第72話 伝手
日が暮れる前に図書館を出て、イリアは前にも泊まった壁外北区の宿に向かった。
ゲオルク宅の近所。建物には寝台の意匠の絵看板が掛かっている。宿の名前はたぶんついていない。
経営者の男は50歳程度。背が低く、少し太り気味。不愛想ではあるがその言動には真っ直ぐな人格が感じられた。
ナハトという名前であることを、イリアはこの晩初めて知った。
宿賃の支払いや食事の連絡など、いわば事務的なやり取りしかしてこなかったので、一階の食堂兼居間で相談を持ち掛けるまで名を呼ぶ必要が無かったのだ。
「ナハトさんは王都に行ったこともあるんですよね?」
「……ああ」
4部屋ある宿の客室は今日は3つ埋まっている。他の二人の客はすでに夕食を食べ終えて二階の部屋に行っていた。
造りは立派だがだいぶ古ぼけた、おそらく数十年は使い続けられているだろう食卓。その上に載っている木椀には野菜の多い煮物が入っている。肉もちゃんと入っていて、なんの肉か聞いてみたら剣ブタモグラのものだという。
背中一面に刺突剣のような刺が生え、丸まって敵にぶつかる凶悪な魔物だ。
仮想レベルまで覚えてはいないが、かなり強い魔物のはず。個体数が少ないが体が大きいので、たまに食肉として出回ることがある。
丁寧に料理されているらしく、臭みも無く食べやすかった。イリアにとっては少し塩気が薄く絶品とまでは言えなかったが。
「俺も王都に出ようと思うんです。向こうで出来そうな仕事が見つかったので」
「……あまり、感心はしないな。……まだ独り立ちする歳に見えない」
「まあいろいろあるんですよ。王都まで行くのに、必要な物ってなんですかね? やっぱり北東大街道っていうくらいだし、途中街はいっぱいありますよね? 宿賃さえあれば特に問題ない感じですかね?」
ナハトは調理場の椅子に腰かけ、洗った木椀を布で拭いて水気を拭っていた。その手を止めて、数秒考えている。
この食堂の照明は珍しいもので、木の枠に紙を張って囲った物の中に灯皿が置いてある。
燃えたりしないか不安になったが、囲ってあるために風で煽られないから別に心配はないそうだ。
その照明の、紙越しの柔らかな光の中でナハトが難しそうな顔をした。
「さしでがましいようだが、やはり俺は賛成できんな、お客さん」
「なんでです? 俺が子供っぽくてレベルも低いからですか?」
「お客さんが実は17歳でレベル20だとしても、やはり賛成できん。王都までの街道は安全と言われてるが、それは魔物が出にくいって話だ。行き交う人間が多けりゃその分問題も起こりやすい」
イリアは三つ脚ラクダのハンスの言葉を思い出した。人間の敵は魔物だけではなく、人同士が争う事も都会では良く起きる、そんな話だったはず。
「じゃあどうしたらいいんですか? 大人になっても王都に行っちゃいけないなら、ベルザモックで生まれた人間はずっとベルザモックに居ろと?」
「そんな話じゃない。始めて行くなら一人旅しようなんて考えるなって話だ」
「……あー……」
一理ある。
どうも秘密のせいで誰とも組めないという事が念頭にあり、一人で行動することを選びがちになっている。だがもちろん、誰か味方と一緒に行動した方が何かと安全には決まっているのだ。
王都に向かう間だけ手を組めるような、割り切った関係の誰かと付き合えればいいのだが、そういう相手を探すのは難しい。やはりイリアのレベルがまだ低く、持久力を含めた移動効率が大人と違うことが問題となる。
「……それにな、お客さん。王都ナジアはここと同じ問題を抱えてる」
「人口増加問題ってことですか?」
「そうだ。ここみたいな『貧民街』が、ここよりもっと大規模に広がってる。いきなり一人で訪れても、あまり歓迎はされんと思うぞ。治安も今どうなってるか、俺が居たのは昔のことだし何とも言えないが…… できれば壁内に住んだ方がいい。簡単ではないが、伝手はないのか?」
「……あー……」
