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第88話 さらなる洗濯

 マトウィンは8着の制服を不思議な金属樽のとなりの台に置いた。

 イリアは女店主にうながされ、部屋の左奥にある作業台に鎧の右脚部分を持っていく。

 作業台の上にはごつい見た目の刃の短いハサミや、打面が小さくなっている変わった形の金槌などが転がり、周りの壁にも種々様々な道具が吊り下げられていた。


 鎧の右脛部分には角ザルの歯型が付いていて、二つの犬歯の部分に穴が開いている。もしこの革の厚みが半分だったらイリアの右すねに犬歯が突き刺さっていただろう。致命傷にはほど遠いが、衛生的な意味であまり好ましくはない。



「うーん…… このくらいなら別に、直さなくても機能に支障はないんじゃない? 亀裂が入ってて、後で大きく砕けたりってことも無いと思う。この素材はしなやかに出来てるし」

「費用が掛かるなら俺が出すから、ちゃんと直してやってくれ」


 イリアとしては別にそのままでも構わない。女店主の言う通り、この小さな穴を魔物の攻撃が通ってくることも考えにくい。

 だというのにマトウィンはやけに前のめりである。


「まあ穴を塞いで樹脂とかで固め直すだけなら、小銀貨2枚でやったげるよ。見た目が奇麗になるしね。私は所々傷ついてる防具も味があっていいと思うけど」

「小銀2枚なら俺でも問題なく払えます」

「そう? じゃあ直すよ。ちょっと待っててね」


 女店主は店の奥に行ってしまった。イリアが振り返ると手に財布を持ったマトウィンがなにやら複雑な、変な顔をしている。


「えっと…… なんでしょう?」

「別に何でもない」



 女店主が太い棒のようなものとガラス瓶を持って戻って来た。ガラス瓶の中身はなにかまっ黒のもののようだ。

 密度の高そうな木の棒を鎧の脛に押し込み、変な形の金槌で穴の辺りを叩き始める。内側にへこんでいた部分が平らにならされて、穴が若干小さくなった。


「ふむ。やっぱり何かで埋めないと駄目かも。嫌じゃなければ、おがくずとかでもいいと思うけど?」

「特別な材料が必要で費用が掛かるなら、やはり俺が——」

「いやいいですよ別に。こんな小さな傷の補修くらい、おがくずにしてください」

「わかった」


 さっきからマトウィンはこの女店主に妙に金を払いたがる。不審に思ったが、イリアはそれよりも女店主の補修の手際に注目することにした。


 壁にかかっていた小さなやすりを取る。作業台の引き出しから取り出した木材を削り、細かな木粉を作り出す。そしてそれを、これも引き出しから取り出した陶器の皿につまみ入れる。

 ガラス瓶の栓を引き抜き、中のどろどろとした黒いものをおがくずの山が出来ている小皿に注ぎ入れた。


「マトウィン、そっちにある水差し取ってくれる?」


 女店主に言われたマトウィンは返事もせずにさっと動き、部屋の反対側の机にあった青銅の水差しを持ってきた。持ち手を女店主に向けて差し出す。

 水差しからほんの数滴、黒いどろどろと比べて四分の一ほどの量の水を小皿に垂らすと、女店主はそれを左手の薬指で混ぜ、完全に混ざったものをイリアの鎧の傷部分に盛った。おがくずが混じって粘土のようになったそれをある程度平らにならし、そのまま指を着けてじっとしている。10秒経ち、20秒も過ぎた。


「え、ひょっとして魔法ですか?」

「静かにしろイリア。クリスティナのこの魔法はとんでもなく高度なものなんだぞ。集中力が要るんだ」


 クリスティナと呼ばれた女店主はくすりと笑い、それから手を離して、作業台似あったぼろ布で指を拭いた。


「これはウルシの樹液だから、時間をかければ空気中の湿気を吸って勝手に固まるの。私はその反応を速めて、かつ均等に固まるように制御しただけ。精霊言語の呪文は使ってるけど、魔法というか、マナ・精霊力運用の応用ね」

「俺も水精霊(ウンディ)に適性がある。クリスティナは謙遜しているが、絶対にまねできないぞ。水魔法は使う水が清くて純度が高いほど簡単に媒介化できる。こんな、僅かしか水分の含まれない混合物を水魔法で操るなんて、レベル60の達人魔法使いの技だ」

「褒めすぎ褒めすぎ」


 クリスティナはまた笑った。骨っぽい顔立ちで目の細い女店主はイリアにとってはあまり美人に見えないが、笑うと見える白い歯が奇麗である。


「私のアビリティーがたまたま、『マナ操作』を倍にするものだからできてるだけ。まあ、慣れるのには結構時間がかかったけど。こんなことの役にしかたたない、微妙なアビリティーなのよね」


 つまりは『ステータス系』アビリティーの【精緻】保有者ということだろう。

 【怪力】が『力』倍加させるように、【精緻】は『マナ操作』を倍加させる。どちらも前衛型の戦士にはあまり向いていないアビリティーと言える。


 『力』と『マナ操作』。運動能力にとって二つのステータスは均衡を保って高くないと、あまり意味があると言えない。

 『力』だけ高くなりすぎてもまともに動けなくなるし、普段以上に『マナ操作』を高くして、筋出力の加減を一時的に微細制御できるようになったとして、それが切羽詰まった戦闘状況においてどういう意味を持つのか。

