティア王国の建国記念夜会。辺境伯として出席が義務づけられる、断れない席。
加えて、招待状にはわざわざ「主席薬師リーネ・ヴァイスハルト嬢の同行を歓迎する」と書き添えてあった。ユリウスの筆跡だった。
「罠だな」
ヴェルトが招待状を睨みつけて言った。ノクスが補足する。
「王太子が夜会の場で貴女を取り戻そうとする可能性があります。公の場であれば辺境伯も拒否しにくい、という計算でしょう」
「だが欠席すれば王命違反になる。——行くしかない」
ヴェルトが私を見た。灰色の瞳に、珍しく迷いがあった。
「同行してほしい。——だが、無理にとは言わない」
王宮に戻る。あの場所に。
正直、気が重かった。けれど、この一月半でヴェルトが私のためにしてくれたこと——警備順路の変更、不当な抗議からの防御、主席薬師の任命、会議への参加権。言葉にしない溺愛の全てが、私の背中を押した。
「参ります。ヴェルトの隣なら、どこへでも」
彼は黙って頷いた。けれどその夜、ノクスから「閣下が夜会用の衣装を三着取り寄せています。全て貴女の分です」と聞かされ、また笑ってしまった。
◆
夜会当日。
久しぶりの王宮は、何も変わっていなかった。華やかな魔法の灯り、着飾った貴族たち、甘い香水の匂い。
ただ一つ違ったのは、私の隣に立つ人だった。
会場に入った瞬間、視線が集まった。
「凍土の番人」と「退屈な元婚約者」の組み合わせに、好奇と嘲笑が混じった囁きが走る。
ヴェルトは一切気にせず、真っ直ぐ前を向いて歩いた。ただ、その歩幅は私に合わせて小さくなっていた。
ユリウスが近づいてきたのは、開始から間もなくだった。
フローラを伴い、余裕の笑みを浮かべて。
「リーネ、久しいな。元気そうで何よりだ。……辺境暮らしは大変だろう。そろそろ戻ってきたらどうだ。医薬局が人手不足でね」
三年間聞き続けた、あの軽い声。
以前なら、この声ひとつで胸が締めつけられた。今は——何も感じなかった。風が吹き抜けるように、通り過ぎていく。
「お気遣いありがとうございます、殿下。ですが、私はグラーデンの主席薬師ですので」
「主席薬師? 辺境の小さな薬房で薬草を擂っているだけだろう——」
「年間三百人の民の命を預かる職務です。小さいかどうかは、殿下のご判断にお任せいたします」
ユリウスの笑顔が、初めて歪んだ。
フローラが慌てて「ユリウス様、あの……」と袖を引く。けれどユリウスは引かなかった。
「リーネ、命令だ。宮廷に——」
「王太子殿下」
ヴェルトの声が割り込んだ。低く、静かで、けれど広間の隅まで届く声だった。
「俺の臣下に対する命令権は、貴方にはない。先日、使者にもお伝えしたはずだが」
「辺境伯、口を慎め。私は王太子だぞ」
「だから法を守れと言っている」
空気が凍った。
二人の間に、目に見えない刃のような緊張が張りつめる。
そのとき、広間の奥から国王陛下が姿を見せた。
「——何の騒ぎだ」
広間が静まる。国王の視線がユリウスとヴェルトの間を行き来し、最後に私で止まった。
「辺境伯ヴェルト。グラーデンの風土病が激減したと報告を受けた。薬師を得たそうだな」
ヴェルトが一歩前に出て、一礼した。
「はい、陛下。主席薬師リーネの功績です」
ヴェルトは淡々と、私がグラーデンで成した仕事を列挙した。
凍傷軟膏の改良。風土病の煎じ薬——十三種の新薬開発。兵士の携帯用傷薬の量産体制の確立。薬草栽培の指導による地域の自給率向上。冬季死亡率の三割低減。
——全部、覚えていたのか。
私が薬房で黙々と続けてきた仕事の、ひとつひとつを。数字まで正確に。
この人はいつも何も言わない。けれど、全部見ていた。
国王が深く頷いた。
「見事だ。ヴァイスハルト公爵家の薬学は、先代夫人の代から王国の財産と聞いていたが、こうして辺境で実を結んだか。——リーネ嬢、貴女の母君も喜んでいよう」
母の名が、王の口から出た。
「道楽」と笑われ続けた母の処方箋が、「王国の財産」と呼ばれた。