イリアは言い淀んだ。実のところ、伝手ならあるのだ。
『白狼の牙』先代頭領であるマルゴットが、壁内ではないが王都の郊外に屋敷を借りて暮らしている。
頭領の座をイリアの父ギュスターブに取って代わられた後、まだ40代だったマルゴットは剣術指南役として王都守備隊に雇われ高い評判をとったという。
任期は10年ほどで既に引退しているらしいが、今でもなにかにと王都の戦力組織とつながりを持っているらしく、謎の収入で経済的にも困ってはいないそうなのだ。
イリアは会ったことは無い。魔法の重要性を認識し『黒狼の尾』の設立を主導するなど、賢い女性であったことはうかがえる。
父との関係もあってイリアに対しどういう感情を持っているのかわからないが、血のつながった一族であることも事実だ。
頼れば屋敷に住まわせてもらうことも考えられるし、壁内に住むところを世話してもらえる見込みも、ある。
イリアは自分の客室に戻り、真っ暗な中で寝台に寝転んだ。網張りの内窓から室内に流れ込んでくる空気はなんだか湿っぽい。
気温はそこまででもないのに、夕食で温まった体から汗がなかなか引かなかった。
蒸し暑さに少し苛立ちながら考えた。思えばぜいたくな話ではある。
王都でも【不殺(仮)】の秘密を明かして研究処に入れば、それで衣食住の問題はない。
一族の者に頼る選択肢もあり、そうでなくとも養豚場では自分にしかできない仕事が待っていて、うまくいけばきっと生活には困らない。
苦労をしているようで、その実たいして困窮はしていないのだ。
自分はやはり坊ちゃんなのだと、イリアはそう思った。
翌朝イリアはまず壁内に入り、ハインリヒ邸を目指した。
どうせのこと坊ちゃんなのだ。使える伝手は全部使ってしまえばいい。自分はまだ14歳でしかなく、一人前の男になるのはレベルがそれなりになってから頑張ればいい。
屋敷の扉の前に立ち、服の汚れなどはたいてから扉を叩いた。
10秒も経たず、執事のマルクスが扉を内側に開けた。
「これはイリア殿。お久しぶりですね」
「いい日和ですね、マルクスさん。今日は、ハインリヒさんやジゼルお嬢さんに相談があって、来ました」
イリアは招き入れられ、そのまま応接間に通される。ジゼルは今日も家に居るのだという。
学園は国立なので精霊週間の考えで運営されていると聞いていた。精霊週間では火風水地の順番で曜日が巡り、地曜日の次に太陽を象徴する日曜日が来る。
今日がその日曜日で、日曜日には基本的に学園の授業がないらしいのだ。
この精霊週間という考え方は、宗教が多様なチルカナジア王国ではあまり一般的でなく、採用しているのは国公立の機関だけのはずであった。
イリアも今日が何曜日であるかなど意識して生活していない。
応接間の扉が開いてジゼルが入って来た。髪留めで前髪を持ち上げていて、服が薄手の生地になっていてスカートも短いようだ。白い脛が少し見えていた。
「20日ぶりくらいかしら、イリア。元気そうで安心しましたわ。何かあればすぐに頼ってもらってよろしかったのに、あれからどうやって生活していましたの?」
「あははははは。ともかく、お久しぶりです」
言えない事は置いておき、マス釣りに出かけて4日で一匹の釣果だったことなどを話した。
ジゼルの方はと言えば特に変わりなく、その後3度学園生同士で隊を組んで管理魔境に赴き、レベルに適した魔石を一つ摂取したらしい。
雑談を終えて、本題に入った。イリアにとってのもう一つの伝手。
ジゼルの両親が王都で陶器卸業を手伝っているという話。住むところの世話くらいならしてもらえるのではないだろうか。
「そうですの…… イリアは王都に行くつもりなのですね……」
「はい。まあ住むところ以前に、300キーメルテも離れた王都まで一人で行くなんて駄目だって、言われてるんですけども」
なにやらジゼルは考え込むような顔をしている。
愁いを帯びたようなその表情に、イリアは首を傾げた。