 『耐久』を倍加してくれる【屈強】や『速さ』を倍加する【俊速】のほうがずっと有用だろう。


 イリアは今まで武術しか訓練してこなかったので、魔法運用において『マナ操作』の大小がどれほどの違いをもたらすのか、よく分からない。

 結局何事も経験してみなければ実感としては理解できないような気がした。


 クリスティナはウルシの樹脂の硬さを確かめてから小刀を取り出し、盛り上がっている部分を削って平らにならした。補修跡が見えなくなるということも無いが、歯型はもう見えない。


「イリアくんって言ったっけ? もう半分固まったから、一晩たったら使っていいよ。小銀貨2枚貰えるかしら?」

「あ、はい」

「じゃあ今度はマトウィンのほうね。いつも通り洗濯したらいいの?」

「ああ、頼む」

「その量だと、二回に分けた方がいいみたいね」


 イリアが財布袋から取り出した代金を受け取り、前掛けの物入れに入れたクリスティナは金属樽のほうに行ってしまった。樽の蓋を開け、中に保全隊制服を4着放り入れる。イリアの鼻に酒精の匂いが漂ってきた。


 クリスティナは蓋を閉め、樽の横に接続された箱部分の、そこから生えた把手を掴んでぐるぐると回し始めた。内部から水音がする。

 左手で取っ手を回しながら、クリスティナは腰から何か取り出した。樽の蓋上部についた部品をずらし、その部分から銀色の細長い棒を内部に突っ込んだ。


「あれって魔杖ですか? 火魔法を使う訳じゃないですよね?」

「もちろんだ。魔杖は別に火を扱う専門の道具じゃない。あの洗濯道具の内部の、酒精と水の混合液にマナを流して媒介化し、さらに何か特別な制御を加えることで洗濯物の汚れを完全に取り去るんだ。クリスティナにしかできない、特別な洗濯術だ」

「ということは、あの洗濯道具はブレニーセル州でも一般的なものではない?」

「そうだ。彼女のお父上が優れた鍛冶職人で、それで特別に作ったものなんだ」


 イリアは隣のマトウィンの顔を見た。本来眉毛の生えているはずの部分の下に、思いのほかつぶらな目がきらきらと輝いている。


「……なんでそんなに詳しいんですか?」

「……彼女に直接聞いただけだ。別におかしくないだろう」



 数分間洗濯道具を操っていたクリスティナは把手を回すをやめ、魔杖を引き抜いて蓋を開けた。開けた状態でもう一度内部に魔杖を入れ、数秒かき混ぜて持ち上げる。

 杖の先にこぶし大の水の塊が付いてきている。銀に輝く魔杖を振り、水塊を隣にある桶の中に捨てた。


「見ろイリア! 一見何気ないが、あれもまた高度な魔法運用だぞ! 汚い水から奇麗な部分を取りだす『浄水(プロウター)』なら誰でもできる。だが媒介化した混合液から特に汚い部分だけを集めて取り出すというのはそこらの戦闘魔法使いには決して真似できない。何しろ清く純粋な水ほど簡単に扱えるわけだから、汚れを取り出すというのはそれとは全く逆の——」

「ちょっとうるさいうるさい。なんなの今日は。イリアくんに私を売り込むと何か良いことがあるわけ?」

「あ、いや……」


 マトウィンを黙らせ、クリスティナは金属樽の中の洗濯物を取り出して軽く絞った。中に軽鋼の鎖が仕込まれている制服は雑巾を絞るように硬く絞ることは出来ないはずだ。だが横の台に置かれた制服から水が滴るような様子はない。


 イリアは近づいて制服に触ってみた。気温に比べて冷たく感じるが、完全に乾いている。

 洗濯物を乾かす水魔法なら名前くらいは知っていた。『脱水(ドラシオン)』である。これが使えず、「急ぎの仕事」に対応できないと基本的に洗濯屋は営めない。




 結局、鎧の補修と8着の制服の洗濯は半刻ほどの間に終了した。マトウィンが代金を払い、乾いた品物を受け取っている。

 元々どれくらい汚れていたのかもよくわからないが、毛織の表地がなんとなくふんわりしたように見える。

 翌朝まで乱暴に扱ったりしないようにとの注意をふたたび受け、イリアも自分の鎧を受け取った。

 鉛色の髪をした眉なしの街道保全隊員は両腕で白い塊を抱いて店から出て行った。



「マトウィンさんってどれくらいこのお店に来てますか?」

「今日で6回目くらいかな? 去年あたりから、第7中隊の洗い物は全部あの人が持ってくるようになったね」

「クリスティナさんのことが好きなんじゃないですかね?」

「はぁ?」


 赤ん坊がへんてこな言葉を発したのを聞いた、というような顔でイリアを見る。

 イリアは何となく、マトウィンが気の毒なことになっているような気がした。

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