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昭和33年の十円玉

作者: 池田平太郎

その日、確かに私は疲れていた。

仕事もうまくいってなかったし、妻ともしっくりいってなかった。

帰宅すると、子供の寝顔を見るのもそこそこに、すぐにパソコンに向かった。ここ何日も、そういう日が続いている。


不意に、私は顔が水面に浸かるのを感じた。

(あ、また風呂の中で寝てしまったか・・・。)

最近では、珍しくない事だった。

だが、目を開けた私の前には、先ほどまでと変わらぬパソコンの画面があった。

電源が落ちてしまったか、画面は真っ暗だった。

「???」

(寝たのか・・・。それにしても、今の感触は何だったんだ・・・。)

そう思い、ふと画面に触れてみた・・・。

すると、画面が水面みなものようにビトっと手のひらに吸い付いた。

瞬間、そのおかしな感触に驚き、慌てて手を画面から離したものの、「そんなバカな」ともう一度、気を取り直し、手のひらを画面に触れさせてみたところ、やはり、そこにあるのはまごうことなき液体の表面張力の感触であった。

私は、思い切って、画面の中へ手のひらを沈みこませてみた。

すると、チャポンという音と共に、ずぶずぶっと、手が中に入ってしまう・・・。

(どうなってるんだ・・・。俺は疲れているのか・・・。)

次の瞬間、画面の向こうで誰かが私の手をグッと握った。 暖かく、大きな、ゴツゴツした手だった。その手は、もの凄い力で私を画面の中に引きずり込んだ。

抵抗も何も、あ!っと言う間もない出来事だった。

視界が真っ黒になり、頭は真っ白になった・・・。


やがて、「早く座らんか!」という声が聞こえ、私は我に返った。

低い声だった。

(あ、オヤジ!)

そこには、数年前に死んだはずの父が座っていた。

「他のお客さんの迷惑になるだろうが!」

再び、父の叱責がとんだ。

辺りを見渡すと、そこは野球場だった。

だが、今、流行りのドーム球場などとは似ても似つかぬ殺風景な球場で、座椅子などは板が張り付けてあるだけの背もたれもないものだった。

観客も皆、やせこけて、それでいて、異様に目がぎらついた男たちばかりだった。その中に、父も見事にとけ込んでいる。


慌てて、私は父の横に腰を下ろすと、まじまじと父の横顔を凝視した。

生前は口うるさいだけの父で、父子仲もあまりいいとは言えなかった父であった。その父は、晩年の風貌ではなく、まだ、三十代くらいであったろうか。

若いが、みずみずしい若さではない。明らかな、「戦場を知る男」の顔であった。

父はそんな私の視線になど、構うことなく、前を向いてグランドを眺めて続けていた。


「長嶋だ。」

父が不意に口を開いた。

「は?」

父はあごでグランドを指した。

私もそれにつられるように、グランドに視線を落としたとき、「3番、サード、長嶋・・・。背番号3。」というコールが聞こえた。

「あれが、巨人の新人、長嶋だ。」

父はぶっきらぼうにそう言った。

そこには、若々しい長嶋茂雄がいた。

私は思わず、興奮した。子供なんだから、興奮していいんだとわけのわからない理屈で納得していた。

「お父さん!お父さん!長島はね、凄いバッターなんだよ!」

父を「お父さん」などと呼んだ記憶は絶えてこの方なかったが、その後の長嶋の活躍を知る私は、思わず、「お父さん!」を連呼してしまった。

「心配いらん。稲尾は絶対に負けん。長嶋のような新人とは背負ってるものが違う・・・。」

父はそういうと、そのまま、グランドを睨み付けるように凝視し続けていた。

(いなお・・・?)

スコアボードに目をやると、そこには、手書きの文字で「巨人」と「西鉄」と書いてあった。

(西鉄・・・って、西鉄ライオンズかよ!、・・・てことは、ピッチャーは伝説の名投手、鉄腕・稲尾和久か!)


マウンドの稲尾は誰が見てもわかるくらいに、疲労困憊していた。肩で息をしている。

ここで、天才・長嶋である。

父の足下には、何本も、もみ消したタバコが落ちていた。

稲尾は振りかぶって、渾身の一球を投げ込んだ。

魂がこもっているのが、素人目にもわかった。長嶋の打球は「カッ!」という乾いた音を残して、宙に舞った。ピッチャーフライだった。

父に限らず、満員の観衆の呼吸が一瞬、ひとつになった。

直後、歓声ともため息ともつかぬ、異様などよめきが起こり、ボールは、すっぽりと稲尾のグラブにおさまった。


気が付いたら、父と二人で球場の外にいた。ここはどこなの?というくらい、辺りに明かりはなかった。横をチンチン電車がガーっという音と共に走り抜けていった。

「お父さん、電車で帰らないの?」

私がそういうと、父は少し、口をゆがめて、ポケットの中から十円玉を一枚取り出した。

「券買ったからな・・・。もう、これだけしか残ってない。歩いて帰るしかなかろう。」

二人はトボトボと真っ暗な道を歩いた。

少し先に街の明かりが見えた。

よく見ると、歩いている道は土の道で、至る所にくぼみがあり、雨が降ったのだろうか、水たまりができていた。

私たちの横を、これ見よがしにチンチン電車が再び、ガーっという音と共に通り過ぎた。不意に、私は涙がこみ上げてきた。

(お父さん!)

そう、声に出そうとした刹那、父が口を開いた。

「おまえ、自分に恥ずかしくない生き方をしとるか・・・。」

私は「うん」と答えるのだけが精一杯だった。

「それならいい。」

私はもう、声にならなかった。

少し無言で歩いた後、また、父が口を開いた。

「人はどうでもいい。おまえが、自分に恥ずかしくない生き方をしとるのなら、それでいい。」

私はただただ、かぶりを振るのみであった。


顔を上げた私の前には、パソコンの画面があった。画面には、スクリーンセーバーが無感動に動いていた。

(眠ってしまったのか・・・。)

そのとき、後ろで声がした。

「コーヒーでも飲む?」

妻だった。

久々に聞くような優しい声だった。

私は少し考えて、「いや、ビールをくれ。」と言って、笑って、大きく背伸びをした。

笑ったなんて、いつ以来だったろう・・・。

妻は少し口をとがらせて微笑むと、そのまま奥へ消えた。


やがて、缶ビールのプシュっという音を聞きながら、私はたばこを手に取ると、ライターを出そうとズボンのポケットをまさぐった。

ポケットには、ライターはなく、代わりに十円玉が一枚出てきた。

(まさか・・・。)と思って年号を見ると、昭和33年と書いてある・・。

長嶋がデビューした年で、西鉄が日本シリーズで巨人相手に3連敗からの4連勝という奇跡の逆転優勝を果たした年である。

(よく考えたら、昭和33年なんて、オヤジと試合見に行ったどころか、俺はまだ、生まれてもないもないじゃねーか・・・。)

私は、思わず、苦笑すると、不意に涙がこぼれ落ちた。

(父さん・・・。)

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