目の奥が熱くなった。けれど、まだ泣くところではない。
ユリウスの顔から、完全に余裕が消えていた。
「父上、しかし医薬局の立て直しのためにも——」
「ユリウス」
国王の声が、静かに、しかし完全に遮った。
「婚約を破棄し、医薬局を軽んじたのはお前だ。その結果、局が機能停止に陥ったのもお前の責任だ。辺境伯が正式に任命した臣下を召し上げる権利は、お前にはない。——己の不明を恥じよ」
裁定だった。
国王という最高権力者による、動かしようのない裁定。
ユリウスが何か言いかけ、けれど国王の視線に押されて口を閉じた。フローラが蒼白になって俯いている。
広間の貴族たちが、息を殺して成り行きを見守っていた。
——静寂の中、ヴェルトが動いた。
私の正面に立ち、片膝をついた。
会場の全員が息を呑んだ。国王でさえ、目を見開いている。
「リーネ」
「——はい」
「俺は口が上手くない。詩も知らない。花を贈る作法も分からない。だから事実だけ言う」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見上げていた。
凍土の番人と恐れられた男の目に、初めて、揺れるような光が見えた。
「貴女がいなければ、グラーデンの民は今年の冬を越せなかった。貴女の手は、俺の知る誰よりも多くの命を救った。——俺の領と、民と、この命を、貴女に預けたい。隣にいてほしい。生涯」
不器用だった。
花の一輪もなく、宝石もなく、甘い言葉もない。
あるのは、事実だけ。この一月半で私が積み上げてきた仕事を、一つ残らず見ていた男の、事実だけ。
涙が落ちた。止められなかった。
三年間、「退屈だ」と言われ続けた手を。「道楽だ」と笑われた知識を。この人はずっと、ずっと見ていてくれた。
「——はい。喜んで」
広間に拍手が起きた。最初は小さく、やがて大きなうねりになった。
ユリウスが何か叫んだ気がした。けれど、もう聞こえなかった。
ヴェルトが立ち上がり、私の手を取った。武骨で、剣だこのある、大きな手。
冷たいかと思ったら、温かかった。
◆
夜会の帰り道。
馬車の窓から、王都の灯りが遠ざかっていく。
ヴェルトは向かいの席に座ったまま、しばらく黙っていた。それから、不意に口を開いた。
「……泣かせるつもりはなかった」
「嬉しかったんです」
「そうか」
「はい」
「…………」
沈黙。
それから、ゆっくりと手が伸びてきて、私の手を握った。さっきより少しだけ、力が強い。
「帰るか。グラーデンに」
「はい。——帰りましょう」
帰る場所がある。
私の手を必要としてくれる場所が。私の手を、ずっと見ていてくれた人が。
それだけで、十分だった。
窓の外に、北の星が見えた。グラーデンの方角だ。
あの薬房で、明日も薬を作ろう。この人の民のために。この人の隣で。
——なお、後日聞いた話では。
私がいなくなった宮廷医薬局は、備蓄が尽きた時点で完全に機能を停止した。流行病の季節に処方箋が書ける者がおらず、貴族たちは高額で民間の薬師を雇う羽目になったという。
ユリウスは国王から改めて叱責を受け、フローラの祝福魔法だけでは医療を維持できないことを、ようやく理解したらしい。
「あの薬師を返してくれ」と辺境伯領に手紙が届いたが、ヴェルトが一言「断る」と返して終わった。
もう遅い、と思った。
けれど声には出さなかった。怒りも恨みもない。ただ、もう振り返る理由がないだけだ。
私にはもう、薬草の香りのする温かい薬房と、不器用な辺境伯と、「薬師様」と呼んでくれる人たちがいる。
それで——十分すぎるほど、十分だから。
お読みいただきありがとうございます。
「地味な手仕事」が正しく評価される瞬間を書きたくて、この物語が生まれました。ヴェルトの不器用な溺愛が伝わっていたら嬉しいです。
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